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都知事とオリンピック 永田 獏
東京オリンピックが駄目になって、やれやれと思っていたら、都知事が2020年のオリンピックに立候補するというニュースが報じられた。なぜまたと驚いていたら、新聞に再挑戦への思いが載っていた。「東京はこれだけの経験を積んだのだから、それを生かしてぜひオリンピックを実現させ、都民、国民が大きな夢を見られるようにしたい。それが私の責任です。この経験の遺産を後の人に残すことが必要だと思っています。」と述べている。国民がオリンピックで大きな夢を見られる時代じゃない。我々は長野オリンピックでそのことを学んだ。生活はなんにも良くならなかった。莫大な借金が残っただけだ。原田の涙で感激した代償としてはあまりに大きかった。 経験の遺産とはなんだろう。招致活動に一番欠けていたものは何ですかという記者の質問に、「非常に情報が欠けていたね。こちらは一種の処女体験ですよ。…….われわれがやったことは児戯に等しい、……ただ一途にフェアプレーを信じて正攻法でしたから……プラスアルファが欠けていた。」そうじゃないだろう。我々は1964年の東京オリンピック、名古屋、大阪の招致失敗、長野の不透明な招致活動と経験を積み重ねてきている。その上、IOC理事会一次選考で、東京が総合評価一位になったことに対して、知事は「まだあまり跳びあがって喜ぶことではない。これから複雑で醜い競争が始まる。」といっているではないか。さらに、落選後の記者会見で、「見えない力学というものが大きく作用する。きれいごとでは済まない。」などと発言している。プラスアルファを知らないはずはない。 「見えない力学」はさておき、落選の原因について、私なりのプラスアルファを述べてみたい。一つは下からの盛り上がりの欠如である。IOCの調査では都民の支持は59%で4都市中最低であった。また、落選して残念と思わないが56%である。国民の中にも、1964年の東京オリンピックや大阪万博のような熱気は感じられなかった。それでも招致しようというのは、これを口実に東京の大規模再開発(6〜9兆円ともいわれる)をもくろんでいるのではないか。あるいは、400億円もの追加資金をつぎ込んだ新東京銀行の失敗を隠蔽しようとするものではないかと勘ぐりたくなる。オリンピックのグランドデザインを任された安藤忠雄氏はオリンピックを軸に東京に目標を作り、東京を元気にしたい。東京が元気になることによって、日本を元気にしたいと述べている。しかし、お金と人が東京に集まる一極集中が進むだけではないか。表参道が人であふれていても、地方では閑散としたシャッター通りになるだけだということを知った国民の醒めた目がある。 二つ目は知事の資質、姿勢の問題である。2001年知事の「不法入国の三国人」発言で国連人種差別撤廃条約委員会から勧告を受けている。その後も「中国人DNA発言」「女性が生殖機能を失っても生きているのは無駄で罪」のババア発言、重度障害者について「ああいうひとってのは人格があるのかね」など差別発言があいついでいる。これはオリンピズムの根本原則にある「人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基ずく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック・ムーブメントに属することと相容れない。」に抵触する。外国から来た選手たち、特にアジアのアスリート(競技者)はこんな知事やこれを圧倒的に指示した都民の街で競技したくないだろう。理念なき東京という批判に対して知事は「理念なんかどうにでもつくれる。」と言い放ったそうだが、その理念1には「東京をさらに成熟した都市に発展させ、都市と地球の未来を拓く。」とある。先進国の成熟した都市にふさわしいオリンピックのありようを発信したいなら、それにふさわしい品格と姿勢のトップと市民でなければならない。失敗の原因はあなたでしょ。あなたとあなたを選んだ都民でしょと言いたい。(2009.12.30)

  早すぎた知事(田中康夫)                      永田  獏 
厚労省が公共施設を原則全面禁煙にすることを都道府県に求めたというニュースを聞いて、あれ、このような事、以前あったなと思い返してみた。そうだ、田中康夫前知事が県の敷地内全面禁煙を打ち出し、私の上司は「あんなやつ」と敵意をあらわにして、ゴミ焼却場の片隅で寒さに震えながら煙をくゆらしていたのだった。タレント時代の彼は感覚的に好きになれなかったが、知事としての彼に興味がわいてきた。そこであらためて彼のことを調べてみた。彼の理念と政策は「5つの世直し」と「8つの宣言」に述べられている。そこには自治体の公共事業依存を排し、福祉や教育、維持可能な環境政策を重視する方向が示されている。入札制度改革や全国初の30人学級の実現、コモンズハウス宅幼老所の設置、財政の黒字化などの実績もあげている。それなのになぜ彼は選挙に敗れたのか。私なりに考えてみた。一つには私を含めて多くの県民が彼の政策を充分に理解していなかったことがあげられよう。脱ダムや緑の公共事業にしても今なら受け入れられるが、当時はかなりとっぴに受け止められたきらいがある。時代の先を行き過ぎていたのではないか。わわれわれは彼の水準に達していなかった。また、理想を実現するために彼は「自律」した県民の「行動する民主主義」を説いたが、彼を支えるべき行動する民主主義組織が育たなかった。依然としておまかせ民主主義的県民にとどまっていたのである。彼の「破壊と創造」をもう少し見てみたかったという発言をたびたび耳にするが、まさにそれはおまかせ民主主義の意識そのものである。 二つには抵抗勢力の強さである。しがらみのない彼は既得権益に挑んだ。ガラス張り知事室や車座集会で密室型口利き政治を打破し、入札制度改革や、「脱ダム宣言」で土建屋体質からの転換を図った。また外郭団体の見直しによって天下りをなくし、県職員の人件費引き下げという聖域にまで手を突っ込んだ。しがらみがないが故に彼は充分な支持基盤を持たない。にもかかわらず、急ぎすぎた。「人の米びつにまで手を突っ込まれた」勢力は、それが自らの生活に直結するが故に猛然と反発する。「虎の尾を踏んでしまった」のである。おまかせ民主主義でなんとなく支持していた人々とは意気込みが違う。なによりもまずかったのは「脱記者クラブ宣言」で既存のメディアを敵にまわしたことである。小泉元首相がメディアを味方につけて抵抗勢力とたたかったのとは大違いである。特権を奪われたメディアは抵抗勢力とともにネガティブキャンペーンを展開した。メディアが権力を批判するのはジャーナリズムの基本である。しかし、地方政治では議会も大きな権力を持っている。知事不信任決議や百条委員会設置問題など議会の動向についてバランスの欠けた報道をした。県民からすれば、オリンピック委員会や吉村県政の関与が疑われる帳簿焼却問題にこそ百条委員会を設置してほしい。また、西沢、吉村県政41年間で、議員提案条例は一件も制定されることがなかったし、県提案件は一件の不同意もなく通過した。そして1兆6000億円もの借金ができてしまった。一体、議員は何をしていたのか。それが田中県政になると俄然、「猛勉強」したのである。大儀なき不信任決議と確証なき百条委員会の告発は長野県議会の品格とレベルの低さを示すものである。にもかかわらず、メディアはこれらの問題を掘り下げず、議会とともに県政の混乱を演出した。メディア以外に情報源を持たない、なんとなく支持していた人々は次第に離れていくことになる。その結果「話題作りはもう充分」「不毛な対立いらぬ」(知事選後の新聞に載った県民の声)。抵抗勢力の思惑は成功した。県民はリスクを恐れて分別深き老爺を選んだ。ネット社会が進み、「コンクリートから人へ」というキャッチフレーズが受け入れられる今なら、6万票の差は埋められたかもしれない。彼は早すぎて、急ぎ過ぎたのだ。かくして、荒馬は広野へ走り去り平穏な普通の県にもどった。次にわれわれはどのような知事を選ぶのだろう。(2010.7.9)

  観光産業に大切なこと                  永田 獏
飯田下伊那の活性化の一つに観光産業があげられているが、去る5月中旬、熊野古道を歩いた体験から重要とおもわれる二つのことを述べてみたい。まず、熊野古道中辺路105キロを5日間かけて歩いたのであるが、その間、道辺にはゴミというものがない。新宮から那智大社へ行く道中に海岸線を1.5キロほど歩くところがあるが、ここにもゴミの打ち上げられたものはなく、きれいな那智石の海岸が続いていた。歩いていてとても清々しい気分になる。四国を歩いた時は山にはタイヤや冷蔵庫の粗大ゴミ、川はマルチのビニールがひらひらとし、海は白い発泡スチロールやペットボトルが散乱していたし、街道では犬の糞に悩まされた。聞くところによれば、熊野では世界遺産になる前から毎日拾い続けた人がいたそうだし、今は地域をあげて清掃しているそうだ。私も道標を直したり、道を補修している老人に出会った。「ボランティアでなさっているんですか?」と聞いたら「暇つぶしだ。」といっておられた。民主社会では全員が同じ行動をすることはありえない。どんなに努力しても一部に捨てる人がいるのは避けられない。これは丹念に拾うしか手はない。行政に任せるには限界があるから、地域の人たちが協力して整備していかざるを得ない。「南アルプスを世界遺産に」という動きがあるが、環境整備のためのボランティアシステム構築が必要だろう。どんなにすばらしい景観も足下がゴミだらけなら、せっかくの旅情もぶち壊しである。 もう一つは「もてなしの心」である。5日間も野宿をしていると野菜不足になる。那智駅の近くのスーパーでおいしそうなトマトが並んでいた。しかし、便所で洗うのは嫌だ。幸い、昼間でレジが空いていたので、洗ってほしいと頼んだら快く応じてもらえた。嬉しかったね。トマトが一層おいしく味わえた。さらに、本宮から新宮へ熊野交通のバスに乗った時のことだ。500円硬貨は駄目かと思い、千円札を二枚用意してまず一枚を入れたところで、運転手が「500円もいいですよ。」といったので、それじゃあとあわてて硬貨を出して投入した。あわてたので前の千円のことは失念して、また千円を入れてしまった。降りて暫くして、確か千円札二枚出したはずと間違いに気づいて営業所に行って話したら、運転手が出てきて「こちらもちゃんと確かめなかったから。」と事務に話して千円出してくれた。年寄りの不確かな記憶にいちいち応じていたら、経営が成り立たなくなるかも知れないにもかかわらず、信用してくれた心遣いがとても嬉しかった。以上の二つのことによって、熊野の旅は予期していたよりも楽しく印象深いものになった。また、人に熊野の話をするときは必ずこのことを付け加える。それによってさらによい想い出は深まり、広まっていく。 トンネルを抜けて目にする伊那谷の景観は多くの人の感動を呼ぶ。私も40数年前、豊橋から来て、天竜峡を過ぎて広がる伊那盆地の景観に驚かされた。われわれはこんなすばらしい自然を持っている。豪華な施設はなくとも熊野の例であげたきれいな環境と、もてなしの心を守れば、多くの人をひきつけることが出来る。そもそも都会的な施設で対抗しょうとしてもかなうはずがない。大いなる田舎を売ることによって発展すべきだと思う。(2010.9.2)

  自治会と民主主義       永田 獏
昨年、市議会報告会に参加したとき、ある町づくり委員から、自治会加入義務化の条例を制定してはどうかという発言があった。おりしも、小諸市では自治基本条例素案に自治会加入義務化が盛り込まれたことが報道された。また、高森町でもそういう条例があるということを耳にしていたので、問い合わせたら、これは「加入に努めるものとする。」という努力義務で強制ではなかった。(高森町民参加条例)そもそも自治会は住民が自治意識に基づき主体的に活動すべき民主的地域組織であるはずである。強制加入という非民主的方法によって自治意識や主体性が養われるはずがない。無理やり加入させられた人たちが、積極的に役員をやったり、活動に参加することはない。ただ、会費や出不足金を徴収する意味しかない。そんなことが法的にゆるされるのだろうか。小諸市では法的なことは論議に登らなかったという。私はかねがね疑問に思っていたので調べてみたら、既に裁判で決着がついていた。(最高裁判決2005.4.26)実質的にも法的にも意味の無い義務化がしばしば論議される背景には、近年、自治会非加入者増加ということがある。飯田市のある地区では、非加入者が40%にもなるという。こうなると広報、防火防犯、交通安全等の行政の補完的機能が果たせなくなる。そうなれば増税によって行政が直接行わなければならない。 自治会には行政補完機能を軸にして、地域における横のつながりを確保し、互いに支えあい助け合ってよい町をつくるという、共生社会実現の役割がある。その中で、われわれは民主主義を学ばなければいけない。「地方自治は民主主義の学校」といわれるが、地域自治会は住民が直接かかわることのできる民主主義の学習の場であり、実践場である。ここが民主的であるかどうかが民主主義の成熟度のバロメーターになる。この観点から二つほど問題を指摘しよう。まず、運営が民主的であるかどうか、形は民主的でも実際は地域の有力者に牛耳られていないか。これはすべておまかせという住民にも責任がある。つぎに思想、信条の問題、議員の政党化が進めば、地区推薦をすることに不満をもつ人が増えるだろう。また、自治会員はすべて神社の氏子だとされ、寄付や行事への参加をもとめられれば、一神教の信者は耐えられないだろう。これらのことが加入者減少の一因になっていると思う。さらに、民主主義とは直接結びつかないが、加入を妨げている問題をあげてみよう。一つには経済的な問題である。年金だけで暮らす独居老人や母子家庭にとって均等割りの入会金や会費はこたえる。給食費をはじめとした教育費も所得割りではない。寄付もだいたい右にならえにならざるをえず、これらが重なると低所得者にとっては負担は予想以上重くなる。次には役員の負担の問題である。役員になるとかなりの時間を犠牲にしなければならない。休日も働かなければならない、さらに夜も働かねばならない人にとって役員を押し付けられれば、生活を脅かしかねない。また、高齢者は無理ということもある。これらが解決したといって全員が加入することにはならない。自治会なんかわずらわしいだけで必要ないという人もいるからだ。そういう異なった意見を持つ人の存在を容認するのが民主社会である。すべて同じでなければならないというのは全体主義社会で、異端者を排除する社会は窮屈で住みにくい。自然界における生物多様性が人間にとって必要であるように、民主社会において多様な意見、立場の存在を認めることは大切である。「組合に入らない人はお金も出さず、作業にも出なくていい。ずるい。まじめにやるのがあほらしい。」という人がいるが、それでは後ろ向きの考えになってしますう。「あいつらは」でなく、「あの人たちも」と加入しない人たちを心の中に取り込んで、共に地域の構成員であるとして認めていくことが必要である。そして、加入者は自分が自治会に参加できる条件があることの幸せを感じるべきである。加入できない人の分も含めて地域の役に立っていると思えば、苦痛でなくてよろこびであり、誇りになる。いずれにしても、すぐに効果の出る妙案はない。自治会のかかえる問題点を改善しつつ、地道な活動をとおして重要性を訴えていくしかない。そもそも、民主主義とは時間とコストのかかるものなのだ。(2010.1.24)

  初冬の里山                 永田  獏
晩秋の山は散り残った木の葉が一葉一葉ハラハラと散って、一抹の寂しさがあるが、初冬の山は葉はすっかり落ちてしまい、青空に凛として立つ木立は開き直った生命力を感じる。かさこそと落ち葉を踏みしめて林中を歩いたり、陽だまりで、落ち葉の上に腰を下ろして、上がってきた里を眺めながら仲間と語らうのも、初冬の里山歩きの大きな楽しみのひとつである。 12月5日、好天に恵まれて、山仲間5人で遠山の戸倉山に登った。平均年齢70歳という、まさに高齢者登山であった。この山を選んだのには二つの理由がある。一つは平岡から眺めると、槍の先のように尖った姿をしていて、遠山のマッターホルンともいわれている事。かのマッターホルンに登った私としては、岸壁に取り付いて頂上を仰ぎ見た時の覆いかぶさるような迫力、湖面に映る貴婦人の如き気品と美しさは比すべくもなく、さながら、かみさんを北方の吉永小百合というが如く、あまりの落差に気恥ずかしさを禁じえないのであるが、とにかく、その俗称に惹かれたこと。もう一つはガイドブックに、この山の麓に老夫婦が住んでいて、登山道はその屋敷の中を通っていると書かれていたので、是非そのご夫婦とお話がしたいと思ったことだ。和田の支所に道路状況と動静を問い合わせると、まだご健在との事。「あの山は熊が出ますから、今は誰も登りません。」「まだ出るんですか?」「えー、ついこの間近くで出たそうです。」「鈴を付けても駄目ですか?」「わかりません」これは愚問でした。そんなこと熊に聞かなきゃわからないよな。 飯島発電所の裏から狭い林道を上り、駐車場から歩いて30分ほどでそのお宅へ着く。林の中で冬支度をしておられた。帰りに寄らせてもらうといって、先に進む。谷間が開けて丹精に刈り込まれた茶畑が展開したのには驚いた。狭いながらも野菜畑もある。尾根へ出たところで、道を間違えて山ノ神の祠のある枝尾根へ迷い込んでしまった。標柱が倒れていたのと、地図を勘違いして読んでしまったことが原因だった。思い込みとは怖ろしいもので、途中、幾つかの間違いのサインがあったにもかかわらず、気づかなかった。日本の山ばかりか、ヨーロッパやヒマラヤまで遠征した者が3人もいても間違えるのだから、里山とてあなどれない。ここで1時間近くもロスしたので、頂上に着いたのは12時を過ぎてしまった。快晴の眺望を堪能して、下りは落ち葉に滑って尻餅をつきながら、急坂を下りた。いよいよ老夫婦とお茶を飲もう。お茶菓子も用意して来た。ところが仲間の一人が「でもさあ、こっちはお茶を飲んで話をしたいと思っても、相手の人はどう思うかわかんないぜ。どこの誰かも知れないのが5人も入ってきて、お茶を飲ませろなんて、俺だったら嫌だぜ。」といった。そうか二人だけで、人恋しいというのはこちらの思い込みで、静かな生活を乱されたくないのかもしれない。ちょっと挨拶だけにして通り過ぎるか。少々気落ちして下る。ところが、家の前で奥さんが待っていてくれて「遅かったね、心配しとったに。お茶でも飲んでいってくんな。」といわれた。いやー嬉しかったね。待ってましたとばかり、そそくさと上がりこんだ。お茶のおいしかったこと。聞けば、ご主人は101歳、奥さんは91歳になられるとのこと、内臓の病気で医者に掛かったことはないということだ。お茶畑は99歳までご主人が刈り込んでいたが、今は機械が重くなり、和田に住む息子さんに応援してもらっているそうだ。薪割りも、畑も現役でやっておられるとのこと。こんなに元気でいられるなら、長生きも悪くない。もう年だからと諦めたことも、考えてみれば、まだ30年以上もある。お二人に夢と希望をもらった気がした。話がはずみ、1時間近くも話し込んでしまった。寿命のある限り、お元気でと願いつつ、満ち足りた気持ちで山を下りた。(2010.1217)

  飯田市の景観について                   永田 獏
最近、近くに周囲の空気を突き破るような大きな建物ができた。また、アップルロードを見下ろすと形も色も様々な建物が並んでいる。とても美しいとはいえない。企業や商店、設計士はまわりとの調和に配慮しているのだろうかと疑問に思わざるをえない。この機会に飯田市の景観について考えてみたい。 昭和42年3月、私は飯田に職をえて豊橋から飯田線に乗ってやってきました。車中では岸田国士が「古城の如く丘に立つ」と詠ったような鄙びた古い町並みをあれこれ想い描いていました。しかし、駅に降りたって見た街並みは、私の期待を裏切るものだった。大都市の一画を切り取ったような街、小京都ならぬリトルトウキョウであった。その象徴が銀座通りという名前であった。飯田の大火によってその歴史性と連続性は断ち切られてしまったのか。しかし、市長の好きなドイツでは、連合軍によって徹底的に破壊されたにもかかわらず、レンガの一枚一枚を拾い集めて都市を再生させている。防火ということに重点が置かれて、美しい街並みの再生ということまで考えが及ばなかったのだろうか?もし、この時に景観に配慮した街並みを造っていたら今頃は日本中から旅行者が訪れていただろう。あれから40数年。飯田の町もいくつかの建物が壊され、つくられたが景観に配慮されたとはいいがたい。駅舎や美術館、いずれもそれとしては特色があるかもしれないが、自然と風土にマッチしているとはいえない。それに段丘崖の膏薬張りのよう壁、せっかくの旅情もぶち壊しである。合同庁舎のあるあの一画の官公舎群もみんなばらばらなスタイルで美しいまちを作ろうという意図がうかがえない。地方の時代とか地域主権とかいわれる昨今、中央に右にならえの特色のないまちづくりでは駄目だ。個性や魅力のないまちは他都市との競争に敗れ、衰退せざるをえない。まちの個性にとって景観は大きな要素である。個性あるまちの景観は美しい。個性的で美しいまちは、実用性と歴史性、伝統にねざしてものでなければならない。生活している市民にとって好ましいものでなければ持続性がない。景観は時代の変化に対応しつつ、市民が作り上げていくものである。従って、景観は行政の先導の下、そこに住む市民が中心になって形成されなければならない。中央の著名な人でなく、地元の人材を活用すべきである。市民が愛情をもって育てた景観は誇りあるものになり、持続性がある。景観作りには歴史と伝統、自然と風土、これを無視して個性的で魅力的なまちづくりはできない。いってみれば市民と行政の文化力、総合力が試されることになる。こうしてできあがったグランドデザイン(スカイライン、色、形など)に個人、企業、店、官公署はこぞって協力しなければならない。特に建築関係者のイニシアチブは重要である。「景観も公共の福祉」という考えに従えば、私の自由は制限されるけれども、まちのために貢献していると思えば喜びになる。長い目でみれば多くの人々をひきつけ、まちの活力を生む。それは店や企業にとってもよろこばしいことであろう。飯田市は国の景観法(平成16年)の制定をうけて平成19年に景観条例を作った。50年さきの美しいまちをめざして頑張ってもらいたい。「50年先なんて生きちゃいないよ」といわれるかもしれないが、まちを愛するということはそういうことでもあるのだ。(2010.3.19)

