シルクロードの旅
シルクロードの旅 1985年(昭和60年)
7月28日
大阪空港で、メタを取り上げられてしまう。俺が黙って居ればよいのを全部話してしまって、全員の物を取り上げられる。全くドジ。
上海では、何処へも行けず、困った。飛行機の予約を取ろうとすると、あっちへ行け、こっちへ行けで空港の中をウロウロ。兌換も上へ行け、あっちへ行けでまた苦労する。始めは、なんと中国人は不親切かと思った。言葉が早いので、つっけんどんに聞こえてしよげてしまった。しかし、3時間ほどいると次第になれて、様子がわかり、いろいろ読み方などを教えてくれた。日航の人も色々親切に教えて、斡旋してくれた。成都、西安行きのキャンセル待ちをしたら、20分前に西安行きがとれて、それに乗る。空から眺めると、南船北馬という言葉が実によくわかる。渭水のほとりまで来ると、さすがに山がちであった。
西安空港では、またまた、ハプニング。荷物がないのだ。これには参ってしまった。探せども探せどもない。中国人も自転車でトラックの来た方、飛行機のある方へ行って探してくれたが見つからなかった。話しは通じないし、ほとほと困っていると、天の助け(山田?)とかいう東京の中国語のできる人が来た。色々世話をしてくれた。地獄に仏とはこのことだ。そして、解放飯店というとても安い中国人向けの宿も取ってくれた。空港との連絡もしてくれた。夜9時頃、空港よりрェあったが、全くわからずフロントの女の子を呼んでくる。これが又、相手とは通じてもこっちとは通じず、裏の外国人向けのフロントまで連れて行く。やっと荷物が届いたからと、明日時に取りに行くことにする。ところが10時頃、電話があり、今度は少し英語が出来、すぐに取りに来いとのこと。TAXIで行く。子供妻連れの運転手で、往復20元(始めは片道15元)に交渉し、取りに行ってくる。車はライトもつけず、ブンブン走る。本日一件落着。部屋汚く、便所汚く、臭く、暑く大変である。街は10時半というのに、狂ったように人がいる。ベッドは布団の上にゴザが敷いてあってベトつかないが、しかし、暑い。あまりよく眠れなかった。隣の部屋から、一休さんの日本語の歌が聞こえてくる。4:30起床。
空港の荷物置き場でいたら、中国人どうしが突然ケンカをしたのには驚いた。
7月29日
今朝はまず、公安局へ行く。道順を聞くのが大変。バスの中が又大変。着いてみれば、公安局ではやっておらず、陝西省公安庁へ行けと言われ、3路バスがわからず人民大廈まで歩く。人民大廈はさすがに立派なホテルで、我々の泊まっているのとは雲泥の差あり。旅行許可証をもらってから、大雁塔へ行く。沿道は色々な店があって面白かった。スイかを買って食べたがおいしかった。朝、裏の外国人専用のフロントで31日の烏魯木斉行きを予約していく。昼過ぎ、帰ってきてウトウトしていると、рり昨日世話になった田中さんが、マイクロで東方遊をするからと誘われて、行くことにする。4元で行けるところをマイクロなので16元かかったが、おかげで快適に見て回ることが出来た。そんなに感激するところもなかった。帰りにまたホテルでウルムチ行きの早い切符とホテル変更(外国人用)の交渉をお願いする。全く見ず知らずの人に厚かましいお願いだとは思ったが、やってもらった。ホテルは変更できた。フロントで饅頭をもらって食べたが美味しかった。夜、二人が食事に出ている間に少々酒を召しているおじさんが来て、何やら話しをする。困ったが、少し英語のできる女性を連れて来たので、早い(同日)便の烏魯木斉行きが取れたという事が分かった。多分、そういう事だと思う。昨夜は蚊にやられてまいった。4時間位しか眠られなかった。
7月30日
西方遊へ行く。行に2時間近くかかる。しかし、昨日より乾陵、茂陵も迫力があってよかった。日本人の学生くずれとも一緒だったし、華僑の人にもいろいろと教えてもらって昼食も一緒にした。
帰ってきて、(16:30)今朝予約した部屋の事をいったら、現在没有、参った。再度交渉。Waite for moment―やっと部屋に入る。さすが約19元のことはあって、昨夜とは雲泥の差、これくらいの所に泊まらないと体がもたない。夜、出る。出店があり、薄暗い所に人がひしめき合って色々な物を売っていて、面白かった。夜店でスイかを食った。大分ボラレた感じがする。三倍くらいにふっかけられた。明日の烏魯木斉行きの切符も手に入った。いよいよ河西回廊へ入る。テープ、一休さん、星影のワルツ、北国の春、夢先案内人
