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四国遍路、四国八十八カ寺を歩く
春、菜の花の咲く中を白装束に身を固めて遍路の旅に出たいという想いを抱いたのは、定年を数年後に控えた頃だろうか。この想いは定年が近づくにつれ、歩かなければ老後(樋口恵子にいわせれば、それは人生の第2幕だそうだ。)が迎えられないという強いものになっていった。一幕と二幕の間に区切りをつける何かを置きたかった。それが遍路だった。非日常的異空間に身を置いて第一幕を振り返って見つめ直してみよう。そうしなければ次のステップが踏めない。そして、歩くことによって第二幕へのてがかりを見つけたかった。死と再生を目指した旅でもあった。それともう一つ、自分と同年代の人の死に遭遇することが多くなって自分の死が、若い頃のようにはるか遠い存在としてでなく、すぐそこに意識されるようになった。それを考えるとたとえようもない不安と寂しさにおそわれる。この気持ちを克服したい。祈ることによって救われたい。一切皆空の一端でも悟れればというものであった。 もともとそんなに仕事人間というほどでもなく、どちらかといえば、ぐうたら教師であったのに、退職を目前にした二月ころから、もうこれで終わりかと思うと、とても寂しくなった。もうこれで社会に必要のない人間なんだ 、居てもいなくてもどうってことはないんだと思い、落ち込んで定年うつ病になりそうになった。これはいけないと、退職するとすぐ歩くことにした。健康に今一つ自信が持てなかったが、せきたてられるようにして旅たった。しかし、歩いてみると意外に歩ける。始めは、四、五日でダウンかと思っていたが1週間十日経っても歩ける。ヘトヘトになってもう駄目かと思っても、次の朝になるとまた歩けるのだ。人はこれも御大師様のおかげだといっていた。距離もおそるおそる二十キロ前後で歩いていたが、そうするとお昼ころには宿に着いてしまい、どうも調子がわるい。二十五キロ以下では物足りなくなって、三十キロ以上まで延して歩くようになった。遍路という異空間に身を置くせいか、感性がとても鋭敏になった。山道の枯れ葉の上に落ちた一輪の椿の花にハッとさせられ、自然の造形の素晴らしさに驚かされた。歩くに連れ展開する山や川、海の景色がなんと素晴らしいことか、庭先や野辺の花にも仏性認めて合掌せずにはおられなかった。感情が激し易く、涙もろくもなった。歩き出して四日目のこと、早く宿に着いたので布団を敷いて枕に顔をのせて腹ばいになって太平洋の荒波を眺めていた。すぐ近くでは若者たちがサーフィンをしていた。彼らは今、自分の人生に夢中だ。その時、フッと六十歳で癌で亡くなった義兄の事が思い起こされ無常を感じた。幼くして両親に死なれ、以後各所を転々と廻されて家庭の温かさを知らなかった。苦労を重ねて一家をなし、子供や孫に囲まれてやっとにぎやかな老後を迎えられるという時に、、、、、、、。これで死ぬかと思うと夜中に泣けて仕方がないといっていた。哀れでならなかった。涙があとからあとからと流れて枕がぐしゃぐしゃになった。よくもこんなに涙があるというほど泣けた。下のシーツも濡れてしまった。エー今夜は彼のために泣こうと覚悟を決め、思っては泣き、泣いては想い一晩中泣き明かした。それからというもの、打ち寄せる波の音を聞けば涙があふれ、松籟にも胸つぶれるおもいで、涙がぽたぽたとサングラス落ちて外が見えなくなった。国道を歩いていると、交通事故で亡くなった人の地蔵様が至る所で目についた。花やパンダのぬいぐるみが供えてあれば、幼い子を亡くした両親の悲しみはいかばかりかと涙があふれ、お酒が置いてあれば、一家の中心を失った家族はどんなだったろうと泣けて来た。旧い遍路道には各所に昔、行き倒れたへんろの墓がある。どんなにひもじかったことか、 独り淋しく死んでいっただろうと思いをはせるとまた、泣けて来た。歩きながら様々なことを思い返す。仕方なしに切り捨てた生徒のこと、若い頃の軽い気持ちで女性の心をもてあそんだことなど。果たして、その人達は幸せに暮らしているだろうか、己の罪の深さにわななき杖にすがって泣き崩れた峠道もあった。 密教では仏智は論理を越えた神秘的直感でしかとらえれれないという。真言(呪)を唱え、遍路をすることは、悉有仏性を悟り、宇宙の根本原理(大日如来)と一体化(即身成仏)する方法の一つでもあるのだ。身を異次元空間に置くことによって、神秘的直観を得る可能性が高まるというわけだ。四国遍路をした人は様々な不思議な体験を述べている。これらの積み重ねは神秘的直観による悟りへ繋がるのだろう。私もいくつか体験した。それは、八十七番長尾寺から八十八番大窪寺へ向かう途中、海抜四百メートルの峠を越えて広い道に出た。びっこをひきながら歩いていた。(というのは、三日前に泊まった禅道場での朝晩の礼拝と座禅がきつく、足首に炎症を起こしていたからだ。)前方に七十過ぎぐらいの老人が長靴をはいて歩いていた。貧乏くさい、薄汚い爺だなと思って追い抜こうとしたら、呼び止められて三十五円の接待を受けた。意表を突かれた。こんなみすぼらしい人がお金をくれるなんて思いもしなかった。それから暫く話しをしながら歩いて、”一寸急ぐのでおじさんも達者でね。”といって別れた。三十分くらい歩いただろうか。あれ!脚が痛くない。思えばあの老人に会ってからのような気がする。その時、ハッと気がついた。自分は外見だけで人を判断しようとしていた。その過ちを御大師様が教えて下さったのだ。そう思ったとたん、涙があとからあとから流れ出てポタポタと落ちた。こんな山間に暮らす老人にとって三十五円のお金は私の意識の十倍も二十倍もの価値のあるものであろう。それを与えようとはまさに仏の心である。やがて足首はもとの痛さに戻り、ビッコをひいて大窪寺にたどり着いたのだった。 歩いているといろんな人にお接待を受ける。コーヒーでも飲みなと百円くれる人、財布の中身を全部くれた婦人もいました。自転車で追いかけて来てパンをくれた人も、手押し車にいっぱいミカンをを積んで遍路を待っていてくれたおばあさんもいるかと思えば、親切に道を教えてくれた茶髪のガソリンスタンドのお兄ちゃん、三十分以上も一緒に歩いて案内してくれた婦人もあった。空腹でへばりそうになりながら歩いていた時に、呼び止められていただいた饅頭がどんなに有難かったことか。みんな美しい仏の心なのだ。野辺の花に疲れを癒やされれば、それも仏なのだ。独りで歩いていて一人で歩いていない。いろんな人や物の仏心に支えられて歩かせていただいているのだ。様々な繋がりの中で生かされているご縁の世界なのだ。自分がという意識が薄くなり、次第に穏やかな気持ちになった。もう少し早く歩いておれば、もっと柔らかな人生が送れたと思った。振り返れば、刺々しい人生だったと恥ずかしい限りだ。 2年間で二回まわった。2400キロ歩いたことになるが、それで一体何が変わったのだろう。自分は果たして再生できたのか、なにか見つけられたのだろうか。終わった直後は自分が大きく変わったように思った。しかし、半年もすると、捨てたと思った様々な欲望が頭をもたげ、煩悩にとりつかれて元の木阿弥だ。従容として死を迎えられるかといえば、これも又少々心許ない。ただ、人や自然に対してもっと優しくしようという気持ちにはなった。激することがあっても、ああこれはいけないと反省するようにはなった。いろいろな人から接待を受けたが、なんのお返しもできない。その代わり、それを他の人にしよう。人から受けた親切をたのひとに広げていけば、善意の輪が広がって住みよい社会ができるのではないか。そう思うようになった。 また、一日三十キロ以上、四十日近く歩いたことによってある程度自分に自信がついた。これは2回目の最終日の事だ。八十八番大窪寺の直前に女体山という700メートル位の山があり、その頂から讃岐平野が一望できる。はるか坂出から高松の街を抜けて屋島の麓で泊まり、志度、長野を通ってここまで歩いた距離が足下に見渡せる。エー、一日であんなに歩いたのー、という驚きであった。まだまだ捨てたもんじゃない。我ながら感心した。これなら落ち込まずにまだなにかやれそうだと思った。人生の第二幕に希望が持てた旅でもあった。
四国遍路    第一回(2005年)  4月15日 飯田15時52分―名古屋20時  23時30分―徳島
名古屋で3時間半も待合室にいた。刑務所帰りのような編なのが来て、気味悪かった。独り言をいっていた。
4月16日晴れ、 夜行バスは眠れなかった。随分、ところどころで止まったにもかかわらず、5時半の予定が、5時に徳島に着いた。5時48分のJRで立江寺へ、遍路用品を買う。随分、安くついた。売店の女性に仏手柑飴を二つもらう。8時に歩き始める。1時間ほどして、若い人に抜かれる。途中ミカン5個の接待を受ける。鶴林寺の登りはきついが、終わりのほうは石畳で、杉、檜の樹林の中を歩く。よい道だ。もうすこしというところで、北海道から来た手足の不自由な人に会う。今夜の宿は同じで、ゆっくり行くと言っていた。
12時15分山門着。   8:00―12:15 4月17日晴れ、鶴林寺7:15―太龍寺9:30−平等寺13:30り返す。昨日ほどではないが、急である。山門に着いてやれやれと思いきや、それからまた長い。バスの人はロープウエイを利用している。きれいに整えられた立派なお寺であった。ここから又急な坂を下り、平等寺へ、下りきったからは普通の道であった。国道も昨日ほどこわくはなかった。気温は高かったが、風があったからそれほど暑くはなく、快適に歩くことが出来た。花がいっぱい咲いていて素晴らしかった。落ち葉の道に椿の落花を見つけてはっとする。 今夜の宿は山茶花、相部屋。今夜の人はあまり話しをしない。個人的なことはほとんど分からない。食事の時、皆で話しに花が咲いた。
4月18日 晴れたり曇ったり。平等寺7:45−薬王寺13:00
平等寺からは一部山間を通るが、あとはひたすら国道55号を歩くのみ、途中で先に出た同宿の女性二人を追いぬく。今日が一番長い距離を歩いた。薬王寺では少々疲れた。高い石段がきつかった。見晴らしの良い高い所にあり、初めて海が見えた。城もある。 はしもとやのバスに泊まる。はじめは誰もいなかったが、女の子が来て、青年が来て、68歳の老人を含む3人連れ、夜遅く2人の男性計8人で寝た。山小屋のようだ。かなり経験した人も居て、色々と話しをしてもらって面白かった。盛会であった。毎日こんな接待をして下さるとは、全く感謝一杯である。 朝、それぞれが三々五々別れて出発。
4月19日晴れ。薬王寺7:40―食堂8:00―身崎警察署11:45
今日はほとんど55号を歩く。知り合った人たちに追いつく。又合して歩く。食堂前で例の女性二人に手を振る。やがて、追い抜く。花田さん(山茶花の同宿人)は今日は船戸屋、私は内妻荘。18キロあまりで、ちょっと少なすぎるが、今日、明日は休養のつもり。宿のおやじは朴訥な感じで、いかにも百姓のおやじという趣で、好感が持てる。今日は始めて一人部屋でゆったりと物思いにふけることができた。海岸縁で波が打ち寄せる音がすぐ近くに聞こえる。座布団に顔をつけて、若者がサーフィンをしているのを眺めていたら。突然、桜井兄のことが思い出され、涙があふれて止まらなかった。哀れでならなかった。顔をくちゃくちゃにして泣いた。これも御大師様の御心なのだろうか。
食事の時、もう一人泊まっている人と話した。岡村さんといい、新潟の人である。横田めぐみさん等救う会のことをやっているそうだ。昨夜山茶花に泊まったということだ。清水さんは無断キャンセルしたそうで、愛ちゃん(山茶花の人)はずいぶん心配して、警察もと考え、前泊の阪口屋にTELして携帯の番号を聞いて連絡をとったそうだ。そんな人にはみえなかったのに、私も人を見る目がなかった。お詫びの電話を入れておいた。自分も気をつけよう。夜もまた桜井兄のことが想い出されて泣いてしまった。
4月20日曇りのち晴れ。
海辺の55号をひたすら歩く。10時ころ出ようと思っていたら、太陽が出ていて、暑そうだったので9時10分前に出発。天気予報がはずれて助かった。海南町のは手前の洒落た喫茶店の女主人から余技と呼び止められ、コーヒーと菓子の接待を受ける。30分以上も話し込んでしまった。元公務員で、主人が働いていて半ば道楽みたいにやっているそうで、接待が主目的ということでした。杉の板で、他も地元の杉材が使ってあり、感じの良い店であった。ありがたかった。ベンチも遍路用に作ってあった。フク〜?とか、ふくずみだったかな?忘れた。(ふくなが、東洋大師で聞く)今夜は民宿宍喰にお願いする。プレハブで橋本屋よりずっと居住環境はよい。便所も水も整っている。すぐ近くは港になっている。主人は橋本屋のようにぶっきらぼうではない。とても人なつっこい人で、20分ほど話し込んで行かれた。あとで新聞の切り抜きを読んだら、次男(24歳)をガンえ亡くされ、夫婦で遍路為れた後、この接待を始められたそうで、経費は年金を充てておられるそうで、全く頭が下がります。 花田さんとは海部町の駅の休憩所で会ったが、便所へ行きたかったので、話しをせず運動公園まで急いだ。それっきり。今夜は大阪の若い人と二人きりで静かな夜である。ここでも北海道の清水さんの話が出る。橋本さんに泊まったそうだ。
4月21日晴れ。宍喰6:40―とくます13:45
同宿の若者からバナナ二本、クッキー一袋もらう。波打ち際55号をひたすら歩いた。天気もよく、海が美しくすばらしい眺めであった。東洋大師でトイレをかりて、コーヒーをいただく。ここで花田さんがやってきた。同宿の青年も追いつく。意外と早くついた。これならもう少し歩けそう。30キロまでなら大丈夫かも。とくますの前で同宿の青年に追いつく。ここで挨拶して別れた。宿はおばあさんがやっていた。年を取ると大変だといっていた。夕食では例によって話しの花が咲いた。千葉の夫婦、埼玉の男性、なんと駒ヶ根の66歳の女性。そしてまたまた刈谷の50がらみの女性、この女性が又面白い。途中で休んでいるときに話したんだが、とても話し好きだ。色んなことをしている。いろいろとジグザグに旅をしていると言っていた。外人(ホワード)を世話したこと。日和見で   村のくぐつ師の話しなど面白かった。ニュージーランドのトレッキングコースが一番いいとか、オーロラを一人で見に行った話しなど、怪物だ。主人はどんな人かなと思う。きっと気持ちの大きい人なんだろう。無邪気で話しをし出すと、とまらない。なかなか離してくれない。66歳の女性は一日に36キロ歩いたそうだ。信じられない。
4月22日。とくます7:00―最御崎寺10:25―津照寺12:00―金剛頂寺―うらしま15:25
