共産主義は死んだか? 永田 昌弘
「1961年において、地球の全人口30億そのうち社会主義国が10億、その他が20億と概算していい。すなわち、2対1の割合である。1919年ソ連が初めて社会主義であったとき、地球の人口は18億、その比は社会主義8%その他92%であった。この43年の間に社会主義は地球上にこのような記録を書き付けた。、、、、、、、、要するに世界は変わりつつある。それは社会主義の勝利に向かって変わりつつある。」これは昭和37年に出版された本の中にある大内兵衛氏の文章である。あれからさらに40数年、社会主義は勝利に向かうどころか次々に崩壊していった。マルクスは資本主義社会を分析して、共産主義は歴史の必然だといったが現実は逆である。「20代で共産主義者に成らない者はバカであり、30代でも共産主義者である者はバカである。」(エリオット)といわれた時代に青春を過ごし、いくらかマルクス主義をかじった者として、もはや社会主義は過去の思想となってしまったのか。私の浅薄なマルクス主義理解から述べてみたい。
マルクスは産業革命以来の工業化の中で、労働者、一般大衆が資本家の貪欲な搾取を受けて、悲惨な性格を送っている現実を眼にした。その状況はエンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」に詳しい。彼は労働者のそうした悲惨な状況を救うため、資本主義を科学的に分析し、資本主義に代わる新しい社会制度を提唱した。それが社会主義である。マルクスは資本主義の弊害―根本矛盾は生産の社会性と生産手段の私的所有にあるとした。それにより、労働者は生産物から疎外され、生産の無政府状態(過剰生産による恐慌)が起り、労働者の生活はさらに困窮するとした。従って、その矛盾の解決は生産手段の共有、生産物の社会管理であり、計画経済である。そして、その実現を何も失うものが無い団結した労働者(プロレタリアート)の革命運動に託したのである。革命によって資本家から奪取した権力がプロレタリア独裁である。
まず、生産手段(企業)の国有化であるが、そこで問題になるのが労働者の労働意欲である。「一人がみんなのために、みんなが一人のために」というスローガンはいいが、果たして人間はそんなに立派になれるものではない。能率の低下は避けられなかった。どうも、マルクスはルネッサンス以来の理性を信じすぎたのではないか。フランス革命でも理性崇拝はおこなわれたが、結局、ロベスピエールはそれに失敗して断頭台の露と消えた。確かに人間は時として崇高な自己犠牲を発揮するが、他方、ギラギラと欲望に燃える存在でもあるのだ。清濁あわせもったものが人間なんだという認識が薄かったのではないか。
社会主義国家の建設には生産力の向上が不可欠であるが、自発的意欲のないところでは上からの強制力が必要になるから、ノルマ主義による警察国家にならざるを得ない。そうすれば、ノルマ達成のために環境破壊や公害発生を無視した生産もおこなわれるだろうし、無理な目標のために虚偽の数字合わせもおこなわれただろう。警察国家による支配は自由を圧殺する。人間は本質的に自由を望むから、民衆の間に不満が蓄積していくことになる。
計画経済は一見きわめて合理性に富むようにみえるが、これは大変むつかしいことである。アダム・スミスは「国富論」で「レッセフェール」(自由放任)自由な市場にまかせれば、神の見えざる手によって必要量が最適に生産されるといった。いわば、人間の欲望にもとずく市場によって調整しようとした。それに対して、社会主義では人間の英知によって、つまり、理性によって社会の必要量を測り生産しようとした。しかし、必要量は人間の欲望によって決まる。人間の欲望は刻々と変化し、際限がない。欲望を計測し、変化に応じて生産計画を立てることは何百台のコンピューターを駆使しても不可能である。それをソ連の指導者は「穀物播種面積から、チョッキのボタンまで」(トロッキー)しょうとした。計画と現実との不整合が各所で起る。キャベツが豊作でも輸送手段が足りなければ、畑で腐ってしまう。市場経済よりも、膨大な無駄が生じることになり、じゃが芋の山のとなりでスープの具財を求めて行列ができることになる。まして、周辺の資本主義国の豊かな消費生活の情報が入ってくれば、民衆の不満はここでも増大することになる。
マルクスは社会主義の政治形態をプロレタリア独裁とした。レーニンは「国家と革命」の中で「プロレタリアートの独裁は民主主義を大幅に拡大し、この民主主義は、はじめて富者のための民主主義ではなしに貧者のための民主主義、人民のための民主主義になる」としているが、実際はどうか。レーニンは革命を指導し、革命政権を反革命から防衛するための前衛党、ボルシェヴィキの一党独裁を実現した。民主主義は形骸化した。さらに、スターリンが権力を握ると前衛党の無謬性を唱え、ついに、マルクス、レーニンの神格化、スターリンの個人崇拝へと進んだ。青年時代、ロシア革命の映画を見に行ったとき、レーニンの姿が映ると一斉に館内から拍手が起った。その異様な雰囲気に奇異の念を抱いたことが今も鮮明に思いおこされる。スターリンや毛沢東の言うことは常に正しく誤りが無い。それに異をとなえる者はトロッキスト、修正主義者、走資派として粛清され、排除された。マルクスはこう書いている、レーニンはこう言ったといえば、議論はそこで終わりである。思考の停止である。批判のないところに発展はない。資本主義国が社会主義的な政策を取り入れているのに、硬直した政策に固執して、遅れてしまうことになる。共産主義は独裁者の権力維持の手段と化してしまった。民主主義の拡大どころか、圧殺である。情報は管理され、外の世界へは都合のいい情報しか流れてこなかった。社会主義はすばらしい、希望の星であるということが宣伝された。社会主義に夢をかけた者達はそれを信じた。ソ連や中国に対する批判報道は社会主義を貶めるための宣伝であって信じてはいけない。商業紙、ブル新といってまともにしなかった。それが神格化の恐ろしいところである。私が現実の社会主義国に疑念を抱くようになった契機は二つある。一つは1985年、まだ中国が開放されていない時に、華僑の子孫という手を使ってもぐり込み、一ヶ月弱、中国をタクラマカン砂漠の果てまで自由旅行した時の体験である。そこで見たものは、われわれと変わらぬ欲望うずまく民衆の姿であり、官僚主義に毒された人々であった。「整風運動」で鍛えられた革命精神に燃えた人々の姿など何所にもなかった。特に、西安駅で物乞いの少年が私の前に現れた時は、ショックであった。毛沢東は「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う。」といったではないか。理想が現実によってガラガラと崩れる想いであった。もう一つは、落合信彦氏の著作を読んだ時であった。彼はその本の中で、あと一年もすればソ連は崩壊すると述べていた。とてもそんなことは信じられなかった。これも例のデマ宣伝だと思って読んだのだが、一年後、1991年本当にソ連は崩壊してしまった。翌年、ケ小平は社会主義市場経済を提唱した。幻想は事実によって砕かれた。