  NHKの不粋        永田  獏
歳をとると眠りが浅かったり、朝早く目覚めてしまう。そんな眠れぬ夜を慰めてくれるのが、ラジオである。いまや、NHKの「ラジオ深夜便」という番組は、高齢者の人気番組の一つになっている。雑誌も発行されているし、「ラジオ深夜便の集い」というものも各地で催されている。「深夜便」の他にもう一つ、私の好きな番組がある。それはNHKの「ラジオ文芸館。」である。これは、アナウンサーの語りと音響効果で構成する「聴く短編小説」で、日曜夜の10時15分から40分間やっていた。ラジオのいいところは、TVと違って自分で情景を想像できることだ。アナウンサーの朗読と最小限の音響だけで、あとはすべて聴者がつくりあげることができる。昔の恋人でもいい、故郷の景色でもいい、自由自在に想像をふくらませることができる。一刻、自分で作り上げた小説の世界に浸りきることができ、至福の時をもてる。ところが、突然「番組の途中ですが、長野から○○村の村長選挙の結果をお知らせします云々。」という放送が流される。東京からの放送にかぶせられるので、その間の内容は永久に失われてしう。“な、なんなんだ。10時55分からニュースの時間があるので、そっちでやってくれよ。30分やそこら早く知らせたって結果が変わるわけじゃなし、芸術をぶち壊してまでする意味がどこにあるんだ。”NHKに電話やメールで抗議したことも度々であったが、当座はそれでも遠慮してよくなったが、半年か一年すると、担当者が変わったのか、芸術なんか意に介さないのか、また、元の木阿弥で腹が立って、選挙のある日は放送を聴かないようにしていた。ところが、2008年から土曜日に変わってので、選挙に邪魔されずに楽しむことができた。だが、高速道路の交通規制だけは、相変わらずだ。これも、ちょっと想像力を働かせればわかることだ。運転しながら文学作品を楽しむ人がどれだけいるというのだ。だいたい音楽かトーク番組を聴いているし、今時、交通事情の必要な人は、ネットで調べるから、ラジオで番組をぶった切ってまでやる価値はほとんどない。 交通規制のないことを祈りながら、3年ほど聴いた。今年4月からは朝の8時5分からになってしまった。8時と言えばもう外に出て働いているので、「文芸館」はおさらばであったが、7月の末、その日は用事もなく、久しぶりに「文芸館」を聴く余裕ができた。アナウンサーの語りに導かれて、物語の中に浸っていた。めっぽう涙もろくなり、ホロリとしたその瞬間、「突然ですが、長野から○○さんの死亡をお知らせします。云々。」“またかよ、そんな人知らねえよ。”東京からの放送にもどっても、その間の空白はどう推測しても埋められなかった。それより腹が立ってストーリーに浸るどころでなかった。人間は文化的な存在である。食や性のような基本的な営みも文化としてつくりあげてきた。食って腹ふくるればいいというものではない。そこが動物と違うところだ。放送はきわめて人間的な行いである。ただ知らせればいいというものではないはずだ。文化や芸術に深い配慮が求められる。それを無視していいのは、地震や津波などの人命にかかわる本当に緊急の場合のみであるべきだ。NHKの芸術軽視の姿勢はラジオだけでない。7月アナログ放送終了間際では、画面の隅に大きく「アナログ放送終了まであと何日」とうテロップが流された。それがどれだけ作品の芸術性をそこなったか、例えばルノアールの作品に「アナログ放送終了まであと何日」と貼り紙をして展示してある情景を考えれば容易にわかる。こんな不粋なNHKになんで高い受信料を払わねばならないのか。何度抗議しても一向に改善されない。この不満をどこにぶつけたらいいのか。友人に話しても、いまひとつ共感がえられない。してみると“俺の考えは世間の非常識なのか。”と落ち込んでしまうこの頃である。(2011.8.25)

  二児山(2242.7m)登山            永田 獏
伊那山地と赤石山脈(南アルプス)との間の奥まったところにラクダのこぶのような不思議な形をした山がそびえている。それが二児山だ。理学博士の松島信幸氏によれば、ここは戸台構造帯という断層が通っており、その活動により山が二つに引き裂かれたということだ。これは是非登って大地の営みを観察せずにはなるまいと、秋の一日、二児山へ登ることにした。しかし、遠かった。鹿塩中学の裏を右折してジグザグ道を青いケシの標識をたよりにぐんぐん高度を上げる。はるか高いところにも集落が点在していて驚かされる。黒川牧場の入り口まで飯田から一時間半もかかった。古いガイドブックを使ったので、ここから先は車の乗り入れはできないと思い込み、車を止めて歩いたが、現在は車で登山口まで行くことができる。そこには立派な案内板と駐車場が整備されている。登山口からの眺めは、牧草地が広がり、そこここに池塘が点在し、スイスのアルプ(高所牧草池)を思わせる牧歌的な雰囲気を漂わせていた。これは断層や崩落によって地下水脈が切断されて地下水が湧き出ているためである。高地集落も大昔の崩壊地上の平坦地と湧水を利用しているのである。 登山道は二つある。尾根づたいに東峰に至るのと、尾根道のすぐ下を平行に行き、二つの峰の鞍部に出て登るのとである。私は最短距離の後者を行った。草つきの道を登るとすぐ低いシラビソの樹林帯に入る。避難小屋までは車が通れるくらい広い。途中にチャートの露頭を見ることができる。これは太古の昔海中の放散虫が石化したもので、ここが昔、海の底であったことがわかる。小屋から少し登れば鞍部である。そこから右へ林の中を急登して、伐採された開けたところへ出ればもう東峰の頂上である。目の前に仙丈岳の山容が迫ってくる。左肩には鋸岳の一部が望まれ、右側には間の岳と農鳥の二つの峰が雲間に現れる。鞍部へ引き返して西峰へ登ろうとしたが、取り付き口がわからない。やみくもに樹林帯の中を西へ進み、急登して尾根へでた。西峰は全く眺望がない。5分ほど西南へ行くと岩峰があり、そこからは眺めが良い。眼下にはゴルフ場のような北川牧場、小さな池も見られる。蒼い峰々のむこうに伊那谷の景色、その奥に木曽山脈(中央アルプス)の山々が眺められる。雲が少なくなったので、もう一度東峰へ登り返す。今度は仙丈岳の左奥に八ヶ岳の一部、下には美和ダム湖が見えた。 帰りは尾根道を下ることにした。ずっと林の中を下る。一ヶ所だけ眺めのいいところがあり、右下に避難小屋を見、左に農鳥岳を眺められる。丸太のベンチもある。さらに行くと、黒河山と牧場との分岐の立派な道標のところに着く。5〜6メートル下には朝登った広い道が見える。降りてみると、登り口にはテープを巻いた杭があるだけだ。ここにも道標がほしいものだ。時間が早かったので、黒河山まで足をのばそうと先へ進む。二つ目の分岐道標ところまで来たが、その先のテープが見つからない。あきらめて牧場へ下ることにした。ところがそれもしばらくするとテープがなくなり、いくつかある踏み跡のどれか解らなくなってしまった。天気が良いし、見通しもきいたので、すぐ登山道に出るだろうと短い笹の斜面をぐんぐん下った。ところがどこまで行っても道はない。その内、樹林帯の中に入ってしまった。こんなところで捻挫でもしたら、誰も助けに来てくれない。不安がよぎる。木にしがみつきながら、慎重に下る。ようやく作業道らしき道に出て、横に進んでバラ線をくぐったら牧場の車道に出た。ホットする。随分下に出てしまった。登山口の駐車場ははるか上の方だ。 ここで私は大きな間違いを二つしてしまった。一つは計画を変更して、黒河山へ登ろうとしたこと。家族に知らせておいたことと違った行動を取れば、遭難した時、探しようがない。二つ目は道に迷ったら、確信の持てるところまで引き返すのが鉄則なのにそれをしなかったことだ。反省、反省!猿でもできることを、50年山登りをしてまだやっている。こりゃあ、死ななきゃ直らないなと我ながらあきれながら下ると、牧場入り口に止めた車が見えてきた。8時半に牧場入り口を出発して13時到着。やれやれであった。 この山域は私のような間違いさえ犯さなければ、とても安全で、高齢者、家族登山には最適である。これからアルプスに冠雪すれば、すばらしい眺めも期待できる。ただし、防寒、防風対策を忘れないように。(2011.11.8)

  防災から減災へ              永田 獏
東日本大震災から3ヶ月半経った6月末、仙台へのボランティア活動に3日間参加した。仙台の街は何事もなかったようなにぎわいであったが、つぶれた車を運ぶ車、街路樹や植栽の枯死や、傾いた電柱に津波の痕跡を見た。私達のボランティアネットワークの一つの組織があるところは被害が軽微であったので、彼らはいち早く救援活動に入ったと言うことだ。ここでは支援物資の積み下ろし、河川敷公園の体積土砂の除去などをした。 作業が一段落した2日目の夕刻、ボランティア組織の会長に案内してもらって、仙台市の北部から福島県境近くまで海岸に沿って激甚災害地を見てまわった。倒壊した家屋や瓦礫がすでに片付けられているところ、まだ何も手をつけていないところ、いろいろだった。遠望される仮分別された瓦礫の山は、かっての炭坑のボタ山を連想させた。 「ここが街の中心通りでした。」と言われても、はるか向こうの高速道路まで一面家屋の基礎を残すのみ、敗戦後の焼け野原の写真を見るような光景からは想像もつかない。そんな中、大邸宅跡とおもわれるところに残された豪華な大理石作りのバスタブは印象的だった。贅をこらした生活も一瞬にして夢と消えてしまった。無常を感じざるをえなかった。「不思議と神社だけは残っているんですよね。」という言葉に先人の思いを偲んだ。 自然は非情である。道路を挟んで右と左の光景は一変する。右は何事もない普通の田畑。左は船や自動車、家屋の残骸が散乱している。大きなのは重機で片付けるとしても、汚泥に混在する細かなのはどうやって取り除くのだろう。もとの農地に戻すのには気の遠くなるような時間と労力が必要だろう。少し高い新興住宅地は何の被害もなく普段の生活が営まれているのに、その下の旧来の街並みは壊滅だ。私が特に衝撃を受けたのは、一見何事もなかったような街並みが、近づいて見ると、二階の窓まで流されて中はがらんどう、どの家も人の気配は感じられずまさにゴーストタウンで、異様な雰囲気であった。 6月25日に提言された「復興構想会議」の答申では大災害発生を前提に被害の最小化を図る「減災」の理念を打ち出した。会議のメンバーの一人、橋本五郎氏(読売新聞特別編集委員)は「大自然災害を完全に封ずることができるという思想は、あの災害を目の前にすればおこがましく、不遜である。」とTVで述べておられたが、私も全く同感である。仙台で見た現実は、地球の大きな営みの前には人間はいかに非力であるかということを知らしめた。どれだけの時間と経費を費やしても安心、安全ということはありえない。「自然は征服すべきもの」という傲慢な近代西欧思想から決別して、日本人が古来、自然に対して持ってきた謙虚な姿勢に学ばなければならない。 木曽山脈、赤石山脈という急峻な山に囲まれた伊那谷は、中央構造線をはじめとして幾本もの断層が走っている。山脈は年平均4oの隆起をしている。一定の限界に達すれば、引力によって崩れる。大雨や地震を契機に満水や山津波は必ず起こる。これを防ぐことはできない。せめて人命だけは失わないような対策を立て、あとの失われた財貨は国民全体で負担して、また働いて回復すればよい。さいわい、飯田では、飯田ボランティア協会が復興会議に先駆けて「減災マニュアル」を作成した。これは県下では、おそらく初めて、全国的にも希有な試みだろう。このマニュアル(手引き書)は飯田市に寄贈されているので、各自治会はこれを参照して災害後のことだけでなく、起こりうる災害をいかに少なくするかの対策を練るべきだろう。(2011.7.27)

  新春寄稿  われわれはどこへ行くのか                  永田  獏
今から半世紀前、私が学生であったころ、社会主義は未だその輝きを失っていなかった。資本主義の弊害を取り除く次代の社会として、多くの若者を引きつけた。しかし、社会主義は自由と平等をもたらさなかった。階級のない社会を実現するはずが、新たなノーメンクラツーラ(特権官僚)を生み、革命の果実は彼等の手に渡った。富を創造するはずが、その非効率の故に貧困を生み出した。社会主義は人々を幸せにはしなかったのである。幻想は打ち砕かれた。社会主義に勝利したといわれる資本主義の現状はどうだろう。資本主義の牙城といわれるアメリカの実情を見れば明らかである。昨年9月より始まった若者達による「1パーセントの金持ち、99パーセントの貧乏」「我々は99パーセントだ」と叫ぶウオール街のデモに象徴される格差社会を生んだ。アメリカのファンドマネージャー上位50人は平均的労働者の19000倍の報酬を得ていた。ゴールドマンサックスのブランクファインCEO(最高経営責任者)は4300万ドル(2008年、約43億円)もの報酬を得ていたと聞けばなにをか言わんやである。また、アメリカの軍産複合体は敵を求めて戦争を繰り返し、多くの若者の血が流された。平和も安定ももたらさなかった。振り返って日本はどうだろう。小泉改革以来、非正規は全労働者の1/3にまで達し、正規の半分に満たない賃金で働き、格差は拡大している。2008年暮れの派遣村は記憶に新しい。スーパーに行けば、食料場が山のように積み上げられているのに、カップラーメン一個で寒さをしのぐ人がいるとはなんという不条理か。格差指標のひとつ相対的貧困率は先進国中アメリカが一番高く、次が日本である。 そもそもアダムスミスのレエッセフェール(自由放任)にしろフリードマンの新自由主義(市場原理主義)にしろ、人間の欲望によって適正な社会を作ろうとするものだ。しかし、解放された欲望は自由の名のもとに、巨大なマネーとなって世界をかけめぐり、弱者を搾り尽くす。もっと豊かに、もっと便利にという欲望はとどまるところをしらず、大量生産を促し、壮大な無駄をして資源を食いつぶす。今や世界の人口は70億、これらの人々が日本やアメリカ流の生活をめざして猛烈な勢いで追いかけてくる。我々はさらにその先を行かなければならないのか。中国やインドの人々がアメリカのような生活をしたら、エネルギー的に地球が幾つあっても足りない。インドのガンジーが「すべての人を満たすにたるものが世界には存在するが、誰もの貪欲を満たすに足ものは存在しない。」と述べているように欲望には限界がない、そして欲望の行き着く先は滅びへの道である。 我々は一体どこまで駆けていくのか。ここらで一服して後から来る人々に手を差し伸べるわけにはいかないのか。失業者がいるなら、労働時間を減らしてワーキングシェアすればよい。貧しい人がいるなら、賃金や年金を少しくらい減らしてもかまわない。貧しかった時代を知るものにとって、今の暮らしは十分豊かだ。一寸くらい後戻りして生活水準を下げてもいい。分かちあいによって、安定した社会を築けないのか。東日本大震災を機に絆ということが言われているが、絆はシンパシー(共感)、思いやりから生まれる。東洋には儒教の「恕」(その身になって他人の気持ちを思いやる。)、仏教の「小欲知足」(欲を少なくして、足を知る。)という言葉がある。だが、2500年も前に称えられながら、未だに実現していないのはシステムとしてそれが保証されていないからだ。資本主義も人間性を担保していない。ギリシャに始まったEUの経済危機はグローバル化の波に乗って世界中に波及し、今や恐慌のふちにある。かっては戦争がこれを解決したが、我々はこれをどのように解決しようとするのか。社会主義が欲望に敗北したように、強欲資本主義の軍門に下る道を歩むのか。それとも共生と抑制の社会システムを構築し、平和と安定を得ることができるのか。ホモサピエンス(知恵ある人)の真価が試されている。(2012.15)

  色あせたスローガン                永田 獏
知人から親の介護が必要になり、家で介護できないから施設を探してもらえないかと依頼を受けた。方々探したがどこも満杯で空きがない。やっと見つけたところも三ヶ月したら出なければならない。三ヶ月毎に探し続けなければならない。子が親の面倒を見るという倫理は立派だが、今の社会状況では現実的はない。長期に渡って親の介護をすれば、家族はその負担に耐えきれず家庭は崩壊しかねない。しかし、家庭に変わって介護を担うべき施設は圧倒的に足りない。全国でで特養希望者が全国で40万人以上、飯田地区でも900人の人が空きを待っている。 このような状況を聞くにつけても、民主党の掲げた「コンクリートから人へ」というスローガンはどこへいったのかと思う。その象徴であった「八ッ場ダム」をはじめとして大型公共事業は次々と再開されている。この地域でも飯島の田切川や飯田松川には長大な橋脚が作られている。聞けば橋脚部分だけで飯島で50億、松川で35億の工事費が掛るという。私が訪ねた70床規模の特養施設は9億で出来たという。橋脚部分だけで700人分の施設が出来てしまう。 成熟社会にあっては、かってのような高度成長は望めない。予算は優先順位を決めて組まねばならない。たしかに広い道路があれば便利で快適だが、人口減少社会をむかえて今よりも交通量が増えるとは思われないのに、莫大な予算を使ってまで最優先に取り組むべき事業かどうかは疑問だ。だいいち、あんな巨大なものを作って将来のメンテナンス(補修)費用はどうするんだろう。道路を作るなら、我々の身近な生活道路の改善だろう。年寄りや障害者が安心して歩ける歩道がどれだけあるか、車椅子で通ってみてほしいものだ。 今やらなければならないことは、介護であり、子育て支援であり、そしてなによりも教育投資である。優秀な人材の育成なくして日本の未来はない。なのにGDPにしめる教育予算比は先進国中最低レベルである。そして、これらの事業はいづれも継続的な雇用を生み、経済を活性化させる。大規模公共事業は工事が完成すればそれで終わり、経済を回していくためには何やかや理由を作って新たな工事を始めなければならない。際限なき自然破壊である。資源小国日本で誇れるのは優秀な人材と豊かな自然である。その二つを軽視してどこに未来があるというのだと言いたい。 「コンクリートから人へ」は旧体質からの一大転換であり、静かなる革命といってもいい。革命には膨大なエネルギーと力がいる。アメリカをはじめとした既得権益者の前に民主党はあまりにも非力だったということか。 そしてなによりも、スローガンを支持すべき我々の意識が総論賛成、各論反対で、いざ我が町のことになれば「 やっぱり公共事業、道路だに。」ということになってしまう。先の参議院選挙で民主党を敗北させ、ねじれ国会を生み出したのも、じつは菅前首相の消費税発言よりも 地方の公共事業予算が自民党時代よりも18%も減らされたことにあるといわれている。先日も、ある集会で地元の議員は道路のことしか言っていなかった。 落選すればただの人、議員は住民の意識に敏感である。その彼が道路のことしか発言しないということは、我々が公共工事が地元を潤し、豊かにしてくれるという高度成長時代の呪縛から解き放たれていないのだ。 このような状況がスローガンを色あせさせ、民主党を第二自民党ににしてしまったのだろう。おりしも、政権復帰をねらう自民党は 10年間で200兆円という公共事業の大幅贈の方針を打ち出した。土建国家からの転換はみち遠しといわざるをえない。(2012.7.7)