7月31日
昨日、食堂の場所を聞きに行って粥を食べたいといったら、ここには粥はないと言われ、そしたら、フロントの女性が”わたし、あなたに粥かいます”と書いてくれた。朝、7時半に行ったら、女性がロビーに粥と饅頭を買って来てくれていた。結構旨かった。親切がとても嬉しかった。出るとき、謝謝、
中日友好、中華人民共和国万歳!我行烏魯木斉、吐魯番、喀什、”西方出陽関無故人”再見と書いて置いてきてら、笑っていた。朝食、3人で1元。
7:31の上海から来た53次直快軟臥に乗る。待合室(候車処)で乞食が金を無心に来た。乗るときが大騒ぎ、軟臥車に乗るのにどうしてあんなに
ひしめき合うのか不思議である。同乗の人はparty school(高等学校クラス)の政治経済学の先生で、薬剤学もやっていて父親は1923年東大に留学したそうだが、日本の事はあまり話してくれなかったそうだ。きっと悪い印象ばかりで話せなかったのだろう。
列車からの眺めは素晴らしい。黄土地帯の、のどかな農村風景、平坦地から黄土台地、耕至天感じの地平線、渭水の蛇行と山の織りなす風景は筆舌に尽くしがたいものがある。天水を過ぎると、空気が乾燥し、体がベトつかなくなり口がとても渇く。冷えてきた。軟臥車は疲れなくて快適である。
西安駅で改札口や待合室を聞いた人が、我々のコンパートメントまでやってきた。彼は玉門へ新婚旅行をかねて、仕事に行くと言っていた。飴を沢山くれた。文化祭で買ったパンストを新婚祝いにやった。同乗の人がいるときは受け取らなかったが、彼がいないときに請求したので渡した。
8月1日
寝たかどうか分からないような状態で、朝6時頃起きる。素晴らしい景色だ。祁連山の山容と草原、馬の親子が草を食んでいる。遠くに集落が見える。三、四人の男女が仕事にいそぐ。
武威のあたりまではとても涼しく、高原列車のようで、とても砂漠を走っているようには思えなかったが、それからゴビに下ると気温は車内で35度を超える。しかし、わりと過ごしやすい。張掖で西瓜、パン、りんごを買う。西安駅で知り合った男女が訪ねてきて、色々話をした。西瓜も買ってきた。彼らは新婚旅行と仕事をかねて玉門へ行くそうだ。タバコを勧められ、こちらもやる。新婚プレゼントにタイツをやろうとしたが、先生のいるうちは決してとろうとはしなかったが、国家的人が寝たら、向こうから請求してきた。随分気を使って入りみたい。ライターもやる。
砂漠の風景はいつまで見ていても飽きない。遠くに祁連山を望み、所々にオアシスが散在し、岩山有り、万里の長城ありで素晴らしい。列車から嘉峪関を見た。感激した。長城をクロスした列車は走る。次第に望楼と城壁が遠ざかっていく。ついに長城の外れに来たのだ。酒泉よりも是非泊まってみたい街だ。嘉峪関市は駅も大変美しい。砂漠の日没は殊に美しい。祁連山の白が少しずつ赤みを帯び、そして紫、黒と変化していく。男のロマンをそそる。汽車の旅は全くすばらしい。機関車の音を聞くと、なにか人間的なものを感じてしまう。
8月2日
砂漠の日の出は素晴らしい。ハミ瓜を買って食う。ハミ瓜は少し青臭くて肉質が堅いが、甘かった。昨日買った西瓜は朝食ったが、まずくて半分捨ててしまう。ハミまではステップのような感じの砂漠だった。村もポプラも沢山あったが、ハミを過ぎると全くなにもない。岩山、砂山、グランドキャニオンのような風景。さらに平らな砂漠が続く。今日は北風がすごい。窓を開けて居れば缶詰も倒れそうだ。吐魯番へ下るとものすごく暑い。熱風が吹き込み、耐えられない。遠くに蜃気楼が見えた。
烏魯木斉に着く、まず長途汽車站がわからない。丁度あの先生に駅前で会い、彼の出迎えの人に教えてもらい、バスに乗る。例によって戦争。親切な人がいて、一緒に連れて行ってくれた。ところが、切符はもうない、5日までないという。そこで日本語、英語めちゃくちゃに混ぜて拝み倒したら、なんと明日8時の切符が3枚出てきた。これはラッキー。しかし、崑崙賓館ではみごとに断られた。もう10時は過ぎているし、本当に困った。明らかに空室はあるのに、泊めようとしない。腹が立つ。烏魯木斉賓館へ行けという。そうしたら、若い人がわざわざ連れて出て、太った男の人と話をしてくれて、その人が烏魯木斉賓館に連れてきてくれて、交渉してくれた。やっと泊まれる。本当に人の情けが有難かった。言葉の通じないところで、親切にしてもらえることほどうれしいことはない。人間万歳!