ソ連の崩壊によって、世界はどのようになったのか。資本主義は社会主義に勝利したのか。まず、政治的には冷戦構造の世界秩序は消え、アメリカ一極主義(ユニテラリズム)が横行することになる。強大な軍事力と経済力を背景に、アメリカの正義を世界に押し付けた。内政不干渉の原則を踏みにじり、アフガニスタンを攻撃し、大量破壊兵器の存在があるというやくざのいいがかりのような口実でイラクに侵攻した。9.11のアメリカの犠牲の何倍もの人命が両国で失われた。経済的には市場原理主義を基本とする新自由主義が勢いを増した。新自由主義は個人の自由な経済活動と自由な市場こそが、人間の能力が最大限に発揮され、様々な生産要素の最適配分と効率的利用が実現されるとしている。(効率的市場仮説)マーケットメカニズムこそがすべてを解決するという思想では政府の介入は極力排除され、自由な市場を維持発展するためにだけ存在すればよい。市場に参加した個人は社会から切り離された独立した個人である。したがって、結果も個人に着せられる。(自己責任原則)セーフティネットを用意することは、自助努力へのインセンティブを失うことになり、社会全体の効率を低下させるとし、「社会福祉は窃盗である。」とまでいわれた。小泉政治の構造改革はこのような思想に基づいておこなわれた。ネオリベラリズムが勝利を収めて、どのような状況が生じたか。社会主義革命への恐怖がなくなって、資本主義は労働者を使い放題だ。低賃金、長時間労働、過労死、自殺の急増、I.T革命がこれに拍車をかける。まるで次元の違う産業革命の再来だ。本来、技術革新は人間をしあわせにするためにあるはずなのに、逆に労働者を苦しめている。それは、マルクスもいっていたように機械のせいではなく、社会システムにこそ問題があるのである。規制緩和は教育や医療、公共交通機関にまでおよび、はては水や空気をも儲けの対象となった。そもそも効率的市場仮説が成り立つためには、市場が公平でなければならない。しかし、自由で公平なマーケットなどあるはずがない。複雑な金融工学の知識と膨大な情報を独占した者だけが勝利をおさめるのである。その結果、恐ろしい格差社会が現出した。アメリカのファンドマネージャー上位50人は平均的労働者の19、000倍の報酬を得ていた。また、アメリカの平均所得中位以下の全個人所得の合計額に相当する富を400人の超富裕層が占めているといわれる。それに対して、OECD発表の相対的貧困率はアメリカが17.1%で最高、次が日本で15.7%である。法を犯さなければ設けるために何をしてもいいという強欲資本主義は環境を破壊し、人々の連帯を奪った。新自由主義は人々をしあわせにはしなかたのである。人々の苦しみをよそにマネー資本主義は暴走し、巨大なバブルを生み、そしてはじけた。市場は自己調節機能を果たさなかったのである。ミルトン・フリードマンの市場原理主義説は破綻した。2008年リーマンショックにより、世界は未曾有の経済危機に陥った。金融資本主義の心臓ともいわれる銀行が国家管理され、アメリカ企業の代表たるGMが政府の支援をあおぐことになろうとは、一年前に誰が想像しえたか。アメリカもついに社会主義になったかと錯覚するほどである。30年に及ぶ新自由主義の実験は失敗した。アメリカは膨大な赤字を抱え、イラクでは勝利を収めることが出来なかった。アフガンでは8年になろうとしているのに出口が見えず、いかにメンツを失わずに引き上げるかに四苦八苦している。ユニテラリズムも破綻したのである。資本主義は社会主義に勝利したというのは幻想であった。
資本主義か社会主義かという問題は、自由か平等か、欲望か理性かという問題でもある。アダム・スミスは自由な市場(欲望)に任せれば、神の見えざる手によって最適資源配分が出来るとしたが、欲望の暴走を止められなかった。マルクスは理性によって欲望をコントロールして、公平な社会を築こうとしたが、理性はあてにならなかった。自由を推し進めれば、弱肉強食の社会になり、格差が生まれる。平等を追求すれば、自由が圧殺され活力のない社会になる。
我々は自由の蜜の味を知ってしまった。もはや手放せない。あれかこれかではなく、あれもこれもでいく外はない。つまり、混合経済であり、社会民主主義である。教育、医療などの社会的共通資本は政府の手にゆだねる。政府は市場を規制し、欲望の暴走を防ぐ。社会福祉は窃盗ではなく、権利となる。セーフティネットは充実され、限定された範囲の自由によって活力を維持し、極端な不平等をなくす。経済成長は環境維持の範囲にとどめ置かれる。急激な経済成長では地球環境がもたない。それには価値観の転換が求められる。スローライフである。効率、合理性、競争にかわって共生、連帯、シンパシーが重んじられる社会へ。こうした社会を作るにはなによりも民主主義が保障されなければならない。その中でも、徹底した情報公開と表現の自由が大切である。とりわけ第四の権力といわれるマス・メディアの役割が重要だ。メディアの権力批判なくして民主主義は達成されない。しかし、メディアとて一企業である。権力や企業と癒着しないとも限らない。それを防止するのは労働者の力である。労働者はあらゆる場所にいて、権力や企業、メディアを監視できる。自覚的な労働組合が民主主義の最後の砦である。マルクスは共産党宣言で、“万国の労働者団結せよ”と結んだ。それにより国際労働者協会(インターナショナル)が組織され、8時間労働制を求める運動が展開された。今、経済はグローバルでボーダレスにもかかわらず、それを規制する国際統一政治組織は存在しない。労働者はバラバラにされ、暴走するマネーの犠牲になって使い捨てられている。人が人らしい生活を営めるように再び、“万国の労働者団結せよ”と訴えたい。
惜 別 永田昌弘
朝日新聞7月13日の惜別欄に庭瀬康二という人の記事が載りました。この人についてほとんどの方はご存じないと思いますが、私にとって彼は忘れることのできない名前です。今から42年前1960年、私は大学の2年生でした。当時学生は安保反対闘争の先頭に立っていました。田舎から出てきてわけもわからないうちに自治会を手伝わされて、安保反対のビラを2万枚、インクにまみれて徹夜で輪転機を回しました。手回しのものしかなかったので明け方にはくたくたでした。そもそも私が政治に関心を持つようになったのほんの偶然からでした。入学式のあと、どのクラブに入ろうかとうろうろして馬術部の前にたちました。馬に乗るのは小柄な私にはいいだろうと考えたのです。しかし、馬は金がかかりそうだ兄貴が故郷で百姓をしながら学費を送ってくれるのに馬に乗って楽しむというのはなー、と思案していると、隣から「平民学会」(平和と民主主義を研究する)へ入りいませんかと誘われた。それが運のつきでした。自治会なんて高校の生徒会の延長位にしか認識のなかった私が安保闘争にのめりこむことになったのです。今から考えると私の安保反対闘争はそんなに確信のあるものではなかったようです。安保条約の条文をきちっと読んだわけでもありません。たぶんに、執行部に付和雷同的なものであった。雑誌「世界」が安保改訂反対の特別パンフレットを付録で出したので、これは尋常ではないとは思いました。これでは日本は大変なことになるという漠然とした危機感みたいなものはありました。
庭瀬康二は教養部自治会の委員長でした。かれは不確かな認識のわれわれをぐぐいと引っ張っていきました。常にデモの先頭にたって叫んでいました。「安保はんたーい、岸をたおせー」市電のプラットホームにたった頬のこけたひげづらのあの姿、ハンドマイクを握りしめて叫んだあの声、いまも私の目と耳に鮮明によみがえります。結核で片肺を失った彼のどこにあんなエネルギーがあるのだろう。回転のいい頭からほとばしる言葉、われわれは彼にカリスマ的な魅力を感じてついていきました。連日デモに明け暮れました。東大生樺美智子さんが国会のデモで亡くなったのを聞いたのもデモの中でした。最初三人という情報が流れ、学生たちは激昂しました。6月30日安保条約は自然成立した。私はアルバイトで山陰へ旅行者を連れて行っていました。旅館のテレビを12時の瞬間まで見ていたのを覚えています。多くの友が敗北感にうち砕かれた。寮で首をつったやつもいました。三池闘争に参加して逮捕されたやつは後、大企業に就職していきました。そしてほとんどの友は日常に帰り、社会の表街道を目指した。我々は、安保条約の期限の切れる10年後を期した。岸内閣は倒れ、池田内閣の下、所得倍増計画、高度経済成長政策がはじまった。サラリーマンでも中古車ならマイカーが持てるようになっていました。学生の政治意識を鈍化させるため民放の深夜放送がディスクジョッキーに力をいれた。国民は総中流意識へとなだれをうった。70年安保はなにも起こりませんでした。確かに、大学紛争はあれ、連合赤軍が社会を騒がせたが、それはもはや、あの60年安保の民衆運動とは異質のものでした。民衆から遊離した学生の運動であり、民衆から孤立した一部の先鋭化した若者の行動であった。人々は安田行動の攻防や、浅間山荘事件をTVでショウーとして楽しんだ。高度経済政策の下、日本は西ドイツとともに驚異的な戦後復興をとげ、アメリカにつぐ世界第2位の経済大国になりました。国民はアメリカ型の豊かな生活に邁進した。これも安保条約のおかげかと複雑な気持ちでした。私も2年ほどよそで働いた後、長野県の教員になっていました。そんな中ふとしたことで週刊誌の記事で、庭瀬康二のことを知りました。その記事では彼は千葉県で一町医として活躍しているということでした。まだ延命治療や高齢者問題が注目されない1979年、都内の大病院で最先端の外科治療に携わっていたのをよして、医療と教育をつなぐ理想郷「メデュトピア」をかかげ、中高年の患者が交流する「老稚園」をつくり、訪問看護を始めたそうだ。そんな彼の姿勢が赤瀬川原平、寺山修司、唐十郎などをよび、「有名人の主治医」となったが、それは彼の意図したことではあるまい。「闘う姿勢は終生、変わらなかった」と40年来の友人、嵐山光三郎は語っているそうだ。この週刊誌や新聞記事を読んで私はホッとしました。もし、彼が昭和元禄におどり、平成バブルに安住していたならば安保闘争にこだわってきた私の人生はなんだったということになる。社会の底辺に依拠して生きようとしたのも、安保闘争が出発点だったから、私の青春、私の人生が否定されたことになる。彼の生き方は晩年を迎える私にとって大きな救いです。