  谷京峠越え                          永田  獏
谷京峠は伊那山地の南のはずれ、天竜村と南信濃界の海抜848mに位置し、かっては飯田、泰阜、平岡、和田を結ぶ交通の要衝であった。馬の背に乗せて様々な物資が運ばれ、人々が行き交う生活の道であり、青崩峠を通って秋葉神社に通ずる信仰の道でもあった。10年ほど前、友人から谷京峠へ誘われたとき、京という言葉の響きに「この山間にどうして」という思いがあって一度訪れてみたいと思っていた。 この6月、やっと機会を得て梅雨の合間の一日、親しい仲間4人と歩くことにした。歩くに当たって参考にしたのは、伊那谷自然友の会、会員の久保田賀津男氏の「伊那谷の峠(1)」である。この本は伊那谷の峠を知るにはとてもよい資料である。氏はこの本を完成させるのに4年を費やしたという。現地調査をし、古老に話を聞き、それを多くの文献に当たって確認している。同じ峠を8回も調査したこともあるという。市井の人が家業を営みながらの労作には敬意を表したい。 「伊那谷の峠」によれば、谷京は正しくは焼尾で焼畑、炭焼きに通ずるということであり、明治38年まではそのよう表記が用いられていたということである。峠へは万古道、為栗道、満島道、飯島道、名田熊道の5つの道が通じているが、今回、はじめは為栗から上がって飯島に下りるつもりであった。だが電車やバスの便が悪い。仕方なく車で行って飯島から上がって名田熊に下りることにした。名田熊には一昨年の暮れ、戸倉山に登った時に立ち寄った百歳をこえる遠山夫妻宅がある。是非もう一度お目にかかって歓談したいという思惑もあった。 前夜の激しい雨で心配したが、平岡から和田への道は荒れたところもなく、発電所のある飯島に着いた。時折薄日の射す天気で、暑い日差しに焼かれることもなく、登るには丁度よい日和であった。道の取り付きが分からず、近くのお年寄りに聞くと「そこの事務所の前のところだに、年寄りばっかりになって、へえー10年のよう観音様のお祭りはやっとらん。」という。草をかき分けて上って林の中にはいると、ジグザグの道らしきものが頭上に仰ぎ見ることができた。松の倒木が多く歩くのに難渋した。焼尾坂とよばれる急登を20分ほど上ると傾斜がゆるくなり、楽になった。道の痕跡を探しながらのぼるのであるが、ディアーライン(鹿線、鹿の食害によって鹿の届く高さより下の植物がない。)のおかげで見通しがよいのが救いであった。鹿はいたるところにいるらしく、道に倒れていた楓の木がはがされて白い木肌はまだぬめりがあり、足跡もまだ乾いておらず、たった今までそこにいたことが分かった。又、途中の檜の植林地では数千本の檜に2mほどの高さにテープが螺旋状にに巻いてあった。尾根に上がる手前に大根畑という地名があって、かってはここに五反歩ほどの畑があったということだが、現状では想像もつかない。尾根では一度北側の急斜面に出た後、西側の緩い斜面を捲きながら尾根をたどり、最後の急登をつづら折りに上りつめると峠である。約2時間半かかった。 峠は1アールほど平らにしてあり、奥に三十三観音が祀られている。かっては観音様の命日4月18日には清水、飯島、万古、為栗、折立の人々が集まってお祭りが行われた。当日は餅投げ、弓引き、サイコロ賭博も行われ、露天商が店をだすほどの賑わいだったという。広場の中央には45p四角、高さ120pくらいの石柱が建てられている。四面にわたって文字が刻まれているところから、四面塔とよばれている。四人であれこれ言いながら判読したところによると、「還暦を機に発願して、秋葉様の神徳に報いるために鳥居を建て、また峠越えの安全祈願のため観音様を合祀するから、後生の人達は鳥居を再建し、日を定めて観音様をお祭りするように」という意味のことが書いてある。この石柱建立の発願者である二人の医者の一人は、なんと一緒に上った友人のひいじさんの父親であった。彼のひいじさんは泰阜から和田へ養子に来て医業を営んでいたのである。前々から聞いていて一度は訪れてみたいと思っていたが、実際に上って確かめることが出来たと、先祖の名前を指でなぞりながら感激することしきりであった。「伊那谷の峠」によれば鳥居は30年ほどで朽ちてしまうのでたびたび再建され、最後に立て替えられたのは1997年の春だそうだ。我々が行った時には鳥居の横木はすでに上側半分が朽ちていた。観音祭りもやがて飯島だけで4月18日近辺の日曜日に行っていたが、それも前述のように今は行われていない。 帰りは鳥居をくぐって名田熊へ向かった。久保田氏によれば30分もすれば遠山氏宅に着くと言うことであったが、右手奥に戸倉山を眺めながら30分行っても40分たっても着かない。やがて沢の音が聞こえてきた。「どっちへ流れている?」「左だよ。」これはいけない。遠山川の支流ならば右に流れていなければならない。これは反対側の万古川の支流戸倉沢だ。迷ったら沢に下りずに上る。確信の持てる所まで引き返す。これが山の鉄則だ。「虫歯様」とよばれる顔を傾けて右頬を手で押さえている可愛らしい石像の祠の所まで引き返す。前掲書の地図では祠の前を下らなければ行けないのを裏の馬道らしき広い道を行ってしまったのだ。だが祠の前の道も定かでない。時刻もはや4時近くになっている。冒険をするには遅すぎる。暗くなる前に下りなければ危険だ。遠山夫妻にお会いするのは諦めて、もと来た道を引き返すことにした。峠ではかの友人がもう二度と見ることができないと思っていたが、迷ったおかげで先祖の名前に再び相まみえることができて、「感謝、感謝!」と慈しむように石柱をなでまわした。 帰りは上がってきた道だから大丈夫と思いきや、上りと下りでは様相が変わる。おまけに古い作業道や獣道が交錯していて、どれが本道か判別しにくい。上りで見た鹿の食害にあった倒木の白い木肌を発見したときには本当にほっとした。下りながら、今来た峠のことを考えた。石柱の発願者の願いも空しく、鳥居もあと数年で倒れるだろう。観音祭りも行われなくなって久しい。ときおり通りすぎる獣たちのほか訪れる人もなく、石柱と観音像だけがひっそりと立ち、やがてそれも崩れて自然に帰っていくのだろう。前掲書の中で久保田氏は峠について次のように述べておられる。「峠は生活と無縁のものになり、元の自然にもどろうとしている。藪に没し、土砂に埋まり、崩落に飲み込まれていく、道は人が歩く中で成長してきたものだから、人が去れば消えてゆくのが宿命である」と。ともあれ、何度か迷いながらも1時間半ほどかけて明るいうちに国道に出ることが出来た。(2012.8.23 8.26)

  二元代表制は機能しているか               永田 獏
昨年暮れに、ある全国紙の地方版に「飯田市、不祥事、相次ぎ」という記事が載った。この種の記事を過去に見たなと思い、新聞の切り抜きを捜してみた。そうしたら、一昨年の8月の全国紙の地方版のコラム「責任の取り方」というのが見つかった。内容は水道料金の未収問題で、伊那市では時効分を職員からの寄付で補填したが、飯田市では2度にわたる1200万円弱にのぼる時効分は補填の動きはないというものである。さらに、地元紙には、昨年1月、ある自治体の保育料の算定ミスで1000万円以上の未徴収ができてしまったことが載っていた。これらの事例はいずれも関係者の処分はされたものの穴のあいたお金はそのままである。我々市民はなんの責任もないのに彼等の犯したミスにより数千万円分のサービスの低下に甘んじなければならない。そりゃあないでしょうと思う。公務員はむつかしい法の執行をするわけだから、それなりの身分保障と待遇はあっていいと思う。しかし、それには責任がともなう。保育料算定ミスの村では、今後保育料の算定は職員が行うのでなく、専門の業者に委託するとあった。その記事を読んで、私は唖然とした。「私たちは能力がありません。皆さんの税金を使って業者にやってもらいます。でも身分と待遇のおいしいところだけはいただきます。」と言っているようなものだ。 人間はだれでも間違いを犯す、したがってミスをおかすことを前提とした責任とフォローのあり方を作っておくべきである。長野市では昨年2月、不適切な事務処理をした職員に160万円の負担をさせたというが、個人負わせるのは萎縮するし、酷である。職員全体で負担するシステムをつくるべきだと思う。 これらの事例をみるに、議会はなにをしていたのかという思いがつのる。そもそも地方自治では、首長(執行機関)と議会を住民が直接選ぶ二元代表制になっており、両者がチェックアンドバランス(抑制と均衡)をとって適正な地方政治を推進していくことを目指している。ところが現実は、首長の提案に対する積極的な改善、修正を行うことが少なく、首長の提案を議決するだけの追認機関化しているといわれている。平成20年の数字で見ると、市では首長提案の81.3%、町村では91.2%が無修正で可決されている。また、議員による政策的条例案件が一件もないのが市では92.4%、町村では96.2%である。このような実情から、「議員はなにをしているのだ。」「議員は多すぎる。」はては議会不要論もささやかれ、名古屋の河村氏や大阪の橋本氏のあやうい施策が喝采をあびることにもなるのである。 ところで、わが飯田市はどうか。市議会要覧によれば、22年市長提案170件すべて無修正で可決、議員提出条例案は0件である。市政を監視し、政策を競い合う場になっているとは言い難い。「居眠り議会」なのか、地域の要望を市政につなぐ「口利き」役に甘んじているのか。市民は日々の生活に追われて市政にかまっていられない。市民の委託をうけた議員が本来の役割を果たさなければ、行政は4年間白紙委任を受けたも同然になる。40万7000円の議員報酬は十分とはいえないが、地方で他に糧を求めなければ暮らせない額ではない。議員の務めに専念できるはずである。さらに、地方分権が推進されれば“国におんぶにだっこ”というわけにはいかなくなり、地域間の生き残りをかけた競争が始まる。安穏としてはおれない。議員の方々には、執行機関と適度な緊張関係を維持しつつよりよき市政の為に頑張ってもらいたいものである。(2012.2.9)

  剱岳(2、999m)再訪                   永田 獏
剱岳は登山を志す者にとって、憧れの山である。私も50余年に及ぶ登山歴の中で、穂高と剱が一番印象に残っている。何がそんなにいいかといえば、標高たかく、岩あり、雪あり、そして花ありでアルペン的ムードがすべて一級品として揃っているからである。 この山に登ったのは、山登りを始めて間もなくであった。まだ黒四ダムは出来ておらず、富山をまわって立山の麓、室堂に出た。半世紀も前の事とて記憶も定かでないが、雷鳥沢からの急登のきつかったこと、カニのタテバイの緊張感は忘れられない。帰りは宇奈月へ出たのであるが、当時は関電上部軌道を登山者も乗せてくれた。岩肌のむきだしのトンネルの所々から蒸気が噴き出していた。阿曽原で乗ったトロッコ列車からの渓谷美の美しさも印象に残っている。 以後、穂高へは何度も登っているが、剱岳へは50代のはじめ、クレオパトラニードルという粋な名前に惹かれて、岩登りでチンネに上ったきりである。是非、もう一度登りたいという気持ちは年々強まっていった。ところが、暇があり、天気がよく、しかも山がすいているという三拍子揃った機会は、なかなかない。古希を過ぎて、年々体力は衰える。もう今年が最後のチャンスかもしれないという焦りにも似た気持ちで、機会をうかがっていたが、8月の末、条件が揃って出かけることにした。昔の恋人に会うような気持ちであった。果たして、彼女は私を優しく迎えてくれるだろうか、不安と期待でいっぱいであった。あまりに気持ちがはやったせいか、早々に大失敗をしてしまった。テントのポールを忘れて来てしまったのである。急遽、小屋泊まりに変更して、トロリーバスに乗る。 室堂の賑わいを後に、雷鳥沢まで下り、そこから一気に別山乗越(峠)まで上がる。別山乗越につくと前剱を従えた剱岳の山容が眼前に迫ってくる。こちらは老いさらばえたのに、彼女は昔のままだ。なんと威厳に満ちた美しい姿だろう。さながら北欧の貴婦人、かの映画「カサブランカ」のヒロイン、イングリットバーグマンを彷彿とさせる。(ちょっとオーバーかな。)峠から40分下れば、剱沢の小屋である。 久々に泊まる小屋は快適であった。布団も新素材で軽く、汗臭くない。水洗便所にシャワーもある。山ガールが増えたせいだろうか。小屋のテラスに憩えば、猛暑の下界では考えられないほど日差しは柔らかく暖かい。雪渓を抱いた周りの山、遠くの後立山の嶺峰、足下の高山植物、これらを 眺めながらビールを飲む。けだるい疲労感と充足感にひたる。時間がゆっくり過ぎてゆく。至福のひとときである。 次の日は朝4時半に出発した。尾根にでると左手下に富山市の灯りが宝石を散りばめたように輝いていた。一服剱を過ぎる頃には夜も明け、西側には富山の街と富山湾、その先に能登半島が望まれた。東側は立山や後立山の嶺峰、その先には八ヶ岳と南アルプス、ずっと奥に富士山の端正な姿があった。前剱からは鎖場の連続で13カ所以上もある。特に頂上直下のカニノタテバイとよばれる15mの垂直の壁は最大の難所である。岩を登るには足で登るのが基本であるが、その時は恥ずかしながら鎖にしがみついてよじ登った。 2時間足らずで頂上に立つことが出来た。台風15号の余波であろうか、西方から雲が次々とわいてきて、眺望はあまりよくなかったので早々に下ることにした。下りの難所はカニノヨコバイといわれているが、足下が見えないので下りの方が恐怖感があった。慎重に下って8時半に小屋に着いた。テラスでコーヒーを沸かして休んだ後、帰路についた。 別山乗越(峠)で最後にもう一度と思い、振り返ったが前剱の上にそびえているはずの頂は深い雲の中であった。もう彼女の岩肌に触れることはあるまいと思うと感慨ひとしおであった。雷鳥沢に下った頃、雨具を出すほどでもないこぬか雨が降ってきた。少し冷たく、少し心地良かった。彼女との別れには誠にふさわしい雨であった。(2012.12.4)

  新年号寄稿 縮小均衡社会をめざせ               永田  獏
「人は自分が見たくない現実を見ようとしない。」(カエサル)一昨年の原発事故はまさに「不都合な真実」を見ようとしなかったむくいである。10万年以上もなくならない放射性廃棄物の処理法も決まっていない。日本は至る所に活断層があり、まさに地震列島である。また常に風水害に見舞われる災害大国でもある。今度原発事故が起きれば、日本は沈没だ。日本のものはどこの国も買ってくれず、誰も日本に来ない。第一、事故が起きたら、この狭い日本、どこへ避難するのか。そういった事実に目をつむり、原発は安全で安いと思い込まされ、豊かな生活を享受してきた。3.11以後、我々は否応なくこの事実を認め、脱原発の社会を模索している。 もう一つ、今後の社会のありようを決めるのに、現実を見ずにとなえられている事がある。それは経済成長こそがすべての問題を解決するという成長神話である。 日本がまだ若く貧しかった時代には年9%という高度経済成長をなしとげた。池田内閣の「所得倍増計画」は本当に実現したのである。完全雇用は実現し、どこでも都会並みの生活が可能になった。田中角栄氏の「日本列島改造論」はそういう潮流の中で唱えられたものである。パイはどんどん大きくなり、誰もが豊かな物質生活を享受できた。1970年代には「一億総中流意識」という言葉がはやった。格差の少ない拡大均衡社会が実現できたのである。ところがオイルショック後の20年間は4%の成長率に落ちた。それでもまだ我々は成長の果実を享受できた。しかし、それから現在に至る20年は1%の成長率で、特にリーマンショックではマイナスに転じてしまった。バブルがはじけて以後、失われた10年とか20年とか言われ、成長の夢を追っていくつかの対策がなされた。平成の借金王と自らいった小渕内閣は大量の国債を発行して公共事業を実施したが、景気はよくならなかった。小泉内閣は新自由主義路線をとり、数々の規制緩和を行った。派遣労働は解禁され、自己責任論がはばをきかせた。「努力する者が報われる社会」(竹中平蔵氏)こそが「活力ある社会」になる。能力のある者が富めばトリクルダウン(雨だれのように上から下へと順次恩恵が浸透する。)によって社会全体が潤うとされた。所得税の最高税率はかっては70%であったものが37%に引き下げられた。その結果、上位4分の1が残りの4分の3の総所得に匹敵する所得を手にしている。企業は「いざなぎ超え」の戦後最長の景気を謳歌し、史上最高益を更新したが、雇用者報酬は逆にマイナス0.3%であった。いまや非正規労働者が全労働者の3人に1人、年収200万円以下が4人に1人という状態である。日本型雇用形態が崩壊したため、人々は常に将来の不安におののいている。いつの間にか日本は不均衡国家になってしまったのである。これでどうして活力ある社会といえようか。 GDPの6割は個人消費である。そして個人消費の動向を決めるのは藻谷浩介氏「デフレの正体」によれば生産年齢人口であるという。だとするならば、少子高齢化が進む日本、生産年齢人口の増加は当分見込めない。今後20年間で2割近く、40年間で4割の減少が起きてしまうという。(人口問題研究所中位推計)2006年を境に日本は人口減少局面に入った。拡大均衡のための最も重要な条件を失ってしまったのである。成熟した日本はやがて老いていく。経済は右肩上がりから右肩下がりへと転換し、もはや高度成長はあり得ない。この事実をしっかりと見て、成長神話は捨てよう。縮小していく社会で、どうやって幸せをつかむか考えるべきだ。 もう少し生活レベルを下げたっていいじゃないか。一度上げた生活レベルを下げるのは耐えられないという。本当にそうだろうか。世界中から美味しいものを集めてきて、しかも毎日一千万人分もの食事が捨てられている。病院やその他の待合では見る人がいようがいまいが終日テレビはつけっぱなし、運動不足解消にフィットネスクラブへ自動車で行く。こんな生活、ちょっと変じゃないだろうか。老いていく日本でこんな事がいつまでも続くはずがない。成長はいつかは止まる。それは人間も社会も同じだ。多くの政治家や経済人は成長の夢を追っているが、どんなことをしても経済は拡大しないと腹をくくって対策を考えるべきだ。少なくなったパイを奪い合うのでなく、フェアに分け合うという格差の少ない縮小均衡社会こそ我々が目指す未来ではないだろうか。そんなことをすれば金持ちが日本から逃げていくという議論があるが、一部にはあるかもしれないが、安全で安心な社会が実現すれば大多数は脱出しないだろ。金持ちの社会的役割に意義を見いだしてとどまると思う。 生活水準を下げても幸せで愉快に暮らす方法はあるはずだ。われわれは縮小均衡社会に向かって知恵を出そう。(2013.1.8)

第○○投票所         永田   獏
4年に一度の市議会議員選挙も終わり、地域はもとの静けさを取り戻し、新しい議員は市民の為の活動を始めていることだろう。私はこの度の選挙、自治会役員の巡り合わせで、第○○投票所の投票立会人をすることになった。最初で最後の役割、すこし緊張感をもって望んだ。その日は北信では雪が降ろうかと言うほどの寒い日で、年寄にはつらかった。幸い、職員の方が膝掛けを貸して下さったので、幾分楽であった。朝から夜まで13時間も座って投票を見ていなければならない。13時間といえば、飛行機でヨーロッパへ行く時間だ。じっとしておればエコノミー症候群になってしまう。時折、そっと足を曲げたりして血栓を防いだ。投票者が会釈をしてくださるので、返礼に合計2000回ちかくも頭を下げたことになるので、これもいい運動になったのかもしれない。 長いけど座ってりゃーいいやと軽く考えていたが、どうして人は様々、とんでもない行動や、これはどうかと思われる行為をする人もいる。漫然とというわけにはいかなかった。何事もそうだが、半分までが大変で、半分を過ぎると後は意外と早く進むものだ。昼を過ぎると時間はどんどん進んだ。5時、6時と過ぎ、7時になるとあと1時間、ほっとして気も心なしか緩んでくる。そんな折り、市の職員が片付けを始めたではないか、ガーガー音をたてて掃除機をかけている。私はたまらず、「まだ投票時間中だから止めて下さい。」と注意をした。そうしたら、「40分くらいからですかね?」といった。この人はなにも分かっていない。時間の問題じゃない。投票締め切りまでガタガタしちゃあいけないんだ。選挙権の行使は民主社会における最も基本的な権利であるし、一般市民の唯一のといってもいい政治参加の機会である。もっともよい環境の中で権利を行使してもらうように心がけるのが、サービス業としての公務員の役割だろう。普通のイベントの時でも、終了前にバタバタ片付けている場面に遭遇すれば、なんだか寂しく、追い立てられるように感じるものだ。ましてや公の行事、お上意識の抜けない市民なら、遅く来たのが悪いような気持ちになってしまわないだろうか。 私の注意もお構いなく、他の職員も加わってシートのガムテープをバリバリ剥がすは、投票所を縮小するとてアルミの衝立をガチャガチャたたんで運ぶはで、市職員の民主主義感覚はこの程度かとあきれるばかりであった。かって、ある人から、外部から来たコンサルタントや土建業者によると10万都市の職員としては他に比してレベルが低いと言われていると聞いたが、むべなるかなである。 選挙管理委員会に問い合わせたら、8時から15分間の片付けのための手当が出ているそうだ。もし、それで間に合わないようならもう少し時間を延長してもいいと思う。それによって経費が増えてもそれは民主主義のコスト。税負担が多少重くなってもかまわない。平穏な権利行使が妨げられるよりよっぽどいい。 市民は日常の生活に手一杯で、行政お監視する余裕はない。新しい議員には市民にかわって行政へのチェック機能を果たしてもらいたい。そして、10万都市にふさわし行政のために頑張ってほしい。(2013.5.12)

物件費                          永田 獏
ある自然保護団体に属していて、そこで指導的役割をしてくれた市臨時職員の雇い止め問題に関わることになった。そこで知ったのだが、臨時職員の賃金は人件費ではなく、物件費と言うことである。え!と一瞬耳を疑った。最近耳が遠くなったので聞き間違いかと思った。物件費を辞書で引いてみると、「物品の購入に充てる費用」とある。臨時職員は人ではなく、物なんだ。だから雇い止めについても「調査中」ということで、数ヶ月も放置しておいて平然としておれるし、市職労も相手にしてくれないのだ。臨時職員も人間である。腹もへるし、悲しければ涙も流す。切ればあかい血が出る。これはひどいと、市の財務課にいって聞いてみた。国からの指示で会計処理上そういうことになっているということであった。頭のいいキャリア官僚が考えることだから、それなりの理屈があるだろうと、さらに質問した。いろいろ書類をひっくり返して調べてくれたが分からないということだった。憲法第13条には「すべて国民は人として尊重される。」とある。憲法擁護義務を負う公務員がこのような非人間的規定を作るとはどういうことか。現在臨時地方公務員は約60万人、正規職員約277万人で臨時職員の比率は約18%にのぼる。(24年総務省調査)臨時職員は年間2万人規模で増え、逆に正規は4万5千人規模で減少している。(2005〜2008年)つまり、正規から臨時への置き換えが進行しているのである。臨時職員は非人間的な待遇の中で、過重労働を強いられているのである。 このような傾向はブラック企業をはじめとして社会全体に蔓延している。特に問題なのは若者の非正規の比率が高いことである。世の中は人で成り立っている。その人を大切にしない社会とはいったいなんなのだ。こういう社会はやがては衰退していくだろ。ささいな理由で馘首されるようでは首が幾つあっても足りない。安心して働けないし、未来の展望も持てない。活力ある社会なんて築けるはづがない。 飯田市では、正規職員は1508人、臨時職員は961人(25年4月)で、その比率はなんと40%近くにもなる。こんなにも多くの人が物件費として働かされているとは驚きである。気の毒でクレームをつけるのも憚られてしまう。行政の担い手である職員の多くが人として尊重されなくて、人に優しい暮らしやすい街づくりが出来るのだろうか?飯田市といえば再生エネルギーの先進都市として、あらゆるメディアで真っ先に取り上げられていて郷土の誇りと思っていたが、認識を改めねばなるまい。 雇い止め問題に関していえば、法的には問題ないかもしれないが、法にかなっていれば何をしてもいいと言うことにはならない。かって下筌ダム紛争で、蜂の巣城主の室原知幸氏は「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない。」と言った。これは公共事業だけでなく、すべての行政についてもいえることではないか。臨時職員を掃いて捨てるような処置は理と情にかなっているとはいえない。ともあれ、物件である彼は人間としての取り扱いを求めて、訴訟に持ち込むかもしれない。そうなれば、市民サービスに費やすべき多大のエネルギ−、時間、経費が使われることになる。市の処置が市民的利益になるという合理的説明責任があると思う。(2013.9.1)