8月3日
5時に起きる。昨夜遅かったので、つらかった。バスもタクシーもなかったので、汽車站まで40分歩く。8時10分に出たけれど、駅前で人を乗せるのに席のことで大騒ぎ。結局そこで1時間も掛ってしまった。天山の山間はすごい。木一草のない岩山を5時間も突っ走る。そのほかは砂漠。所々にオアシスがある。2〜3時間に一回くらいで休む。西瓜をよく食った。口が渇き、ほこりが大変だ。泊まったのは夜の8時半、12時間の旅、さすがにまいった。上海から来た学生と一緒になり、その世話でうまく泊まり、同宿する。彼は英語が話せるので、名取氏とコミュニケイトしてなんとか話しがつながる。あと三日これは馬鹿か狂人のする旅だ。オアシスの宿は蚊が多くてたまらない。砂漠のすごさは来てみないとわからない。
8月4日
7:30出発。少し遅れる。海抜1000メートル前後なので朝は寒い。ダウンの中着をきる。ところどころに塩の吹いたところや、荒れた砂漠があったが、おおむねステップか草原のようなところが多かった。しかし、クチャの手前からは再び荒涼とした砂漠になる。今日の旅は殊にきつかった。11時頃一度休んだきりで、夕方7時半までぶっ続けに運転するのだからたまらない。よく運転手の体が持つと思う。途中で西瓜を食ったりして、楽しもうと思ったのに何も食わずにもう、ほとんど脱水状態に近い。どうしてこんなに急ぐのだろう。右側に見える天山の山並みは素晴らしい。所々で竜巻も起こっていた。バスの中で、日本円を見せろと言うことで見せたら、大騒ぎ。前へいったり、後へ行ったり。何処かへ行ってしまわないかと心配してしまった。
砂漠の途中のトイレはけっさくである。女子はバスの見える範囲内で遠くへ行き、草むらで用を足す。男は近くでやる。クチャの前のオアシスでバザールが開かれていて、大騒ぎであった。クチャの旅社も例の青年の世話になる。喉がヒリヒリするし、頭も少し痛い。風邪にならなければよいが、、、
窓側に座っていると乾燥した風がビュンビュン吹いて、喉がやられてしまう。それに休憩がないから水分の補給が出来ず、よけいに喉がやられる。ポカリスエットやタオルはバスの屋根の上だし、なんの為にわざわざ持ってきたのかわかりゃあしない。第一日目のポカリスエットはよかったのになー。全くハチだよ。泊まるごとに荷物は下ろしてくれると思ったのに。車掌の女性もずっと一緒だ。この国の労働基準はどうなっているんだろう。
8月5日
今朝7:30の予定がアウト。ラジェターが壊れてしまって駄目。PM2:00の予定というが、果たしてそれまでに直るかどうかわからない。まあ明日になるんじゃないかな。昨夜から喉をやられて熱っぽい。37.5度ある。エンジントラブルは天佑だ。少し休養ができてよい。
驚いたことに、2:00にらじぇたは直ってしまった。2時少し前に出発。しかし、3時間も行かないうちに、パンク。また30分ほど停車。それから一度30分程休んだだけで10時までぶっ続けにはしる。全くまいるよ。クチャからは全く荒涼としていて、ほとんど何も生えていない。シルクロードがクチャから天山を越えて、イシク・クル湖の方へ迂回しているわけが分かった。アクスの近くへ来ると再び、草原状になる。道路の天山側は荒地、左側はオアシス・ステップの連続であった。
8月6日(火)
7:00出発の予定が、一人いなくて8:00ちかくになる。アクスの勢力範囲を超えると、また荒涼とした旅、途中で今回は二回ほど休む。まあ、良い方だ。夕方6時頃喀什(カシュガル)に着く。やっと来たという思いが強い。中国民航オフィスに行って、航空券予約をしようとしてら、14日まで無いと言われた。まいったねー。途中で馬車を止めて、新賓館へ行く。始めてめしらしいものを食べる。ビールもうまかった。東京の教員と会い、情報交換をする。明日、もう一度オフィスに行ってチャレンジしてみたい。そうしないと飯田へ帰れない。大変なことになってしまう。拉薩(ラサ)どころのさわぎではない。しかし、ここへきて予定が狂うとは残念だ。
8月7日