それにしても、彼には脱帽です。彼は医学部の秀才でした。議論してもとても太刀打ちできなかった。彼は当時、私を「坊や」と呼んでいました。彼のレベルからすれば私の現状認識は「坊や」でしかなかったんだろう。女性問題でも彼は文学部の年上の彼女といい仲でした。5月半ば、突然の不調を訴え、胃ガンであることを知ると、延命治療をきっぱりと断って、さっさと逝ってしまったそうです。死ぬことの寂しさに耐えかねて、仏教書をひもといたり、般若心経を唱えて、おたおたしている自分とは大違いです。その頭脳においても、また女性問題においても、そして死に方においても完敗というほかはない。私の中の安保闘争もそろそろ終わりにしようと思う。 合掌
飯田の大火
1.はじめに
私たちは街の古老から飯田の大火について次のような話を聞きました。「飯田の大火はそれはそれはおそろしかたったに。火の玉がいくつもいくつの飛んで、5軒も10軒も先に行ってパッと燃えだしたし、庭木もみんな燃えてしまったんだ。せっかく窪地に出した家財も火が流れるようにして燃え移ってしまっての。壁や瓦はレンガのようになってしまい、ガラスも溶けてアメのようになっての。焼け残った土蔵も3日目くらいからくすぶりだし、5日目にはほとんどが崩れれしまったに。一週間も後でもコンクリートの道路は熱かったに。」私たちが生まれるずっと前の飯田で起こった恐ろしい出来事はどんなだったろうと興味を覚え、調べて見ることにしました。
2.飯田の街と大火
飯田の街は天竜川の支流松川と野底川の扇状地とそれを再び浸食してできた河岸段丘上にあります。太平洋戦争中、飯田に疎開していた作家の岸田国士は「飯田美しき町、山近く水にのぞみ、空あかるく風にほやかな町、飯田静かなる町、人みな言葉やわらかに物音ちまたにたたず、粛然と古城の如く丘に立つ町」とうたっています。古くは城下町として下伊那の政治的中心であり、近代に入っては近隣地域の消費、商業の中心地として栄えてきました。文化的には上方文化の影響こく、風俗、文物にみやびやかのところがあり信州の小京都ともいわれていました。しかし、狭い台地上に発達した街故碁盤上の街路も幅員狭く、商家が密集していたためにたびたび大火にみまわれました。その歴史をみますと
飯田大火の歴史
年次 文政6年 焼失戸数 1112
明治6年 95
明治7年 50
明治26年 125
明治27年 161
大正7年 45
大正8年 50
大正11年 356
昭和21年 198
のようです。
3.昭和22年(1947年)飯田市大火
(1)火災発生に至る状況
昭和22年4月21日、この日は朝から晴天に恵まれた日曜日であった。この日まで飯田地方は雨が降らず飯田測候所始まって以来の無降水連続記録更新中であった。そのため湿度も最小33%と乾燥していた。また戦後最初の参議院選挙日で投票をすませた市民の多くはひとときの安らぎを求めて家族連れで花見に出かけていたという。
(2)火災の発生状況
八十二銀行裏の民家(A地点)の長女が11時頃午後外出予定のため髪を洗おうとして、かまどに火を入れ湯をわかして髪を洗い乾かしていると2階でピシピシという音がするので母親が上がってみたら6畳間の天井から火を吹いていた。長女は火事と知って自分の荷物の取り出しに懸命であり、父親は近隣に火事を告げるなどで消化につとめなかったので火は次第に大きくなっていった。原因はその後八十二銀行屋上にいた外部からの発見者の証言などから、短い煙突から出た火の粉が屋根裏に入り燃え上がったものと断定された。
(3)延焼経過
おりからの好天続きで乾燥しきった状態に加えて南西の4メートルの風にのって火は燃え広がった。火は隣接する八十二銀行にさえぎられて二手に分かれ一方は常盤町から主税町方面へ他方は知久町から飯田駅方面に広がった。それと同時に市民は自己の家への延焼をおそれ、相当離れた地点でも一斉に消火栓を開いてしまったので水圧が低くなって、初期消火失敗に原因の一つになってしまった。午後風速はさらに強まり、2時〜3時頃は最大13メートルにも達した。隣接村はもとより、遠く岡谷、諏訪からも消防がかけつけたが消火栓の不備と防火用水の不足により消防隊は手の下しようもなかったという。5時ころには延焼をまぬかれていた伝馬町東側も燃え始め街の東側一帯に拡大するおそれも出たが、夜になって風がおさまると下火になり8時頃ようやく一応の延焼の危険が去った。一夜明けて翌21日は一転してみぞれ交じりの雨となり「小京都」ともいわれ、城下町として親しまれてきた飯田の街は一面無惨な焼け野原となっていた。
(4)被害状況 (別紙)
4.飯田市復興計画
前年7月飯田駅前の198戸焼失という大火に続くこのたびの大火にショックを受けた市ならびに市民は再びこのような災害を起こしてはならないということで徹底的な防火対策と近代的な都市計画を立てるべきだという機運が盛り上がった。
早くも21日より活動が始まり、23日には建設省はじめ県の技官、技師が来飯し、市長や関係者、県出先機関の長を交えて「飯田市火災復興都市計画事業」がたてられた。つぎにその計画の主なものをあげると(別紙
)
この計画の実施を急速に行うためには市のわずかな人員のみでは足りないということで、市の要請により、県は「長野県飯田都市計画事務所」を急遽設置し、20余名の職員を派遣した。また、罹災者からの3割の土地提供を求めるこの計画案に対し、市民の間から不満の声が上がり、12月には1300名が飯田映画劇場に集まって罹災者大会を開き、税の免除、徴収猶予など13項目を決議した。さらに防火道路予定地に家を建て始めた。当時日本はアメリカ軍の占領下にあり、長野県にもケリー、ストラットンなどが来ていて「県知事は飯田都市計画の供出用地内に建てられ始めた家屋その他の物件を撤去させるべきである。」という示唆(サジェスト)が示された。この進駐軍の一声により、不満を持った市民も黙るより仕方なく、当初計画は大きく変更されずに推進されることになった。その後7年間にわたる「血のにじむような辛酸、辛苦の結果」総工費1億円を投じてようやく復興工事は完成した。1954年(昭和29年)10月1日完成記念式典が行われた。こうして面目を一新した飯田の街は近代的防災都市として全国の注目をあびたのでした。
防火街路の植樹帯にはなにを植えるかが市民の間で問題になったが中学生の発案で、「たわわに実ったリンゴを誰もとろうとしない飯田市」のシンボルとし「リンゴ植樹」に決着し、手入れは東中学校の生徒にまかせられ、今や飯田市のシンボルとなり、全国に有名となっています。
農業・農村の振興について飯田市がなすべきこと