絶望を越えて      新春寄稿                永田 獏
東日本大震災から2年と10ヶ月、この間の東電、政府の対応をみていると欺瞞と隠蔽の無責任に満ちているといっていい。このような無責任の体制はどこから来ているのだろう。私はそれは先の戦争で敗戦を終戦と言い換えたことにあると思う。勝ち目のない戦争に神州不敗の神話でもって国民をかりたて、300万にのぼる犠牲と国土の荒廃、アジアの2000万人の犠牲にたいして誰も責任を取りたがらず、誰も責任があるとは言わなかった。一億総懺悔といって責任をすべての国民に分配してしまった。 終戦は戦争の責任の所在を隠蔽し、戦後の対米従属路線を無意識の領域に押し込める役割を果たした。歴史上、アメリカの占領ほど抵抗を受けずにうまくいった例はない。アメリカも驚くほどの卑屈さだった。戦争を指導した者たちはアメリカによる非軍事化と民主主義化を受け入れることによって自らの体制の温存をはかった。鬼畜米英は一夜にして民主主義と自由の国アメリカとなった。原爆を2発も落とされ、焼夷弾の雨で多くの民間人が焼き殺されたにもかかわらず、終戦はそれらを自然災害にあった如く仕方がなかったことにした。核兵器の残虐性を指摘することはあっても、それを使った者にたいする言及はほとんどない。それのみかの焼夷弾の都市無差別戦略爆撃を立案したカーチス・エマーソン・ルメイ参謀総長に日本は一等旭日大綬章まで与えてしまったのである。非軍事化はアメリカの都合で早々とほごにされた。戦車を特車といいかえて軍事化が始まった。在日米軍軍事顧問団初代幕僚長フランク・コワルスキー大佐は「時代の大嘘が始まろうとしている。、、、、一国の憲法が日米両国によって冒涜され蹂躙されようとしている」と述べている。独立とは名ばかりで、アメリカ軍はそのまま居座り日本の領土を好きなように使用し、治外法権まで認められ、アメリカの都合でつくられた自衛隊は小アメリカ軍となった。アメリカの属国であることには変わりはない。首相が替わる度にご挨拶にうかがい、おまけに思いやり予算まで差し上げている。これで主権回復の日とはちゃんちゃらおかしい。このような状況を無意識の領域に押し込めることは精神的ストレスを生む。それはアジアへの敗北の否認というかたちで解消される。アジアの2000万人の犠牲者に向き合おうとするとヒステリックに自虐史観、土下座外交、はては売国奴呼ばわりまでされる。唯一アジアに軸足を置こうとした鳩山、小沢政権は「つけあがるな!」とばかりスキャンダルまみれになって崩壊した。政権交代はアメリカの掌の上でしか行えないことを思い知らされた。民主党政権は第二自民党政権に変貌せざるをえなかった。 唯一我々の自尊心を満足させたは奇跡といわれた経済成長である。アジアへの敗北の否認も札束で相手の頬をなでることによって沈黙させることが出来た。しかし、それとて朝鮮戦争とベトナム戦争というアジア人の血によって実現したものであるということを隠蔽している。ベトナム戦争といえば北爆を支持した佐藤元首相は非核三原則が評価されて、ノーベル平和賞を受けている。その裏で沖縄への核持ち込みの密約をアメリカとかわし、ドイツに核の共同開発を持ちかけている。日本ばかりか世界をもだまし、ノーベル平和賞の権威をおとしめた。よくも受け取れたものだ。その厚顔無恥ぶりにはあきれるばかりである。 面従腹背ならぬ心底対米従属して「愚者の楽園」に安住している我々であるが、しかし、庶民がこれほど自由で平和で、豊かであったことは日本の歴史の中ではない。だからこそ保守政党は国民の支持をえて長期の政権独占をしてきたのである。 対米従属とアジアにたいする敗北の否認、アメリカの庇護の下における経済成長、これこそが戦後レジームの本質である。戦後レジームは安倍の祖父岸首相とそれにつながる人々を復権させ、権力に着くことを可能にしたものだ。戦後レジームからの脱却と日本を取り戻すとは、この自民党のよって立つ基盤を否定するものであり、ひいてはポツダム宣言を否定し、サンフランシスコ条約を否定することになる。もう一度アメリカと一戦かまえ、我々を「愚者」の楽園から追放するつもりなのか。そんなことは出来もしない。これも大いなる欺瞞である。 国会議員の靖国神社参拝は兵士の犬死を美化し、そのような死に導いた指導者達の責任を隠蔽するためにどうしても必要であった。しかし、それは同時に東京裁判の否定につながり、アメリカの占領政策の正当性と衝突せざるを得ない。今までアメリカがそれを問題にしてこなかったのは冷戦下、アジアで忠実なポチが必要であったからである。ケリーとヘイグ両長官が千鳥ヶ淵墓苑に初めて献花したのはアメリカのいい加減にしろというサインとみるべきであろう。冷戦の消滅した今、日本はアメリカの大切な同盟国というより、収奪の対象になった。TPPはその象徴である。外務省が行った世論調査でもアジアおけるアメリカの重要なパートナーは中国が39%日本が31%(2011年)とついに中国に追い抜かれてしまった。ただ日本はおいしい蜜壺であることにはかわりはないので、ここはすねられないようにケネディ駐日大使を派遣して適当にあやしておこうとしても不思議はない。 また、経済成長著しいアジアでも札束で頬をなでることの出来なくなった日本にもの申し始めている。例えば中国は尖閣諸島問題でポツダム宣言を引き合いにだしてきている。ポツダム宣言第8条では日本の主権は「本州、北海道、九州及四国並ビニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と定めてある。固有の領土だって、ふざけるな。お前らの領土は俺たち(連合国)が決める。とばかり無条件降伏の事実をつきつけてきているのである。 このような状況にもかかわらず、安倍政権は解釈改憲によって集団的自衛権を容認し、リトルアメリカ軍(自衛隊)が世界中でアメリカと戦争できるようにし、そのために特定秘密保護法によってアメリカのために日本人を罪に陥れようとしている。原発はコントロールされていると世界に向かって大嘘をついた。それでも国民は安倍政権に高い支持を与えている。このように長期にわたって高い支持率を維持している政権は戦後では希有のことである。福島では15万人の人達が故郷に帰れないというのにオリンピックに浮かれ、リニアに夢を託している。これがアメリカによってあたえられた民主主義の現実である。オリンピックで思い出したが、わが長野県でも帳簿焼却事件があった。10万円単位の隣組の帳簿でさえ10年前の帳簿が残っているのに、燃やしましたですべてを闇に葬りさろうとするむちゃくちゃがとおってしまう。憤りを新たにしていたところへ猪瀬知事の5000万円問題のニュースがもたらされた。欺瞞と隠蔽の無責任体制はまだまだ続く。絶望的状況だ。石牟礼道子はまだ絶望が足りないといったが、どこまで絶望すれば光がみえてくるのだろう。へそ曲がり獏としてはこのような時流にあらがいたい。白井 聡が「永続敗戦論」の終わりに記したガンジーの言葉を借用して、今年の思いとしたい。 「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分がかえられないようにするためである。」(2014.1.21)

コメントはひかえさせていただきます。          永田 獏
昨年の衆議院国家安全保障特別委員会での特定秘密法案の審議における森雅子大臣の答弁は二転三転、支離滅裂「コメントはひかえさせていただきます。」の連発であきれるばかりであったが、その中でも特に「修正協議中につき、コメントはひかえさせていただきます。」という発言には驚いた。この人は国会をなんだと思っているのだろう。国会は国権の最高機関と憲法第41条に書いてある。 その審議の場で、裏取引の方が重要だから答えられないというのは国会軽視もはなはなだしい。 これに関連したことで、昔のことを思い出した。それは佐藤内閣の時、共産党の質問に対して総理が「あなたとは考えが違うから答えられない。」といったことについて、ある大学教授が「ふざけちゃあ行けない。考えが違うから議論するのであって、同じなら国会なんか要らない。」と憤って新聞に書いていたことである。半世紀も前の事なので具体的な事はほとんど忘れてしまったが、教授のこの言葉だけは覚えている。それは民主主義の根幹にかかわることだからと思う。人間はだれでも必ずあやまちを犯すというのが民主主義の人間観だ。だからできるだけ多くの頭数をそろえて議論して合意形成をしていく。時間はかかるけど、結局それが一番間違いが少ないという制度だ。確かに当時は冷戦下、両者の考えは大きく異なっていた。だからといって質問を一蹴していいはずはない。少数意見が正しいかもしれないという謙虚さが必要だ。 今回も一強何弱といわれる状況の中、審議中与党の席はガラガラで、たまりかねて呼びに行く始末。どうせ数によって決まるのだから審議なんて通過儀式に過ぎないという思い上がりがあったのではないか。我々はねじれで決められない政治にうんざりして自民党に絶対多数を与えたのであるが、考えてみれば、沢山の考えの違う人間が生活しているのだから、その人達を尊重するなら、なかなか決められないのが当たり前で、アメリカなどはねじれが常態なっている。ねじれは政治の停滞をまねくかもしれないが、国民生活に重大な影響を及ぼす問題については時間をかけて論議する。むしろ、遅すぎるくらいがちょうどいいのだ。 数があるからといっても国民の圧倒的多数の支持を得たわけでもない。一昨年末の選挙、比例区で自民党は、得票率が27.6%、票数では民主党に負けた前回より200万票以上少ないのである。 当時、安倍総裁は記者会見で「自民党への厳しい視線は続く」と緊張感をにじませていたが、あの時の謙虚さはどうしたのだろう。一年後、国会の軽視ぶりは高い支持率に慢心したとしかいいようがない。権力という美酒はかくも人を酔わせ、劣化させるのだろうか。 かって、マッカーサーは「我々が45歳の壮年なら、日本人は12歳の少年。」と成長の可能性を示唆したが、あれから63年、我々は彼の期待に応えたのかと、暗澹たる気持ちになってしまったが、先日、TVで専修大学の岡田憲治教授が社会の成熟度について「いくらなんでもそれはひどいんじゃないかということが起こった時、誰かがそれはひどいと勇気を持っていう。そしてそれを孤立化させない。社会にそういう人間が現れるはずなんだという信頼感があればいい。」といっていた。過去においては公害問題、冤罪問題、最近では原発についてなど、様々な分野に於いてこれはおかしいという人があらわれ、それを支援する人達の輪が広がっている。欧米では百年以上の民主主義の歴史があるが、日本はアメリカから教えられてまだ、その半分しかたっていない。それを考えると我々もそこそこいい線いっているんじゃないかと少し楽観的になった。(2014.3.11)

安富桜考                 永田 獏
美博正面にある安富桜を眺める度に若き日の事を思い出す。教師になって初めての年、これからどんな人生が展開されるのかと期待に胸ふくらませて赴任した私を、この桜は大きく広げた枝いっぱいに花をつけて迎えてくれた。当時はこの桜は長姫高校の本館の南の中庭に位置していた。本館は御影石の土台の上に建てられた風格ある建物で、戦後に建てられた中校舎では支柱がしてあったのに、大勢の生徒がドンドン歩いてもビクともしなかった。明治の匠の心意気が感じられる建物であった。長年の使用ですり減って凹んだ階段を上がった二階最初の部屋が、商業科3年1組の教室。窓から四方に広がった桜の枝が見える。窓際の女生徒のノートの上に花びらが舞い落ちてくる。それを指の上でそっともてあそぶ。美しかった。化粧もなにもしなくても若さだけで美しかった。生命の輝きともいえる美しさだった。 その下は会議室になっていて、桜の太い幹が窓いっぱいに迫ってきた。私が今までに見たことのない迫力であった。そこでは職員会議が行われた。それで思い出される木にまつわる事がある。当時教員の賃金は安かった。地元の精密工場に勤めた女生徒が「先生って、こんなに安いの!」と驚いたほどである。それが、田中角栄首相のころから上がり始めた。組合の幹部が「我々も中古車なら持てる時代がやってきた。」と大会で言ったものだ。マイカー時代の到来である。玄関前の駐車場が狭いと言うことで、道路側の針葉樹を切ってしまえという提案がなされた。私は学校のぬしのような先輩の先生を向こうにまわして、反対の論陣を張ったものだ。その木は今や見上げるような大木になってしまった。 もう一つは玄関西側にあった花梨の木。なり年になると、「今年も花梨をおわけします。」という提案がなされた。校用技師のおじさんが、希望をとって分けてくれた。独身であった私は一つだけもらって、机上でその色と香りをたのしんだ。花梨は切られてもうない。 桜の東側には平屋の宿直室があった。障子をあけると根元のゴツゴツした幹と熊笹が眼に飛び込んできた。桜の陰で日当たりが悪く、布団もいつ干したかわからないようなものであったが、放課後は学校の裏の顔の中心になった。あるときはマージャンパイの音でにぎわい、又あるときは酒盛りで、人の噂に花がさいた。教育論議に口角泡を飛ばしたこともあった。賑やかだった部屋がやっと静かになり、最後の見廻りもすませた。さあ、これから明日の授業の予習をしようと思っていると、どこからともなく大声で歌う声が聞こえる。よそで飲んでいた連中の流れが舞い込んできたのだ。そこでまた、ひとくさりグダグダととりとめのない話しを聞かされた。桜の下が静寂になった頃には、夜半を過ぎていた。もう予習の気力も失せてしまった。次の日は、寝不足でもうろうとして、何を話したかわからない。ただ、若さだけで勝負した。でも、当時の生徒は大人だったから、我慢をして静かに聞いたくれた。今でもたまに「授業の準備がしてない。どうしよう。」とうろたえる夢をみる。退職して、やっと予習の重圧から逃れられ「ワーイ」という開放感に浸ったのにである。 あれから40数年、熱く教育を語った仲間達は、今ではみんな遠くに去った。その多くは鬼籍に入ってしまった。あの時の女生徒も、はや老境に達していることだろう。私もすっかり年をとってしまった。この桜、あと何度眺められることだろう。そんな私の無常の感慨をよそに、今年も安富桜は変わらず、みごとな花を咲かせて、多くの見物人を楽しませている。「年々歳々花相似たれども、歳々年々人同じからず。」(劉廷芝)(2014.4.5)

ポピー想念               永田 獏
例年5月、下市田工業団地の「マツザワ」で行われる美術名品展を鑑賞し、そこで表千家のお手前をいただくのを楽しみにしている。そして、時期があえば、その脚で喬木の九輪草を見に行くのが、ここ数年の恒例になっている。 あるとき、同行の友人が「おい、ついでに伊久間原のポピーを見ていこう」と言った。「ポピーってなんだい。」と行ってみたら、それは芥子(ケシ)のことだった。真っ赤に咲く花をある作家は「女の命が燃えているようだ。」といった。それでまず思い出すのは、昨年亡くなった藤圭子の「赤く咲くのは芥子の花、どう咲きゃいいのさこの私、」という怨歌である。「新宿の女」でデビューし、奇しくも新宿のマンションから飛び降りた彼女、はたして女の命を燃焼した生涯であったのだろうか? 無表情な顔と澄んだ瞳が眼に浮かぶ。 フランス語でひなげしの事を雛罌粟(コクリコ)という。街で雛罌粟という喫茶店を見て、こりゃあなんと読むんだと調べていったら、与謝野晶子の「ああ、皐ふらんすの野は火の色す、君も雛罌粟われも雛罌粟。」という歌にたどりついた。明治45年5月、34歳の晶子は7人の子を残してパリにいる鉄幹の下へ旅たつ。母よりも女としての生を選んだのである。かって家を捨て、親を捨てて妻子ある鉄幹の胸に飛び込むべく、東京への汽車に乗ったあの情熱の再現である。シベリア鉄道の長い旅の後、たどり着いた5月のパリの草原は一面雛芥子の赤にもえていた。そして、二人の心も愛の炎に燃えていた。まさしく女の命の燃焼である。 またこの花のことを虞美人草ともいう。それで思い出されるのは、夏目漱石の最初の長編小説「虞美人草」である。小説のヒロイン藤尾は当時の道義の壁を破れず、男の陰で慎ましく生きる小夜子に敗北する。彼女の自我は燃焼することなく、突然の死で終わる。死の床には抱一の描く虞美人草の銀屏が逆さに立てられていた。 漢籍の素養の深い漱石が、どうしてこの表題を付けたのか疑問であったが、美しさと情念の象徴として、この言葉を選んだのかもしれない。 虞美人草と聞いてもっとも印象に残るのは、高校時代に漢文で習ったこの花の由来を伝える中国の古事である。紀元前202年、漢の劉邦と楚の項羽の天下を巡る争いも終わりに近く、項羽が楚の国から連れてきた兵達の多くは、敵側にねがえり、項羽の陣営を取り囲み故郷の歌を歌っている。(四面楚歌)もはや形勢如何ともしがたく、さしもの豪傑も「騅(スイ、愛馬の名)行かずばいかんせん、虞や虞や汝を如何せん」と嘆く。やがて虞姫は自刃し、その鮮血が流れて、美しい花になったといいう。宋の詩人曾鞏はこれを「青血化して原上の草となり、芳心寂寞寒枝に寄る(虞姫の魂が淋しげにそそたる枝に寄っている)」と詠んだ。ケシの花を見るたびに、この古事を思い起こすのは、一番多感な時期に学んだからだろう。 ポピー、ポピー、ポピー幾度唱えても何の想念も湧いてこない。この言葉が奥行きを持つのには、まだしばらく時間がかかるわい。と思いつつ帰路についたのだった。(2014.5.22)