駒ヶ根の女性はここで終わりということで、7:15分のバスを待っていた。今日は快晴であった。景色がとても良い。最御崎寺から下るときの眺めは本当にすばらしい。美しい海だった。津照寺のところで、内妻荘の主人に聞いた、おばあさんの善根宿を探した。コンビニで聞いたのは男の人だった。初印象はあまり良くなかった。まあ入れということで、上がった。狭い道を上がった小さな粗末な家だった。手紙の便せんがべたべた貼ってあった。話しを聞いていると、奥から女性が出てきた。なんと4日前に橋本屋で一緒だった、頭を刈った京都の女性だった。歩いていて呼び止められて寄ったそうだ。そこで世話になるつもりで、津照寺へいって帰ってくると、金剛頂寺まで行けという。そんなら、始めにそう言ってくれればいいにと思ったが、それも縁と思い、礼を言って出た。月1万5千円の夕刊収入だけでやっているそうだ。年金もなし、保健もないそうだ。住所も不定のようなものだ。えらいところへ来たと思った。断られて、内心ほっとしたところもあるかもしれない。が、今夜の宿が心配。金剛頂寺は大祭で休み。祈る思いで“うらしま”に入る。空いててよかった。その人は弘真と号していた。近く庵を建てると言って、その場所まで連れて行って見せてくれた。結構な所で、材料も、もうあるということだ。いろんな人が寄進してくれたそうだ。便所を借りて出る。道路まで送って、次は是非立ち寄ってくれと言った。一口5千円の浄財文もくれた。
うらしまでは昨夜の夫婦と埼玉の松井さんと一緒。明日の夜も同じだそうだ。遍路にパニックはつきもの、いい経験だった。70歳くらいの逆打ちのじじいに会った。その歩き方じゃあ駄目だ、ホワードまでは無理だといった。会う人皆に駄目だと言っているようだ。それでも、親切に道を教えてくれた。
4月23日、うらしま7:00―道の駅8:20−浜吉屋14:00 14:30―神峰寺15:20−浜吉屋16:40
朝、皆と一緒にうらしまを出る。俺だけ金剛頂寺がやってないので、一人で登る。下りは常緑樹の林の中の道で、とてもよかった。羽根の旧遍路道も石畳の所もあって、趣の深い道だった。峠の上で休み、来た道を見下ろすと金剛頂寺の崎がすぐそこに見える。4時間かけて歩いたのに、ほんの少しだけ。人間のやることはなんとちっぽけなものかと思った。自然は偉大だ。途中で松井さんと一緒になる。夫婦の人は食事をしていて、追い抜いた。2時に着いたので、神峰寺迄往復した。36.5キロも歩いたことになる。よく歩いたものだ。神峰寺も石段がきつかった。でもいい寺だった。水が名水とかで、持って帰った。浜吉屋のおばあさんは78歳とかで、一人でやっていた。医師の息子が自慢のようだった。とても話し好きである。となりの松井さんはいびきをかいている。丈夫なんだ。うらやましい。
4月24日、浜吉屋7:40―住吉荘14:30
朝から雨。松井さんは“かとり”まで30キロ歩くと言って、一番先に出る。夫婦は久しぶりに高いホテルとかで20キロ、7時に出る。私は7時40分に出た。始めのうち降られたが、後は小降り、やがてカッパを脱いで衣を着て歩く。自転車で三回回っているという長崎の60歳くらいの人と話す。野宿、米を買い、海岸で薪を拾って炊くそうだ。黒い顔、着ているものも真っ黒。何時洗ったかわからない。やがて、サイクリングロードに入る。とってもよい道だ。特に、琴浜海岸のあたりはすばらしい。松林もよし、その他の林の中もよい。この辺りは防潮堤の外なので、波打ちを見ながら、てくてくと歩く。あんまりすばらしいので、スピードを半分にした。夫婦にはサイクリングロードに入ったところで追いついた。国道を歩いていたので大声で呼んだが聞こえない。前に行って呼び入れる。途中、ビニールシートの小屋で休んでいる年寄が三人いたので、上がって休んだ。あんまり話しをしないので、土佐の人は話さないねといったら、始めて会ったのに何が話せるかと怒られた。土地柄かね。他ではすぐ話しがはずんだのに。住吉荘は鯨が見える宿ということで、本当にすぐそこが海だ。今夜は一人きりの泊まりで淋しい。主人が神社の餅投げに誘ってくれたので、砂浜で村の人と拾った。老人に餅はやり、菓子だけ持ち帰った。食事にふぐ刺しが出て、とてもうまかった。夕日がさし込んで海を眺めながらの食事、こんな贅沢をしていいのかと、ふと思う。“サンピア高知”は満員で、丸和石材さんに頼む、はじめちょっと不安だった。
4月25日、住吉荘8:00―大日寺12:00-―国分寺14:20―丸和石材15:30
ゆっくりと宿を出る。途中で振られたが、たいしたことはなく歩く。野市のあたりで10分ほど傘をさした程度。サイクリングロードはいい。道の駅では4bくらいの板の道があって快適だった。そこで二人外で寝ているのが居た。屋根の下で寝ればいいのに。もう一人休んでいて、それは丸和さんで一緒。赤岡では68歳の老人が便所のところでテントを張っていた。自転車とテントを持って回っていると行っていた。餅とお菓子をあげたら、黄金の納め札をくれた。105回を回っているということだ。例の夫婦とはサイクリングロードの外の国道を歩いているのに合い、大日寺、国分寺でも会った。野市の駅ではおばあさんが話しかけてきて、いろいろと霊場を廻ったことを話してくれた。丸和さんは聞いていたとおりの温和な感じの素晴らしい人だった。食事はカレーライス。シャワーもあり、洗濯もできる。4人もタバコをすうので、控えてくれと言った。気まずかった。先達のような人が、こうゆう所へ来ればしかたがないと言った。それはこっちの台詞じゃないかと思った。それは考えの違いですといって、それ以上話しをしなかった。あとでびしょ濡れの飛び込み一人、計8人で寝る。
4月26日、丸和石材6:15―高知屋16:00
雨上がりの朝は気持ちよく歩けた。距離は短かったのに時間が掛ってしまった。竹林寺や禅師峰寺のアップダウンがきつかったし、渡しもあったからな。それにいろんなこともあった。例の夫婦(園部さんという)とも会った。今夜の宿も一緒。赤岡のWCでテントを張っていた老人とも再会し、いちごを半分やった。雪蹊寺の前で、電話していたら、昨夜一緒だった若者が、通夜堂にヤクザみたいな人がいて泊まれないというので、宿の人に相談して、ゆうゆうランドへTELして、1900円で泊まれるようになった。良かった。メシの後、園部さんがこれでお別れだからとビールを持ってやってきて、9時まで話していった。彼は経済学部卒でオレの大学の先輩だった。いい人だ。出会いは楽しいね。
4月27日、高知屋7:15―三陽荘15:05
今朝はひんやりした空気で、とても歩きやすかった。その内暑くなってきた。夫婦とは種間寺で別れる。彼らが泊まる喜久屋に頼んで荷物を預け、清龍寺へ向かう。とても親切な女性で、両方の道順を紙に書いてくれた。丸和さんで一緒だった二人とは時々会った。今夜は岬のところでテントを張るそうだ。清龍寺の帰りにボンタンの接待を受けた。65歳の人で、信州へ行った山やリンゴ畑、善光寺の話しなどもした。昨夜、隣だった九州弁の人にも時々会った。今夜は何処泊まり?三陽荘です。高いところに泊まるな、聞く人は皆そう言っていた。しかし着いてみると、とてもいいところで眺めが又素晴らしい。歩いてきた岬がずっと遠くまで部屋から見渡せる。設備もいい。高いのは当然だ。たまにはこういうところで骨休みも必要だろう。塚地崎の手前で会った70歳くらいの女性はとっても健脚だ。しかし、汐浜荘からこちらに変更した。もう、もどることが出来ないほど疲れたそうだ。宿への帰りにほんの少し車に乗せて貰う。せっかくの好意を断ってもと思って乗った。500メートルくらいだろうか。連休を控えて、宿の予約を早めにとった。
4月28日、三陽荘7:15−あわ14:05
朝、意外と早く橋まで来た。疲れた時とでは感覚がまるで違う。少し行って婦人を追い抜く。今夜は“ゆり”と言っていた。20キロほどだ。また分ほどで昨夜の婦人が休んでいた。先ほどの女性のことを話して別れる。3時間ほど行って、昨日の65歳の男の人に会う。汐浜荘をよしてホテルグリンピアまで行ったそうだ。7時近くになったそうで、よく行ったものだ。よほどタクシーを頼もうかと思ったそうだ。今夜はすぐ近くの岬旅館。テントを張った3人連れとも一緒になった。土岐合流の近くで別れる。須崎では信号を走って車とぶつかりそうになった。注意しよう。一日に30キロ以下にしないといけない。今夜は7人。明日と2日の日に同宿の人もいる。
4月29日、あわ6:45―岩本寺14:13
焼坂峠の道とそえみず遍路道を通ってきたので意外と時間をくった。しかし、いい道だった。無縁仏が所々にあり、当時の人はどれだけひもじかっただろうと思うと、哀れで泣けた。今は有り余る食事で、毎日刺身を食べ酒を飲んで  をしているというのに。途中、交通事故で亡くなった人の地蔵様に手を合わせていたら、突然、桜井兄の亡くなった時、りえちゃんが大泣きしていたことを思い起こした。俺の死んだとき、娘達はあんなに泣いてくれるだろうか。また、理恵ちゃんが出来たとき、生まずに下ろすのかと兄に言ったことも想い出した。悪いことを言ったとずっと引っかかっていた。すまなくて、又、涙がとめどなく流れた。泣きながら歩いた。謹川の一つ前の駅で休ませてもらい、駅番をしているおばあさんと話した。それからは思ったよりはかどって、着いた宿坊でグリンピアまで行った人と会った。おくりさんと知り合いのようで、弁護士のような口ぶりであった。今夜は15畳の部屋に5人、“あわ”で一緒だった松本さんは隣の一人部屋に移った。
4月30日、岩本寺7:10―みやこ14:30
昨夜はオランダから来て神戸に住んでいるという二人とメシを食った。朝、だれかがモンローの天井画を説明していた。雨は夜降ったようだが、朝には曇りになり、ほとんど降らなかった。30分ばかり傘をさした程度、助かる。伊与喜のところ、旧国道に入るところで例の弁護士らしき人が迷ったので、大声で呼んでもどしてやる。この道は静かでいい。国道からぬけて山道にはいると、とたんに鳥の声が聞こえる。特にうぐいすがいい。1905年に出来たトンネルは暗かったが風情があった。“みやこ”に着いたら、私の予約はないと言われた。えーじゃあ違う所かと付近にtelしたが、どうも予約が入っていない。“みやこ”の女将が忘れたんだろう。幸い、遍路は二人きりなので部屋は沢山ある。その人はブスッとした人で、交流ほとんどなし。明日は久百々に泊まり、そこから38番を往復するそうだ。45キロくらいある。怪物だね。それではただ走るように歩くだけで、意味がないと思うが、それがその人にとっての意味かもしれない。海が見えると思ったが、すぐ前が別の民宿で全く見えない。残念である。
5月1日、みやこ7:15―四万十川10:15―安宿14:30
サイクリングロードをのんびり歩く。おじさんに話しかけられ、岩本寺で貰った仏手柑飴を一つやる。バイパスが出来ていたので、早く四万十川に着いた。そこでも軽で来たおじさんと話しをした。トンネルの手前で、おかしな四人連れと出合う。三人は岩本寺で一緒だった。一人が合流したのだ。トンネルを抜けて、“水車”でうどんを食べていたら、なんと松井さんがいるではないか。もうとっくに先を行っていると思っていたのに。“みやこ”で一緒の人もいたし、岩本寺で一緒の人も居た。側の公衆便所へ行ったら、又々不思議や橋本バスで一緒だった人に会う。30分ほど色々と話しをした。あとはのんびりと“安宿”に行く。連休とかで、狭い部屋に相部屋だ。一緒の人はかなり年配の佐々木さん(秋田)という人で、もう6回も歩いているそうだ。今年で80歳になるそうだ。その年で一日30キロも歩けるとはうらやましい。私より食べられるからいい。ここの食事は野菜があっていい。
5月2日、安宿6:45―金剛福寺13:15
昨夜中のどが痛くなり、マスクをかける。咳も出る。風邪か、心配になる。朝、ひんやりする中を歩く。しばらくして、例の年配の女性に追いつく。昨夜、一緒だったそうだ。全然気がつかなかった。次に久々百に泊まった4人連れ、北海道の夫婦。民宿“旅路”のおかみと客が一緒のところに出合う。しばらく一緒して、ポンカンを貰って食べる。一人で歩いていると、その“旅路”の客が追いついてきて、一緒に2時間ほど歩いた。横浜の人で65歳。“味の素”勤めていて、ドイツを中心にヨーロッパ全域、アメリカ中国へも行ったそうだ。今は将棋を広める会をやっているそうで、エリートは違うと思った。金剛福寺の前で握手をして別れた。結構楽しく、疲れを忘れて知らないうちに着いたという感じだ。この坊はいい。個室で新しい。やれやれ、今日も相部屋だったら、三日続きで精神がもたない。働いている人も親切だ。松本さん、松井さんとも会う。その他の人も。足摺岬へ行ってくる。天気も良く、最高の眺めであった。ちょっと熱っぽい感じがするのが心配だ。“南無大師遍昭金剛”おくりさんとの顔合わせで、大分疲れていると言われた。薬もくれた。そこで一日休もうと思ったが、どこも連休で一杯である。やっと今朝会った“旅路”にとれる。15キロ離れている。
5月3日、金剛福寺7:05―旅路10:25
のどが痛い。抗生物質を貰っても効かない。性格が悪いから効かないという女房の言葉が思い起こされる。途中で土佐の例の女性に追いつく。健脚である。窪津でいちごを買い、早めに宿に着いて食べる。おやじは75歳といっていた。腰がちょっと曲がっている。まあ、家の中や屋敷がらんごくない。そして、年寄特有の異臭がする。咳が出た。もう帰ろうかと思う。なにも無理をすることはない。今夜の遍路は二人。69歳の奈良の老人ホームに入っている人で、30キロ平均で歩いているそうだ。
5月4日、旅路7:00―安宿9:10
旅路を出て、10.8キロ安宿まで戻る。安宿ではバナナとエネルゲン、荷物を受け取る。キャンセル料はいいと言ってくれた。10:14のバスで中村駅まで、しかし、バスはもう満席で、月曜日一席だけ残っていた。それを買ったが、思い直して電車で帰ることにして、結局、その日のうちに帰ることができた。連休の移動は大変だ。金もかかる。しかし、帰って良かった。大分、体が参っている。限界だった。宿坊の女将に感謝しなきゃあ。
5月19日下の加江12:50―いきいきみはら16:50
夜行で来て、いまいち体がのらない感じで、大丈夫かなと思ったが、歩き始めると結局、歩けた。三原までの道は、山間の静かな道でとても良かった。しかし、所々で拡幅されていて、こんな広い道いるのかなと思う。車はほとんど通らない。アスファルトに苔が生えているほどだ。税金の無駄遣いだ。“いきいきみはら”は、まあ、なんというか善根宿のような感じだ。NPOでやっているのでしかたがない。ご飯は沢山あって食べきれない。今日は若者と二人。一日40キロ歩くと言っていた。