古代ローマでは、国家の最重要課題は食と安全の確保であるといわれた。この二つは現代の国家においても、もっとも重要な問題であろう。そうならば、穀物自給率30パーセントという日本の現状はゆゆしきことといわねばならない。にもかかわらず、一般の国民には危機感は薄い、むしろ、農業保護政策への批判が強い。このような状況の中で、地方行政はどのようにかかわるべきであろうか。第一に、農業の重要性を都市住民に訴えることである。食の安全保障という側面はもちろんのこと、農業の経済外的価値をアピールする。水田は水を貯え、膨大な地下水の供給源ともなるし、水質浄化作用もする。緑豊かな田園とそれに続く里山の風景はストレス多き都会の生活に疲れた人々に癒しの場を提供する。次に、農村の民主化に積極的な役割を果たさなければならない。なぜ、後継者がいないのか、嫁がこないのか。決して、労働がつらいからや汚いからではない。古い因習の存在が大きな要因である。家とそれにまつわる家族中に個が埋没して自我の確立ができないというところに問題がある。労働形態や、住環境など農村の民主化のために積極的に啓蒙活動を展開すべきである。三つ目に農産物自由化に対応するため、地形的に可能な場所では規模の拡大をはかるため、共同化の推進役を務める。最後に、中央政府に対して、地方がもっと自由に農業施策が行えるように規制緩和を求めていくことも必要である。たとえば、山間部の規模の拡大がはかれないところでは年金受給者や知的労働従事者に小面積の農地を供給できるようにする。こういう人はコストを気にせずに農業ができるので、いざという時のため農村を荒廃させずにすむ。以上のような施策を行えば飯田市における農業振興は活力あるものになると考えます。
文化振興と市民生活。
第二次大戦後の廃墟から立ち上がって60年、日本は世界第二の経済大国となり、巷には物があふれている。車、電化製品をはじめとして、家庭にはないものがない。こうした物質的豊かさの中で、我々は本当に豊かになったのであろうか。「人はパンのみによって生きるにあらず」人間は文化的な動物である。生理的欲求が満たされれば、必ず、その上に社会的文化的欲求=自己実現欲求が芽生えてくる。また、物質的豊かさの追求は地球を傷つけ、環境という制約を受けることによって価値観の転換を迫っている。さらに高齢化社会の到来は時間的経済的余裕のある高齢者の文化的要求の高まりが予想される。このように考えれば、地域社会における行政の文化振興事業が重要であることが理解できるであろう。
この行政の文化振興事業は大きくふたつに分けられる。一つはハードの側面である。いわゆる箱物である。市民の様々な文化的要求に応えられる施設設備の整備は欠かせない。大規模なものは1.2あればよい。市民の要求は多種多様である。その多様性に答えられるような小規模のマルチ施設設備をアクセスのよい地域に提供していくことが大切である。
次はソフト面の活動である。情報の収集と提供は地方の住民の潜在的要求をほりおこす。文化的欲求を持っていても、なにをどうすればよいかわからない市民は多い。そういう人々に情報を提供し、方法を指導すれば、市民の文化活動は活性化する。
さらに、地域文化の継承と発展に寄与する事も重要である。中央のすぐれた文化の導入も大切だが、地域に存在ずるその土地独自の文化的伝統を守り、発展させることは地域住民のアイデンテティの確立を助け、誇りをもたせる。以上のような文化振興事業を行政が行うことによって、真に豊かで誇りある市民生活が実現できると考える。
ある兵士の物語 永田 昌弘
ここに書庫から取り出した、カビと埃にまみれた一冊の本がある。表題は「ヤマザキ、天皇を撃て!」これは元陸軍上等兵奥崎謙三氏が書いた“皇居パチンコ事件”の陳述書と井出孫六氏の覚え書、及び裁判記録を記したものである。発行は1973年、すぐ絶版になる。何故に彼はこのような事件を引き起こしたのか、戦争体験を中心に陳述書から読み取ってみたい。
昭和18年、彼は東ニュ−ギニアへ二つの飛行場建設のため派遣される。東ニューギニアは3〜5千b級の山岳地帯のある高温多湿の過酷な条件の地である。上陸地点から建設地までの200`は毎日爆撃、雨、泥、飢餓、疲労の連続であった。半年かけて作った飛行場はすでに制空権を奪われて役にたたず、次の飛行場は軍事的意味を失ったので、友軍がいると思われる400`先のところへ敗走することになる。結局、彼らの努力苦は戦争にとってなんの意味もなかったのである。いたずらに、物的人的資源を浪費したのみ、ここからも指導者の無能、無策振りがうかがえる。
敗走でまず、思い輜重車が放棄され、軽機関銃、ツルハシ、スコップが捨てられ、銃も手放す。靴や服を盗む。上官が兵士の食料をピンハネする。規律は急速に失われていった。
こうして、敵に一発の弾を撃つ事もなく、帝国陸軍は解体した。食料不足からくる栄養失調の体にマラリアが襲う。落伍したものに待っているのは餓死だった。肉体は風船のようにふくれあがり、それに親指大の縞模様の蛆虫がむらがり、最後は野豚に食い荒らされて、バラバラの白骨と化す。彼は食料を盗みに米軍基地へ行った時、その装備と物量に日本の敗北を確信した。
やがて、部隊はちりじりになり、かれもマラリアにおかされ、高熱に苦しみながら一人で逃げた。敵や住民に逐われ、身に三弾を受け片腕で川を泳ぎ、片腕で村を匍匐した。しかし、ついに彼の生への執着も尽きるときが来た。最後に日本につながる海を見て死にたいと思ったが、もはやその力も無く、野豚に食いあらされバラバラの白骨になるよりは、米軍に銃殺された方がよいと思い、原住民の家の床下で眠って居るところを発見されて捕虜となった。捕虜となった彼は、三度の食事、手厚い治療、枕元にはタバコ、チョコレートが置いてあり、衛生兵には排泄の世話もしてもらった。彼は父母以外にこのような手厚い扱いを受けた事はなかった。遙かに離れた祖国は不幸をおしつけこそしたけれど、幸福を与えた事はなかった事に思い及び、世話になったお礼に、敵と一緒に日本に上陸したいと本気で思った。
1946年1年半の捕虜生活の後、帰国することになるが、帰国に際して、彼は生きて帰る事に背中に何か目に見えない重い荷をせおわされたように感じ、自分だけが幸せな一生を贈る事が罪悪のように思った。そして、死者の無念の思いを晴らすのが、重荷を軽くする道であり、供養と考えるようになった。
彼は復員するまで、天皇は占領軍によって死刑か社会的に抹殺されると思っていたが、戦争であれほど多くの尊い人命を犠牲にしておきながら、相も変わらず大きな顔で国民の象徴としてあがめられていることにたいして、飢えて死んでいった多くの戦友達のことを考えると身体が火のように熱く燃え、身震いをするほどの強い怒りと憎しみを感じた。
しかし、天皇を殺す事によって恨みは晴らせても、天皇や天皇的なるものが次々とうまれるから、天皇や天皇的なるものによって象徴される社会構造を不孝、不自由、不和の発生しないものに作り替える事、それこそが死者の霊にたいする本当の供養、贖罪であると考えるようになる。
そこで彼は、天皇を利用して、世間を騒がせて彼独自の見解をマスコミや世間にアッピールしようとした。誰にも危害を加えず、しかも大騒ぎになって世間の注目を集める方法がパチンコで天皇を撃つ事だった。昭和44年1月2日、新年一般参賀において「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て!」と大声で叫び、天皇に向かってパチンコ玉を発射した。山崎とは敗走中、落伍した仲間を「必ず日本につれて帰る」といって探しに戻った亡き戦友の名であり、それは共犯者がいると思わせる為だった。
彼は天皇に対する暴行罪で起訴される。これは二つの意味で天皇制と憲法理念との矛盾を明らかにするものだった。一つは憲法が禁止する特別裁判の意味合いがあることである。まず、被害者の氏名が明らかにされない。暴行罪に置いては、被害者側の証言がきわめて重要であるが、一切提出されなかった。証人喚問もされなかった。二つ目は、不敬罪の復活ではないかということ。誰かが自分の2〜4mのところにパチンコ玉を撃ったと訴えて、警察は相手にしてくれるだろうか?ところが、彼は1年10ヶ月の長期拘留された後、1年6ヶ月の懲役判決を受けた。天皇に対してだから、重い判決を下したといえないだろうか。「公正な裁判を受ける権利」「全ての証人を審問する権利」を犯した暗黒裁判ではないだろうか。