朝、7:00起床。ホジャー香妃の墓まで歩く。少し疲れた。しかし、10時から開くと言うことで、外からしか見ることが出来なかった。帰りは馬車にする。民航局へ11時頃行った。キャンセル待ちしたが、駄目。バスとヒッチハイクで机場まで行って待ったが、駄目。今日はチャーター便も含めて三便も飛んでいるから、三つくらいならわけはないのに。後から来た人でもちゃんと乗っている。しかし、我々が行くと、没有、not。どうしょうもない。仕方なしに帰る。ホテルで一休みして、国際旅社へ行ったが、日本語が通じるということだったが、全然通じなかった。仕方なしに、バザールに行った。後からウイグルの旅社員が付いてきて、休憩だから案内すると言った。彼はどうも兌換券がほしいらしかった。バザールで帽子とナイフを買う。彼の話によると、ウイグルと漢人とは大分軋轢があるようだ。できれば独立したいけど武力で押さえられているというようなことも言っていた。そしてこのことは秘密にしておいてくれ、そうでないと、prisonに入らなければならないと言っていた。色々と日本人のバックパッカーに出合って、話しを聞くと、民航オフィスはあんなものらしい。あせらずゆっくりやりましょう。ここで急いでもしょうがない。あとはなんとかなるさ。
8月8日
今日はゆっくり起きて、朝食を食べ、K時頃バザールへ出かけて、土産物を買う。俺はナイフを買った。28元もして高かったけど、どうしても欲しかった。それと、馬やロバに付ける鈴んも買った。早めに帰り、夕食。昼はシシカバブーと西瓜で済ます。明日が勝負だ。なんとなく不安だ。切符が取れなければ、バスになるかもしれない。困ったものだ。何とか神の助けで切符が手には入ってほしいものだ。バザールの値段の交渉は面白い。買った物が安いのか、高いのか本当のところは全く分からない。
8月9日
今朝は6:00に起きて、7:00ころ出て、8:30〜10:00過ぎまで待ってやっと中に入り、交渉は失敗。12:00過ぎまで掛っても、得た結論は明天来だけだった。そこで相談をして、あの地獄の道を再び烏魯木斉へ行くことにした。なんのことはない、喀什では4日間民航に振り回されていただけだった。今までの旅はとても素敵だったのに、喀什では悪い印象だけだった。ウイグル人は値段を吹っ掛けるし、だいたい馬車の値段は2角と言うことが分かった。
我々の計画は大陸的、中国的ではなかった。欲張り過ぎたのだ。拉薩おもねらったのが間違いであった。この日数で自由旅行をするのは、せいぜい烏魯木斉まで。そうすれば、ゆっくりとゆとりのある旅が出来ただろう。しかし、シルクロードの果てまで来たいという想いは残ってしまったであろう。どちらがよいか、それはそれぞれの考え方次第だ。
8月10日
よく眠れなかった。6時起きで鍵の掛ったドアの横をなんとか開けて出る。門では守衛が外で寝ていた。西瓜を食べて出る。しかし、何もあんなに早く出ることはなかった。8時ということであったのに、実際は10時出発だ。とにかく非合理的なやり方をしているから、時間が掛る。あんまり良い思い出を持てなかったが、とにかく目的地喀什を再び汽車で去る。今朝から少し下痢気味。昨日、油物やビールをいつになく食ったり、飲んだせいだろう。アクスに着いても、まだ止まらない。ほとんど西瓜ばかり食べていた。なんとか止まらないと、体力と気力が落ちてしまって駄目だ。なんとしてでも、飯田へ帰らなければ。”天山に死す”なんて格好にいいことを言って来たが、この乾燥した薄汚れた砂漠で死にたくない。やはり、獄Lかで水清らかな日本の地が素晴らしい。今夜は缶詰のシロップだけにしておく。
8月11日
夜中に4回も下痢で起きる。つらい。バスに乗るときも不安でしょうがない。もし出そうになったらどうしよう。何も飲まず、食わずに乗るその辛いこと。最後の2〜3時間は目も開けておられないほどだ。やっと宿に着き、缶詰のシロップのみ。棒のように寝る。くさい宿で5人寝た。
8月12日