5月20日、いきいきみはら5:30―あけぼの荘12:35
早朝出発。山の景色がもやっていて美しい。小学生が挨拶してくれる。延光寺のあたりで、遍路に行き会う。8時ちょっと前、多分、このあたりで泊まった人達だろう。峠を越えず、56号をたどった。途中で、アイスクリームもどきを道端で売っていた。おばさんと話しをした。
5月21日、あけぼの荘4:30―臨海民宿11:40
薄暗いうちに宿を出る。遍路道をとらずに国道を進んだ。涼しいのではかどった。41番を過ぎて、昨日、アイスクリームもどきを食べた時、一緒だった老人と会う。二人連れだった。その先で、車を引いた若者と話しをする。41番でシャッターを押してくれた女性も追いつく。“臨海民宿”は本当に海まで4bくらいのところだ。個室で、便所も付いていて、静かでいい。
5月22日、臨海民宿にし4:05―とうべや13:30
暗いうちに“にし”を出る。涼しいから快調に飛ばす。宇和島でちょっと道を間違えたが、たいしたことは無く歩く。国道をはづれ、県道57号に入って坂を登ってしんどくなった。やはり、30キロくらいが丁度いい。坂を登り切って田んぼの中を進むと、41番に着く。寺の前の”長命水“でうどんを食べる。コーヒーと枝豆の接待をしてもらった。出店でバナナを一本買う。店の女が創価学会でその話を受ける。言葉から、私を名古屋地方の人だと言った。彼女は大阪出身だそうだ。大きなボンタンを接待して貰った。仏木寺(42)の前で、アイスクリームを売っているおやじと話しをした。”とうべや“着いたのは13:30ころ、しけた猫が一匹いただけ、やがて主人が帰ってきた。今夜は神戸の人と二人。夜8時頃、蛍を見に来いと呼ばれる。ものすごい蛍の乱舞だった。
5月23日、とうべや6:30―ことぶき14:35
15時前では留守といわれたので、普通に宿を出る。歯長峠を越える。その先は旧国道へ行かず、鳥越トンネルを抜ける。同宿の人と抜きつ抜かれつであったが、途中で追いついてこなくなった。大洲市街の手前で、例の年寄二人に追いつく。昨夜は“みやこ”今夜は大洲市街の先、5キロくらいのところの“ふるさと”だそうだ。臥龍美人館の所で別れる。川に大きな白、赤の錦鯉がいた。“ことぶき”の女将は品のいい人で、ちょっとこっちが気を使ってしまう。料理は美味しい。肉がうまかった。量も俺には丁度よかった。
5月24日、寿6:45―来楽苦13:45 肱川橋を越えて国道を歩く。十夜ケ橋でお参りをする。五十崎(いかざき)駅の手前でおばさんに道を聞く。善光寺御開帳に行ってきたという。国道を行った方が早いと言うことで、内子まで国道を行く。役場を過ぎた辺りで、80歳近い女性にはじめ1000円もらう。これを盲導犬協会に寄付すると言ったら、もっとやるといって全部お金をくれた。全く有難いことだ。“私は風の吹くままに生きている。金は天下の回りもの。何も心配ない。子供は6人いて、みんなよくやっている。名古屋に長男(戸田)がいて、4万円送ってくれる。”と言っていた。智清橋の便所に寄っていると、逆打ちの若者3人に会う。内子橋の所では千葉から来た僧侶らしき人に会う。しばらく一緒に話しをする。五百木の善根宿の所で、二人で握り飯を食い別れる。大江健三郎の生家の近くで、例の二人と“とうべや”人に会う。“来楽苦”に13:45ころ着く。誰も居ない。前で休んでいると、例の僧が来た。後で例の二人も来た。“若竹”に泊まるそうだ。“来楽苦”は豆腐やだけあって、秋刀魚の照り焼き以外はすべて豆腐製品で、腹がふくれていくらも食べられない。カロリー不足になるね。明日は雨のようだ。これも仕方が無い。いい時ばかりではない。
5月25日、来楽苦7:30―笛ケ瀧13:20
ちょっと早めに出て、雨の前に着きたいと思ったが、オヤジはなかなか来ない。7時10分前くらいにやっと来た。ご飯と海苔とベーコンの焼いたのそして、なんと永谷園の”あさげ”である。これには参った。料金は5200円という。計算では4800円+500(弁当)のはずだ。歩きながら考えたが、どうも一人部屋1000円増しと書いてあったから、それかも知れない。ていのいい詐欺だ。だって俺一人しか泊まっていないから、どうしたって一人部屋になってしまう。大洲の”寿”の7000円の方がはるかに良かった。鴾田峠思ったほど難所ではない。風は強かったが、雨は少々、カッパは出さずにすんだ。“来楽苦”の前でオヤジを待っていたときに通った野宿の青年に途中で追いつく。“来楽苦”が悪かったせいか、笛ケ瀧はうんとよく見える。個室、バス、トイレ付き、洗濯、乾燥機只。甘夏を一つくれる。シーツの新しい。シンクもある。14:30ころ例の二人と千葉の僧侶らしき人も来て泊まる。俺もちょっと距離は長くなるが、もう一泊することにした。これで6000円は安いと思う。“来楽苦”のせいかな?きじ鍋もうまかった。今夜は久しぶりに賑やかに交流出来た。岐阜の長良の夫婦、半田の人、それから追い抜いた若者、それからもう一人と、例の二人と僧らしき人。1時間以上も話し合ってしまった。年寄に10円づつ接待を受けた話しなど感激した。ちょっと寒い感じがする。風邪にならなければよいが、、、、
5月26日、7:00―13:50宿往復
雨がやんだので、これはよいと思ったが、出かける頃降りだし10時過ぎまで降った。かなり激しく降り、靴の中までビショビショになった。44番を過ぎて間もなく“とうべや”の人が国民宿舎から下ってきたのに会った。農家の車庫で雨宿り。遍路道の入り口を見落とし、車道を中心に歩いた。国民宿舎のあたりの岩峰はみごとだ。ところどころに穴があいていて岩屋のようだ。古岩屋寺は岩窟を穿ったところに建てられていて、階段をかなり上らなければならない。よく建てたものだ。国民宿舎の所で、例のヒゲの青年に会う。寺でも一緒だった。帰りは雨もやんだので、寺の下、川の手前から遍路道を歩いた。栃の原生林と白い小さな花が道一杯に咲いていて、とても美しかった。“ふるさとむら”の民宿でメシを頼もうと思ったが、誰も居ない。“ふるさとむら”の食堂は月曜日で休み。結局、久万の町のコンビニでサンドイッチを食うことになった。今夜は鰻丼であった。
5月27日、笛ケ瀧6:45―松山ユース15:40
薄曇りの中、宿を出る。三坂峠までだらだらと国道33号を上る。峠で遍路道に入っていっきに下る。晴れてきたが、森林の中なので涼しい。車道に出ると、くねくねと暑い陽射しの中を歩く。浄瑠璃寺の前の長珍屋は大きい宿だ。エーツというほど大きい。これで民宿かよと言う感じ。46〜51まで暑い中を打つ。どれがどの寺だか分からなくなってしまう。49浄土寺の途中、ABCスーパーのでサンドイッチを買って、前で食べているとおばあさんが来て、杖で腰をなでてくれとといった。腰が痛いそうだ。何度もなでてあげる。1000円のお接待を受ける。道が狭く、車が来ると怖い。松山ユースは上り口がわからず、にぎたつ  のあたりをうろうろ2,3回して疲れた。松山ユースでは、なかなか格好のいい、さまになった猫が迎えてくれた。ユースの女は無愛想で、こりゃーガセネタかとおもったが、部屋は広く、清潔で設備もよい。食事もうまく結構である。環境問題にくわしい主人は、東京へ行っているとかでガッカリ。自転車を借りて日赤病院の近くの薬屋までエネルゲンを買いに行った。余計疲れた。温泉へ行く気力なし。市電もあって良い雰囲気の街だ。
5月28日、松山ユース7:40―北条水軍YH14:00
ユースの女は思ったより親切だった。無愛想なだけだ。出掛けに水野南北の小冊子をくれた。同宿の女性が温泉から帰って来るのに出合う。太山寺へは松山の街を抜けて行くので、歩きにくかった。車、自転車と怖い。意外と時間が掛ってしまった。太山寺の手前で、タマネギを抜いていた人たちから伊予柑とボンタンのお接待を受ける。太山寺は山門から本堂まで遠い。太龍寺と同じだ。円明寺では、乞食をしている若者が駐車場で座禅を組んでお経をあげていたので、100円くらいやろうと思ったが、山門の所で、太った若いのがやはり座っていたので、そちらは服装も普通で、ただ、座って手を出しているだけで、接待する気になれず、どちらか一方というわけにいかず、結局、出さず終い。水道工事をしていた人に道を聞いて左へ進む。やがて海岸線に出る。暑い中を歩く。途中、県道から新しい国道を進んで、北条市へ入って又、旧国道(県道)へ、防波堤でサンドイッチを食べる。途中の店で氷砂糖を買った。北条水軍YHはちょっとわかりにくいところ、犬が(ピーグル犬)待っていた。ちょっと太り気味。呼び鈴を押さずに呼んだが、出てこず、前に居た二人の年寄と話しをする。その内に、掲示板が裏返しになっているのに気づき、telする。そしたら、二階で掃除をしていて、こんな人は始めてと言われた。主人は若者で、ちょっと小馬鹿にした言葉遣いが気になるが、まあ悪い人ではない。ご飯がうまかった。明日の宿はまだ決めてない。あさってだけ決めた。明日は5時食事を頼んだので、歩いてみて調子よければ延してみよう。
5月29日、北条水軍YH5:40―笑福13:40
YH の焼きたてのパンはうまかった。暑くなる前にと、早立ち。しかし、風があって涼しかった。延命寺へ着く前には風が強く、歩きにくいくらいだった。延命寺へは12時前に着いた。そこから、笑福にtelして予約する。寺からの遍路道が分からず、池との間を行ったりきたり2度ほどして、山門の横から左へ入る。墓場の所でもちょっと迷った。街中の道は変わっていてわかりにくい。次の南光坊は山門が新しく、とても立派だ。まだ完全には完成していないそうだ。隣の神社でサンドイッチを食べる。とにかく、両方で時間をつぶさねばならぬ。それでも、2時前に着いてしまった。風呂は4時まで入れてもらえなかった。洗濯が出来ないのはつらい。明日は台風が近づくと言うことで、自転車を借りて、南光坊の向こうまでカッパを買いに行ってきた。北条からの海岸の道は、海辺を通っていて、とても眺めが良かった。高知とは又違った海の様子であった。今夜は7,8人泊まっているが、最初に食事をしたのは二人だけ。彼は円明寺の近くから、40キロ歩いたと言っていた。50歳そこそこだそうだ。北条水軍YHにも寄って来て、私の事を聞いてきたそうだ。
5月30日、笑福7:05―栄旅館13:05
宿の人に教えてもらって、駅前の道を真っ直ぐに行く。泰山寺は新築したらしく、大変新しい。本堂は古かった。同宿だった人とすべての寺で会う。彼は今回、国分寺で打ち止めだそうだ。栄福寺の手前の遍路道で、逆打ちの女性に会う。栄福寺は小さい。誰にも出合わず、しばらく待っていて、車で来た人に写真を撮ってもらう。この人には国分寺でも会った。仙遊寺は山の上で、道中坂があり、遍路道もきつい。山門は新しい立派なものがあったが、それから本堂までの登りがきつい。今日は、出だしから体が重い。昨夜食べ過ぎたせいだ。伊予柑が多かった。反省する。やはり南光坊の所で泊まって正解だった。仙遊寺まではとても来れなかった。国分寺で打ち止めの彼と別れる。体調思わしくない。こりゃあ宿をキャンセルしてもどらにゃと思った。ここで、ガスター10を飲む。道の駅を過ぎ、世田薬師のあたりから、だいぶ良くなり、チョコサンドも食べられるようになった。それからは調子も次第に良くなり、希望がわいてきた。街に入ると、道がわかりにくくなる。そごうマートでバナナを買い、3時頃宿に入る。途中、臼井の水は大変うまかった。300mmlほど飲んで、途中でも飲んだ。この宿では洗濯できた(旧式)。シーツも新しく、気持ちが良い。料理は秋刀魚と鶏肉だ。刺身のない夕食も珍しい。同宿の人は7時ちょっと前に到着。菊間町から来たそうだ。45キロ以上ある。全く、怪物だね。ほとんどかけるようにして、歩いていなければならないだろう。人様々ですね。今日は雨を覚悟していたが、幸い降られずに済んだ。明日は台風が四国に最も近づく、どうなることやら。
5月31日、栄屋7:10―ホテル青木13:30
宿を出る頃には雨はあがり、これはいいと思った。途中、サングラスを出すほどになった。しかし、10時頃から降り出し、始めはショボショボでかえって歩きやすいと思ったが、時々かなり降った。横峰寺への途中で軽トラックに乗せてもらって、登り口まで送ってもらった。善意はありがたくお受けして断らない。歩き通すことにこだわる必要は全然ない。おかげで距離が延ばせて、横峰寺へは9:30くらいに着いてしまった。香圓寺へtelしてキャンセル。西条駅前のホテルに予約する。登りの途中、杉木立に靄が掛って美しかった。又、下りでも新緑に靄がかかり、とても良かった。香園寺はお寺というより、市民会館のようで味気ない鉄筋コンクリートのビルのようだ。泊まらなくて正解。宝寿寺は印象うすい。吉祥寺は山門がまあまあだった。だれも居なかったので、写真は寺のみ。前神寺も誰もいなかった。しかし、フィルムがなく撮せなかった。まあ、何事も計画通りにはいかないものさ。こういうこともいいだろう。山門らしきものから一寸遠い。尾根道から(横峰寺からの)伊予の街や海が見えたのに、西条市へ近づく頃にはざんざんと降ってきた。国道から市街地に入り、駅前に出る。ホテルが一杯ある。こんなにあってやっていけるのか。“青木”はこじんまりしている。大きなホテルの横に建っている。中のレストランの夕食は一寸少なかった。1000円は少し高い感じだ。ビジネスホテルは誰にも気を使わず、ゆっくり休めていい。交流は全然ないが、こういう時もあって良い。
6月1日、
連泊して、石鎚山に登る。午後から晴れるだろうと予測して、ゆっくりと登った。低気圧の進みが遅く、結局晴れたのは、ロープウエイ駅に来たころだった。しかし、降られないだけでも良いとすべきだろう。ガスにけむる新緑の石鎚も又、よいところだった。頂上から、最高峰の天狗へ行こうとしたが、そこに居た人達が止せといったのでやめた。ガスっていて見通しも悪く風もあったし、なにかあれば多くの人達に迷惑をかけるからな。しかし、鎖場では久しぶりに緊張した。クライミングの初心者に教えているのがいたが、全くなっていないやり方をしていた。こんなことでもし、落ちたら止められない。下ってきて、もう一寸でロープウエイ駅というところで、朝会った夫婦、ゴミ拾いをしていた青年に合う。バス停では土産物屋のおやじと話しをした。バスは二人きりの乗客であった。鎖場以外では、それほど疲れず、いい登山であった。欲をいってはきりがない。ロープウエイ駅の上の展望台からは、今治、東予、西条、新居浜の街と瀬戸の海が見えて良かった。