この後、彼は長期の服役や公安の妨害にもめげず、戦友の無念を晴らすため85才の生涯を終えるまで、一人で新しい社会構造の必要性を訴え続けた。
映画監督の原一男氏は奥崎謙三の姿をドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」で発表した。内外で多くの賞を取り、「日本にもこんな兵隊がいたのか」と外国で話題になったということである。(2020年年輪)
天皇の戦争責任 永田 昌弘
天皇に戦争責任はないという人々は、日本は立憲君主国であり、天皇の統治は国務大臣の輔弼により行われ、その責は大臣が負う。内閣が正式に決定して上奏したことは、天皇はそのまま裁可しなければならなかった。国権の発動における内閣の君主に対する優越性が確立していたから天皇は責任を持たないというものである。昭和天皇もヨーロッパ訪問で立憲政治の大切なことを学んだ。その後は立憲君主としてふるまうことを常に心掛けたといい。「事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ちて又その進言に逆らわぬ事にしたが、この時(2.26事件)と終戦の時との二回だけは積極的に自分の考えを実行させた。終戦の際は廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。」(昭和天皇独白録)開戦の時は一致した廟議に反してこれを否定すれば、政治が混乱して内乱状態となり戦火に倍化する被害が想定された。と述べている。
そもそも西欧で確立した立憲君主制とはどういうものかといえば、絶対君主政の下では権力の由来、正当性を神に求めていた。(王権神授説)ところがブルジョワジーの成長と共に権力の由来を人民に求め、議会によるお王権の制限が進むことになり、ついに王は権威的存在として「君臨すれども統治せず」という原理が確立した。君主無答責の原則はここから生じた。
ふりかえって日本の場合はどうか。大日本帝国憲法第一条で「万世一系の天皇これを統治す。」としている。この憲法の制定を指導した伊藤博文は天皇の統治権は、この憲法によってはじめて与えられたものではなく、天照大神以来、万世一系その子孫たる天皇に固有のものであるという事実を憲法に書き表したものであるとのべている。第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定している。これは君主無答責をあてはめただけでなく、文字どおり神聖で批判も許されず、ひたすら畏敬恭順すべしということである。第十一条「天皇は陸海軍を統帥す。」軍隊統帥は天皇が直接行うことが規定されている。政府も帝国議会も統帥には関与できない政府から独立したものとなっている。さらに統帥部の補翼(輔弼)についてはその責に任ずという憲法上の規定はない。もし、内閣と統帥部とが対立、妥協が不可能となった場合それを調整するのは君主しかありえなかった。天皇は立憲君主としてではなく、実権を持った絶対君主として機能しなければならなかった。さらに、戦争指導についての最高国策は憲法上の機関でない御前会議によって決定された。
こうしてみると、日本の立憲制は西欧のものとかなり異なることがわかる。そして、憲法上侵すべからざる天皇に責任を問うことはできない。しかし、それは国民が法的に天皇の責任を問うことを妨げるだけで、政治的、道徳的に責任を問うことはできる。まして、戦禍を受けた外国にとっては、そのかかわり方によって責任を追及しうるものである。
果たして言われているように、天皇は臣下たる輔弼者の助言、要請に機械的に従っただけであろうか。(上述の天皇独白録では、政治、軍事さらに人事にまで深く介入したことを述べている。)
確かに帝国議会の議決が裁可されなかったこともないし、国務大臣の上奏を拒否したこともない。ではどうやって介入したか。それは上奏の前の内奏と下問、及び神的権威を背景にした親政である。上奏裁可を請う以前に内奏と「御内意」のやり取りがあって、それによって天皇の意思が発揮され貫徹される。御内意に従うことを欲しなければ、その任に当たる者は辞職するほかはない。関係者は次々と交代するけれども天皇は変わらぬ地位にあったから、国務、統帥部の情報を独占しているのは天皇のみということになり、記憶力のいい天皇の下問は示唆であり、命令である場合がしばしばであった。この傾向は天皇機関説、統帥権干犯問題以後強まる。機関説問題では帝国議会で国体明徴宣言が二度にわたって出された。そこでは天皇機関説は国体に反するもので、天皇親政のわが国体こそが正しい。としている。天皇親政の実態を幾つか挙げてみよう。
内閣総理大臣を任命する時には、天皇はその内閣のとるべき基本方針を示した。例えば近衛内閣の時には「憲法の尊重、外交上無理をせぬこと、財界に急激な変化を与えぬこと」の三か条を指示。(「近衛手記」)
人事について、阿部内閣の時、「当時政治的に策動していた板垣系の有末軍務課長を追い払う必要があったので、私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍に据える事を阿部に命じた。」(「天皇独白録」)大臣だけでなく、官僚の人事にまで介入していた。
統帥について、ソ満国境張鼓峰事件で武力行使の裁可を願った時「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う。このたびはそんなようなことがあってはならんが……。今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん。」と明確な統帥命令を出している。叱責された陸軍大臣は恐懼措く所を知らず退出し、辞意を表明した。(「西園寺公と政局」)
太平洋戦争について、天皇が杉山参謀長に陸軍としては日米事起こらばいくばくの期間に片づける確信があるかと下問したら、南洋方面だけは三か月位にて片づけるつもりです。と答えた。すると、汝は支那事変勃発当時の陸相であったが、当時陸相として一か月位で片付くといったことを記憶している。しかるに4年の長きにわたりまだ片付かんではないかと問い詰められ、総長は恐懼して、支那は奥地が開けており予定どおり作戦しえないことをくどくど弁明したところ。天皇は励声一番、支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか、いかなる確信あって三か月というのか、といわれて総長はただ頭を垂れ、答えられなかった。(「近衛手記」)
開戦と終戦について、開戦決定の御前会議の前日、高松宮が海軍は戦争に自信がない旨を進言すると、不安になった天皇は、海軍大臣と軍令部総長を呼び真意を問うた。長野総長「計画は万全であります。」嶋田海相「物も人もともに十分の準備を整えて、大命降下をお待ちしております。」と力強く答えた。そこで天皇は木戸内大臣に「海軍大臣、総長に先程の件を尋ねたるに、何れも相当の確信を以て奉答せる故予定通り(戦争計画を)進むる様首相に伝えよ。」と命令した。翌日の御前会議では「御上は説明にたいし……うなずかれ、何らの御不安のご様子を拝せず、御気色麗しきを拝し、恐懼感激の至りなり。」と杉山メモは記している。1946年1月、天皇は英国王あての親書の中で「私は当時の首相の東条大将に……強い遺憾と不本意の気持ちを抱きつつ、余儀なくするのだと繰り返し告げながら、胸のはりさける悲痛な思いで開戦の詔書に署名をしました。」と書いている。この落差はどう理解すればいいのだろう。
1945年8月12日、皇族会議で「朝香宮が講和は賛成だが、国体護持が出来なければ戦争を継続するかと質問したから、私は勿論だと答えた。」(「天皇独白録」)
このように天皇は、統帥部や政府の決定を無条件に承認したのでなく主体的な判断をもって、積極的に関与していた。単なるロボットでも捺印器でもなかった。戦争についていえば、戦争準備、艦隊の展開、艦隊の任務、開戦の時期といったことを承知し、命令を下していた。東京裁判のウエッブ裁判長も「法廷に提出された証拠は、天皇はじっさいあの戦争を正当化し、そのことによって戦争責任があったことをあきらかにした。」と書いている。ではどうして天皇は立憲主義の立場を守り、上奏をそのまま裁可し拒否することはなかった。平和主義者であり、戦争も天皇のお慈悲ある御聖断によって平和がもたらされたという天皇神話が作り出されたのか。それは占領軍と日本支配層の共同作業による。戦後すぐ幣原内閣は天皇の責任にたいする政府の公式見解として以下の三項目を挙げている。
