青崩(あおくずれ)峠 |
峰から遠山谷を望む |
八重河内小嵐の民宿島畑に残されている明治十五年の「宿泊人名簿」には、毎日五〜六人
の宿泊者の行き先が「秋葉山」と書き記されています。
これからも当時の秋葉詣でに、いかに多くの人たちが秋葉街道を行き来したかが伺われます。
秋葉街道は、古くは「諏訪道」と呼ばれ、諏訪信仰の道として発達していきましたが、近世
に徳川家康の庇護により全国で遠州秋葉山の火伏鎮護の神への信仰が高まり、いつしか
「秋葉街道」と名を変えていったのです。
その信仰の道は塩の道であり、霜月祭りを伝えた文化伝播の道、さらに武田信玄によって
軍用路として利用された道でもありますが、杖突、分杭、地蔵など幾つもの峠越えのある
険しい道のりでした。
断層によりガレとなり、名前の由来となった青色のむき出しの山肌は、往来する旅人に
恐怖感さえ与えていました。
「青崩の目指す岩
と、峠への道の険しさを詠っています。
動植物の生態、民俗学の他、歴史的にも重要なところです。そこに明治二十五年に建立され、
すっかり忘れられた一基の石碑があります。
飯田事件に関わりがあったのでは(遠山物語)、といわれている米山吉松(松雨)の碑文です。
『…病往来為嫌然於青崩嶺難不甚高倹悪而蜀道不啻也、松杉之外草木不繁茂焉多石礫而景
致天然其名巌々大者 如厦屋…
明治二十有五稔一月
信南江儀之荘米山松雨撰並書』(原文の一部)
『往来するには病気になるほど険しいと嫌われた青崩峠は、それほど高い所ではない。
ただ険悪な道だけでなく、石ころが多く松や杉のほか草木も茂らない所で、その景観は
天然そのままで、大きな岩は家ほどあり、奇妙な形は鳥獣の様に見える』と、このよう
に峠の様子が書かれています。
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青崩峠は、ロマンの霊犬早太郎伝説の陰に、悲しい歴史がありました。
大正から昭和にかけて、十五歳前後の少女たちが貧しい家族を助けるため、期待と不安を
抱きながら峠を越えて行きましたが、その少女の多くは、製糸工場の劣悪で過酷な労働に
病し、肺結核に冒されていったのです。
生家で養生できた人はまだまだ良い方で、峠を生きて越えられなかった少女もおり、
青崩峠は、まさに女工哀史の峠でもあったのです。
古くは太平洋側の塩を、そして諏訪の文化を遠州に、遠州からは都の文化を信州へ伝播
した、青崩峠。青崩峠は、信仰の道秋葉街道とともに、また歴史を語る信州と遠州の
「国ざかい」として、いつまでも人々の心に残ることでしょう。
青崩峠 |
米山吉翁碑 |