6月2日、青木6:40―パークホテル三島15:00
国道を出て又、旧街道に入る。喜光地のふれあい広場でWCに入って出てくると、老人が話しかけてきて100円お接待してくれた。旧街道は車は少ないが、道幅が狭く怖い。わざと車寄せしてくるのもあり、危ない。結局、国道11号を歩くことになった。大型が通って恐ろしい面もあるが、路肩の隅を通った。予定していた土居町へはお昼頃着いてしまったので、うどん屋から伊予三島市へtellする。学校の先生らしき女性から声をかけられる。車で追い抜いた女性も、国道の遠い反対車線から声をかけてくれた。男より、女性の方が声を出してくれる。男は照れくさいのかもしれない。”東洋観光”は感じのいい宿であった。時間が合えばここでも良かった。今日のホテルは、値段は昨日より一寸高いが、設備はそれより劣る。夕食はこんびにで買って食べた。部屋でゆっくり食べられるから、この方がいい。ホテルに泊まると民宿より自由で気を使わなくて良いので、助かる。しかし、交流は全くなく、一長一短というべきだ。今日は一日天気が良かった。明日も良さそう。もう一日ずれていればとも思うが、それは贅沢というものか。明日は22キロだから、早く宿に着いてしまうかもしれない。Telしてあるから大丈夫。
6月3日、伊予三島7:00―岡田13:50
パークホテル三島を出て、コンビニを探したが、見つからず、また戻ってサークルKに入る。その前にホテルの横で、24時間営業のうどん屋に入って朝食、200円で中玉、たっぷりあり安い。サークルKでカメラとカロリーメイト、パンを買う。旧道に入って、しばらくしてオートバイ乗った人が来て、あんパンの接待を受ける。50歳と言っていた。発電所の横のWCに入る。そこにいた人と三角寺まで一緒に歩く。途中、連れがもう一人、その人の父は八代の出身とかいっていた。坂を登って寺に着く。階段の段差が高くつらかった。寺の手前で、軽に乗った30前後の人に小さなワラジの接待を受ける。前の店の女に道を聞いて下る。常福寺へ下る分岐に、建設会社の作った休憩所があった。WCをかりる。ありがたい。熟年の人が追いついてきたが、常福寺のところで俺が先になる。境目トンネルの先のうどん屋で食べていても、いっこうに来ない。あとで聞いたら、道に迷ったそうだ。今夜は岡田で一緒。境目トンネルは歩道が無く、恐ろしい。結構長い。宿でカッターシャツがないのに気づく。ホテルに忘れて来たのだろうか。しっかり確認してきたのに。きっ家にTellしたら、たいした値段のものじゃないというので、送ってもらう必要もないと、 tellしないことにする。今夜は久し振りに交流に花が咲いた。岡山、東京、北海道、それに福岡の夫婦と6人で8時ちかくまで話しをした。それなりに面白かった。岡田の主人もい6予約制なのも、頷ける。雲辺寺への上りはたいしたことはなかったが、下りが嫌だった。上りは針葉樹林の山波、下りは落葉樹林で、一寸面白かった。車道に出てまもなく、車で廻っている人に道を聞かれた。大興寺は山門から石段がちょっと長かった。寺を出て国道を越えると、協力会の立て札がなく、不安になる。人に聞いて歩く。池の尻の休憩所の近くで、岐阜大垣からきている中年の人に会う。観音寺駅のコインロッカーに荷を預けて廻っているそうだ。今夜は観音寺駅前のビジネスホテルと言っていた。午後4時20分ころ本山寺の近くで再び会う。逆回りをしていたから、何処かで会うということになった。駅でバスの切符を買う。金曜日(6/6)は満席で、6/5のバスになった。一日早いがこれも仕方が無い。何事も思うようにしようとしてはいけないということか。観音寺では北海道の人に会う。疲れて一部タクシーを使ったから早かったそうだ。もう一人、野宿をしていて、善根宿に泊まるつもりで6時まで待っている若者とも話しをする。寺を出てすぐ、東京の大江さんに合う。又、しばらくすると北海道の人の姿が目に入ったが、彼は道を間違えて車道の方へ、橋を渡ってしまった。遠くで声をかけられない。今夜は野宿をするつもりと言っていたが、大丈夫かな。川の堤防へ入る直前に、福岡の夫婦に、70番から打ってきたのに出合う。今日、観音寺を打って帰るそうだ。本大ビジネスホテルは4:00ということで、行ってみたら誰も居ない。まんしょん事務所へ来いと書いてある。3800円を払う。安い。そんなに良くはないが、安いからまあいいでしょう。清潔であれば、十分だ。コンビニで弁当を買い、駐車場でアイスクリームを食べた。明日、28キロ歩いて高松へ出ることにする。天気も後2日は良いようだ。丁度いいころだと思う。次は、秋に来よう。ありがとう。
6月5日、本大ビジネスホテル6:50―弥谷寺7:30―多度津駅14:00
朝早く出る。12キロ歩いた後の弥谷寺の上りはきつい。でも、所々に地蔵様があって癒やされる。山門からの延々と続く階段が又こたえる。山門の下に、托鉢をする準備をしていた若者がタバコを吸っていた。太師堂から本堂までの階段がまたすごい。下りで足がガクガクした。出釈迦寺を先に打つ。奥の院の禅堂が上の山に見える。見れば行きたく思う。30分と書いてあったが、疲れているので止した。またの機会にする。甲山寺から善通寺へ来る途中、4月に善師峰寺と雲鶴寺、通夜堂でヤクザのようなのがいて、困ったといっていた連れの中に居た人に会う。全く奇遇である。彼は結願して、海岸寺と禅定へ行くのだそうだ。善通寺はさすがに立派で、参詣者も多い。76番金倉寺は山門を建設する基礎工事をしていた。駐車場で“まんだら”を聞く。“まんだら”で大分休み、お茶とコーヒーをいただく。洗濯機、乾燥機もただ。マッサージ師のような人が来て、患者を診ていた。道隆寺はそこから2.4キロ13:40に着く。今回はこれで終わり。午後になると暑くなり、体力も消耗する。これくらいでいいだろう。“まんだら”で讃岐うどんの店を聞く。高松であれば、土産にしよう。道隆寺で例の北海道の人に会う。写真を撮られた。高松駅のタクシー案内係から、“讃岐うどん”の店を聞き(福川)そこで食べて、学校と近所の土産に送る。うまかったが、欲を言えば、もう少しコシがほしい。多度津駅では自転車に乗ったおじさんが声をかけてくれた。
12月7日、坂出駅4:00―禅喝破道場16:45
名古屋駅待合から30分ばかり出たら、寒かった。バスに乗っても寒かった。夜半になってようやくおさまった。77番から歩く。しばらくして、おばさんが小銭を225円くれた。又、今度は70〜80くらいのおじさんがお守りをくれた。80番国分寺からの登りがきつかった。10時半頃、高照院から出て雨に降られた。始めは霧雨ていど、時々日も射すという変な天気であった。今夜の禅道場は場所が分からなく、探すのに行ったり来たりで難儀をした。修業道場なので、それなりの作法を強いられる。今夜は風呂もなしとするか。一寸変な人も泊まっている。5人で大部屋に寝ることになる。水も雨水を貯めたものなので、湧かさないと危ない。8時過ぎ、家にtellする。かおりが泣いて帰ってきて二階へ上がったままなそうだ。昼も夜も何も食べないで泣いていると言うこと、以前のこともあるので、注意するように、そして、嫌なら仕事は止してよいと言っておいた。
12月、禅喝破道場7:30―ひろせ旅館16:00
朝のお勤めが又大変。座禅の後、お経を読んで1時間半あまり、やっと朝食は“おかゆ”であった。おかげで今日は腹の具合がとても良い。根香寺から下ってくる山下の村で、87歳というおばあさんが手押し車を引いてきて、ミカンを5つ接待してくれた。83番一宮寺のところで道に迷い、2キロほど余分に歩いた。親切に教えてくれる人がいて助かった。昨日の事だが、白峰寺と根香寺との間の遍路道はとてもいい道だった。自衛隊の施設がなければもっと良い。は端整な良いお寺だ。屋島寺も同じく山門も立派で、整った寺だった。屋島へ登る道もかなり急であったが、よく整備されていい道である。近くの人が大勢登っていた。ちょっとした散歩のぼりには適当であろう。高松の街がよく見える。今夜はゆっくり風呂に入り、洗濯も出来る。ヒゲも剃った。暖房もあるし、天国だ。ありがたい。
12月19日、ひろせ旅館6:15―大窪寺15:40
薄明かりの中を出発。八栗寺の近くで迷って行き来する。神社と一緒にあることを知っていれば、迷わなかったけど、又、帰りはそのまま下りてしまった。けーぶる駅の裏側を下りるのだ。地図を見ておけば良かった。人に聞いて何とか国道11号へ出て、おしまいに遍路道へ出た。八栗寺は岩山を背にして圧巻であった。寒くて誰も居なかった。長尾寺には11時半ころ着いたのでこれなら88番まで行けると、宿へtellする。風が強く寒かった。3時頃には雪もチラホラ舞った。額峠のあたりで、みすぼらしい年寄に会い、声をかけると、35円接待してくれた。少し話をしてしばらくして、あれ、さっきまで左足首が痛かったのに、なんともない。どうしてだろう。ハッと気がついた。自分の他人を見る目が外見で判断していたことの誤りを大師様が教えて下さったのだ。そう思うと涙がとめどもなく流れてきた。又一つ貴重な体験をした。大窪寺は大師堂近くの山門が新しく立派だ。正面に昔ながらの山門もある。寒くて手洗い場ではツララが下がっていた。今夜は青年と二人泊まり。夕食は栗の赤飯で祝ってくれた。
12月20日、八十窪7:00―安楽寺15:15
もう少しで谷を抜ける手前で、同宿の青年に抜かれた。切幡寺の333段の石段はきつい。6番安楽寺まで先に打つことにする。道がわからないときは、聞いたが皆親切に教えてくれる。わざわざ車を止めて教えてくれる人もいた。今日も風が強く寒かった。この冬一番の寒気が南下しているということだ。雪も時折チラつく。外に人が出ていないので、道を聞くのも一苦労。遍路にもちょくちょく会う。やはり、番号が低いせいなのだろうか。温泉山山楽寺のさすが温まる。宿坊といってもまるでホテルだ。エレベーターもある。今日は遍路はなしで、高校生の将棋の研修会だとかで、生徒が大勢いる。カレーなので500円安くしてくれた。足首の痛いのにはまいった。左が特に痛い。禅の後遺症か、炎症でも起こしているのだろうか。なんとか頑張って歩きたい。
12月21日、安楽寺7:45―民宿寿食堂15:30
足首の腫れはあるものの、昨日ほど痛くなく助かった。今日は晴れ、気温も大分暖かい。しかし、まだ目出帽がいった。快調に飛ばして、11時前に霊山寺に着いてしまった。1番から順に打つ。若いカップルや青年に合い、宿も一緒であった。4番大日寺の前で托鉢していた青年とサンドイッチとバナナを分け合う。確か、7,8番にも居た。その時は100円やった。今夜は6人で、久しぶりに大勢で話しが出来た。鎌大師妙絹さんのことも始めて聞いて、写真葉書、しおりを主人からもらう。2番極楽寺の長令杉は立派だった。4番大日寺の大タラヨウの木は見過ごした。5番地蔵寺の大イチョウも又見事。ここの五百羅漢はお金を取るので、見なかった。ここで、中国青島から来た、若いカップルに写真を撮ってもらった。
12月22日、民宿寿食堂7:45―さくら旅館10:20
寿食堂では消費税も取られた。6825円、洗濯、乾燥それぞれ100円、TVも1時間100円。タオルなし、食事も量あ多かったが、手間のかからないものだった。美味ではあった。主人の顔つきが一寸と思っていたがやはりという感じ。安楽寺のことを悪く言っていたから、、 22キロと言うことで、12時過ぎくらいかと考えていたら、10時20分に着いてしまった。公園で少し鴨を見ていたが、それも仕方ないので“さくら旅館”に行く。快く入れてくれた。大きな部屋を取ってくれたはいいが、暖房の効きが悪く、しかも立て付けがよくない。小部屋に変えてもらった。全体にどこも隙間があって、なかなか暖まらない。古い旅館だから仕方が無いか。昼飯は鴨島駅前の中華料理店で食う。今夜は昨夜同宿の男と女の3人が遍路、他は職人さんたちが4〜5人であった。60前の男性は兵庫、女性、20代は東京といっていた。
12月23日、さくら旅館6:40―藤井寺7:10―焼山寺12:35―植村旅館15:35
3人一緒に宿を出る。藤井寺から僕だけ先に歩く。柳水庵の所で、例のカップルに追いつく。焼山寺でも入れ違いになった。上り下りがあってかなりきつい坂だが、登山に比べればどうということはない。一番坂のあたり、そこここに雪があったが、遍路道にはない。禅で痛めた足首が、山道では痛い。特に下りがつらい。焼山寺は杉の大木が見事である。鶴林寺の大杉を思い起こす。思えばはるかに歩いてきたものだ。焼山寺から錫岩まで下り、そこから又、玉が峠へ登り返す。もうくだりばかりで大したことはないと思っていたところへ、結構きつい登であったのでこたえた。車道へ出て、峠をこしてホットする。峠には通夜堂があり、便所もあった。そこから車道の下りは、眼下に蛇行する川と前には連なる山々を眺めながらタラタラと下りる。素晴らしい景色だあった。一昨日からの同宿の兵庫の男性は5時半ころ着いた。二人で話しながら夕食を食べた。高野山では何処も宿がとれない。一人だと何処も断る。営業だから仕方が無いか。明日、駅で大阪の宿をとれるか当たってみるつもり。それから計画を練り直そう。今日は昨日と比べると随分暖かくて助かった。途中、農家の庭先では百合の花が咲いていておどろいた。
12月24日、植村旅館6:40―オリエントビジネスホテル17:30
大日寺でヒョッコリと“寿食堂”と“さくら旅館”で一緒であった東京の女性と会う。途中、車の接待を受けたそうだ。家は富山だと言っていた。そうこうするうちに、兵庫の男性も追いついてきた。これも何かの縁と三人で歩くことにする。昨日より、今日の方が暖かく、平地なので快適に語らいながらあるいた。観音寺の先で、うどんを食べていると、101歳というおばあさんが三人に“寿司でも食え”と1000円硬貨でくれた。錫杖を持っていたが、101回まわって一尺短くなったと言っていた。弘法大師様のおかげで、二十数人いる孫もすべて丈夫だと言っていた。そこから少々いったところで、自転車に乗っていた年寄の女性が100円ずつ接待してくれた。5つの寺を彼らがお経をあげるのを待っていたので、結構時間が掛かった。また、大阪の宿や帰りのバスの変更で、徳島駅の日本旅行へ寄ったので暗くなってしまい、17:30にオリエントホテルに着いた。汚いホテルで洗濯ができないのにはまいった。近くにローソンがあり、そこで夕食を買ってきて食べる。四国最後の夜にしては、しけたもんだが、これも性分で仕方が無い。暗くなって気がせいた為か、終わりになってひどく疲れてぐったりしてしまった。近藤ホテルの前で男性と握手して別れる。その先で、同じホテルだがまあ会うまい。またのご縁を!