(1) 略
(2) 天皇陛下におかせられては飽く迄対米英交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御軫念あらせられたること
(3) 天皇陛下におかせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては、憲法運用上確立せられ居る慣例に従わせられ、大本営と政府の決定したる事項を却下遊ばされざりしこと(略)
一方マッカーサーの軍事秘書官であり、心理戦の責任者であったフェラーズ准将は「天皇は日本軍の完全な降伏を実現する上で不可欠であるだけでなく、平和的傾向を持った戦後の日本政府の精神的中核として必要である。」と述べた。(ジョンダワー「敗北を抱きしめて」)アメリカは天皇による日本軍の武装解除が大した混乱もなく行われたのをみて、天皇の権威を利用した間接統治の方針をとることになる。マッカーサーは「天皇は20個師団に相当する。」と述べている。ところが連合国では天皇を戦争犯罪人として起訴せよという声が執拗に続いていた。もし、日本国民にとって神のような存在である天皇を訴追し、罰するというようなことになれば、精神的中心を失って国内は大混乱に陥り、果ては共産主義勢力の浸透が図られるかもしれない。両者はこのようなことを最も恐れた。そこで天皇と軍部との間にくさびを打ち込み、すべての責任を軍部に押し付けることにした。東京裁判で天皇の訴追を避けるため、フェラーズは米内光政に東条に対して、「開戦前の御前会議において、仮令陛下が対米戦争に反対せられても自分は強引に戦争まで持って行く腹を決めていた。」というように伝えるように言った。米内はこのメッセージを伝えることを喜んで同意した。ところが、東条は「天皇の意思に反した行動を木戸幸一内大臣がとったことがあるか」というローガン弁護人の質問に対し、「日本国民が天皇の意思に反した行動をすることはない。いわんや日本の高官においておや」と答えた。天皇の戦争責任に結び付くこの発言に慌てたキーナン検察官は工作して証言を撤回させて、「天皇は東条の進言で開戦にしぶしぶ御同意になった」と再証言させた。そして、東条は「天皇に責任なし、敗戦の責我にあり」(「天皇百話」)という宣誓供述書を提出した。また、公判中の巣鴨の収容者たちは、どのような些細な戦争責任をも主君に負わせないことを進んで誓約した。(「敗北を抱きしめて」)
また、法廷外でも天皇のイメージを変える共同作業が行われた。「人間宣言」は「神格の否定」として英米から歓迎され、外国の批判者を満足させることに成功した。日本のほとんどすべての地域を回る巡幸は、天皇は神ではなく生身の人間であることを国民に知らしめた。天から半分だけ降りてきたのである。占領軍に護衛されたこの巡幸は、各地で熱烈な歓迎を受けた。真珠湾攻撃6周年目の日に広島に降り、お立ち台に立って山高帽をかざした時、群衆は地鳴りのような歓声を上げた。国体護持にこだわらず、ポツダム宣言を受諾していれば原爆の悲劇はなかったのに、である。後に天皇は原爆投下について「遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています。」と語った。
1946年6月、国際検察局は天皇の戦争責任を問わないことを表明する。ついに天皇の戦争責任は法的に問われることはなかった。ただ、当時の支配層の中にはそれについて言及する者はあった。長く側近であった木戸幸一は巣鴨に収容される直前に天皇に退位を勧めた。そしてその時期は平和条約を締結して主権回復する時であるとした。もし、それをしなければ「皇室だけが遂に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを畏れる。」と述べている。ところが天皇の「日本の主権回復」を祝う挨拶では、原案に「私は敗戦の責任を深く国民に詫びる」との表現が含まれていたにもかかわらず、在位の意向が表明されただけで、個人的な戦争責任には一言も触れられていなかった。(「敗北を抱きしめて」)
1975年10月、天皇と日本記者クラブとの会談で、ロンドンタイムスの記者の「陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか?お伺いします。」との質問に「そういう言葉の“あや”については、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」と答えている。これを視聴した飯島敏江は「ことばの“あや”の仰せをいかに聞き給う水清く屍は草生す屍は」という一首を「朝日歌壇」によせている。
1989年1月7日、昭和天皇は89歳の生涯を閉じる。江戸時代の後水尾天皇の長寿記録を更新し、確かな記録を残す歴代天皇の中で最も長命な天皇であった。「昭和天皇は生涯、その個人としての責任、公人としての責任をたとえば文面、あるいは退位という仕方で明らかにすることがなかった。死去してみれば、人として果たすべき責任をまっとうしなかった一人の天皇が残ったのである。」(加藤典洋「敗戦後論」)その朝、閣議決定を経た上で竹下内閣総理大臣謹話が出された。「この間、大行天皇には、世界の平和と国民の幸福とをひたすら御祈念され、日々躬行してこられました。お心ならずも勃発した先の大戦において、戦禍に苦しむ国民の姿を見るに忍びずとの御決意から、御一身を顧みることなく戦争終結の御英断を下されたのでありますが、このことは、戦後全国各地を御巡幸になり、廃墟にあってなす術を知らなかった国民を慰め、祖国復興の勇気を奮い立たせてくださったお姿とともに、今なお国民の心に深く刻み込まれております。
爾来、我が国は、日本国憲法の下、平和と民主主義の実現を目指し、国民のたゆまぬ努力によって目ざましい発展を遂げ、国際社会において重きをなすに至りました。これもひとえに、日本国の象徴であり、国民統合の象徴としてのその御存在があったればこそとの感を一人強く抱くものであります。」(2021.1.27)
砕かれた神 永田 昌弘
一昨年、私は昭和天皇を痛烈に批判した奥崎謙三氏のことを、「ある兵士の物語」と題して寄稿しましたが、もう一人彼とは性格も生き方も違う元兵士の事を述べたい。その元兵士の事はジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」で知った。その内容は彼が20歳になる1945年9月2日から46年4月2日までに綴った日記である。それは現在岩波現代文庫に「砕かれた神」(ある復員兵の手記)として出版されている。その日記を引用して彼の天皇批判を述べたい。
彼の名は渡辺清。海軍に15歳で入団し、戦艦武蔵に乗り込みレイテ沖海戦で沈没するも、奇跡的に生き残った。彼は誰よりも熱烈に、かつ無条件に天皇を崇拝していた。入団当日「俺は水風呂で体を清めてから、村はずれの丘の上にたって、宮城を遥拝し、そして謹んで天皇に言上したものだ。『私ハ愈々帝国海軍ノ一員トシテ皇国ノ海ノ護リニ就キマス。コノ上ハ粉骨砕身軍務ニ精励シ、以テ醜ノ御楯トシテ本分ヲ全ウスル心算デアリマス。モトヨリ私ノ体ハ天皇陛下ヨリオ借リシタモノ、イツノ日カ戦場ニテ必ズオ返シ申シ上ゲマス。』……すべてを天皇のために、すべてを天皇の統治したもう祖国のために……『大君の辺にこそ死なめかえりみはせじ』。それこそは俺にとってこの世の限りのものだった。だが、その天皇帰一の精神も、いまは無残に崩れてしまった。」と記している。