白馬非馬               永田 獏
ここのところの裁判所や政府の言い分を聞くのにつけ、高校の漢文で習った諸子百家、名家の「白馬は馬にあらず。」という言葉を思い起こす。 名家の公孫龍が白馬にまたがり関を通ろうとすると、関守がここは馬は通ってはいけないといった。すると彼は「我が馬は白し、馬にあらず。」といった。関守が理由を尋ねると、「馬は形につけた名前で、白は色につけた名前である。色につけた名前は形に付けた名前とはちがう。」といって関守を煙に巻いて関を通ってしまった。というものだ。 先の衆議院選挙で「選挙区によって一票の価値が著しく差があるのは憲法の平等の原則に反する。」として選挙の無効を求める訴訟で最高裁は現在の格差は「違憲状態」とした。だが、選挙は有効とした。つまり、違憲状態であるが、違憲ではないというのだ。違憲状態と違憲とはどう違うのか、凡人の私にはちっとも分からない。最高裁判事といえば、日本における最高の頭脳集団といってもいい。彼らがその英知を絞った現状追認の為の論理がこれである。 違憲状態における選挙で、政権の奪還し、首相になった安倍氏は4月、A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に哀悼のメッセージを送っていたことが、先頃判明した。戦後レジームからの脱却をいう安倍氏にしてみれば当然の行為かもしれない。 戦後の国際レジームは戦勝国を中心にしてつくられた国際連合体制である。そこでは先の戦争を民主主義対ファシズムの戦と位置づけ、全体主義に対する民主主義の勝利に終わったとして、敗戦国日本やドイツの指導者を平和と民主主義の敵として断罪した。日本はサンフランシスコ講和会議に於いてこの戦後体制を受け入れ、東京裁判の結果を受諾した。 このことによって国際社会への復帰が許され、今日の繁栄を築くことができたのである。この事実と安倍氏の行為との齟齬をどう説明するかと思ったら、菅義偉官房長官は「自民党総裁名なので、内閣総理大臣ではなく、私人としてのメッセージ」と答えたという。 自民党総裁の安倍晋三氏と内閣総理大臣の安倍晋三氏は違うというものだ。私人と公人を使い分けて、自らの行為を正当化するのは政治家達の常套手段だが、そのようなやり方は国民には通用しても、果たして国際社会で承認されるのだろうか。違憲状態で選ばれた内閣を多くの国民が支持しているのを見れば、日本の政府や国民全体も東京裁判を否定し、あの戦争を正当なものだと考えていると思われないだろうか。 国連憲章には主に日本とドイツを指す敵国条項というのがあって、未だに削除されていない。第53条後段に連合国の敵だった国が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こした場合、加盟国や地域安全保障機構は安保理の許可を得なくとも軍事制裁を科すことが容認され、この行為は制止できないとある。もし何処かの国がこの時代遅れの条項を盾にとって、日本の軍国主は復活したとして、行動を起こしてもアメリカは拒否権を行使できない。戦後の国際体制を拒否して再び戦う気概がないならば、そのような口実をを与えないように、平和国家としての道を進んでいるというメッセージをこそ発信するべきではないだろうか。(2014.10.3)
新年寄稿 技術革新(イノベーション)は何の為にあるのか              永田 獏
NHKのクローズアップ現代で「ウエアラブル革命〜着るコンピューターが働き方を変える」というテーマを放送していた。その中で、社員証型端末を社員に持たせ、社員の動きや会話をくまなく収集し、コンピューターに業務改善を考えさせる企業も現れていると言っていた。ITもいよいよここまで来たかと思う。社員は常時その動静を会社に把握されることになる。私が散歩していると山麓公園で、営業マンが車を止めて油を売っているのを見かけるが、そういう息抜きも難しくなるだろう。終日監視され、効率を求められて、人間はそれに耐えられるだろうか。文筆家、事業家の平川克美氏はヒュマンスケール(人間の寸法)ということを言っているが、それは「人間はどこまでいっても自然という限界を超えることができない存在であるということであり、そしてその限界には意味がある」ということである。われわれが働くためには、食べ、排泄をし、眠り、休息をしなければならない。そして、究極のヒューマンスケールは人間は死ぬということだから、家族を構成し、子供を育てなければならない。それを無視すれば、社会と人間が壊れてしまう。 ここ数十年のIT技術の進展にめざましいものがある。前はそろばんでパチパチやっていた計算も瞬時にして出来てしまう。熟練を要するに千分の一ミリ単位の工作もコンピューターなら容易にこなしてしまう。様々なIT器機が安価に供給され、我々の生活はものすごく便利になった。しかし、一方で雇用、格差、相対的貧困問題が先進国共通の課題となっている。そうしてみると、科学技術の進展は人々を幸せにしたのかと考えざるをえない。 かって、イギリスで産業革命が起こり、様々な発明がなされ、熟練労働は非熟練労働者や年少労働に取って代わられ、それまでの熟練労働者は職を失った。そこで、熟練労働者達は、我々が職を失ったのは機械のせいだと考え、「ラッダイト運動」(機械打ち壊し運動)を始めた。一方、熟練労働者に代わって雇われた女性、子供は劣悪な労働条件の下に働かされた。9歳の子供が毎日6時間半、ひどいときは16時間も働かされた。資本家達のあくことなき利潤追求は、やがて、子供や女性の健康をむしばみ、女性は健康な子供を産むことが出来なくなった。兵士や労働者の再生産はむつかしくなり、このままでは、国家の存亡にかかわるとして、政治が規制に乗り出し、1832年最初の工場法が制定されて10時間労働制が決められた。さらに、1848年には「共産党宣言」が出され、労働運動の高揚が革命への恐怖をもたらし、国際労働運動(メーデー)と相まって8時間労働制が一般化した。 ヘーゲルは歴史はスパイラルに展開するといったが、同じようなことが、次元を違えて現在に起こっている。ITの技術革新による生産性の向上は多くの労働者にリストラをもたらした。8時間労働制は有名無実化し、長時間労働、残業はあたりまえ、ブラック企業が横行している。ただ違うところは、社会主義は崩壊し革命の恐怖がなくなったこと、労働運動は衰退して、組合は正規労働者の特権化している。そして、経済はグローバル化した。IT技術によって世界中何処でもそこそこの労働者を雇うことが出来る。グローバル企業にとって国家は眼中にない。利益を求めてどこへでも進出する。労働者は使い放題である。 マルクスは機械が悪いのではなく、機械の有用性、つまり、利用システムに問題があるといって、ラッダイト運動を批判した。現代の技術革新も本来なら、生産性の向上によって余った時間は余暇として楽しんだり、文化活動に費やしたりして豊な生活が出来なければならない。それが技術革新によって失業者を生み、過労死を増大させ、人々を不幸にしているならば、何処かが間違っているのである。原因は利潤の最大化を求め、資本の自己増殖をはかるという資本主義の原理そのものにある。倫理性、宗教性と切り離された資本主義は人々の生活をよくすることからかけ離れてしまった。19世紀には共産主義という妖怪がヨーロッパを席巻したが、21世紀の現在、資本主義そのものが妖怪化し政治と結託して世界を荒廃させている。多くの経済学者はこれを制御しようと模索している。今、アメリカで評判になっている「21世紀の資本論」の著者、トマ・ピケティは資産に対する累進課税を提唱しているし、先頃亡くなった宇沢弘文氏は社会的共通資本の考え方を明らかにした。これらが有効性を持つためには、グローバル化した経済に対応するグローバルな規制システムが必要であるが、我々は国家を越えたそれを持たない。当面は技術革新は何のためにあるのか、学問(特に経済学)は何のためにあるのか、会社は何のためにあるのか、そして政治は何のためにあるべきなのかを問い続けるしかないというのが悲しい現実である。 (2015.1.9)

新年寄稿 技術革新はなんのためにあるのか              永田   獏
NHKのクローズアップ現代で「ウエアラブル革命〜着るコンピューターが働き方を変える」というテーマを放送していた。その中で、社員証型端末を社員に持たせ、社員の動きや会話をくまなく収集し、コンピューターに業務改善を考えさせる企業も現れていると言っていた。ITもいよいよここまで来たかと思う。社員は常時その動静を会社に把握されることになる。私が散歩していると山麓公園で、営業マンが車を止めて油を売っているのを見かけるが、そういう息抜きも難しくなるだろう。終日監視され、効率を求められて、人間はそれに耐えられるだろうか。文筆家、事業家の平川克美氏はヒュマンスケール(人間の寸法)ということを言っているが、それは「人間はどこまでいっても自然という限界を超えることができない存在であるということであり、そしてその限界には意味がある」ということである。われわれが働くためには、食べ、排泄をし、眠り、休息をしなければならない。そして、究極のヒューマンスケールは人間は死ぬということだから、家族を構成し、子供を育てなければならない。それを無視すれば、社会と人間が壊れてしまう。 ここ数十年のIT技術の進展にめざましいものがある。前はそろばんでパチパチやっていた計算も瞬時にして出来てしまう。熟練を要するに千分の一ミリ単位の工作もコンピューターなら容易にこなしてしまう。様々なIT器機が安価に供給され、我々の生活はものすごく便利になった。しかし、一方で雇用、格差、相対的貧困問題が先進国共通の課題となっている。そうしてみると、科学技術の進展は人々を幸せにしたのかと考えざるをえない。 かって、イギリスで産業革命が起こり、様々な発明がなされ、熟練労働は非熟練労働者や年少労働に取って代わられ、それまでの熟練労働者は職を失った。そこで、熟練労働者達は、我々が職を失ったのは機械のせいだと考え、「ラッダイト運動」(機械打ち壊し運動)を始めた。一方、熟練労働者に代わって雇われた女性、子供は劣悪な労働条件の下に働かされた。9歳の子供が毎日6時間半、ひどいときは16時間も働かされた。資本家達のあくことなき利潤追求は、やがて、子供や女性の健康をむしばみ、女性は健康な子供を産むことが出来なくなった。兵士や労働者の再生産はむつかしくなり、このままでは、国家の存亡にかかわるとして、政治が規制に乗り出し、1832年最初の工場法が制定されて10時間労働制が決められた。さらに、1848年には「共産党宣言」が出され、労働運動の高揚が革命への恐怖をもたらし、国際労働運動(メーデー)と相まって8時間労働制が一般化した。 ヘーゲルは歴史はスパイラルに展開するといったが、同じようなことが、次元を違えて現在に起こっている。ITの技術革新による生産性の向上は多くの労働者にリストラをもたらした。8時間労働制は有名無実化し、長時間労働、残業はあたりまえ、ブラック企業が横行している。ただ違うところは、社会主義は崩壊し革命の恐怖がなくなったこと、労働運動は衰退して、組合は正規労働者の特権化している。そして、経済はグローバル化した。IT技術によって世界中何処でもそこそこの労働者を雇うことが出来る。グローバル企業にとって国家は眼中にない。利益を求めてどこへでも進出する。労働者は使い放題である。 マルクスは機械が悪いのではなく、機械の有用性、つまり、利用システムに問題があるといって、ラッダイト運動を批判した。現代の技術革新も本来なら、生産性の向上によって余った時間は余暇として楽しんだり、文化活動に費やしたりして豊な生活が出来なければならない。それが技術革新によって失業者を生み、過労死を増大させ、人々を不幸にしているならば、何処かが間違っているのである。原因は利潤の最大化を求め、資本の自己増殖をはかるという資本主義の原理そのものにある。倫理性、宗教性と切り離された資本主義は人々の生活をよくすることからかけ離れてしまった。19世紀には共産主義という妖怪がヨーロッパを席巻したが、21世紀の現在、資本主義そのものが妖怪化し政治と結託して世界を荒廃させている。多くの経済学者はこれを制御しようと模索している。今、アメリカで評判になっている「21世紀の資本論」の著者、トマ・ピケティは資産に対する累進課税を提唱しているし、先頃亡くなった宇沢弘文氏は社会的共通資本の考え方を明らかにした。これらが有効性を持つためには、グローバル化した経済に対応するグローバルな規制システムが必要であるが、我々は国家を越えたそれを持たない。当面は技術革新は何のためにあるのか、学問(特に経済学)は何のためにあるのか、会社は何のためにあるのか、そして政治は何のためにあるべきなのかを問い続けるしかないというのが悲しい現実である。 (2015/01/09)

この道しかない          永田    獏
この道しかない」といって、解散した昨年末の総選挙は、ほぼ現状維持ということで、アベノミクスは国民の支持をえたということであるが、多くの国民にとって幸せに通ずる道なのか。アベノミクスの陰の部分について考えてみたい。この道とは小泉、竹中路線から続いている新自由主義、構造改革路線である。規制緩和によって非正規雇用のすさまじい拡大とワーキングプアと呼ばれる貧困層の登場、格差の拡大が起こった。実感なき戦後最長の景気拡大とわれる所以である。ニート、フリーターという言葉に追い込まれた若者達は、「いずれかは正社員になって妻や子供を養う。」というささやかな夢さえも奪われた。閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれないと、「戦争が希望」という声さえ上がった。「ぶっこわす。」というワンフレーズが何かを変えてくれるかもしれないという清新なイメージを与え、都会の若者達は郵政選挙で小泉政権を支持し、圧勝させた。この状況を東大名誉教授の姜尚中氏は「自らの墓堀人を選んだ。」といった。 民主党政権政権の誕生で一時中断した路線は、安倍内閣でどうなったかといえば、非正規雇用者は今や2000万人に迫ろうとしており、全労働者に占める割合は37%に達している。家計の補助的要素が強かった非正規も、低賃金(平均年収168万円)、不安定な雇用で家計を維持しなければならない労働者が急増している。また、低処遇だが楽な仕事という構図はくずれ、重責を負わされ深夜におよぶ過酷は労働が強いられているのが実態である。 貧富の格差もワニの口のように広がっている。金融資産1億以上の家計は100万世帯以上、この2年間で24%も増加している。高齢者7人に一人は金融資産4000万円以上あるといわれているが、他方、金融資産ゼロの世帯は1987年にはわずか3%であったが、いまや30%を越えている。生活保護世帯は過去最高を更新し続けており、子供の貧困率も過去最高の16.3%である。また単身高齢者600万人中、280万人が生活保護以下の生活を強いられている。こうしてみると、円安や株高は一部の大企業や富裕層のみに恩恵が行き、政権がいうようにトリクルダウン(富めるものが富めば貧しい者も自然に富が滴り落ちる)は起こっていない。 アベノミクスは道なかば、これから地方や庶民にも成長の果実がもたらされると安倍首相は言っているが、本当にそうだろうか?私にはこの道は富者をますます富ませ、貧者を一層貧しくする道のように思える。例えば、「国家戦略特区」構想をみてみよう。その中核たる「雇用特区」では従業員の金銭による解雇の自由、労働時間の上限の規制緩和、撤廃、 残業代ゼロ制度の導入などがもくろまれている。これらは労働基準法の形骸化、労働政策における戦後レジームからの脱却である。また、大企業の法人税軽減の財源として、中小企業への外形標準課税(赤字でも納税)の導入、介護報酬の引き下げ、生活保護費の圧縮が俎上にのぼっている。さらに前記特区諮問会議員竹中平蔵氏は「正社員ゼロ」を口にしている。弱者からの更なる収奪が始まろうとしている。我々は再び「墓堀人」を選んだのではないかと危惧せざるをえない。4年後、へそ曲がり獏のこの危惧が的外れであってほしいと願わずにおれない。(2015.1.17)

小指の痛み               永田 獏
昨年末、沖縄の翁長知事が上京した折り、首相や官房長官は知事と会わなかった。その冷遇ぶりを見てあきれてしまった。保守を標榜するなら、礼節の伝統はわきまえているはずだ。政治の劣化、幼児化が言われて久しいが、気にくわないからといって会いもしないのは、まるで悪ガキのいじめである。成熟した国家の元首のとるべき態度ではない。これでは仏頂面をして握手した習近平主席を失礼と非難する資格はない。沖縄の民意を代表する知事への品格なき態度をとる政府とそれを支持するヤマトンチュー(本土人)はウチナンチュー(沖縄人)の心を全く理解していない。 もともと沖縄は明、清の冊封を受け受けてはいたが、独立性の高い王国であった。江戸時代に薩摩の侵攻を受けて服属させられ、さらに明治には琉球処分で武力によって強制的に本土に併合された。そして太平洋戦争では本土決戦の時間稼ぎ、盾として利用され、15万人もの人命が失われた。敗戦後は米軍の統治下に置かれ、抑圧されてきた。櫻井溥氏(元沖縄開発庁企画課長)はこれを沖縄歴史の三点セットとして、沖縄の人々は認識していると書いている。さらに独立に際しては、沖縄は切り捨てられ、本土にあった基地は本土の基地反対闘争を和らげるため沖縄に移された。それまでは半々であったのが、復帰時には0.6%の国土に75%が集中することになった。これを歴史の四点セットとすることもあると述べている。我々は嫌なものは沖縄に押しつけ、ひたすら経済的繁栄を追い求めてきたのである。冷戦下、中国、北朝鮮、ソ連に対して地政学的に重要だというのなら、それは日本中どこも同じである。海兵隊も、かつては岐阜と山梨に分駐していたのを反対闘争の高まりから、沖縄に移ったのである。 ある本の中に米軍の低空飛行訓練の航跡図があった。無数に引かれた沖縄本島の中に、一ヶ所だけなにも引かれていない真っ白な部分がある。それはなにかというと、米軍関係者の住宅地であるというのだ。アメリカ国内では居住地域の上を低空飛行することは人権上許されないことなのだ。これを知ったときは衝撃を受けた。沖縄の人々は人権を尊重すべき存在ではないのだ。このようなことが昼夜をおかず行われている。人としての尊厳を奪われた人々の屈辱感はいかばかりであろう。 1969年2月、祖国復帰協議会長の喜屋武真栄氏は衆院予算委員会の公聴会で「沖縄同胞の心情を人ごとと思わず、小指の痛みは全身の痛みと感じ取って下さい。」とのべている。この悲痛な叫びに我々はどう答えてきたのか?沖縄の負担を軽減してほしいと訴えても、「移設絶対拒否」である。都道府県知事会に出席した仲井真前知事は、その状況を「46対1」だったと述べているという。またオスプレイ配備撤回を求める沖縄41自治体の代表が「建白書」を首相に手渡した後、銀座をデモ行進していたとき、「売国奴」「琉球人は日本から出て行け」という罵声が浴びせられたと櫻井氏は書いている。代表達はどのような思いでこの罵声を聞いたことであろう。 今までの基地はいわば米軍による「銃剣とブトーザー」で作られたものだが、今回の辺野古の基地建設は日本国家が、金と権力によって住民の意思をねじ伏せようとするものだ。 このような国の仕打ちに対して、沖縄では「牙むく国」という表現が使われているという。これは日本の中の「異国」として差別されてきたという深い怨念の現れではないか。沖縄の人々の怨念を理解せず、見てみぬふりをを続けるならば、沖縄独立論が居酒屋論議を脱して、現実味を帯びてくるかもしれない。絆、同胞という言葉が本物ならば、沖縄の負担をみんなで分担すべきである。小指の痛みを放置すれば、やがて全身が腐って国民国家の根幹がゆらいでくるであろう。(2015.2.12)

長岳寺の桜           永田 獏
                                     今年も桜の季節が巡ってきた。また一年、生きながらえて桜が見れることを大いに嬉しく思う。昨年は美博の安富桜について書いたが、今年は長岳寺の桜を是非見たいと思った。それは、映画「望郷の鐘」に長岳寺の桜が映っていたからだ。満州から苦難の末、やっと寺に帰った山本慈照氏は、そこで一緒に行った妻や子供が帰っていない事を知って、門前で号泣するシーンがあった。泣き崩れる和尚の背に無数の桜の花びらが落ちてくる。なんと美しく哀しい情景だろうと思った。妻や娘を失った悲しみ、「王道楽土」の夢に欺された悔しさ、子供たちをつれて帰れなかった責任の重さ、諸々の思いをのせてはらはらと散ってくる。この美しさと哀しさは、やはり桜でなければいけないと思った。桃や牡丹でも表せない。桜こそが最もふさわしい。満州で散った人々も故郷の花を想うとき、やはりそれは桜であったろう。入学式、母に手を引かれてくぐった校門の桜、友と遊んだ境内の桜、桜は日本人のDNAに深く刻み込まれていると思う。 やがて、彼は悲しみから立ち上がり、生き残った者の責任として「満州死没者名簿」の作製にのりだす。そして、一通の手紙を契機に中国残留孤児問題に生涯を捧げることになる。 「集団自決」に責任を感じて自死したといわれる河野村(現豊岡村河野)の村長といい、市井の人々はなんと善良で責任感のあることか。それに比べ、甘言を弄して満州へ送り出した指導者達は誰もその責任をとらない。関東軍の幹部はいち早く家族や家財を避難させ、奥地に入った開拓団の人々を置き去りにした。それどころか、引き上げながら橋梁を破壊していったので、開拓団の人々は徒渉しなければならず、多くの人がそこで亡くなったという。日本人を守るべき軍隊に見捨てられ、殺されたような者だ。慈照氏の存命中に彼の講演を聴いた。その内容の多くは忘れてしまったが、”関東軍と満鉄の幹部には残留孤児は一人も居ない。”と熱く述べられた事は鮮明に覚えている。 私はお寺の桜の下で 、和尚の悲しみと悔恨、怒りの一端を共有したかった。4月の初旬、雨上がりの暖かい日、寺を訪れた。長岳寺は阿智川の左岸の崖の上に、意外とこじんまりとした佇まいで建っていた。階段を上がった左側の淡い紅の満開のしだれ桜の下に「望郷の鐘」が、そして、右側の沙羅樹の側には慈照氏の胸像があった。その顔は「一隅を照らす」という彼の生涯の銘の決意と慈愛に満ちた表情であった。鐘を撞いてみる。一回、二回、鐘の音は川を越えて対岸の森の奥へと響いていった。故郷を焦がれて散っていった人々の嘆きの聲のようでもあった。ふる里とはなんだろう。それは母親の膝の上のようなものかもしれない。その時、ふと 原発被害に苦しむ副島の人々の事が頭に浮かんだ。原発の安全神話に欺されて、豊かな生活を夢見た人々は、帰るべき故郷をうしなってしまった。今も12万人もの人が避難生活をしている。菅元首相が「永久に住めなくなる」といってメディアのバッシングを受けたが、そのとおりになってしまった。原発廃棄物の中間貯蔵地に決まったが、それも大いなる欺瞞である。最終処分場も決まっていない中、永久施設になる可能性大である。まさに現代の棄民である。口に出して言わないだけで、東電も政治家達もみんな承知している。30年先に解決する見通しなど全くない。政治家も官僚もその時には誰も生きてはいないのである。全く無責任極まりない。 伊丹万作(映画監督、伊丹十三氏の父)は{「欺されていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でも別のうそによってだまされ始めているに違いないのである。1946年}と書いている。まさに至言である。 映画のおわりに支援者の名前が映されたのだが、延々と続く画面に疲れてしまうほどであった。こんなにも多くの企業、団体、自治体が応援しているのかと意を強くした。このような精神風土があるかぎり、伊那谷の人々は知性を磨き、再び欺されることはないだろうと思った。それが私の希望である。 (2015.4.14)