12月25日、オリエントビジネスホテル6:40―10:30
薄くらいうちに安ホテルを出る。あまり急がず普通のペースで歩く。途中、おばあさんが坂の上の方から歩いてきて、パンを一つ接待してくれた。弘法大師の杖の水堂のかなり手前で、オーイと呼ぶ声、兵庫の男性が追いついてきて、二人で歩く。そして、驚いたことに恩山寺の登り坂で、上から下りてくる車が止まり、手を振る女性は例の東京の女性ではないか。又々車の接待を受けたそうだ。二人とも本当に不思議な縁だ。また会ってしまったのである。恩山寺で名刺をくれた。柏原さんといって、三菱電機の主席技師だそうだ。立江寺へ10時半頃着く。四月に始めて来たときの事が想い出され、感慨深かった。仏手柑飴をくれた奥さんは見当たらなかった。今度こそ本当に別れを告げて、11:04分の電車で徳島に出て、バスで難波に着き、温泉ホテルに泊まる。いやーやはりいいホテル(といっても6400円だけれど)は快適だ。たまらんよ。
12月26日、温泉ホテル6:40―14:55
変な夢を見てウツラウツラした。早めに接待でもらったパンを食べ、難波から高野山行の電車に乗る。えらい山の中に人家があるもんだ。ケーブルカーに乗り、そこから歩こうと思ったら、バス専用の道路で歩けないと言われ、女人堂までバスで行く。奥の院への道は、以前風越の時に来た時の想いがよみがえったが、奥の院では読経の響きも心地良く、荘厳な気分にさせられた。これでやっと俺の一つの人生の区切りがついた。これからはどうしよう。風の吹くまま、時の流れに任せようか。どんな人生が待っている事やら。本堂は期待していたより、小規模に感じた。800〜1000mのところだけあって、雪もそこここに有り、寒かった。帰ってきて早めに温泉に入る。暖まって最高だ。いいところに泊まった。この味を覚えたら、民宿や古旅館には泊まれない。最後で良かった。
第二回(2006年)

秋葉街道を歩く
秋葉街道を歩く かねてから歩いてみたいと思っていた秋葉街道を梅雨の中休みをねらって歩いた。6月13日朝、飯田の起点とされている八幡神社を出発する。飯田に住んで40数年、前を通ることはあってもお参りするのは初めてだ。こんなに立派な社殿をもっているとは驚きであった。案内図にしたがって松尾の町を抜け、天竜川に至る。ここは知久平の船渡し場で中州には水神様が祀ってある。渡しはないので水神橋を渡る。道を尋ねながら段丘二つ三つと上る。秋葉街道といっても中年以下の人はあまりよく知らない。年配の人を探しては尋ねる。三石甌穴の上からは古い立派な石垣や土蔵のある民家を目当てにして歩く。段丘を三つほど上って振り返れば八幡様の森と歩いてきた八幡の町が一望できる。ここから上ではもう飯田の台地は望めない。御射山社の上を少し行ったところで道を間違えてしまったが、神ノ峯のアンテナを目標にして強引に歩く。上久堅下平からは支所の横を越久保に向けて歩けば観音堂まで迷うことはない。観音堂付近は以前来たときより随分整備されて、明るい雰囲気だ。東屋もあり、水場も増やされていた。車道を離れて、上久堅小学校生の作った「あきはかいどう火の神への道」という大きな道標から暗い杉林の中へ入る。しばらく行くと鹿除けの防護柵があり、扉を開けて進む。二番観音は少し重なるように二体ある。心なしか微笑みかけておられるようで、こちらも思わず顔がほころぶ。5番の東屋の手前で大きな猿に出会う。“一匹猿に出会ったら、決してかまってはいけない。かまうと仲間を呼んで大変なことになる”ということを聞いていたので、何食わぬ顔でやり過ごす。2時過ぎ小川路峠唯一の水場に着く。時間は早いが、初日でもあり、天竜川から上りっぱなしで疲れているので、ここで泊まることにする。テントを水場の屋根に半分入れて張る。これで半分は夜露に濡れずに済む。耳元で水が水槽に落ちる音がうるさい。棒切れを探して工夫した。
明け方、鹿の鳴き声しきり。あまり眠れなかったので、早く出発する。靴を履こうとしたら、何か変だ。手を入れると蟹だ。“おいおいこれは僕の靴だよ。君の家にしてもらっては困るよ。”と外へ放り出す。汗馬沢からは先は車道がなく、細い道になり所々危険箇所がある。小川路峠は眺望はない。風越山と秋葉山を兼ねた鳥居があり、昔はそれぞれを遥拝した場所で眺望が良かったが今は樹林の中で何も見えない。峠からは唐松の落ち葉を踏みしめて、ぐんぐん高度を下げる。足に柔らかく快い道だ。このあたりは前熊の親子に会ったところなので心して歩く。杉林の急下降の後、林道を幾度か横切って清水口でスパー林道に出る。ここからは街道は不明なので、車道をだらだらと上町向橋まで下る。町中を抜けると又道は不明なので、八日市場橋まで152号線を歩く。上島の集落を大きく湾曲してたどり、梨本を抜け、木沢へ出る。ここから道は川沿いを離れて中央構造線をまっすぐ和田までたどる。和田までの唯一の上りである。竹薮の中をのぼり、振り返れば、旧木沢小学校と木沢正八幡宮の森が眺められる。峠にはツガの大木がそびえ、根元に祠があって、「遠州秋葉街道古道」の立札がある。そこを上って、少しもどって上の道へ行くべきところを真直ぐに歩いたために、迷ってしまい20分ほどのロス。疲れた体でまた上り返すのはがっくりきます。その先の合戸峠でも細い道を迷ってしまい、ブッシュをかきわけ、沢伝いに下りて、押出沢の反対側の道を下って和田へ下りることになった。「かぐらの湯」の前のスーパーで食料を仕入れる。ほとんど車の通らないのに、なんでこんな広い道が必要なんだ、半分にして、その分をもっと大事なところに廻したらなんて、例によってひねくれたことを考えてしまう。町外れから遠山川の支流八重河内川に沿って、道はゆるい上りになる。今日はもう少し先まで行きたい。ゆるい上りでも疲れた体にはつらい。強い日差しを浴びてあえぎあえぎ歩く。この道は昨年11月、地名研究会の研修に田畑さんと参加したときに車に乗せてもらったところなので、不安はなかった。小嵐川を少し遡行したところの梁木島番所(街道の関所)で泊まることにする。茶を沸かして記録をつけていると、木の葉を一杯背負ったおばあさんが現れた。この番所の管理をまかされているそうだ。材料置き場の屋根の下にテントを張らしてもらう。後からきな粉ぼたもちと大根漬けを差し入れてくれた。疲れた体にほどよい塩味の漬物はとても美味かった。
三日目はいよいよ青崩を超えて信州川から遠州へ。青崩峠までは旧道はほとんど不明なので、車止めまで車道を歩く。あたりは鹿害のため、林内の見通しがよく、毒を含んだ竹煮草とまむし草が一杯。峠から構造線を一直線に水窪のあたりまで見通せる。静岡県側は石畳の道が車道に合流するまで続く。足裏がデコボコして意外と歩きにくい。1.5キロほど歩くと足神神社の前を通る。ここには名水があり、三遠南信道のトンネルによって泉が涸れる心配があるから、“守る会”でルート変更を要請しているという説明板がある。果たして、水のために国交省が動くか。峠から車道でもほとんど直に下っているので、草木トンネルまでは歩いていても膝に負担が掛かる。トンネルの先で、川沿いの道と山腹の平坦地を結ぶ秋葉古道(桂山道)とに分かれる。賽の河原といいうところで合流する。もちろん、川沿いの道を行く。車道を離れて旧道に入ると、民家の軒先を通り、幾軒もの廃屋の前を歩いて薄暗い杉林の中を通る。車社会になってこんな狭い道では暮らしていけなくなったのであろう。ここには棕櫚が自生していて、暖かい土地に踏み入ったことがわかる。鹿などの獣害の痕跡はみられない。梅島の先で車道に出る。今日は昨日と違って湿度も低く、カラット晴れて風もあり、快適に水窪までゆるやかに下る。水窪は飯田でいえば鼎のような町だ。古い民家や店が軒を連ねている。町外れの山住神社のところで水窪橋を渡って左岸へ移る。向市場といって縄文遺跡のある古くからの土地だ。高根城址へ向かって急な坂を上ったところで迷ってしまう。獣道程度の道が二百メートルほど続くと案内図に書いてあったが、その入り口の階段を見落として車道を直進してしまったのだ。民家の人に聞いて引き返す。20分ほどのロス。蕨畑の中を高い草を掻き分けて進むと杉林に入り、ますます心細くなったが、なかほどに「秋葉道・塩の道」という立札があってホットする。林からの出口は、ほとんど道とはいえないような状態で工場の資材置き場の広場に下りる。馬渡瀬で右岸に渡って芋掘の街中を歩く。街はずれで、道は秋葉古道(山道)、秋葉街道(荷車道)、秋葉古道(相月道)に分かれており、案内図では“この頁の街道は難路である。初めての時や通して歩く時は迂回路を通ること、日没2時間前に目標地に到達すること。”と書いてあるので、迂回路をとることにした。ところが、しばらくいくと、立札がないので幾つもある道のどれだかわからなくなり、適当に上って行ったら行き止まり。上の方にある民家まで階段を7・8分も上って聞いたら、80メートルくらい下のカーブミラーの見えるところが、どうも正しい道らしい。30分以上のロス。この家では車止めから肩に荷を背負って運んでいるそうだ。見晴らしはいいが、日々の生活は大変だと思う。対岸のはるか上のほうにも一軒家が見える。聴けば、廃屋でなく、人が住んでいるそうだ。遠山よりはるかに山が深く急傾斜地だ。人々の暮らしは厳しいだろう。橋の名前が地図のそれと一致してやれやれだ。立原というところで秋葉古道(山道)と合流する。芋掘の街から6キロほどのところの役人沢橋南で今夜は泊まることにする。偶然、道路から4メートルくらい上に延命地蔵の祠が見つかったので、そこのわずかな平地にテントを張らしてもらう。急傾斜地ばかりで平地が無い。道路脇にテントを張れば、夜中に車にはねられる危険がある。ここなら下から見えないし安心だ。テント暮らしも三晩目にもなると、下着が汗でねちゃねちゃして寝苦しい。風呂にはいってさっぱりしたい。もう限界だ。快適な生活に慣れた現代人はもはや後には戻れないと思った。天気もそろそろ崩れてもいいころだし、明日は少し無理をしてでも旅を終え帰飯しよう。夜半、寝苦しくて起きだしてみれば、月明かりの中に星が見える。星にしては明るすぎると思ったら、星ではなく対岸の人家の明かりだ。あんな高い所にも人の生活が営まれている。あらためて天竜の山の奥深さを思い知らされた。
6月16日、早めにお地蔵様にお礼を言って出発。うぐいすの谷渡りが心地よい。380メートルの明光寺峠まで約100メートル、ゆっくりと高度を上げていく。民家にクーラーの屋外機を発見して、こんな山奥にもクーラーがと驚きであった。役人沢の手前あたりから、御影石の「塩の道」という立派な道標が散見されるようになる。峠に出れば水窪川から天竜川へ出る。天竜川の川面から朝靄がたちのぼり、山水画を思わせる。八丁坂を一気に下る。林中の道に「まむし注意」という立札があった。案内プレートと地面のまむしと両方注意しなければならない。こんなところでまむしにやられたら人に会わないし、病院もないアウトだ。また、急傾斜地で道に迷えばあとで大変なアルバイトを強いられる。静岡県側は「秋葉道・塩の道踏査研究会」の立札が随所にあり、とても心強い。暗い林中でこの立札を見つけたとき、どんなに安心し、励まされたことか。信州側にもこういった道しるべが作られるといい。八丁坂を下りると西渡の街だ。ころがり落ちるような斜面に人家が密集している。こんな平地の無い所にどうしてこんな街が出来たのだろう。きっと、かっては天竜杉の筏流しで栄えたのだろう。水窪川が天竜川に注ぐところにある大井橋付近で獣の鳴き声がする。犬の散歩をしている人に聞くと猿だという。街中のガソリンスタンドの近くにまで猿が出てくるんだ。大井橋を渡って天竜川の左岸を登る。大井橋を最低高度として、又明光寺峠と同じくらいまで大きく屈曲してゆっくりと高度を上げて行く。秋葉ダム湖の上流の為か水の流れはゆるやかで、水鳥の航跡が四本見える。うち一本は細い。ひな鳥だろうか。ここから秋葉山まではところどころにある集落と茶畑以外はすべて暗い杉林の中を行く。半血沢という林の中の沢では橋がなく、丸太が渡してあるだけだったが、足を乗せたら、くるっと回転して川の中へジャボン。幸い水深は10センチほどであったので、たいして濡れず怪我もなかった。林を抜けて茶畑に出ると視界が開けて、はるか下に天竜川対岸に深い森と集落の点在が見渡せる。林中では獣の足跡しきりである。ハンガレ沢と言う所では、真新しい杉板に「熊が出没していますので注意を促します。(二匹です。)」と書いた立札があった。“おいおいよしてよ。”と緊張する。鈴を付けてきてよかった。万両や榊が自生してくるようになる。笹百合は道中一輪しか見かけなかった。畑には樒も栽培されていた。さらに暖かい地域に入ったのだ。林の中には幾ヶ所が鉄の立派な橋が架けてあったり、50センチくらいのコンクリートの道が延々と打ってあったりする。道も無い山深き所にどうやって資材を運んだのだろう。静岡県は結構秋葉街道にお金をかけていると思った。杉の枯れ枝に足を引っ掛けるようになる。四日目ともなれば疲労が溜まってくる、イメージほど足が上がっていないのだ。こんな所で捻挫でもしたら誰も見つけてくれない。注意して歩く。千代という集落に着く。この集落が秋葉までの最後の集落だ。ここから秋葉神社まで5・5キロ、高度差500メートルを一気に登る。千代からは裏参道の常夜灯型の丁石が19番まである。疲れた体に最後の急登、これはきつかった。最高高度の電波塔の付近で道に迷う。案内図にも“迷”と書いてあるので注意したのに迷ってしまって、車道に下りて反対の方向に歩いてしまった。山住神社の標識を発見し、秋葉神社の指示の方向に戻る。終わりは昔の雰囲気の中を歩きたいと思っていたのに、、、、、、。幸い途中で案内表示を見つけ、杉の大木の中をしづしづと歩くことが出来た。神社は静かな中にも荘厳なたたずまいをみせていた。もっと賑やかかと思ったがあたりには神社の施設以外なにもなく人影もまばらであった。後で聞けば、750メートルほど下の下社の辺りは店もあって賑やかだそうだ。帰りは鳳来寺道(今は東海自然遊歩道)を下って天竜川端の鮎釣のバス停に出、水窪から電車で帰ることにする。庭の草取りをしていたおばさんにバス停を聞くと、階段を上がった上の道にあると言う。集落から30メートルも上だ。もう旅は終わったと思ったので、体の力が抜けて、もう一歩も歩きたくないというときに30メートルの階段だ。最後の力を振り絞って、一段又一段と数をかぞえながら登った。バスが来る直前に雨が降り出し、やがて激しい雷雨、水窪では土砂降りだ。おかげで、落雷による信号機事故ということで電車が二時間も遅れてしまう。しかし、四日間雨に降られなかったということは、梅雨時としては、まさにラッキーというべきだろう。あんまりいいことばかりというのはかえって良くないというから、これくらいのマイナスは良しとすべきだろう。 旅程