何故か、降伏後軍隊や復員後の村でも、天皇が処刑されるという噂が流れた。「だが、かりに噂が本当だとしても、天皇陛下が敵の手にかかるようなことはまずないだろう。縄を打たれた天皇陛下なぞ、たとえ天地がさかさまに入れかわってもあり得ないことだ。だいいち、それまで天皇陛下がおめおめと生きておられるはずがない。もしそういうことになれば、そのまえに潔く自決の道を選ぶだろう。立派に自決することによって、なんびとも侵し難い帝王の帝王たる尊厳をお示しになるだろう。」しかし、天皇は自決しなかった。そこで彼は、自決によって敗戦の混乱と不安をいっそう大きくするという“聖慮”よるものと考え、軍人復員が完了し、人心が平時に復した時に退位するつもりだろうと考えた。「いずれにしろ天皇陛下は、できるだけ早い時期にその責任をおとりになるだろう。いたずらに時機を失して、敵の法廷に立つような醜態をさらすことは、よもやないだろう。戦争は天皇陛下の御命令で開始され、惨憺たる敗北を喫したあげく、最後も天皇陛下の御命令で終止符がうたれた。そして、その間たいへんな犠牲者を出したのだ。天皇の名によっておびただしい人命が失われたのだ。畏れおおいことだが、この責任は誰よりもまず元首としての天皇陛下が負わなければならない。」
ところが、9月27日天皇はマッカーサーを訪問した。彼は信じられないような衝撃を受けた。「『出てこいミニッツ、マッカーサー』と歌にまでうたわれていた恨みのマッカーサーである。その男にわざわざ頭を下げていくなんて、天皇は恥というものがないのか。……元首としての神聖やその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭をたれてしまったのだ。……天皇にたいする泡だつような怒りをおさえることができない。」「命からがら復員してみれば、当のご本人は敗戦の責任をとるどころか、チャッカリと敵の司令官を訪問したりしている。仲良く並んで写真におさまったりしている。厚顔無恥……。そして、おれはその天皇に戦場で命を賭けていたのだ。それを思うと吐きすてたいような憤りに息がつまりそうだ。……おれはいまからでも飛んでいって宮城を焼き払ってやりたい。あの濠の松に天皇をさかさにぶら下げて、おれたちが艦内でやられたように、樫の棒で滅茶苦茶に殴ってやりたい。いや、それでも足りない。できることなら、天皇をかっての海戦の場所に引っぱっていって、海底に引きずりおろして、そこに横たわっているはずの戦友の無残な死骸をその眼にみせてやりたい。これがアナタの命令ではじめた戦争の結末です。こうして何十万ものアナタの兵士がアナタのためだと信じて死んでいったのです。」「マッカーサーと並んだ写真を思い出すたびに、むかむかして頭にカッカと血がのぼってくる。みぞおちのあたりが、火がついたように熱くなる。裏切られた怒りにまかせて、何を仕出かすかわからない自分を意識し、自分が自分で恐ろしくなる。」
1946年2月21日天皇は神奈川県下の視察のおり、引き上げ援護所で、サイパンからの復員兵と以下のような会話をかわしたという。「戦争は激しかったかね」「ハイ激しく在りました。」「ほんとうにしっかりやってくれてご苦労だったね。今後もしっかりやってくれよ。人間として立派な道に進むのだよ。」その話を聞いて、天皇の心ない無責任さに絶望感をいだいた。せめて「わたしのためにご苦労をかけてすまなかった。」ぐらいのことは言ってほしかった。彼は完全に切れてしまった。そこで次のような手紙を天皇に書いた。「自分はアナタの命令に従って、アナタのために一生懸命に戦ってきたが、敗戦以来、アナタにたいするすべての信頼や希望を失ってしまった。したがって、自分はアナタとの関係を断ち切りたいと願っている、と。彼は帝国海軍によって支払われたすべての給与の明細と、兵役に復していた年月に受け取った思い出せる限りの品々の明細を提示した。そこには、食料や洋服そしてその他の品まで列挙されていたため、じつに長いリストとなった。かれの計算によると、それらすべての合計は4,281円50銭となった。渡辺は手紙に4,282円の為替を同封し、こう結んだ。『私は、これでアナタにはなんの借りもありません』」(「敗北を抱きしめて」)
勿論、彼の手紙が天皇に届くはずもないのだが、彼にとっては、彼の中にいた神と縁を切るための通過儀礼だったのだろう。天皇との紐帯を断ち切った彼は、故郷の静岡から上京し、働きながら進学した。1960年、日本戦没学生記念会(わだつみ会)に入会し、推薦されて常任理事になった。やがて、推されて事務局長になる。その間、「戦艦武蔵の最期」「海の城」「私の天皇観」などを執筆した。それらはすべて、戦争体験の記録とその意味を問い続けた書であった。1981年、結核の再発によって56歳の生涯を閉じた。
昭和の妖怪 永田 昌弘
昨年「妖怪の孫」という映画が評判になった。妖怪とは安倍晋三元首相の母方の祖父、岸信介のことである。妖怪とはバケモノのことだが、彼がどのように尋常ならざる官僚、政治家であったか、その諸相を述べたい。岸は山口県の地方名家、佐藤家の10人兄弟姉妹の次男に生まれる。中学三年の時、父の実家岸家の養子となる。俊秀であった信介は1高、東京帝大と進み、2年時でエリート官僚への道、高等文官試験に合格する。大学時代に彼に影響を与えた思想は、まず上杉慎吉の国粋主義、これによって彼はずっと天皇制、国体護持者として不変であった。そして最も衝撃を与えたのは、北一輝の国家社会主義論である。「国家改造案原理大綱」を夜を徹して筆写したという。もう一つ思想的影響を与えたものに大川周明の大アジア主義がある。資本論などマルクス主義文献も読んだが「これには参らなかった。」と言っている。しかし、深層において何らかの影響を与えていたのではないかと思われる。後に統制経済、大東亜共栄圏、社会保障政策へと結実していく。彼はよく重層的、複層的と言われるが、思想面においてもいえる。
卒業後、農商務省に入る。当時、優秀な学生は大蔵省か内務省に入るのが一般的であったが、「武力でなく経済の力で世界と戦うのだ。」という思いがあったからだ。
尋常ならざることの第一は、彼は権威や権力に対して敢然と立ち向かう気概を持っていたことだ。例えば、緊縮政策を打ち出した浜口内閣が「官吏の1割減俸」を決定すると。岸はクビを覚悟で、率先して反対運動をした。これにより「商工省に岸あり」と官界に広がった。単なる秀才でなく、統率力、政治力、粘り強さを併せ持った相当の人物というイメージが植え付けられた。やがて関東軍にこわれて渡満することになるが、荒涼たる平原に匪賊の跋扈する満州に行くのは左遷、都落ちと考えられる当時商工省にこの人ありと言われた花形官僚の岸が満州に行きたがるなどとは常識では考えられない。しかし、「満州は真っ白な巨大カンヴァスですからね。そこに馬鹿でかい絵を描いてきますよ。」といって出発した。着任の挨拶で、関東軍参謀長板垣征四郎に「私は内地を食い詰めて満州に来たわけじゃありません。是非とも来てくれと懇願されて来たまでです。よって、経済のことはこの私に任せていただきたい。それでなければ直ちに日本に帰ります。」と啖呵をきった。絶大な権力を持つ関東軍の参謀長にこれだけの事が言える胆力は相当なものだ。板垣は始め顔を紅潮させていたが「君に来てもらったのは、産業経済の問題は君に任せるつもりなので、だからそのつもりでやってくれ。」と答えたという。軍の了解を得て、岸はソ連の五か年計画をまねた満州五か年計画を実行に移していく。やがて満州を牛耳るニキサンスケ(星野直樹、東条英機、松岡洋祐、岸信介)の一人となる。三年後、商工次官となって去る。来たときは一個の優秀な官僚だったが、去る時には政治家になっていたといわれた。
次官となった岸は小林一三商工大臣の下で、「経済新体制確立要綱」をまとめる。財界出身で自由経済主義者の小林は、この要綱を「アカの思想」呼ばわりする。アカ呼ばわりされてカチンときた岸は、大臣と大口論になる。小林は岸をクビにしようとするが岸は辞めない。自宅にまで押しかけて辞表に提出を迫るが、岸は風邪を決め込んで会おうとせず、追い返してしまう。「次官が大臣を門前払い」という世評が立った。結局、近衛首相の意向で岸は辞表を書いた。