国賓待遇                  永田   獏
《いつものように南信州新聞に投稿したところ、「弊社は政治的に中位の立場であり、今回は内容が過激だったため掲載を見合わせた」ということでした。私はメディアの政治的中立は多様な意見を載せることだと思っていました。翼賛と萎縮の波が、こんな田舎の爺の文章にも押し寄せてきたのかと、暗澹たる想いです。この文は6月14日に投稿したものですが、実際は5月から書き始めましたので、支持率など現在とはかなり違っているところもあります。》
四月の安倍首相訪米で、オバマ大統領は小泉首相以来9年ぶりの国賓待遇で招待した。首脳会談前には、大統領専用車でリンカーン記念堂へ向かうという演出をこらした。米議会も日本の首脳として始めて上下両院合同会議のゲストスピーカーに招いた。これまでにない歓待を受けたのである。前回2013年2月の訪米では、ホワイトハウスのミーティングルームでの軽いランチを含めて1時間40分程度の会談であった。同じころ、ドイツのメルケル首相は大統領主催のディナーに招待されたし、5月の朴槿恵大統領の訪米では上下両院合同会議で演説するなど最高レベルの歓待を受けた。それらに比して、その冷遇ぶりが際立った。今回との落差はなんなのだろう。 まず、中国関係がある。KYな安倍首相に「失望した」オバマ大統領は、来日した2014年4月、“尖閣問題で事態がエスカレートするのは重大な誤りである(profound mistake)。中国は大事だから(We have strong relations with China)言葉をつつしみ、挑発的行動はさけて、平和的に解決しろ”と、くぎをさした。アメリカにとって、日中が尖閣でドンパチやるのは非常に困る。日本に味方すれば人口13億の市場を失う。日本を見捨てれば、アジアの同盟国の信頼を失う。適当な緊張関係で、双方がアメリカの武器を買ってくれるのが一番望ましい。 ご主人様にそこまで言われて、今年の4月、安倍首相はジャカルタで習主席とにこやかに握手をして「戦略的互恵関係」を再確認した。5月には二階総務会長が3000人を引き連れ、日中観光交流イベントに参加し、習主席が挨拶して歓待した。まずはめでたしであった。 なによりもアメリカを喜ばしたのは、安保問題である。集団的自衛権の解釈変更を閣議決定し、「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」を18年ぶりに改訂して地理的制約を無くしたことだ。「桃太郎さん、桃太郎さん、、、行きましょう、行きましょう、あなたについて何処までも」というわけだ。圧倒的軍事力差の同盟関係で対等はありえない。自衛隊は米軍の指揮下に入って、世界の警察官の下請けをさせられることになる。属国化の進展である。これって、安倍さんのいう戦後レジーム(体制)からの脱却じゃなく、深化じゃないの。そもそも安保条約は冷戦の開始とともにアメリカの対日政策が「東洋のスイス」から「反共の防壁」へと変更し、平和憲法にふたをするために日本に押しつけられたものだ。安倍さんも読んだことがないというポツダム宣言12条には“平和的傾向を持った責任ある政府が出来たら、占領軍は直ちに撤収せらるべし”とある。なのに戦後70年間、アメリカ軍は日本に居続けている。憲法の上にあって、日本の戦後レジームの最も重要な安保条約に手をつけずして何が「日本を取り戻す」だといいたい。 米議会演説の中に日米同盟は「法の支配、人権そして、自由を尊ぶ価値観を共にする結びつきです。」とあった。うそでしょう。一瞬、オリンピック招致時の原発は「アンダーコントロール」を思い出した。日本は法治国家の体をなしていないじゃないの。まず、選挙制度、常に政権よりの判断をする最高裁ですら、違憲状態というのにまともに取り組もうとしていない。つぎに、前述の集団的自衛権の解釈変更である。われわれが人を殺していい場合が二つある。一つは正当防衛のとき、二つ目は戦争である。日本国憲法9条2項で、交戦権はこれを認めないとある。交戦権とは人を殺していい権利である。従って、日本は戦争は出来ない。専守防衛を旨とする自衛隊は国家の正当防衛の為の組織であって軍隊ではない。そうやって、安保体制下で何とかつじつまを合わせてきた。 しかし、今回の解釈変更はあいつは危ないから、友達と行ってやっつけてやるというもので、正当防衛の域を超えている。日本のために本当に必要だというのなら、国民に丁寧に説明して憲法を改正すべきである。それが民主主義のルールである。ルールを無視してでもやりたいというのなら、だだっ子と同じだ。さらに、安倍首相のお爺さんの岸首相が改訂した安保条約には第4条に極東条項があるが、条約の改定もせずにツープラスツー(日米安全保障協議委員会)で取り払って、地球の裏側まで行けるようにしてしまった。このように、日本政治の根本に関わるような問題において法をないがしろにしたやり方は、とても法の支配を尊ぶとはいえない。 安保法制の国会論議もハチャメチャである。論理も理屈もありゃしない。中谷防衛大臣の「現在の憲法をいかに法案に適用させていけばいいのか」発言にいたっては、あきれるばかり、この方、立派な風貌をしていらっしゃるが、どこかお悪いのではと心配してしまう。およそ先進国の民主的な国会の論議とは恥ずかしくて言えないていたらくである。それにもかかわらず、我々はこの政権に高い支持率を与えている。彼らはその結果について決して責任をとらない。今までもそうだったし、これからもそうである。すべては、我々と我々の子孫が引き受けることになる。果たして、われわれはその覚悟があって支持しているのだろうか。

尾瀬に死す       永田  獏
私が尾瀬に行ったのは、今から四半世紀前の冬、山スキーで訪れた。一面の雪景色、張り詰めたような静けさの中で、川の水音だけがいやに高く印象的だったことを覚えている。 もう一度雪のない時期に行ってみたいと思ったのは、以前NHKのラジオ文藝館で藤原新也の「尾瀬に死す」を聞いてからである。 主人公倉本の妻芳子は癌におかされ余命4ヶ月、本人には知らされていないが、うすうす気づいたのか、晩秋のある日、突然、二人が結婚を誓い合った思い出の地”尾瀬”に行きたいと言い出す。医師の特別許可をもらってたどり着いた早朝の尾瀬は、霜で幻想的な青白い衣を着ていた。芳子は「この世じゃないみたい。」とつぶやいた。 尾瀬ヶ原の中間地点で、偶然見つけたナメコ取りに夢中になっているすきに、芳子は帰らぬ人となる。後に、二人の状況の不自然さから、司法警察に疑われ殺人容疑で、裁判にかけられることとなった。一、二審とも有罪。倉本は最高裁の最終陳述の前、もう一度尾瀬を訪れる。くだんの場所で、野菊をたむけ拝んでいる時に芳子の面影を見る。その一瞬の夢の中の芳子の暗示から、彼女の遺書を発見する。これによって、ついに逆転無罪を勝ち取る。遺書には「私は尾瀬で死にます。ずっと以前からそう決めていました、、、、、、、、」とあった。 晴れて自由の身になったが、倉本には小さなわだかまりが残った。それは芳子の最後の一点が見えないということだった。 人はそんなに都合良く死を迎えることができるのだろうか。彼は証言台に立ってくれた親友にその事を話した。親友は自分の母に死に水を与えた時の例をあげて次のように語った。「死が訪れようとしている時、人は他者の言葉によって、あるいは自らの思いによってひとつひとつこの世の未練を取り除き、死を受け入れる心が生まれ、自分自身で命を綴じることが出来るのだと、僕はそう信じます。、、、、、死というものが人の命を捕らえるのでなく、人の命が死を捕らえるのだと。そして、あの時の数滴の水はこの世の甘露であり、その甘露を飲み干したことで、覚悟が生まれたのではないかと思うのです。」突然、倉本は低く嗚咽した。あの日の情景をお思い出したのだ。霜が溶けて葉上で水滴の粒が宝石のように輝いていた。芳子はそれを手に取り唇をつけた。「冷たくておいしい、、、、」甘露を飲み干したかのように瞳を輝かせていたのだった。 「ソノミズ、ヨシコ、、、、、ノミマシタ」途切れ途切れに言葉を発してこの物語は終わる。 70代も半ばになると体力の衰えは隠すべくもない。雨の中を歩くのは避けたい。その上、せっかく行くのだから、ついでに至仏山と燧岳も登ってこようと欲張りな願望を持ってしまった。そうすると4日間の好天が必要だ。今年の夏は幾つも台風が来て、天気が続かなかった。尾瀬の週間天気を検索する日が続いたが、9月の初旬、やっと4日間降られずに済みそうな日が訪れた。 初秋の尾瀬、春や夏のように一面に咲き乱れると言うわけにはいかないが、それでもキリンソウやハンゴンソウの黄、リンドウ、トリカブトの紫、そして白は可憐なウメバチソウ、池塘に浮かぶヒツジグサと多彩な彩りで迎えてくれた。紅葉にはまだ早く、ヤマウルシだけが色づいていた。 小屋で食事を済ませた人々が押し寄せるほんの少し前の静寂の時を狙って、テントを抜け出して歩いた。 静まりかえった湿原、聞こえるのは木道を歩く私の湿った足音だけ。池塘のヒツジグサは蕾を閉じて、まだ目覚めていない。空は次第に明るくなってきたが、盆地の底は薄青白いもやがたなびいて、川辺の白樺の白い木肌だけがボーッと霞んで見えた。まさに小説の中にあったこの世のものとも思えない幻想的な世界がそこにあった。 一回の山行で二つのピークをめざすのは、この年では少々きつかったが、長年の夢を果たすことが出来た。満ち足りた気持ちで帰途につきながら、小説の中のもう一つの親友の言葉を想いかえしていた。「人というものは、この世に残した未練が一つ消えることによって、その分だけ死を受け入れる身構えが出来るのではないかと思うのです。」果たして、私はこの山行によって、その分だけ身構えができただろうか。鳩待峠(バス停)への最後の登りにあえぎながら、そう自問したのだった。(2015.10.11)

ジャーナリズムの復権        永田  獏
私の青春時代は1960年代、ベトナム戦争真っ盛りで、米軍のB52爆撃機は連日沖縄からベトナムへ出撃し、太平洋戦争や朝鮮戦争よりも多くの爆弾を投下した。一説によると、画用紙一枚分の土地に一発の割合だったという。 もし、私に強靱な肉体が与えられていたら、私はジャーナリストになりたかった。カメラを手に戦場を駆け巡り、爆弾を落とされる側から戦争の真実を世界に発信したかった。だから、日本のジャーナリズムの動向には格別の関心がある。ジャーナリズムとはメディア(紙誌、TVなど)を通して行われるマスコミュニケーション(マスコミ)において、人々の生活に必要な社会性の強い事実の調査報道と論評の事である。その中心的役割は権力の監視、批判と社会正義の追求(企業、役人の不正、公害、えん罪、汚職など)である。 J・Eアクトンの有名な命題に「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する。」というのがある。従って、民主社会の政治制度では三権分立制をとって相互にチェックアンドバランスをはかっている。しかし、その相互チェックは十分機能しているとは言い難い。例えば、日本のような議院内閣制では議会の多数党によって行政府が組織される。立法と行政が深く結びついている。また、司法も裁判官の指名や任命は行政府によって行われる。つまり、行政権の優位である。このような権力分立の不完全を補うものとして、マスコミにおけるメディアの権力監視、批判の役割の重要性がいわれる。マスコミは第四の権力といわれるのはそのためである。 政権を握るということは、絶大な権力を手にすることを意味する。だから、権力の暴走を阻止するためにメディアが寄ってたかってケチをつけるくらいで丁度いいのである。そうしなければ、いくら民主的なシステムが整っていても権力は腐敗し、独裁化する。それはかって、世界で最も民主的な憲法といわれたドイツのワイマール憲法の下でヒットラーの独裁を許してしまった事でもわかる。現在の日本のように一強多弱といわれる野党の力が弱い状態では特にそうである。今ほどジャーナリズムの権力チェック機能が要求される時はないにもかかわらず、現状はほど遠いといわねばならない。 記者会見では、政治家が立ち往生するような鋭い質問を発することもなく、ただパソコンに向きシャカシャカという音だけが響いているという。記事の70%が政府関連機関からの情報という「発表ジャーナリズム」に堕している。またメディアの幹部は頻繁に首相と会食やゴルフをし、それを自慢さえしている。もっとひどいのは読売の主筆、渡邊氏である。彼は古くは大野、中曽根氏と結びつき、近くは大連合を模索し、権力の成立にかかわった。批判どころか、権力の補完作用の役割を果たしている。ジャーナリズムの自殺行為といわざるを得ない。学生時代、東大の共産党員として新人会を組織し、反体制、反権力の立場にあったのに、いつの間にか権力と深く関わり、動かすようになってしまった。有能な新聞記者が権力の美酒に酔ったとしか思えない。NHKは2009年、政権交代が取りざたされる中、男性アイドルグループの一人が公園で裸で騒いだニュースをトップで15分近くも流し、民主党の代表選関連のニュースは後の方で一寸触れただけだった。最近では昨年、「安全保障関連法案」に関する衆議院の特別委員会の最終日、強行採決が予想された最も重大な日にテレビ中継をしなかった。視聴率を気にしなくていいNHKは伝えねばならないことを報じるのが、公共放送たるものの使命ではないか。今や一部で安倍チャンネルなどと揶揄される始末である。政権の意向を忖度して、萎縮と翼賛の波が押し寄せている。大手メディアはこの体たらくだが、救いは地方のメディアがそこそこ頑張っていることだ。 自由と民主主義の社会にジャーナリズムは不可欠である。今こそジャーナリストは気概を持って権力と対峙してほしいものだ。権力に刃向かえば、様々な圧力を受けて生活を脅かされるかも知れないが、ジャーナリストたるものもとより覚悟の上だろう。戦前、信毎には桐生悠々という気骨のあるジャーナリストが居た。彼は「関東防空大演習を嗤う」という軍部批判の論説で信毎を追われることになるが、11人の子供を抱え、貧窮の中、度々の発禁処分にもめげず、言わねばならぬ事を書き続けた。その12年後、彼の予言どおり東京都民は焼夷弾の雨の中、なすすべもなく逃げ惑うばかりであった事は言うまでもない。 今のところ、日本では権力によって殺されることはない。だから世のジャーナリストはしっかり頑張ってしてほしい。一人の有能なジャーナリストが現れればそれだけ社会が悪くなるのを防げるという。筑紫哲也すでに亡く、鳥越俊太郎、魚住昭、田原総一朗いずれも老いた。気概のある若手のジャーナリスト、特に女性のそれを望まずにはおれない。(2016.1.10)

アイ・アム・ケンジ       永田  獏
昨年の1月30日、後藤健二さんがISに殺害されてから、早一年が過ぎた。あの時、健二さんの志に寄り添うという意味で、“I am Kenji”という言葉が世界中から発せられた。オバマ、アメリカ大統領も「後藤さんは勇敢にも、自らの報道を通じてシリアの人々の窮状を世界に伝えようとしていた。」とのコメントを出した。しかし、その一方、日本では「日本に迷惑を掛けた偽善者。」「スタンドプレイ」「自決しろ」などというバッシングの嵐が起こった。それを受けて、自民党副総裁は「三度にわたる日本政府の警告にもかかわらずテロリストの支配地域に入ったことは、どんな使命感があったとしても、蛮勇というべきものであった。」と言った。2004年、3名の日本人ジャーナリストがイラクで武装勢力に人質に取られたときも、「自己責任」論が巻き起こり、空港では「自業自得」「税金泥棒」「救出費用を支払え」という張り紙が掲げられたという。こんな事は先進国では考えられないと言うことだ。アフリカで人質になったNGOのフランス人女性が解放された時、「迷惑をおかけして申し訳ありません」と言ったのに対して、オランド、フランス大統領は「迷惑なんかかけてないよ、ただ心配しただけだよ」と粋な発言をしている。ワシントンDCには「ジャーナリスト・メモリアル」という記念碑があって、取材現場で亡くなった報道関係者の名前が刻まれているという。日本ではベトナム戦争で14人、イラク戦争以後、後藤さんまでで6人のジャーナリストが命を落としているが、寡聞にしてそのような碑を知らない。ジャーナリストの仕事に対するこの差はなんなのだろう。革命や独立戦争によって勝ち得たものと、敗戦によって与えられた民主主義との違いだろうか? 「戦争の最初の犠牲者は真実である。」という言葉があるように、国家権力は必ず嘘をつく。ベトナム戦争ではアメリカはトンキン湾事件をでっちあげて北爆を開始した。イラク戦争のときは、イラク兵が病院で保育器の赤子を床に投げ捨てて殺したという少女の米議会での証言が、実は駐米クエート大使の娘で、広告会社の演出であった。先頃読んだ、ノンフィクション「動くものはすべて殺せ。」という本では、共産主義の拡散を防ぐという「大義」の下に、核兵器以外のあらゆる兵器を使って、おびただしい無辜のベトナム人が殺されたことが書いてあった。もし、本多勝一の「戦場の村」や沢田教一(ピュリッツァー賞受賞、カンボジアで死亡)石川文洋の写真、またニューヨークタイムズによる国防総省ベトナム戦争秘密報告書の暴露がなければ、反戦世論があれほど盛り上がらず、さらに多くの人命が失われたことだろう。 「ジャーナリストの仕事は人々の生きる権利に基づいて、知る権利を代わりに行使する事を委託される仕事。」(フォトジャーナリスト広河隆一)。そして、この生存の権利に基づく知る権利、自由と人間の尊厳が、最もないがしろにされるのが、戦争である。紛争当事者の「大本営発表」の向こうで、何が行われているのか。現場に行かないと見えないもの、聞こえない声がある。もし、我々が「危険地域」を取材するジャーナリストを持たないならば、情報の空白が生じ、ひいては国策を誤る。また、ジャーナリストがそこに居ることによって、国際社会の目を恐れる当事者の虐殺を防ぐ事も出来る。彼らの活動を保証するのが民主主義社会であるという認識を持つことが必要である。人々の支援こそが、リスクを冒して「危険地域」に向かうジャーナリストを勇気づけるのである。(2016.1.29)

わるい奴、いい人         永田 獏
今年に入って、北朝鮮問題がかまびすしい。1月の水爆実験に続いて2月のロケット打ち上げには、自治体も巻き込んで日本中が大騒ぎで、TVでは人工衛星、事実上の弾道ミサイルと報じ、若い女性が「怖い!」という映像を映して、恐怖感を煽った。防衛省はパック3を沖縄と首都に配備し、防衛大臣は破壊命令を出した。だが、同じように沖縄の上空を飛んだ韓国の人工衛星、2回のうち一回は失敗したというのに政府はなにも対策をとらず、メディアも関心を示さなかったから、ほとんどの人はその事実すら知らない。この騒ぎの後、日本の科学観測衛星の打ち上げがあり、成功を喜ぶ見学者の表情がTVに写され、日本中がほっとした。このときには事実上の弾道ミサイルなどという報道はないし、破壊命令もなかった。失敗した場合の危険性は同じなのにどうしてだろうと、例によって臍曲がりが考えてしまう。それはきっと、あいつ(北朝鮮)はわるい奴、僕(日本)はいい人だからだということだ思う。核についても、俺たち(常任理事国)は持っていいが、お前はわるい奴だから駄目だということである。 3月5日には大規模な米韓合同演習が行われた。あれを見れば、北朝鮮など一ひねりである。あちら側から見れば、小さな家の前で、戦車が轟音をたてて動き回っているようなもので、いつ踏みつぶされるかと、恐怖でわめき散らすのも無理からぬだろう。今回の演習には「斬首」作戦もあるという。独立国家の元首を殺害する計画が報道されても、なんの問題も起こらない。本来、主権国家は平等互恵、内政不干渉であるはずなのに、そんなものはわるい奴には必要ないということか。また挑発は決して許さないと米韓は強調しているが、他人の家の前でドンパチやるのは、どちらが挑発なのかと考えてしまう。圧倒的軍事力で迫る米にたいして、自らの体制を守る唯一の手段は核しかないと考えても無理からぬ事だ。彼らはイラクのフセインやリビアのカダフィのような独裁者が核を持たなかったが為に、無様な死に方をしたことを忘れない。アメリカが平和協定の話し合いに応じるまで、核という蜂の一刺しを手放すことはないだろう。そして、アメリカがそれに応じないのは軍需産業にとって一定の緊張関係の維持が必要だからだと思う。 北朝鮮の動きに対して、国連は新たな制裁を決議した。しかし、あまり締め付けると、破れかぶれで、暴発する危険がある。小型核兵器を、隠れた基地から多数発射されれば防ぎようがない。一発でもソウルに墜ちれば、何万という人が死ぬ。原発に当たれば日本は沈没だ。北朝鮮が崩壊すれば、膨大な数の難民が周辺諸国に押し寄せる。南北朝鮮の統一のコストは韓国の2年半分のGDPに相当するという計算もある。これでは韓国経済がもたない。 暴発といえば、かって日本は欧米の経済制裁でどうしようもなくなり、中国との戦争で疲弊していたにもかかわらず、石油など重要資源を輸入していたアメリカと「自存自衛」の戦争をしてしまった。当時欧米では日本の開戦について「外交とか戦略とかいった種類の問題ではなく、むしろ精神病理の問題とした方が説明がつきやすいのである。」(F・シューマン教授)ともいわれた。結果、コテンパンにやっつけられ、もう戦争はこりごりということになった。だが、戦後70年もすると、その痛みも忘れ、武器輸出三原則を緩和して軍需産業化へ道を開き、憲法を変えて、「普通の国」になろうとしている。保守の論陣では、核武装論が賑やかである。日本には原発で出たプルトニュウムが47トンある。これは原爆5000発分にもなる。アメリカが警戒する安全保障上の問題は日本とドイツの核武装という説もある。この度、アメリカは冷戦時代に研究用として日本に提供した高濃度のプルトニュウム330キロの返還を求めてきた。現在それを積んだ船がアメリカへ向け進んでいるのはアメリカの懸念の象徴的事態とも言えるだろう。北朝鮮のGDPは173億ドル、韓国の80分の一、日本の260分の一である。日本は落ちたりといえども、世界第三位の経済大国で技術大国でもある。外から見た場合、どちらが危険に見えるだろう。「だって僕いい人だもん。」といつまで言っておられるのだろうか。(2016.4.13)