第一日 八幡神社〜小川路大曲水場   14キロ   4時間20分
第二日 水場  〜梁木島番所     29キロ   8時間25分
第三日 番所  〜役人沢橋南     29.5キロ 8時間35分
第四日 橋南  〜秋葉山(鮎釣)   26.5キロ 9時間35分

熊野古道を歩く
熊野古道を歩く ※5月8日(土)飯田インター7:00〜稲葉王子13:20
休日にもかかわらず、道は意外と空いていた。ただし、京都から岸和田まで、ほとんどサービスエリアがなく、疲れても休めなかった。稲葉王子の水垢離跡の駐車場は鎖でとじられていて、入れないのでローソン前の若者広場に止める。時間があったので、古い道をあるいてみた。興福寺(達磨寺)へ行く道で、富田川をはさんで2時間の周遊であった。そこで、コピー地図とボールペンをどこかに置いてきてしまった。
※5月9日(日)ローソン5:30〜滝尻8:45 9:00〜霧の里10:40〜大坂本王子13:30〜牛馬童子口15:40
ローソンを出て一ノ瀬橋を渡り、草付きの農道を行って人家の前を通り、一ノ瀬王子に着く。ここには大きな樟木の木があって見事である。舗装道路を富田川沿いに行き、加茂橋を渡って少しもどり、坂を上って住宅街を抜けてまた下り、鮎川の町に出る。鮎川新橋のたもとに鮎川王子跡がある。この橋を渡って左折して消防分団を右に行くところを、道標の向きがずれていて堤防を歩いてしまい、おがたまの木とムクロジの大木を観られなかったのは残念である。御所平のお薬師さんに上る。水もあって、ちょっと休むには良いところだ。のごし橋のところに定家の歌碑があり、それを超えて人家の間を草付きの道が梅畑の中を通っている。ここからは細い道だ。古道の趣があり、立派な休憩所もあった。この辺りは道標が沢山あって迷わない。北郡(北曽木)橋のしばらく手前で道路に出て、吊り橋の手前で311号を渡る。清姫の墓の先に茶屋があり、その裏の川岸に下りた所に公衆便所があって、きれいであった。ここから滝尻まで道標がない。清姫のバス停から左へ上ってまた下るのだ。途中でおじさんが教えてくれた。あとは311号の歩道滝尻まで歩く。ここの古道館では親切に説明してくれた。一寸離れた所に駐車場もあるとのこと。ここから森の中を一気に登る。展望台まで岩や木の根がゴツゴツとしている。ほとんどが林の中なので涼しい。陽の当たるところでは傘をさして歩いた。TV塔を超えて下ると民家があり、実のなる道をつくるという立札があった。高原熊野神社を過ぎると高原霧の里休憩所。年配の婦人が店番をしていて、いろいろ話してくれた。展望もよし、駐車場も広い。近くの人の出入りもあって賑やかだ。ここから人家の間を石畳を上って一里塚跡までくると、ここからは人家は全くなし。人工林と混交林の間を3時間ほど歩く。杉、檜の人工林のなかだと、何となく緊張感が漂うが自然林に出るとホッとして癒やされる感じがするのは何故だろう。牛馬童子口の道の駅で1時間半ほど待って、バスでローソンまで帰り、再び来るまで牛馬童子口まで来る。歩く人がもっと多いと思っていたが、日曜日にもかかわらず合った人は10人前後である。霧の里のおばさんによれば、連休中はにぎわったそうである。スーパーでご飯と豚肉とキャベツを買ってきたので、今夜は肉炒めだ。マトンがなかったのが残念である。
※5月10日(月)牛馬童子バス停4:45〜安倍清明とめ石6:30〜三越峠9:45 10:10〜本宮13:15
ねむったかどうか分からないような状態で3時過ぎに準備。2時半ころは星空だったのに、このころは曇り、早出に越したことはない。明るくなってすぐ出発する。近露の下るところからの眺めはよい。新緑が美しい。近露の街を過ぎると山道になる。比曽原王子は一寸離れたところにあり、急さかを登る。継桜王子の9本の一方杉は見事である。茶屋もあるが、まだ早いので開いていない。駐車場もある。対岸の山がやさしい。尾根に広葉樹の列が見える。きっと山堺で伐採したところが再生したのだろう。杉、檜の人工林よりひときわ若高ェ美しい。今日の所は、ほとんどが杉と檜、それも杉が多い人工林ばかりであった。いくつか王子跡を通ったが、どれがどれだか記憶が定かでない。説明板もほとんど読んだが、覚えていない。無駄であったか。おきん地蔵辺りは川の流れが美しい。三越峠には関所があったらしい。古い休憩所の近くに新しい立派なそして清潔なのが出来ていた。ここからの人工林の下りは長い。この当たりで細かい雨がぽつぽつと降ってきた。まだ傘というほどではない。猪鼻王子のところで掃除をしていたおじさんに声をかけられる。水音王子のところの休憩所では作業員が車を止めて寝ていた。伏拝王子では、はじめて反対側から上ってきた人に会った。外人を含む三人連れであった。ササユリやタツナミソウがあった。ここからゆっくり登って下る途中に、ちょっと寄り道の案内で行と大斉原の鳥居が見えた。この辺から雨が少し多くなった。でも小雨である。本宮はさすがに人が居た。秋葉神社のような静寂さはなかった。石段を下りてバス停に向かい、大斉原の鳥居を見に行く。下から眺めると大きい。また少し雨が降り出した。バスは細い道をあちこち廻っていくので、牛馬童子口まで1時間もかかってしまう。腹がへったので、駐車場を出てトンネルを戻った空き地でラーメンを着くって食べた。さすがに世界遺産だけのことはある。整ったよい道であった。それから湯の峰温泉へ行った。修善寺を小ぶりにしたような谷あいの静かな温泉で、駐車場も無料、便所もあるので、ここに泊まることにした。川から温泉が出ており、湯気が立っている。「つぼ湯」がある。380円の薬湯、公衆浴場に入る。疲れが取れる。いい湯であった。本宮からのバスはぐるぐる回る。請川から川湯、湯の峰温泉を通り、さらに小広王子、一方杉や近露王子と廻って牛馬童子口に行く。
※5月11日(火)温泉に入ったせいかまあ眠れた。雨は時々降っている。あまり激しくはない。今日は移動、休養日なので、ゆっくりする。川湯で朝風呂としゃれようと7時過ぎに出たが、はじめ川湯の公衆浴場が分からず、行ったり来たりした。駐車場が近くになく、開くまで1時間も待たねばならず、諦めて新宮から那智駅へと向かった。途中は川沿いの道を行き、請川で国道168号を熊野川沿に下る。途中で右折して小口へ下見に行った。橋のたもとの川べりに便所と休憩所があり、ここでテントが張れそうだ。次の朝早立ちしたいので、テントを持参しよう。熊野川沿いも新緑が美しい。那智寺は無人であったのは驚きである。便所もある。交流センターの風呂は午後1時から、ここの駐車場で昼近くまで本を読んで過ごす。雨も時折降り、海岸近くのせいか蒸す。寝苦しそうなので、那智高原へ移動することにした。Aコープで食料を仕入れて、10キロ上野高原に行く。広い駐車場がある。風が強い。便所の隣で今夜は過ごすことにする。 ※5月12日(水)那智高原7:00〜舟見茶屋8:00 8:30〜地蔵茶屋9:45〜小口12:25
夜半から雨があがり、星が見えた。例により、あまりよく眠れなかった。作った台が高すぎて腰が痛くなった。帰ったら修正しなければならぬ。日が昇り、山々がきれいに浮き上がって見えた。少しゆっくり出発する。ちょっと冷える。手が冷たいくらいである。道は広く、石畳が多い。この辺りは熊笹が茂っており、鹿害は少ないとみえる。舟見茶屋から勝浦の海が見下ろせて、少しぼやけてはいたが、美しかった。ゴルフ場も山の手前に望めた。色川辻で、昨年の台風で倒木や崖崩れとかで、地蔵茶屋まで林道歩きをさせられた。地蔵茶の畳のある休憩所は閉まっていて使えなかった。ここでゆっくり休むつもりだったのに残念である。釣りをしていた人に釣果を話しかける。水量が少なくて駄目とのこと。石倉峠と越前峠の間の石畳は広く、石が大きい。どうやって並べたのだろう。直径90センチもある丸い石が平になっている。現地のものを削ったのであろう。大変な労力だ。苔が多い。太田さんなら喜ぶだろう。越前峠でフランス人のカップルと合う。林道歩きのことを教えてやった。緊張してうまく話しが出てこず、苦労した。もう一人、その後で男の人に会った。ここらまで来と笹がない。地蔵茶屋の植木は網で囲ってあったし、シキミやアセビばかりである。昼過ぎに小口に下りる。ここから赤木川の小和Pの渡し場まで道標がない。「自然の家」か民宿に泊まれということか。地図ではトンネルの上を越すようになっているが、階段を上がってみたら、墓地であったので、その先へは行かず、トンネルをくぐり古道らしきものを見つけ、小和Pの渡し場まで来た。ここで今夜はテントを張りたい。3時頃反対側から、神奈川の主婦が来て話しをする。「自然の家」に泊まるそうである。ここは風が強い。冷たい。雨具を羽織って丁度いいくらいである。
※5月13日(木)小口、小和P4:00〜百間ぐら6:40〜請川6:40〜那智駅11:35から那智高原14:45
安定剤を飲んだので、よく眠れた。4時出発、山際がだんだん明るくなり、下の方ではまだ民家の灯りが光っているのに、山の上は輝いている。枕草子の一節を思い出す。小雲取の方は、比較的緩やかな感じがした。林もいくらか自然林が多いような気がする。百間ぐらの下の公衆便所は太陽光発電で分解するようになっていた。もうちょっとで清川というところで、婦人の一団に会う。清川の国道へ下りる手前でおばあさんと立ち話しをする。鹿やイノシシ、猿害について話してくれた。清川のバス停では、1時間も時間があったが、何処かのおやじが出てきて、いろいろと話しをしてくれたので、結構暇つぶしができた。新宮でバスを降りるときに、どうも1000円余分に入れてしまったようだ。先に1000円入れて、500円の両替をして、その事を忘れて小銭ともう1000円入れてしまったようだ。これも旅の経験だ。この程度で済んでよいとするか。那智駅までバス出来て、そこから歩く。日中カンカン照りで暑かった。那智の滝はいい。若い頃にはただ滝としか見なかったけど、何か神々しさを感じる。この滝に神を見た昔の人々の気持ちが分かる気がする。青岸渡寺、那智大社をお参りして、あと30分、階段をひたすら登った。よくここまで来られた。感心する。ただ、年のせいか、歩いた道程が思い出せない。昨年の秋葉街道の方が細々と覚えていたような気がする。老化が一年でこんなにも進むものなのだろうか。
※5月14日(金)那智駅7:15〜速玉大社8:15〜高野坂登り口9:45〜展望台10:20〜佐野王子11:20〜那智駅13:00
始発で新宮へ向かう。昨日のバス560円と比べ230円と安い。中は高校生でいっぱいであった。新宮では大逆事件に連座した大石誠之助の志を記念した碑が印象に残った。速玉大社は朱塗りの社である。ここからまっすぐ新宮城跡を越えて海岸の方へ行く。阿須賀神社までは道標がない。ここからはしばらく路面に道しるべが書いてあった。浜の王子社をすぎてちょっと迷ったが、立っている人に聞いて42号を渡り、海岸へ。ここから1.5qくらい海岸を歩く。ゴミもなく綺麗な海岸である。四国高知の海岸とは大違いである。小石が一杯あって、埋まって歩きにくい。石を拾っている婦人に会って話しをする。僕もいくつか面白そうな石を拾ってザックに入れた。あんまり大きなのは重いから小さいのを選んだ。学生等のグループに会うことになる。遠足だろうか。下り口近くの展望台への道で、農作業をしている夫婦と少し話しをした。三輪崎の町は複雑に道がいりくんでいたが、道標にしたがって進めた。町をぬけると、42号線を歩く。古道の雰囲気があるのは、高野坂のあたりとこの先の小狗子峠のあたりのみである。常緑広葉樹が繁っていた。小狗子峠のあたりは風倒木がいっぱいあって、空が明るかった。ここの海岸には獅子が臥せって横を向いているような岩がある。これを眺めながら、パンを食べる。あとは街中と国道をひたすら歩く。歩道の無いところは怖い感じがする。大狗子では通行止めになっていて、一般道を歩いた。あとは42号を那智駅へ。風が冷たいほど涼しいので、快晴であるにもかかわらず、つらくなかったので助かった。このコースの一番のうりは海岸の景色の美しさだろう。今夜は那智から90qくらいきたところの、紀伊長島のマンボウという道の駅に泊まることにする。