今朝もまだ少し粘液のような便が出る。したがってシロップだけにする。だが、昨日より大分気分が良い。そんなに疲れがなかった。それと今回は3泊4日でなく、2泊3日で、夜8時15分ころ烏魯木斉に着いた。降りた所でタクシーを値切って失敗した。紅山飯店で断られ、烏魯木斉賓館でOKになった時は拝みたいような気持ちだった。結局、18元も三輪タクシーに取られてしまった。へたに値切るとろくなことはないという勉強。今日のウルムチは風が強くてホコリが一杯で、目も開けられないぐらい。
8月13日
朝、よく寝た。ベッドの上は疲れが取れる。しかし、起きづらい。7:30まで寝てしまった。例によってシロップ。下痢はまだ続く。まず、民航へ行く。しかし、相手にされない。火車站へ、そこで三人が3列に並んで切符を取る。名取氏が最初に今日の硬座を偶然取る。(14日を申し込んだのに13日をくれた。)そこで、俺が一人残って明日の軟臥を取り、その間に二人は宿へかえってパッキングをして、日航へрオてリコンファームの交渉を頼むことにした。10〜2時頃まで並んだが、、俺の方はまだ順番が来ない。途中に1時間の休憩がある。喉は渇くし、全く疲れた。やっとこ順番が来た。日航も相手にしてくれなかったようで、今日の硬座で帰ることにした。最悪のパターン。これで帰っても48時間前、72時間前には間に合わない。硬座に乗ってから、公弁室へ行って硬座から硬臥への変更を頼む。一つは取れたが、あと二つはハミ休んでおれということであった。火車の人は大変好意的である。民航の人もこのくらいであれば良いのに。硬臥もなかなか乗り心地が良い。トルファンを過ぎたところで、おばさんがハミウリをくれた。これが又うまい。今まで食べた内の中で一番うまい。
8月14日
夜中の2:30ころハミで起こされて、臥舗より下ろされる。食堂車へ連れて行かれ、ここでしばらく寝ていろということらしい。6:00頃ここも追い出され、4号車へ。そこでしょんぼりしていると、しばらくして弁公司が空いたからと3号車へ連れてきてくれた。やっと硬臥確保。弁公司を拝みたい気持ちであった。よくやってくれた。しかし、外人料金(1.75倍)はしっかり取られた。上臥に大阪の高校2年生がいて、彼は40日関4万円でやっていると言っていた。カシュガルで長野県教員が2〜3人ウロウロしているという情報も持っていた。いつの間に伝わるのだろう。おそろしいよ。今日は列車の中でよく眠れる。
8月15日
夜中にまた起こされる名取さんと2人席を取られ、一席は確保したものの、名取さんは朝まで食堂で寝てもらう。俺も車掌やら、名取さんやらが次々と何とか言ってくるので、寝る間もない。おかげで腹の調子がまたおかしくなり、今日はほとんど何も食わずに上舗でチンボツ。この暑さで食欲の湧くはずがない。全く、これからどうなりことやら。放送で日本の歌や落語がガンガン流されて、これも又参った。
8月16日
今日もほとんで一日中寝ている。出来るだけ体力を消耗しないように寝る。しかし、ホウペイ以後の暑さといったらない。朝、饅頭一つ、昼頃桃缶のシロップを飲んだだけ。全くよく生きていると思うよ。風景は上海に近づくにしたがって、田園風景が広がり豊かさがうかがえる。しかし、暑い。この暑さの中、人間はよく耐えると思う。夜11:30頃上海に着く。約3500キロよく乗ってきた。下痢をしながらよく続いた。一緒になった関西の青年とタクシーで行く。上海大廈で断られ、プーシャンホテルでとる。
8月17日
今朝は大分調子がいい。食堂で粥を食べる。便は相変わらず軟らかい。疲れていたが、街へ繰り出す。一番賑やかな通りを練り歩く。人が一杯いて、色々な物を売っていて、面白かった。漢方薬や茶屋が良い物があった。第一百貨店まで行ったが、百貨店というより倉庫の売り場いった感じで、日本の感じとは大分違う。途中で食べた鴨のスープで随分元気が出た。帰りに友誼商店に寄った。高いけれども、さすがここには良い物がある。皆、ジャンジャン土産物を買う。ここでは一応、見られる物がそろっているし、購買欲をそそられる物が沢山ある。 金があればいくらでも買いたいすばらしいものがある。上海ではマネーチェンジ(ブラックマーケット)はなかなか寄ってこない。和平飯店の近くで一度来たが、1.5だったので、1.6と言ったら、1.55までしてそれ以上は駄目だった。また来ると思っていたら、あと全然来ない。仕方が無いので、帰りに又その近くをうろついていて、そいつらと1.55デチェンジする。