獅子舞              永田 獏
二月の初旬、私の友人がこの度「飯田お練り祭り」の笛を吹くことになり、毎夜練習に励んでいること、その難しさ、練習後の懇親会の有意義なこと、そして、年齢からしてこれが最後のことになるだろうと目を輝かせて聴かせてくれるのを、この寒いのにいい年をしてご苦労なことだと半ば冷笑気味に聴いていた。 ところが、自分も地区の獅子舞のお手伝いをするはめになり、来飯して50余年にして始めて「お練り」に関わることになった。朝8時から夕方6時過ぎまで、ほとんど立ち詰め、歩き詰めで年寄にはこたえた。だが、この体験は私にとって、とても貴重なもので友人への冷笑を恥じることとなった。 単調な囃子と舞、それが所望される毎に何十回となく繰り返される。だが、同じ事の繰り返しにもかかわらず、そのたび毎に心をゆさぶられる。体は疲れていても舞が始まると心を引きつけられる。あるときには怒りの形相を、またあるときには悲しみの、そして子供を噛むときには慈愛に満ちた母の優しい表情を見せる。私だけかと思ったら、一緒に参加していた人は、皆真剣な眼差しで舞を見ている。単調なのに退屈もせず、魂を揺り動かす、これは一体何なんだ。祭りという時と場において人を引きつける科学では説明のつかない何かが生まれている。それは大自然の霊力というものかもしれない。獅子舞の起源はインドにあるといわれているが、いやもっと遙かエジプトやペルシャにまで辿れるかも知れない。それがシルクロードの交易を通して各地に伝播し、それぞれの風土の中で、形を変えて発展したものだ。そう、あの単調な音と動きは日本の風土で洗練されて民衆の間に脈々と受け継がれてきたものだ。だから何度見ても魂を揺さぶられるのだろう。伝統とはそういうものだ。 若い頃、ある作家が「日本を意識するのは牢獄の中、外国、そして歳を取ったとき」と書いていたのを覚えている。私の学生時代は60年安保闘争の真っ盛り、若気の至りで学生運動もしたけれど、小者だったため逮捕されなかったので、牢獄の経験はない。始めて海外旅行をしたのは40歳になってから、日航機が御巣鷹山に墜落した1985年、シルクロードに憧れて、中国への自由旅行をした。当時はまだ改革解放がそんなに進んでおらず、筆談を頼りに大変な苦労をして、タクラマカン砂漠のはずれ、パミール高原の下まで行った。帰途砂漠の真ん中で、体調を崩して一人、便所もない宿で臥せっているとき、脳裏に去来したのは、日本の獄Lかな木立とその下を流れる清流であった。こんな一木一草もない山、泥水の流れる川のたけだけしい自然のところで終わってなるものか、なんとしてもあの優しい山河の下へ帰らねばと思った。その時、私はふる里日本を強く意識した。あれから30余年、充分歳を取った。連綿と受け継がれてきた伝統芸能の響きに遠い祖先との繋がりを思い、日本人であることを深く自覚しても当然だろう。この獅子舞の伝統芸能は時代と共に少しずつ変化しながら続いて行くことだろう。7年後の次の「お練り」、さらに歳を重ねた私の心にどのように響くことか、出来れば生きながらえて、その日を迎えたいものだ。(2016.4.19)

ひまわり           永田 獏
阿南町平石農場のひまわりが見頃をむかえているというので、行ってみた。林間の1.3?の畑に蒔かれた、およそ20万本のひまわりは見事という外はない。林縁には夏の花、クサギも彩りをそえていた。惜しむらくは、丈が長くて花がよく見えないことだ。一望できる展望台か、矮性種を栽培すればもっと見栄えがすることだろう。 ひまわりの花を見ると、私はいつもある映画を思い出す。それはイタリア映画の「ひまわり」である。映画評論家の佐藤忠男氏は1970年代に「日本の漫画」という本の中で、「かって若者たちは哲学で人生を考えた。ついで若者達は文学で人生を考えるようになった。やがて、若者達は映画で人生を考え、人生を論じた。そして今、若者たちの一部には漫画で人生を考えるグループが確実に存在するのである。」と書いている。私の青春時代はテレビが普及し始めて、映画が往年の勢いを失いかけていた。漫画は手塚治虫のストーリー漫画の影響を受けた人達が笑いや風刺だけでなく、社会の様々な事象を表現しようとしていた。白土三平や、つげ義春など劇画といわれる漫画が若者立ちに読まれていた。しかし、まだ場末の映画館では「三本立ていくら」と言うような宣伝で、優れた映画が安価に観賞できた。私は映画で人生を考えた最後の世代に属するだろう。「丸」という戦記物雑誌を愛読していた戦後の軍国少年から、反戦平和の考えに転換したのも優れた内外の反戦映画によるものだった。その内の一つがこの「ひまわり」という映画である。ヒロインは野性派、官能派といわれたソフィア・ローレン 時は第二次大戦末期、ナポリ娘ジョバンナとアフリカ戦線行を控えた兵士アントニオは海辺で出合い恋に落ち、結婚する。与えられた新婚休暇はすぐに過ぎてしまい、別れられない二人は、精神病を偽装して除隊を目論むも、ばれてしまい、罰としてソ連(ロシア)戦線へ送られる。そして行方不明となってしまう。やがて戦争は終わる。ジョバンナはアントニオの消息を求めて、何日もロシアからの帰還兵の到着する駅へ向かう。そこでは愛する人の情報を得ようと人々は写真をかざして帰還兵を迎えていた。ある日、彼女の写真を見て、足を止めた一人の男がいた。彼は酷寒の2月、ソ連の攻撃と冬将軍に敗れ、逃走中、力尽きたアントニオを置き去りにしたことを告げた。ジョバンナはアントニオの生存を確かめるため、モスクワに行き、外務省の役人と共に、かっての戦場を訪れる。そこは果てしなく広がるひまわり畑だった。写真を手に、村々を廻り、無数の墓標を確かめても、ようとして消息は分からなかったが、ついに、ある小さな村で彼の生存を確かめることが出来た。しかし、そこには残酷な現実が待っていた。死にかかっていた彼は、現地の若い女性に助けられた。一時的に記憶喪失であった彼は、そこで彼女と家庭を持ち、子供までなしていた。ショックのあまり、ジョバンナはアントニオと話しもせずにイタリアに帰る。ほどなくして、アントニオはイタリアの彼女のもとをおとずれ、もう一度やり直そうという。しかし、それは言葉の遊びでしかなかった。戦争の犠牲者をさらに増やすことなどできない。数年前、ソ連戦線へ送られるジョバンニを送った同じホームで、ロシアの家族の下へ帰るアントニオの乗る列車を見送ったジョバンナは静かに泣いた。彼女の流す涙は、なによりも戦争の不条理を訴えていた。私は、ひまわりの花を見るたびに、この最後の場面を思い出して涙ぐまずにはおれない。(2016.8.28)

TTPの陥穽        永田 獏
自民党嘘つかない。TPP絶対反対。ブレない。」この標語を見たとき、エー、ウソでしょう。と一瞬思った。今や、TTPを成長戦略のかなめとしている政権からは考えられないからである。もちろん、変わることは必ずしも悪いとは言えないが、それにはちゃんとした説明がなされるべきだ。説明どころか、先の国会では、交渉過程は5年間秘密であるとして、45ページにわたる黒塗りの資料を出して、これで承認しろとは、闇鍋を食えというようなものである。さらに、合意書には英語、フランス語、スペイン語があって日本語の正本がない。アメリカに次ぐGDPであるのに母国語の正本がないのはおかしい。国民にあまり知られたくない事があるのではないかと、勘ぐりたくなる。さらに、ある新聞が主要100社に行ったアンケートで、TPPを「よくぞまとまった」と高く評価したという記事に、弱者の味方を自称する「へそ曲がり」としては、これはほっておけないと調べることにしたが、協定文は6300ページにおよぶ膨大なもので、条文はきわめてわかりにくくしてあり、もっともらしい表現の後に、さりげなく爆弾が仕掛けてあって、とても田舎の年寄の手におえるものではない。そこで、批判的な識者の言説をもとに書いてみた。したがって、バイアス(偏向)が掛っていることは否めない。 先頃来日して、消費贈税に消極だったノーベル経済学賞受賞者のコロンビア大学スティグリッツ教授がTPPは「グローバル企業のロビイスト達が書き上げた、世界の冨を支配しようとする管理貿易協定」と言っているように、米国通商代表部と多国籍企業のロビイスト(圧力団体の利益を政治に反映させるために活動する人々)によって作り上げられた。アメリカ政府の人事は回転ドアといわれるように、政府と企業の間を行き来していて両者は同類と言える。例えば、フロマン通商代表は大手銀行シティグループの専務であったし、農業主席交渉官のシディークはモンサント(バイオ化学メーカー)のロビイストであった。 TPPの本質は多国籍企業が自由に活動して世界を収奪するためのルールである。その初めのターゲットは日本であると言われている。それは40兆円の医療費、JA共済を含む600兆円に及ぶ金融資産であり、国、地方の莫大な公共事業費である。 TPPルールの基本は以下の3つである。 @すべての関税は撤廃される。  A資本の利益を害するすべての非関税障壁(規制)は撤廃される。  B @、Aを担保するものとしてISD(国際投資紛争仲裁)条項をもうける。 ISD条項はTPPの核心といえるもので、投資家の利益が侵害された場合、ワシントンにある世界銀行の投資紛争仲裁センターに相手の国を訴えることができる。これは国家の裁判権をないがしろにするもので、稲田防衛大臣も以前「主権の侵害で有り、民主主義の否定」と言っている。その国の国内法とは関係なく、投資家、企業の利益が損なわれたかどうかで、判断され、決定にたいして不服申し立てはできない。仲裁人は多国籍企業の顧問弁護士の中から決められる。敗訴した場合、国は莫大な賠償金を支払わなければならない。 TPPというとすぐ農業問題が浮かぶが、それはごく一部のすぎず、24分野30章にわたっている。限られた文字数ではすべては扱えないので、国会決議にあった事柄を中心に、幾つか問題を指摘してみたい。 (2)まず、農産物関税問題であるが、決議では「米、麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物などの農林水産物の重要品目について、引き続き再生可能となるよう除外又は再協議の対象とすること。十年を超える期間をかけた段階的な関税撤廃を含め認めないこと」とあるが、重要品目で30%、それ以外で98%関税を撤廃した。例を上げれば牛肉は38.5%から15年後9%へ、リンゴは17%から10年後ゼロである。そして、7年後には再協議が義務づけられている。再協議を重ねていけば、20,30年先にはすべて撤廃される可能性もある。そうした場合、日本の農業はどうなるだろう。昭和39年レモンが自由化されたとき、瀬戸内で国産レモンは50円で自給できていたが、サンキストレモンは10円以下で輸出した。またたく間にレモン農家は破綻した。その後サンキストレモンは100円で輸出をはじめた。同じような事が起こり、自給率は10%台になるだろう。われわれの胃袋はアメリカの多国籍企業に支配され、一層の対米縦続となるだろう。 関税撤廃が量の問題、生産者の問題であるなら、非関税障壁(規制)撤廃は質、安全性、消費者の問題である。国会決議では「残留農薬、食品添加物の基準、遺伝子組み換え食品の表示の義務、遺伝子組み換え種子の規制、輸入原材料の原産地表示、BSEに係る牛肉の輸入措置等において、食の安全・安心及び食料の安定生産を損なわないこと。」とある。 残留農薬では米国は日本の数十倍(チェリーでは百倍)の基準、食品添加物は日本が600品目にたいして、米国は1600品目である。牛肉の残留合成ホルモン剤、赤身で米国は日本の600倍検出された。(2009年日本癌治療学会学術集会の研究発表)日米二国間協議ではこの差を埋めさせられるだろう。TPPでは各国独自の基準は認められず、世界的食品規格であるコーデックス委員会(大半は多国籍企業の代表者)に合わすことになっている。厳しい基準を設けるには因果関係を科学的に立証しなければならない。それは「悪魔の証明」と言われるようにきわめてむつかしい。国際貿易協定ではじめて遺伝子組み換え食品の事項がもりこまれた。(第2章27条)従って、日本の遺伝子組み換え食品原則禁止は変えなければならない。また、表示についても、公正、衡平の原則に反し、貿易障壁にあたるとしてISD条項で訴えられる可能性がある。そうするとどういうことが起こるか。やがて、国内でも米国並みに農薬やホルモン剤が使用され、遺伝子組み換え農産物の生産が始まる。そして、産地表示が無くなれば、消費者の選択肢を失う。まさにサンダースが言った「安くなるのはあなたの命です。」ということになりかねない。 こうみてくると、国会決議がないがしろにされているように思う。せめて次の決議「交渉により収集した情報については、国会に速やかに報告するとともに、国民への十分な情報提供を行い、幅広い国民的議論を行うよう措置すること。」くらいは尊重して、数の力で拙速に押し切るので無く、審議を尽くして欲しい。そして、野党はしっかり勉強して論戦を挑んでもらいたいものである。(2016.10.7)

尊厳なるいのちのために       永田 獏
昨年の7月、津久井やまゆり園で19名の障害者が殺害されるという痛ましい事件が起きた。容疑者の男は処置入院していた際に「ヒットラーの思想が降りてきた」と話していたと報じられ、ナチスの優生思想に基づく障害者虐殺として語られる事が多かったが、私はなぜか事件の報に接した時、すぐ学生時代に読んだドストエフスキーの「罪と罰」の主人公による金貸しの老婆殺しを思い出した。そこには「無知で邪悪なひとつの生命が全体の重みにたいして、いったいどれほどの意味を持っているというんだ?シラミやアブラムシの命と変わりはないじゃないか、いやそれだけの値打ちだってありゃあしないよ。なにしろあの婆あは有害だからね。」という1節があった。多分、人間を価値のある者と無価値の者に2つに分けて、無価値な者は抹殺してもかまわないという思想が共通していると思ったからであろう。 20世紀前半、「劣等な人間を淘汰し、優秀な遺伝的素質を持った人間を残す。」という優生学が唱えられ、障害者などを生かしてきたことは行き過ぎで、彼らの排除は犯罪ではなく、社会や本人、家族にとっても有益という風潮がはびこった。これを利用したのがヒットラーで、精神障害者、知的障害者、治る見込みのない患者達の大量虐殺を行った。これはT4作戦とよばれ、2年間で7万人が殺害された。作戦中止後も医師等が自発的に殺害を行い、敗戦までに合計20万人以上が殺されたといわれている。「ヒットラーの思想が降りてきた。」とはこのような優生学思想のことである。 容疑者はヘイトクライムのような感情論でなく、合理的な愛(安楽死、不幸の抑制)と正義(経済の活性化、第三次世界大戦の防止)にもとずいて犯行におよんでいると思われる。勿論、それは国家と健常者の側に立った勝手なものであることはいうまでもない。愛と正義、これはまさに日本脳性麻痺者協会「青い芝の会」が拒否したものだ。「こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなんだ。」として我が子を殺した一方的な親の愛を拒否し、社会の進歩に役立たない者、社会に負担を掛ける者はいらないという正義を拒否した。 ネット上では容疑者ほど極端ではないが、その考えに同調するような書き込みが多くみられる。ということは、我が子の将来を悲観したり、介護に疲れたりして障害者を殺害したことに理解を示し、障害者対策に膨大な経費がかかるから社会の重荷居であるという思いがあって、我々は心の底のどこかで容疑者とつながっているような気がする。 世界的に見れば、1975年国連は「障害者権利宣言」を採択して、障害者も人間として尊重されなければならないと発信した。それから33年して2006年、「障害者権利条約」が採択された。日本も2014年これを批准し、昨年の4月「障害者差別解消法」が施行された。しかし、上にみたように建前は立派に整っても、我々個人の心の問題として障害者差別は払拭されていない。障害者は余計者であるとする無意識の差別意識を取り除くことが出来たとき、我々の心の中に障害者の生命への共感が生まれるのだろう。そのためには障害と向き合わねばならない。 障害を特別なこととし、自分は違うんだとして社会で弱い立場の人、より障害化された人々を排除することによって、自分の価値を高めようとするならば分裂と対立をもたらし、住みにくいギスギスした社会になるだろう。国連国際障害者年行動計画の中で「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである。」といっているのは、その事を指していると思われる。そうではなくて障害を我が事として包摂することが必要である。生産活動に役立たない者は要らないという考えを推し進めていけば、その範囲は際限なく広がる。経済社会の変化によって必要とされる機能は常に変化する。明日はあなたが要らない人になるかもしれない。あるいは貴方や貴方の身内が事故や病気で社会に役立たない人間になるかもしれない。そして、何人も歳をとる。年を取ればほとんどの人は障害を抱えている。また、WHO(世界保健機構)の報告によると生まれた子の5%以上が遺伝と関係がある病気に罹るという。遺伝病が一部の特殊な問題といえないことを示している。従って、ほとんどの人が障害者であるか障害者になっていくのである。あとは程度の問題である。WHOでは障害は健常者の健康領域の延長線上で生ずるとして、健常者と同じ軸上の問題とした。つまり、障害は自分の問題でもあるのだ。そう考えれば、障害者を差別することは自分自身を差別することにつながる。そこではじめて、我々は差別意識の無意味さに気づくだろう。そして、己と同じように全ての人はなにものにも変えがたい「いのち」そのものとして存在する価値があると思えるようになる。そうすれば共生の社会を築けると思う。(2017.1.8)

矢も尽きたか             永田 獏
「鏡がない、時計がない、窓がないという施設はなんだか分かりますか?」とあるメディアのコメンテイターが質問していた。なんだろうと考えても思いつかなかった。それはカジノであるという。己をわすれ、刻をわすれ、世間をわすれて、ひたすら「かけ」に熱中してお金を使わせる恐ろしい所が、カジノであるというのだ。昨年暮れに採決されたIR法案(カジノ法案)はこんんなものを合法化しようというのだ。 三本の矢を掲げて政権交代を実現し、「この道しかない。」「道半ば。」と選挙の度に言葉を換えて、国民の期待をつなぎとめて4連勝という成果をおさめたが、我々の生活は改善の兆しは見えない。日銀の黒田総裁は2年で2%のインフレを達成するといっていたが、「黒田バズーカ砲」は不発、5度も延長しても任期中に実現はおぼつかない。国民は経済成長の実感が持てなく、むしろデフレに逆戻りする雰囲気である。そこで、さいごのよりどころとして、カジノに手をつけたのだろうか。アベノミクスもついに矢が尽きて”ばくち”に手を付けたかという感は否めない。一般に家庭では”ばくち”に 手を染めれば”おしまい”というが、アベノミクス場合はどうなんだろう。カジノの経済効果はGDPを0.2%押し上げるという。そうまでして経済成長しなければならないのか。成長が自己目的化していないか。本来、経済成長は人々を幸せにするためのものであるべきであり、”ばくち”が人々を幸せにするとはとうてい思えない。そのあがりで「美しい国」をつくろうとしたら噴飯ものである。 世界的にみれば、カジノを合法化している国は130国以上、先進国で非合法なのは日本くらいである。「普通の国」になるだけだから、目くじらを立てることもあるまいといった意見もあるが、日本はすでにギャンブル大国である。日本のギャンブル型レジャーは36兆円あまり(2015年レジャー白書)、その内パチンコ産業が23兆円でこれは世界のカジノの売り上げ1800億ドルを上回る。一人当たり年間約30万円の支出は世界一である。 ギャンブル依存症が突出して多い(日本5%、欧米2%未満)のもうなずける。ギャンブルは得をした人と損をした人との間でお金が行き来するだけで何も価値を生み出さない。こんなものをこれ以上増やす必要はないだろう。だから、各種世論調査でも国民の6割近い人が疑問をていしている。 もともとこのカジノ法案は、2013年に議員立法として提出されたが、政治状況によって3年間棚ざらしになっていたもので、もうこれはないかと思っていたが、ここへ来て、衆議院ではわずか6時間の審議で強行採決されてしまった。カジノにともなう様々な問題は1年以内に決める実施法にゆだねるというのだから、とにかくなにがなんでも決めてしまえという無茶な話しだ。なぜこんなにまでして急いで通したのかについては、巷間では二つのことが言われている。一つは憲法問題で、維新を取り込むための撒き餌であるということだ、すでに大阪夢の洲と横浜につくること、また業者も決まっているという。憲法と博打をバーターするとはなんとも品位のかける話しではある。もう一つはトランプ新大統領への手土産という話しだ。クリントン候補の当選を見越して、アメリカで彼女には会ったが、トランプ候補には合わなかった。 トランプ氏がご機嫌ななめになるのは当然だ。首相にはロシアと領土問題で成果を上げ、二つの国との外交成果をもって選挙に打って出て、悲願の憲法改正を達成したかったが、ロシアにはプーチン首相に2時間も待たされあげく領土問題はなんの成果もあげられなかった。アメリカでは予想に反してトランプ候補が当選してしまった。ならばとゴルフクラブとともにカジノをひっさげて、もみ手をして擦り寄ったというわけだ。なぜかといえば、トランプ候補の強力なスポンサーの一人、シェルドン・アデルソンは世界のカジノ王(ラスベガス・サンズの会長)といわれている。彼は選挙中27億円もの献金をしている。日本にはカジノのノウハウはない。従って外資に頼らざるを得ない。下降気味のカジノ産業にとって、日本は残された最後のおいしい土地なのだ。TPPと同じく、日本収奪のために我々の資産を差し出そうと言うわけだ。 これらの話が本当なら、カジノ法は国の将来を見据えたものでなく、当面の政権維持のための「今だけ、自分だけ」の政策といわざるをえないだろう。 (2017.1.19)