※5月15日(土)マンボウ4:30〜飯田8:30

ネパールを歩く    永田 昌弘
先日、「ミリンダ王の問い」という仏教説話の本を読んでいたら「少欲知足」という言葉が目に止まった。仏教では我執をさることの大切さを説いている。欲を捨て煩悩を止めるのが理想ではあるが、それは人間にとって不可能に近い。だから、欲望をできるだけ抑えるように心がけることが重要であるという意味だと思う。年齢を重ねるに従い、自分の分というものもみえてくれば、尚更、それは必要なことだと思う。そうしないと思わぬ“怪我”をしないとも限らない。ところが凡人の悲しさ、煩悩具足の身なれば、これが至難の事である。3年前、アルプスへ行き、アイガー、マッターホルンに登った後、もう海外登山はこれきりにしよう、子供の教育費にどんどん金がかかることだし、体力も衰えてきた、と一度は決意したのであるが、月日が経つとその決意も何処へやら、日本の山が箱庭のように見えて物足らない。青空に輝く白銀の峰、満点の星、もう一度見たい、漂泊の思いやまず、片雲の風に誘われて、ついにヒマラヤ山中へと足を踏み入れてしまいました。 今回はカトマンズから比較的近くにあるランタン谷のナヤカンガ(5,840m)へ元旦登頂の計画で行ってきました。モンブラン(4,800m)より高い所へ登ったことが無かったので、高山病には気を使い、昨年の9月から、富士山へ6回登り、信大の低圧タンクにも入って訓練をしました。おかげで、20日間という短期の遠征であったにもかかわらず、たいした高度障害も出ず高所順応はうまくできて、快適な登山が出来ました。とはいっても5,500mを超えると酸素は平地の半分、50歳を過ぎた老体にはきつかったです。氷河を超え、雪壁をダブルアックスで登る、頂上直下50mの急登は特に苦しかった。一歩一歩確かめながら高度を稼ぐ、高度の影響で頭がパーになって正確な判断力が失われているので、特に注意が必要だ。往復何万歩になるかわからないが、そのうちたった一歩だけでも誤ってアイゼンを引っ掛ければ、1,000m以上も滑落してしまう。下を見下ろせば足がガクガクする。どうしてそんなにまでして登るのかといわれても説明のしようがない。オランダの歴気学者ホイジンガ―は「遊びは人間の本質である。遊びに理由や目的はない。」といっています。ただ好きとしか言いようがないですね。もともと遊びとはそういうものでしょう。なんら生産的積極的意味を持たないエネルギーの消費だからこそ、遊びといえるのでしょう。
頂上からの展望は、たとえようもなく素晴らしいものでした。真近にランタ・リルンの大きな山容、遠くはチベット国境まで世界の屋根といわれる山々が幾重にも連なって午後の太陽に輝いていました。ついにやったという充実感、ザイル仲間と固い握手、高度障害でいらいらして口論したことなどみんな吹っ飛んで、相手にたいする感謝の気持ちがこみあげてくる。しかし、充実感という点では、ベースキャンプのそれにはかなわない。頂上ではまだこれから無事に降りねばならないという課題があるからです。多くの山の事故は登りよりも、帰りに起こっている。だから、充実感も多少の恐怖の混じった緊張感に限定されたものになってしまいます。ベースでコーヒーカッップ片手に、登ってきた山を見上げながら、心地よい疲労感に包まれて浸る、あのけだるいような充実感はたまらない。
山の魅力を色々述べても、山に関心のない人にとっては退屈でしょから、ここらで話をネパールの旅の方に向けましょう。
ランタン谷最奥のエクメーネ、キャンジンゴンパへはネパールの首都カトマンズから、北西へ4日ほどかかります。ネパールには鉄道がないので、移動はバスか徒歩ということになります。アンナプルナやエベレスト方面には飛行機便もありますが、ランタンは定期便はありません。乗り合いバスはいつも人と荷物で一杯です。屋根の上はおろか、バスの横や後ろにぶら下がるようにして、まさに鈴なりといったかっこうで山襞をぬって右に左に、ノロノロと進んで行きます。バス停では人がワンさとひしめいている。あれじゃあとても乗れないと思うが、さにあらず彼らは、立ち席や屋根の上に乗る人たちで、その方が安いのでお金のない人達が群がっているのであって、高い座席の方は空いていることが多いのである。バスには車掌らしきものが2〜3人いて料金を取ったり、交通整理をする。笛なんてないので、バスの横腹をドンドンとたたいて合図をする。バスやトラックは、ほとんどインドのコングロマリット(複合企業、財閥)のTATA製であった。三菱のものもたまに見かけた。オートバイは、日本の部品を使ったTATA製であった。タクシーは日本のものが多かった。髭もじゃの運転手は「ニッサンはいい、これはもう20年も使っている。」と言って褒めていた。多分そう言っていた。というのは、タルタル英語でよくわからなかったからである。
カトマンズの街を北西に出ると、バスはまもなく登りにかかり、盆地をとりまく北の丘陵を超える。振り返ればカトマンズ(1350m)市街のパノラマがみえるはずであるが、冬季は盆地特有の濃霧で何も見えない。行く途中の村々の旧道には所々に菩提樹があり、そこにはヒンズー教の祠が祀ってあって、旅行く人々の安全を守り、日陰を提供している。約2時間ほどで、ヒマラヤの展望台として知られるカカニの丘(1835m)に着く。ここからはジュガール、ランタン、ガネッシュ山群の重畳たる山並みが眺められる。もう少し先へ行けば、マナスル三山、アンナプルナ山群もみられる。アンナプルナやマナスル山群を見たときには荘厳な感情に打たれた。
ここから曲がりくねった道路が延びると山襞をぬって、トリスリまで下っている。中国の援助で一応舗装してあるとはいっても、破損がひどくデコボコ。車のタイヤはツルツル。右側は数百メートルの断崖と段々畑である。肝を冷やすことも度々であった。実際、幾度かトラックが転落しているのを、数人がかりでウインチを使ってあげているのを見掛けた。所々の菜の花の黄色が美しい。奄美大島と同じ緯度なので、高地とはいえ暖かいのだ。トリスリではパパイヤやバナナが実をつけていた。急斜面に何千と耕作してある段々畑の縞模様は見事である。幅1m前後のものもあり、それがほとんど傾斜なしの垂直に近い畔にしてある。耕作にはきつい労働が強いられることだろう。労働生産性も低く貧しいはずである。人家は木造や石と土で固めたものなので、屋根は鉄平石のような石が使ってあり、その上に野沢菜に似た菜がトラックの埃をかぶって干されてあった。これは冬季用の乾燥野菜だそうである。
1時間半ほど下ると赤褐色の台地が遠望できる。これはトリスリで、ラテライト土壌が亜熱帯的景観を印象づける。850mまで下ると暑くてシャツ一枚にならなければならない。広大な田園地帯が広がり、牛や豚がところどころに放してある。家もレンガやコンクリート造りのがっしりしたものになる。村の経済がそこの土地生産性に依拠していることがよくわかる。このことはもっと奥地へ行くと顕著である。その村の規模、造りが、周りの段々畑の土壌や傾斜度に規制されていることが一望できる。急傾斜地の岩盤上のわずかな土地にある村は規模も小さく、粗末である。それが、峠からいくつも比較して見渡せるのでおもしろい。台地上にあるひときわ規模の大きい建物群は軍隊の駐屯地で、ここだけは日本と変わらないたたずまいであった。この街道はシャブルベンジからチベットへぬけているので、軍事的に重要視されているのであろう。いくつもチェックポストがあり、軍隊が銃を持って警戒していた。ランタン谷の奥にもarmy areaとしてno entryの立て札のある駐屯地があった。トリスリの中心地がトリスリバザールで、日用品雑貨は一応なんでもある。ネパールは工業製品のほとんどをインドからの輸入に頼っているので、そういうものは驚くほど高い。例えば、ビールは100〜120ルピー(1ルピー、約3円)コーラは100ルピーもするが、ミルクティーは3.5ルピー、定食は25〜30ルピーである。ちなみに、ポーターの一日の日当は、我々がエージェントに支払うのが180ルピー、本人が手にするのはもっと少ないから、一日荷物を担いでもビール2本買えないことになる。トリスリには各国の援助によってできた水力発電所がある。だが、ネパールでは電機はまだまだで、ほとんどが石油ランプ、ロウソクであった。カトマンズでさえ、夕方は七時まで停電である。民家ではロウソクさえ貴重品で、暗くなれば寝るだけの生活である。我々はここで最初の昼食をとった。初めてということで、印象に残っていたが、うす暗く汚い食堂で食器類は脂ぎっていて、今の若い人ではとても食べられないだろう。後から来た15人くらいの日本の団体トレッカーは昼食持参で食っていたが、我々はそんな神経を使っていてはとても安い旅はできないと、まあ熱が通してあれば大丈夫だろうと食った。ここではダル(タルカリ)バートという
いわば日本の味噌汁納豆、漬物といったネパール人の定食を食った。ダルは豆のスープ、タルカリは野菜の煮物、バートは飯で、これにじゃがいものカレー煮をかけたもので、一つの大きな器に盛り合わせてある。飯はインディカであるので、パサパサしていてスプーンでないと食べられない。現地の人はこれを手でかき混ぜて食う。結構いける味であった。おかわりができるので若い人にはいい。ポーターはずっとこれの材料を持参していて、薪を拾い集めて自分たちで作って食べていた。彼らは実によく食う。3人のポーターで1.5升くらいを一度に食べてしまう。また、ヤク乳のヨーグルトも飲んだが適当な酸味があってうまかった。食事は11人分で300ルピー、であった。
トリスリでは我々の山仲間の安倍doctorがボランティアで植林事業を行っている。度々新聞、テレビで報じられているので御存知の方もおられるでしょう。ここの村の女の子を養女にして、日本で教育も受けさせた。マヤさんといい、カトマンズでお世話になった。大きな菩提樹の下からトリスリ川を対岸に釣り橋が懸かっている。これも安倍氏が懸けたもので、「アベハシ」と言っていた。左岸の高台には、北海道の人が造った学校が建っていた。石造りのしっかりした建物で教室には「TAKEO」とか「Yosiko」というように家族の名前がつけてあった。低学年でもかなりむつかしい英語を習っていた。塩尻の小学校で集めた使いかけの鉛筆を持って行って配ったが、この学校はかなり恵まれているようで、ノートも鉛筆もあったし、筆箱も結構よいものを持っていた。あとで知ったことであるが、奥地に入ると畜舎のように粗末で、一つきりの教室の中で土間に座って、ノートも鉛筆もなしに勉強していた。援助とかボランティア活動というものもどうしても、アクセスのよい所へ手っ取り早いから集中してしまって、本当に必要なところへはなかなか届かないようだ。貧しい中でさらに格差が広がってしまうように感じられた。阿部さんは「草刈り十字軍」を組織して我々より5日後に、ここに来る予定であった。通信の峯村先生も隊員として参加された。ここから少し行ったところにペトラワチという集落があり、そこで安倍Doctorが養女にしたマヤさんのお姉さんが経営しているレストランがある。レストランといっても日本の農家の古い物置よりひどいものである。天井は低く、煙でふすびれた暗い部屋に通されてチャー(ミルクティ)を飲んだが、コップが油でギトギトしていてはなはだ不安であった。裏側に回れば山道は糞尿が至る所にあって踏みつけないように注意して歩かなければならない。店の前には水道が出っぱなしに流れていたが、この水とて怪しいものである。山羊、犬、にわとりが食器を洗った流れ物をついばみ、糞をしている。これは帰りのことであるが、ここで昼食をとり、マヤさんの従兄(かなり日本語が上手)に満月の祭りに案内された。トリスリ川の広い河原に沢山の熱心な信者が集まっていた。ヒンズー教徒は竹の長い幟を立て、聖者らしき者を中にして祈り声を上げていた。男、女、成人、子供とそれぞれ輪が違っていて、それぞれが敬虔な祈声をあげている様子は壮観であった。チベット仏教徒は簡易小屋に仏像や極彩色の仏画を安置して燈明を奉げて祈っていた。近くの段丘上にあるゴンパ(お寺)にも行ったが、花や供物を奉げて祈る姿が印象的であった。