神戸に医学生は面白くて、なかなかヒューマンである。中国人に対しても”やつら”いう言葉を使わない。彼らは北京ダックを食ってきたようだ。列車の中で一緒になった髪の長い、硬臥を探して腹にナイフをさしてウロウロしていた彼と一緒にいた。夜、何処かの日本人女性が遅く入ってきて、キャアキャアと男と旅の話しをしているのにはまいった。二度ほど注意して、やっと引き取ってもらった。非常識もはなはなだしい。旅の終わりだから、興奮するのもわるような気もするが。
8月18日
今日は沈没することにする。竹田、名取氏は買い物とマネーチェンジに例の医学生と出かける。買い物は依頼しておく。午後10元の風呂に行くそうだ。その後フランス料理とか。もう一人の髪の長いのも沈没。下痢していたのに北京ダックを食い、大きなアイスクリームを食べたので昨夜吐いたようだ。そして、今朝コーラでパンを食っていた。若いからいいようなものの、無茶をする12時に帰って来るはずが、3時になっても帰ってこない。大分心配になる。腹も減るし、金もない。いよいよ心配になる。マネーチェンジで公安に捕まっていないかと出かけようとしてエレベーターまでいったら
丁度バッタリ。ホットする。彼らは16元も出して、風呂に入って来たそうだ。それからフランス料理を食べに行く。一人40元。ワインを入れると60元。しかし、うまかった。神戸の青年の案内で四人で食べる。上海の最後の夜を飾るにふさわしかった。それからプーシャンに帰り、8時半頃に机賓館に向かう。9時に着き、例によって、部屋は”没有”ロビーで寝る覚悟で30分もいると、ワンルーム用意してくれた。不思議な国である。あるなら最初から出せばよいのに。久しぶりに風呂に入り、頭を洗う。さっぱりした。明日は無理に大阪に帰りたい物だ。今日は臨時便の日航が大風の影響で欠航したようだ。
いろいろあったが、振り返ってみれば、懐かしい。苦しかったが、楽しかったのかもしれない。三人ともそれぞれ我儘放題であったが、よく途中分解せずに25日間やって来たと思う。
8月19日
いよいよ上海脱出。朝5時に起き、5時半に空港へ、少々早かった。7時過ぎから、やっと業務開始。この国はどうなっていくんじゃろう。上海を飛び立った時は嬉しかった。やっと日本へ帰れる。青い海を越えて、五島列島が見えた時は本当に嬉しかった。大阪上空では、大山古墳がよく見えた。無事滑走路に着いたときはホットした。大阪もその日は38度と暑かったが、風があったし、冷房が至るところで効いているので、その割りに苦にならない。皆、それぞれ24日ぶりにрキる。名取さんは男子無事出産の由、おめでたい。新幹線の中で、祝杯を上げる。名古屋で別れて17時半ごろ飯田に着く。やせたのに驚かれた。だって、後半ほとんどメシを食っていなかったからね。やっぱり家はいい。バスの中でずっと寝てきたのに、家でもすぐにねてしまった。
日本の山は木が一杯生えていて、とても気持ちが良い。荒涼とした砂漠の山とは比較にならないほど優しい。土産物を広げる。あらためて旅のいろいろの事が想い起こされて、懐かしい。もっとあれを買えばよかったなどと考えもするが、しかし、あの忙しさの中ではこれが精一杯だ。片桐氏には手紙を書かなかったおわびをしておく。我々の知らないうちに、日航国内線が落ちて、500人近くが死亡大騒ぎであったようだ。今もTV,新聞で大騒ぎをしてる。だから、家ではよけい心配をしていたようで、親戚へ幾つかрオていた。まあ、やせてかえってきたが、無事であったのが何よりであろう。そして、中国民衆の生活を知り、交流も出来たし、お金も中国内では10万円もいらなかった。パック旅行では出来ない貴重な体験であったと思う。