弱者への想像力      永田    獏
先頃、約50数年ぶりに大学の同期会を行った。私の卒業した時は、池田内閣の所得倍増政策が始まり、高度経済成長時代へと進んだ時である。賃金年はごとに上がり、物は豊かになった。TVで観たアメリカ生活が現実のものになったころの事に話が及ぶのは当然の成り行きであった。そういう中で、先進国としての条件に社会的弱者へどう関わるかが重要な指標であるという話がでた。その時、大学教授をしていた一人が、「その事に関連した本を書いたから読んでくれ。」といって一冊の著書を配った。本の題名は「弱者への想像力」である。 その本の中で、彼はまず「豊かさというのは、その社会の一番弱い人々をどういうふうに扱うかということに最もよく表れていると思います。」というデンマーク・オールセン福祉大臣の言葉を紹介し、今日の日本は競争と比較社会である。そこでは競争に打ち勝った者が支配する「強者の世界」であって、多くの人々は先の見えない閉塞状況に置かれているとし、そこから解放されるためには、「弱者への想像力」を基軸に人間を考えるべきである。そうしてはじめて人と人がつながりあった連帯社会、真に豊かな社会が生まれる。また「弱者への想像力」は同情でなく、共感によって膨らむ。共感とは相手の思いをわが事のように感じること、自分を相手の身に置いて考えることであると説いている。 ここで、弱者への想像力を欠いた「強者の世界」の例を身近な道路について考えてみよう。車道はきれいに整備されていて、車はスムースに走れるのに、歩道はでこぼこである。側溝の上を歩かされ、ふたの穴に杖をとられる。鉄板がずれていてつまずく。車庫や農地の出入り口は低くなっていたり、斜めになっている。こんな歩道、足腰の弱った高齢者や視覚障害者は恐ろしくて歩けない。車にさえ邪魔にならなければいいと、片輪を歩道に乗りあげて止めてある。町中では居酒屋の看板がはばかることなく置いてある。 障害者権利条約では、障害者が健常者と同じように自由に行動出来るように「合理的配慮」(スロープやリフトの設置など)の必要性をいっているが、私の近くの交差点では30度くらいの角度で点字ブロックが貼り付けてある。名ばかりの合理的配慮である。設計者に「目をつむって歩いてみろ。」といいたい。最近の道路では歩道は車道と同じレベルになっていてかなり広くなっている。これは車椅子の利用者に配慮したものと思われるが、それをいいことに工事用の看板を立てたり、軽トラを止めて農業をしている。車道に避けたくも縁石があって行けない。これにつまずいて骨折した高齢者を幾人も知っているので、国交省に低いポールにすべきだと提案したが、実現していない。 ここまで書いたところで、弱者への想像力に関連した内外のニュースに接したので、それについて述べたい。一つは、ある自治体の生活保護担当職員が、不正受給を許さないというメッセージとして「ほごなめんな」などとローマ字で印刷したジャンパーを着用して職務にあたったことだ。不正受給は0.5%ほどである。多くの人は生活保護が憲法で保障された権利というよりも、恩恵、施しという意識で肩身の狭い思いをして、つつましく暮らしている。ローマ字だから模様くらいにしか思われないかも知れないが、上から目線は態度にあらわれる。受給者の気持ちに寄り添った行政は望むべくもない。 もう一つはハリウッドでGグローブ賞を受賞した女優メリル・ストリープのスピーチの一節である。観客を笑わせ、歯をむき出しにさせたことにたいして、「それは、この国で最も尊敬される席に座りたがっている人が、障害を持つ記者の物まねをしたときのことです。特権、権力、反撃力において、はるかに自分が勝っている相手にたいしての行為です(中略)権力者が公の場で他者をばかにしょうとする衝動に身をゆだねてしまえば、あらゆる人達の生活に波及します。人々に同じ事をしてもいいと、許可を与えることになるからです。侮蔑は侮蔑を招きます。暴力は暴力をあおります。権力者が立場を利用して他人をいじめれば、私たちはみな負けるのです。いいわ、やりたければどうぞ続けてみなさい。」このスピーチに触れてアメリカってすごいなと思った。しかし、ものまねされた記者がどれだけ傷つくかという想像力のかけらもない人が、世界の指導者になるかと思うとやりきれないきもちである。日本でも沖縄の人を土人と言った警察官があったが、それが少なからぬ権力者に容認されている。世界は「弱者への想像力」を基軸にした共感と連帯の社会でなく、差別と分断の方向へ進むのだろうか。(2017.3.1)

亡びるね          永田  獏
偶然、街角で友人と会って、立ち話をしたのであるが、そこで「このままじゃあ日本は崩壊するね。」という話しが出た。それは、政治の劣化のことである。安倍首相は云々を「でんでん」と読み、市井を「しい」といった。この程度は麻生元総理も未曾有を読めなかったし、本家のアメリカ第七代ジャクソ大統領もall correctの綴りを間違えてokと書いてそれが今では世界で通用しているから、まあいいでしょう。何よりもいけないのは、私は立法府の長と、言ったことだ。三権分立の基本を知らない発言だ。貴方は行政府の長でしょう。トップがこうだから、大臣達の問題行動や発言は枚挙にいとまがない。特にひどいのはカジノ法案の質疑で谷川弥一元文部科学副大臣が「時間が余っている」と言って般若心経を唱えて解説し、さらに余ったと言って夏目漱石の作品の解説をしたことである。これは国会と仏教の冒涜で有り、憲政史に残る恥辱である。政治家は駄目でも官僚が優秀だからもっているといわれていたが、それもあやしくなっている。例えば話題の森友問題。これにおける財務省の対応は異例ずくめあるから、当然説明責任を果たすために交渉記録は取っておかなければならないが、破棄したという。中国では王朝の滅亡は官僚の腐敗と民衆の反乱によることが多かった。自衛隊は南スーダンにおける日報をかくした。現場の正確な情報が伝わらないと誤った判断によって国を危うくする。それはかっての大本営発表で経験したことだ。最近ではアメリカのブッシュ大統領はCIAのイラクに大量破壊兵器があるという誤った情報で戦争に突入して国力を疲弊させ、世界の警察官を辞めざるをえなかった。 働き方改革というから労働者の生活が良くなるかと思ったら、とんでもない。残業時間月100時間未満を労使で合意してしまった。100時間を1秒でも欠ければ、そこまで働かせていいとお墨付きを与えたのである。ブラックがブラックでなくなってしまうのである。一方でプレミアムフライデーなんて騒いでいる。ほとんど分裂病ですね。一日8時間働いてその上に5時間、これが20日間続くのである。これで健康で文化的な生活が出来るのだろうか。1833年イギリスは工場法を制定して労働時間を制限した。それはこのまま長時間労働を許していたら、国民の健康がおかされて国の存立が危うくなるという危機感からである。歴史に学んでいない。もっともグローバル企業は愛国心なんかないから、国が滅んでもどうってことない。労働者は世界中にいくらでもいる。 こんな状態にもかかわらず、支持率は高止まり、各種の選挙でも与党は健闘している。なんでかと思ったら、内閣府の調査によると国民の7割が今の生活に満足しているという。外国からみると日本は結構豊かで、住みよい国なんだ。まず、日本は世界一の債権国(金持ち)、アメリカほどの格差はない。政治は安定している。今のところテロもなく平和で安全である。失業率は2.8%でほぼ完全雇用に近い。また長寿国でもある。 以前なら、大臣の首がとんだり政権が倒れたりするような事態でも、いっときざわめくだけでなにごともなかったかのように過ぎていく。支持率は一向に下がらない。寛容な国民に支えられて政治は与党の思うままだ。与野党が緊張感を持って議論を戦わせて政策を磨くということがない。こうしてジワジワと劣化が進んでいくのだろうか。 夏目漱石は日露戦争の勝利で国民が高揚しているときに、「三四郎」で「亡びるね」と書いた。それから敗戦で大日本帝国が崩壊するまで40年かかった。してみると私の目の黒いうちは大丈夫ということか。(2017.5.7)

永田岳に登る        永田 獏
「人生に必要なものは、夢と勇気と少しばかりのお金」(チャップリン)。数年前、屋久島に永田岳という名の山があることを知って、これは登らねばなるまいという夢を持つようになった。幸い、少しばかりのお金はある。後は決断だけだ。私の場合、2泊3日が限界であるが、今回は山中で3泊しなければならない。小屋は無人で、テント意外はすべて持ち上げねばならない。限界を超えての挑戦である。体力は年ごとに衰える。私も今年で喜寿。今年をのがせば、もう無理だろう。用事、体調、天候という条件が整ったら行こうと決めた。永田岳への途中に縄文杉があるので、もう一つ、できれば混雑期を避けたいという欲張りな条件を加えた。この中で一番問題なのは天候である。林芙美子の「浮雲。」に「一月に35日雨が降る」という表現があるほど雨の多い島。連休明けの5月、用事をはずし、体調を整えて、天気予報を眺める日が続いた。中旬、やっと三日ほど晴れるという予報によろこんで、急遽夜行バスで屋久島に向かった。 最初の日は曇りの予報であったが、登山口の白谷雲水峡へ向かうバスの途中から小雨が降り出した。雲水峡はアニメ映画「もののけ姫」のモデルになった深い森に包まれた峡谷である。一泊目の小屋までは一時間足らず。苔に覆われた森は、雨に濡れてしっとりとして、趣を増していた。さいわい夕方には雨もあがった。 次の日の行程は6時間。峠を越えて、縄文杉へのノーマルルートであるトロッコ道に降りるとそれまでの静かな雰囲気は一変し、次々と人がやって来る。二カ所ある便所では行列ができていた。軌道から別れると急登がはじまる。これはかなりきつかった。途中に夫婦杉、大王杉などの屋久杉の大木があるが、特に大王杉は圧巻であった。太い幹が真っ直ぐにすっくと立ち上がった姿は、まさに大王というにふさわしいものであった。縄文杉は正面と左右に見学用のデッキがしつらえてあり、人々は思い思いの仕方で観賞していた。縄文杉は他の屋久杉とは桁違いの迫力で迫ってくる。人々の喧噪の中ではゆっくりと対面するのは難しいので、これは帰りにして先へ進んだ。新高塚小屋へは12時に着いた。ここは海抜1500m、空気はひんやりとして少し寒い。午後は日向で日光を浴びて疲れを癒やした。 三日目はいよいよ永田岳へ、行程は9時間であるが雨具と食料だけの軽装なので、そんなにかからず、軽快に飛ばした。森林限界を過ぎると、一面、屋久笹に覆われ、基盤岩である屋久花崗岩の巨石が点在していた。この岩は柔らかく浸食されやすいので、多量の雨で丸くなり優しい感じであった。正面にこの島の最高峰宮之浦岳、その右に永田岳が快晴の空にそびえていた。永田岳の頂きも巨石に覆われていて、そこからは眼下に永田の集落と白い砂浜、その先には口之永良部島と噴煙が眺められた。多くの登山者は縦走をするので、宮之浦岳を登った帰路は誰にも会わず、出合ったのは樹林帯に入って登山道に出てきた可愛い屋久鹿だけであった。 最後の日は12時のバスに乗るために4時に出発、ヘッドランプを頼りに慎重に下った。縄文杉の所まで来ると明るくなり、誰も居ないデッキに横になってゆっくりと対面できた。 あらためて眺めてみると、根元の当たりは苔むしてもおらず、隆々として若々しささえ感じられた。幹の途中に着生植物が生えていて、白い花が咲いていた。さながら子供を抱えて大地を踏みしめている肝っ玉母さんの趣があった。樹齢数千年といわれるお前、それに比べれば私の70数年の人生など鴻毛のようなものだ。しかし、そのお前も地球や宇宙に比べれば一瞬の命に過ぎない。私もやがて死ぬ。お前も朽ち果てるだろ。それを糧にしてまた、新しい命が宿る。生きるとはどういうことか。おそらく与えられたそれぞれの一瞬の生を精一杯生きて無に帰することではないか。その時、般若心経の一節、色即是空(目に見えるものはすべて実体がなく)空即是色(実体のないものが形あるものである)が頭をよぎった。 軌道敷へ下りて少し行くと前方に灰色の塊が見えた。何かと思ったら、大きな猿が2匹日なたぼっこをしていた。どいてよと言って通る。暫くすると一人、また一人と人が増え、来はくるはの大賑わい。今日は土曜日だった。軌道を離れて峠を越えて下れば、もうそこは雲水峡の登山口、予定より2時間も早く着くことが出来た。 帰りは高速船は止してフェリーでゆっくり島を離れることにした。規則的なエンジンの鼓動が腹に響いて心地良い。少しずつ遠ざかる島影を眺めながら、山行の思い出にふければ、旅情はいやが上にもかき立てられた。鹿児島港に近づくと、左手に富士山型の端整な山容が見えてきた。開聞岳である。あー登ってみたい。また山の虫が起きてしまった。永田岳に登りたいというこの世の未練を一つ消したというのに、また新たな未練ができてしまった。こりゃあ、当分ご先祖様に永田岳に登った報告は出来ないなと思った。(2017.6.18)

利尻山旅情        永田 獏
5月に南の屋久島の山に登ったので、今度は北の果て利尻山に登ろうと7月初め、名古屋からフェリーで北海道に渡った。苫小牧から札幌を抜け、留萌からエゾカンゾウやハマナスの咲き乱れるサロベツ原野の海岸線をひた走りに走った。ほとんど直線に近い道路をみんな高速道路並みに走っているので、私がかなりのスピードで走っても高齢者マークを付けた年寄が、もたもたしているような錯覚をおぼえるほどであった。途中、偶然に泊まった初山別(しょさんべつ)の野営場は海に面した高台の一面芝生の素晴らしいところで、隣には温泉付きの道の駅があった。後で知ったのだが、ここはテレビドラマ「白線流し」に登場したところらしい。遠くにそびえる利尻山の横に沈む夕日を眺めていると、ああ北海道に来たのだという実感が沸いてきた。 稚内から船で利尻島に渡り、港から歩いた。利尻山は本土の3000b級と同じだといわれている。穂高は1500bの上高地から標高差は1500b、利尻山は港から1700bの標高差をすべて歩かなければならない。野営場の管理人に11時間かかると脅かされたので、暗いうちに出ることにして、初めて携帯トイレというものを購入した。自分の出したものの温もりを背中に感じながら歩くのは、妙な気分であった。樹林帯を抜けて、長官山という肩のようなところに着くと、目の前にドーンと500bの高さで聳えている利尻山が目に入る。鋭角の三角錐のような山容は幾筋もの雪渓を伴っていた。九合目からはほとんど直登と言っていいほどの急登である。「ここからが正念場」英語でtough trail(タフ、トレイル)と書いてあった。頂上直下では数十歩行っては一息入れねばならなかった。ふと、ヒマラヤへ行った時の苦しさを思い出した。空は晴れていたが、下は一面の雲海。礼文島の細長い山並みが見えるだけだった。頂上に咲いていたハクサンイチゲの白い花が印象的であった。 帰りは、稚内から宗谷岬をまわり、北東の海岸線をオホーツクの海を左に見ながら、網走まで走った。疲れると道の駅に寄って一息入れ、土地の物産を物色するのも楽しみの一つである。北海道は道の駅が沢山あるので(119カ所、ちなみに長野県は44カ所)車で旅する人は立ち寄っては休んでいく。ことに温泉付きの道の駅は人気が高く、夕暮れともなれば、思い思いの装いをこらした車中泊をする人の車で駐車場は満杯である。 網走から内陸入り、ジャガイモ街道を走って、是非とも見たいと思っていた摩周湖に向かった。摩周湖は第三展望台がおすすめ、第一展望台の賑やかさに比して、ここは人もまばら、駐車料金もいらない。一番高いところにあるので、何にもじゃまされずに深い紺碧の湖全体を見渡すことが出来る。早朝か夕暮れに来ればもっといいだろう。雄阿寒岳の上から眺めた阿寒湖は絶景ではあったが、ただ美しいといいうだけだった。摩周湖は違った。美しいと同時に怖さを感じた。積年の己の悪行をじっと見透かされているようだった。思えばこの年になっても、煩悩まみれ、「悪性さらにやめがたし、心は蛇喝(毒蛇やサソリ)のごとくなり」(親鸞)という状態である。摩周湖ブルーの湖底から「あとわずかの命、そろそろ身を正したらどうだ。」と問い詰められているようだった。一時ではあるが、そうだな、そろそろ正さねばと思ったが、凡人の哀しさ、下におりたら元の木阿弥。 稚内では日が入るとダウンを着るほどであったのに、日を重ねるにしたがって暑くなり、釧路湿原に来た頃には猛暑注意報が出る始末。これじゃあ北海道へ来たかいがない。もう4,5日居るつもりだったが、疲れも溜まってきたしそろそろ潮時かと思い、帰ることにした。ただ最後に寄った襟裳岬だけは風も強く、寒かった。強い風のため、樹木は育たず、一面の草原、花々も3,40pほどで風にゆれていた。岬は足摺岬のような岩礁でとても美しかった。夕暮れになると風はさらに強まり、あまりの風の強さに私のバンはふわふわとゆれ、倒れやしないかと恐ろしくなった。こんな所では泊まれない。苫小牧の方角に車を走らせて、適当な場所を物色していると、ちょうどいい案配に草に覆われた小高い二つの丘の間に、風を避けて建てられた稲荷神社を見つけた。拝礼をしてそこの境内に泊めて貰うことにした。薄暗くなって、食事をしていて、ふと外を見ると、なんとエゾシカが一匹、二匹、さらに数は増え、ついには十数匹境内の草を食んでいる。可愛いバンビも居るではないか。道中、キタキツネやエゾシカには度々出合ったが、集落の側でこれだけ沢山は初めてであった。旅の最後にいい思い出を与えて貰った。 一週間で、登った山四座、走行距離1500キロ。あわただしい旅はこうして終わった。苫小牧から再び船上の人となり、二泊三日のゆったりとした船旅を楽しみ、疲れを癒やしたのだった。

みちのくに遊ぶ     永田  獏
東北地方へは、東日本大震災時のボランティアで仙台まで言っただけで、それ以北へは足を踏み入れたことがなかった。みちのくと言われる地域へ是非行ってみたいと、かねがね思っていた。特に、高野山、比叡山とならぶ三大霊場の一つ、恐山菩提寺に行ってみたかった。地獄、極楽浄土を彷彿とさせる風景が広がり、「この世」にいながら「あの世」に 近づける場所とされていて、「ひとは死ねば、お山(恐山)さ行ぐ」。下北の人々はこう言い、この山に深い祈りを捧げてきたという。人生もあと残り少なくなって、「あの世」が身近に感じられるようになったので、最後の未訪霊場へ行かなくてはと思った。 そして、もう一つ俗な理由ではあるが、昨年の参議院選挙の後、慶大名誉教授で憲法学者の小林節氏と評論家の佐高信氏が選挙結果(一人区)について対談していて、その中で、明治維新時、戊辰戦争で薩長官軍と戦った奥羽越列藩同盟の地で、裏切った秋田以外は皆野党が勝った。長州(山口)が地盤の安倍首相への遺恨じゃあないかと言うようなことを言っていた。 ヘエーそういうこともあるんだと余計に興味を覚えた。そういえば、戊辰戦争以来薩長側は、東北地方を「白河以北一山百文」一山で百文(鰻丼一杯くらい)にしかならない荒れ地ばかりと卑下したし、薩長藩閥政府の下では、東北の人々は軍隊以外では出世はかなわず不遇をかこった。というようなことが思い起こされて、一層東北への思いがつのった。 猛暑の続いた今年の夏も、彼岸を過ぎてようやく旅をしようかという気持ちになる日が訪れたので、9月末、東北への旅に向かった。勿論、一週間で2700キロを走り抜けた旅で、東北の人々の心の深層など伺うべくもないことは当然であった。しかし、八甲田山の紅葉、奥入瀬渓谷の清流、白神山地の深い森はいづれも豊かな自然であった。また、人間の営みとして、三内丸山遺跡は五千年前のすぐれた縄文文化の存在をを示していたし、寒風山から眺めた広大な八郎潟干拓地は、こがね色に輝き豊かな稔りを約束していた。そして、最後に訪れた平泉では、藤原三代によるきらびやかな仏教文化遺跡があった。それらは決して「百文」どころか、どれも日本の 優れた宝であることを物語っていた。 みちのくの旅の最後の日、前夜、秋田道の温泉付サービスエリアで泊まった私は、早朝、平泉に着いた。団体客の喧噪を避けて、金色堂の開く前に中尊寺の急な参道をゆっくりと登った。一週間前の猛暑が嘘のように空気はひんやりとして、気持ちがよかった。太い杉並木の間にある楓は、紅葉にはまだ早く数葉が色づいているだけだった。金色堂までの長い路を歩きながら、高校時代に読んだ、吉川英治の「新平家物語」の一節を思い返した。三代秀衡の悩みは、子達がいずれも凡庸であることであった。そこで彼は、軍事的天才で朝廷とも結びつきのある義経を総大将に立てて、鎌倉と対峙するように遺言して 没する。ところが嫡男泰衡は、義経を衣川の館に攻め、首を頼朝に差し出すことによって生き残りを図った。もとより頼朝は奥州権力を存続させる気などさらさらなく、弟を殺したと因縁を付けてこれを滅ぼしてしまった。頼朝の意図を見抜けなかった泰衡は、四代目のアホであった。 金色堂のきらびやかな遺構に息をのんだ 後、ホトトギスの花の咲く庭で抹茶を飲みながら、安倍首相も政治家として三代目だがどうなんだろうと思った。祖父の安倍寛氏は山口の寒村の村長から、東条内閣の戦争方針に真っ向から刃向かい、官憲の監視、弾圧にもめげず大政翼賛会非推薦で立候補し、反戦、反骨の姿勢を貫いた。その寛氏の背中を見て育った父晋太郎氏は特攻隊の生き残りとして、タカ派の系譜を継ぎつつも平和憲法擁護論者であったといわれる。そして、二人とも志半ばにして病に倒れた。それをみると、晋三氏はどうも母方の祖父岸元首相のDNAを受け継いでいるように思われる。岸氏は東条内閣で商工大臣を務め、戦争経済を積極的に進めた。戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨刑務所に収監されたが、のち釈放されてCIAの資金を得て自由民主党を結成したといわれる。憲法改正を悲願としたことを考えると、そこには臥薪嘗胆、面従腹背の気持ちがあったようにも思われる。トランプ大統領との親密な関係を誇示している安倍首相はどうだろう。いまやアメリカは日本を同盟関係というより収奪の対象としている。その意図を見抜いて、後世、三代目のアホと言われないように頑張ってもらいたいものだ。そこまで考えたとき、あれ、旅に来てまで政治向きの話しかよ、と己の性(さが)に苦笑してしまった。そこで、リセットのために隣の毛越寺の浄土庭園をゆっくりと鑑賞して、帰途についた。(2017.11.4)