ペトラウチの村から段丘をつづら折りに登っていく、1800mくらいまで常緑広葉樹が繁っている。2000m前後にならないと大王松という松の一種は見られない。山道になると、とたんに周りの家々はみすぼらしいものになってくる。トリスリからは舗装がないので砂煙がもうもうと上がる。子供がバスを追っかけてサイドをどんどんと叩いたり、道行く大人も乗せてくれといって手をあげるが、運転手は知らん顔。たまに若い娘が数人、何か笑い声をあげて追いかけるとポーター達と一緒にからかって喜んでいた。高い尾根道からトリスリ川の両岸に展開する段々畑が見事に望まれる。“よくもまあ”と人間の営々とした努力がしのばれる。このあたりから、チョルテン(仏塔)がみられ、我々はチベット仏教圏に入ったことを知らされる。タルチョという旗も風に吹かれて音を立てていた。ドンチェの前のカーブを大きく曲がると突如、ランタンリルン(7,245m)が望まれ、あたりの山にはラリーグラス(シャクナゲ・石楠花)の古木がみられるようになる。ドンチェのチェックポイントでは国立公園入園料15ドルとビデオ所持者は100ドル取られた。100ドルといえば、ネパール人の年間所得に匹敵する。これはひどいと仲間は怒っていたが、観光資源以外にこれといった外貨を稼ぐ手段のない国にしてみれば仕方のないことだろう。このドンチェは海抜1800mの高尾根上にあり、ここからヒンズー教の聖地ゴサインクンドへの道を岐ける。ガネシュヒマールやランタンヒマールの雄姿が夕日に赤く染まって美しい。これも帰りの話であるが、ここで泊まったホテルはトレッキング中もっとも宿泊施設らしいものであった。便所もまあ便所としての体裁を整えていたし、ホットシャワーもあったし、壁も頑丈で鍵もきちんとかかった。そして、なんと一泊5ルピーといった安さであった。ここより奥地の家畜小屋のような宿泊所はいずれも20ルピー前後したというのに。サーダー(ガイド)に訳を聴くと、競争があるから安いのだといっていた。ここの料理がおいしかった。ことにりんごパイは絶品である。10pくらいも厚いのに上下のかわをのこして、ほとんどリンゴである。これは「地球の歩き方ネパール編」に出ている。また、ここの娘さんの美人ぶりも載っていたので、一緒に写真を撮ることにした。経営者はもと英語と地理の教師だそうで、食堂には付近の地質図が貼ってあった。息子はカトマンズの大学に学び、今は休暇で手伝いに来ているといっていた。エージェントの人に一杯飲み屋に連れていかれたが、うす暗い怪しげな部屋に入れられ、水割りのロキシー(焼酎)を出されたが、水が不安だったので少し口をつけて遠慮した。山の斜面にある町なので、路からは二階家で、前から見ると三階になっており、階下は牛小屋でそこら中牛糞だらけ、天井は低く薄汚れてべとつくベッドに腰かけていても、少しも慰められない。背の高いアーリア系の女性がスパイスの効いたビーンを勧めてくれたが、手を出す気になれなかった。一杯5ルピー。
カトマンズ―ドンチェ間は1日3便のバスがある。ここからバスの終点シャブルベンジ(1,430m)へは一日一便のみだ。ヘアピンカーブを幾つも曲がって500m下がる。もうあたりはすっかり暗くなり、ツルツルのタイヤで下るのは不安であった。所々ぬかるんでいる場所があり、バックしたり、落石をどけるのに助手の手を借りたりで、意外に時間がかかった。時々暗闇に人影がうかぶ。手を挙げて乗せてくれという。そんなことをしていてはきりがないし、何時着くかわからないので無視してどんどん行く。トリスリ川まで下って橋を渡って登り返して、やっとシャプルベンジに着いたのはもう8時近くになっていた。空気が乾燥しているので気温の較差が大きく、夜はかなり冷える。ダウンジャケットを持ってきてよかった。ここからランタンコーラ(川)をさかのぼって、ティルマンが「世界でもっとも美しい谷の一つ」として紹介したランタン谷を3,800mのキャンジンゴンパまでトレッキングするのである。トリスリバザールで一緒になった日本のツアートレッカー達は、シャブルベンジの宿から少し行ったところの河原でテントを張っていた。彼らは日本のエージェントが組織したトレッキングツアーで、1日40〜50ドル支払っていく贅沢なもので、テント、マット、椅子、調理道具一切をポーターに運ばせる。便所も持参である。コックやポーターは、一足先に行ってゴザを広げ昼食の用意をして待っている。彼らはのんびり歩いてきて、出来上がったおいしい食事をなごやかに談笑しながら食べるのである。宿泊地でも、着けばもうそこにはテントが張ってあり、一張に二人ずつのマットが用意してある。疲れていれば、横になればそれで良い。食堂用の大テントもある。サーダーやポーターにはサーブ(だんな)なんて言われて、まさに大名旅行である。団体でこういうやり方をしているのは日本人くらいなもので、欧米人は2〜3人で一人のサーダーを連れていたり、全く一人でフリーで行くものがほとんどである。われわれも金がないので宿泊にした。宿はバッティというもので、ロッジとかホテルと書いてあが、描くイメージとは似ても似つかない代物である。日本の南アルプス南部の山小屋に泊まると思えばよいだろう。ホットシャワーありなんて書いてあるので何かと思えば竹囲いの中立っていると、上からバケツでお湯をぶっかけてくれるといったぐあいである。バッティは石造りがほとんどで、窓にガラスが入っているのは良い方、破れたビニールで風がすーすーというのもある。マットがなく、ゴザだけの宿の時は、下からの冷え込みはきつい。個室は一人20ルピーくらい。ドミートリ―はその半分くらいといったところが相場である。食事はチャーハン、焼きそば、即席ラーメン、ギョウザ、チベッタンブレッド、パンケーキ、フライドポテトといったところが多く食べられた。もちろん、現地人はダルバートである。値段は一食15〜30ルピー。ビニールやコーラさえ飲まなけりゃ一日100〜150ルピーあればよい。私は蜂蜜つきのチベッタンブレッドとオニオンスープウイズガーリックをよく注文した。注文を受けてからたった一つしかないかまど(とても効率の悪いもの)で順番に作っていくので、一時間以上待たなければならない。ネパールではあせってはいけない。すべからく、ビスターリ、ビスターリ(ゆっくり、ゆっくり)である。支払いも値段表を持ってきて見せて、計算させるのである。だから、誤魔化そうと思えばできる。もちろんそんな事はしなかった。ただ、チャーは6人だと何杯も飲むので、幾つだったか、ミルクティーかブラックか、またビックだったかスモールだったか分からなくなって適当に支払ったことはある。印刷されたメニューがあって、国立公園はみな同じであるが、しかし、どんなものか出てこないとわからない。メニューにある名前は同じでも場所によって違う味になってしまうのである。あれがうまかったからと、もう一度頼んでも次はとても食えないといったことが度々であった。食べ物でうまかったのは、さきほど述べたりんごパイの外に印象に残ったものに、チーズとにわとりがある。チーズはヤク乳のもので、3800mのキャンジンゴンパにはスイスの援助によって造られたチーズ工場がある。ここのチーズはうまかった。シーズンオフということで、我々が買ったものが最後のようであったが、ベースキャンプで餅の上にのせてそれにキンザンジ味噌をつけて食べたが、これがよくあってとても美味しかった。あんまり味がよかったので、コックに残りをもらってきたが、添加物が一切入っていないものだから、香港の暑さに変質して、日本に持ち帰った時には、カビが生えてしまって捨ててしまった。ニワトリは帰りにシャブルといいうシャブルベンジの対岸の高台にある村に泊まった時、宿の主人がしきりにチキン、チキンというものだから翌朝、試しに食ってみた。家のまわりを歩いていたのを捕らまえて、首をはねて料理してくれたが、これがうまかった。昔食べたニワトリの味であった。ニワトリは本来こういう味でなければならない。あんまりうまかったので、その日ドンチェに着いてまた、一羽食べた。仲間のうち、二人はニワトリが嫌いであったので、もう一人の友人と二人で、一日に二羽食ってしまったことになる。小食の私が一日に一羽も食ってしまったのだから、そのうまさがわかるというものでしょう。しかし、カトマンズでもう一度食ってみたが、もうこれは駄目、配合飼料で育てたブロイラーで、今の日本のものと同じ味であった。果物ではパパイヤも美味しかったが、スンダラという蜜柑の一種が口に合って、我々はこれをカトマンズで沢山買っていった。ナヤカンガの頂上で食べた味は格別であった。
ランタン谷をランタンコーラ(川)に沿ってのぼって行くと、広葉樹は次第に少なくなり、竹もだんだん細いものになり、3000mくらいでなくなってしまう。そこからは針葉樹や石楠花がたくさん生えている。北側斜面では4000mくらいまで森林が発達しているが、南面はトゲのある灌木や草原となり、ヤクが枯草を食んでいた。これはおそらく南側は日射で雪解けが早く乾燥するせいだと思う。雪線は5000mあたりで、その下は氷河の後退した砂と岩のガレ場になっている。ガイドブックの写真と比べてみると氷河がかなり後退しているのがよくわかる。地球は確かに温暖化しているのだ。その下の古い地形の所は一面草地で放牧地になっている。所々に夏の放牧基地“カルカ”があり、石で囲った家が数軒ある。もちろん今はシーズンオフで無人である。紅紫檀や真柏(カルカ)の類、エーデルワイスもドライフラワーのようになって一面にあった。5月ころ来れば、花いっぱいで素晴らしいことだろう。 谷に入ると貧しさは一層増す。峡谷のわずかな平地にジャガイモやキビを栽培し、乾燥地にはヤクを放牧している。冬になって下に降りてきた移牧の一家の様子はみじめなものであった。霜が降りたというのに、竹で編んだ粗末な小屋に垢でテカテカした布団にくるまってふるえていた。着物はボロボロ、いつ洗ったともしれないもので、肌が所々露出している。小さな子供が鼻をたらして赤ん坊を背負い、妹の手を引いている姿は、自分の子供時代の貧しさが思い起こされて感慨ひとしおであった。足ははだしか、サンダル履き、運動靴をはいているのは良い方で、それもあっちこっち破れていて、満足なものは一つもなかった。生徒が残していったどんなボロ靴も、また家のタンスにねむっているどんなボロ着も、彼らのつけているものよりましである。日本にある古着を彼等に与える良い方法があれば随分助かるに、と思った。路々子供に会うと、薬をくれ、鉛筆をくれといった。村にさしかかると子供を抱いた母親が飛んできて、目薬を注してくれと哀願する様子は哀れを誘う。栄養障害とかまどの煙で、ほとんどの子供は目にヤニを一杯つけていた。通過する村々には子供があふれていた。何処でも子供の声が聞かれた。年寄りが幼児をあやしながら、世間話に花を咲かせている光景も我々の子供の頃と同じである。こちらの子供は実によく働く。キャンジンゴンパの宿で雇われていた子供は、朝は暗いうちから朝食の準備をし、夜は客が寝室に引き上げるまで働いた。日中客のいない時には、1K以上も先の谷から水を背中に背負って、何度も何度も運んでいた。それをヤンキーの娘が洗濯や髪を洗うとて、文字どおり湯水のように使うのを見ると、複雑な気持ちになってしまう。大きな草の塊がモソモソと動いているので、何かと前に廻ってみると6歳くらいの子供が山のように草を背負って歩いている。また、バンブーホテルというバッティでは3歳に満たない女の子がチャーを運んだり、食器を片付けていた。彼女でもちゃんと英語を話すからいやになってしまう。こちらの人々にとって英語が使えるかどうかは、生活水準に直接かかわってくるから覚えるのだろう。学校でも英語にはずいぶん力を入れているようであった。日本でも、生活上必要になれば、もっと話せるようになるであろうが、別に英語ができなくったって食えるから、何時まで経ってもロクに話せないのかもしれない。
ネパールは最貧国の一つである。山国でこれといった資源のない点では日本に似たところがある。しかし、日本はいまや“豊かな経済大国”。この違いはどこからくるのだろうか。その一つに民族性の違いがあるように思う。ネパールはすべてがビスタリズム(ユックリ主義)である。効率優先の日本とは異なる。ちょっと工夫しさえすれば、随分便利になり、快適に暮らせるのに、それをせず旧態依然の非能率なことをしている。カトマンズの空港の待合室で職員が窓のガラスを拭いていた。2時間近く我々はそこにいたのに、2人の女性はそのドアが拭き終わらないのである。こういった例は幾つもあった。これでは豊かにならない。閉ざされた国の中でやっていくつもりなら、あくせくせずユックリズムで行くのもまたよいかもしれないが、外の世界と接触して欧米的豊かさを求めるならば、このビスタリズムを変えてゆかねばならないだろう。
ネパールの近代化にとって急務は三つあると思う。その一つは教育であり、特にそれによる女性の地位の向上である。女性が単なる労働力、子供を産む道具としての地位から解放されて、家庭で対等の人間として位置づけられることが大切である。教育の普及と女性の解放は人口の抑制をもたらす。第二、第三は交通網の整備と社会の情報化である。これにより情報の大衆化と物資、人間の交流が進み、近代化が促進される。
山道を歩きながらいろいろ考え、感じたが以上はたった20日足らずの(ネパール滞在の)管見に過ぎないので、そのつもりで読んでいただきたいと思います。(1993,7,13)