東条内閣が成立すると、岸は商工大臣となって戦時統制経済に尽力し、又多額の政治資金を東条に注いで表裏で彼を支えて蜜月が続いた。ところがサイパンが陥落すると、戦争方針をめぐって両者が対立する。サイパンを失えばB29の本土攻撃にさらされ、各種の生産設備が失われて戦争継続は不可能になる。岸は早期終戦を主張するが、東条は本土決戦を譲らない。東条は岸に辞職を迫るが、岸は応じない。東京憲兵隊長四方諒二は大臣官邸にのり込み軍刀を突き付けて辞任を迫るも「黙れ兵隊!」と一喝して追い返した。東条内閣は「閣内不一致」で総辞職をよぎなくされる。岸が東条内閣をつぶしたことに対して、ある官僚は「岸は先物を買った。」といった。戦犯を免れることまで考えていたというのだ。一の行動によって、十の効果を計算できる男なら、まさに妖怪の名に値するだろう。
戦後になると、反吉田を掲げる。吉田は占領下の政治家、占領終結後は独立日本にふさわしい人物がリーダーとなるべきだといった。
報知新聞新京支局長は「酒と女はすごかったな。満州時代の岸さんは自分の家でメシを食ったことがなかったのではないかと思う。毎夜芸者をあげて飲んでいた。」と言っている。経済政策を円滑に進める為に、血気盛んな将校との夜の付き合いも欠かさなかった。こうした周到な気配りによって、必要な人脈を築いていった。また、軍人、満州浪人、無頼漢に至るまで金を与えた。ではその金はどこから得たのか。一つは日中戦争で利益を上げた日産コンツエルンの鮎川義介で他はアヘンの密売ルートからのものと言われるが、確証はない。岸は帰国の際の別れの席で、「政治資金というものは、濾過器を通ったきれいなものを受け取らなければならない。」と述べているようにすべて闇の中である。戦後は、彼が権力の階段を上るにしたがって増した財界の力であったろう。また、保守合同の55年体制確立に当たっては、CIAの資金が使われた。ニュヨークタイムズのスクープによれば、数百万ドルが渡ったといわれる。その他数々の疑惑が浮上したが、彼は決してボロを出さなかった。東大閥、官僚組織をがっちり押さえていて、これが岸を守ってきた。
岸の上司小川郷太郎商工大臣のエンマ帖には、岸の素行について“性遊興を好む”と書いてあった。役所にはいると花柳界の遊びを覚え、赤坂の芸者となじみになり、のち置屋「玉村」をださせたので「お玉さん」と呼ばれるようになった。岸の側近椎名悦三郎によれば、ヘチマに歯がはえたような男のどこがいいかと嫉妬するくらい女性にもてた。満州では京子という芸妓とねんごろになる。それでも足らず、新京ではさしさわりがあるからと大連まで泊まり込みで遊びに行った。巣鴨の監獄では、笹川良一に「笹川君きみはどうだ?僕は下半身の方が元気で困る。これは自分でも、もてあます。巣鴨生活の最大の苦痛はこいつだ。」と語った。度々夢精をして下着を洗った。蒋介石との関係を重視した岸は、八十過ぎてもたびたび台北を訪れたが「ご高齢になられてから、女性とのコトは大丈夫だったんですか。」としばしば尋ねられると、笑いながら「ナニあんなモンはね、ちょっと立てかけておけばいいんでね。」と答えたという。
「悪運は強いほどいい。」とは岸の言だが、東条内閣がつぶれた後、坐骨神経痛の治療のため郷里に帰っていると、鈴木内閣から地方管区長官くらいやってくれと電話がかかった。広島なら引き受けようと応じたが、広島は先約があってダメになった。もし広島に行っていたら原爆で命を失っていただろう。戦犯容疑で逮捕された岸は3年余りも拘束されても起訴されなかった。東条内閣を倒したとか、大本営政府連絡会議に出席していなかったからとか理由があげられるが、一番は米国の政治的配慮ではないか。東京裁判は岸も言っているように、茶番劇だった。明確な基準があるわけでなく、アメリカの意向でどうにでもなった。米ソ冷戦の激化で、対日方針が経済的、軍事的解体方針から、復興、再軍備をさせ反共の防波堤にする方針へと変わった。反共主義者で有能な岸はまたとない人材であった。国際情勢の変化が岸を救ったのだ。保守合同後、鳩山の後継と目されていた緒方竹虎が急死、鳩山退陣後の総裁選で石橋湛山にやぶれるも、湛山は病気により僅か2か月あまりで辞任においこまれる。岸は巣鴨拘置所から釈放されて8年2か月、政治の頂点に上り詰めた。
岸の変幻自在の政治姿勢を表して“両岸、八方岸”などと言われた。昭和20年3月、“反東条”の旗を掲げて護国同志会を立ち上げたが、そこには農民運動家や陸軍過激派まで広範な政治家が集まった。岸は弁護士の三輪荘寿に社会党右派に入党の口添えを依頼する。三輪は帝大時代の親友で、戦犯容疑で収容されている時弁護人を務めた。右派の衆議院議員で左右社会党に強い人脈を持っていた。これは西尾末広の反対で実現しなかった。台湾との関係を重視してきた岸であったが、裏では中共と経済関係にも目を向けていた。それを担ったのはアヘン取引に深くかかわり、裏の金庫番であった古海忠之であった。戦犯として服役していたが、刑期途中で帰国を許された。岸とのパイプ役を期待されたものと思われる。意外と思われるかもしれないが、国民皆保険制度、最低賃金法、国民年金法の制定など社会保障の充実にも成果を残した。これは小学校時代に貧乏な同級生をいじめたトラウマかもしれない。彼はそのこと生涯悔恨に堪えないと言っている。一方、共産勢力の浸透防止には生活の安定が必要だという思惑もあった。新安保条約が自然成立した後、安保反対派インテリに「一度席を設け、お話を承りたい。」と永井道雄、都留重人、竹内好、加藤周一に声をかけた。永井と都留が出かけたということだ。
政治家は人情の機微に通じ、人を引き付ける磁力を持つと同時に情に流されない非情さを備えていなければならない。巣鴨から出た時、生活の面倒を見たのは、藤山コンツエルンの愛一郎であった。岸が首相になった時、藤山の入閣を求めた。政界入りを渋っていたい藤山も「僕は藤山君こそ自分の後継者だと思っている。」の一言で外務大臣に就任する。「白いハンカチを雑巾に使った。」と巷間で言われた。岸退陣後、総裁選立候補を勧められて、立候補するが岸は前言をひるがえして岸票を池田に回したため敗れる。以後3回挑戦するもかなわず、藤山コンツエルンの財を使い果たし文字通り「井戸塀」となって引退した。藤山は“自分の権勢を維持するためならば、昔からの友人であっても平気で騙し翻弄するのだ。”と述べた。また、大野伴睦にも“後継者として大野さんあなたが一番いいと思う。”と言って帝国ホテルで四人の立会いの下、念書まで書いておきながら「床の間に肥溜めを置けるわけがない!」といって反故にした。岸が暴漢に刺されると「ざまあみやがれ嘘つきめ!」と罵ったという。
「死ぬなら首相官邸で」という覚悟で弟の佐藤栄作と二人で、新安保条約の自然成立を待ったのち、樺美智子とアイゼンハワー訪日中止の責任をとって退陣表明をした。退陣時は63歳、まだ若かった。巣鴨での粗食と規則的生活で体質改善してすこぶる健康。政界にとどまり、フィクサーとして隠然たる勢力を維持した。何かあれば裏に岸あり、陰に岸ありとささやかれた。肩書も自主憲法制定国民会議会長など、長のつくものだけでも20に及んだ。自宅と事務所に訪れる内外の訪問客で予定表はビッシリ。その間にアジアを中心に世界を飛び回り、最も滞空時間の長い政治家といわれた。もちろん好きなゴルフ大会は欠かさなかった。隠し子騒動など、その道の話題も事欠かなかった。90歳で生涯を終えるまで現役であった。
最後に妖怪にふさわしい逸話をあげよう。戦犯容疑で連行される朝、家族や近隣縁者が集まって水杯を交わしている時、もんぺ姿の女性が現れ、「このウジ虫ども、お前ら何をしおたれておるか、岸は3年くらいしたら必ず帰ってくる。日本を再建するのに絶対必要な男だから、神様は岸を殺しゃあしないんだ。マッカーサーが何をしようが岸は必ず帰ってくる。」とわめいた。のち彼女は神が憑依したとして天照皇大神宮教を興した。大宅壮一はこれを踊る宗教と名付けた。(2024.1.26)
ヨーロッパ山紀行(「ひろば」筑摩高校図書館ニュース特別シリーズNO16 1990.9.28)永田 昌弘
五十面さげて、なんでまた山なんぞとお思いでしょう。山は私にとって遊びであり、ロマンなのです。オランダの歴史学者ホイジンガーは「遊びは人間の本性である。遊びに理屈や目的はない。」と言っています。遊ぶことはきわめて人間的なのです。そして、遊ぶのにいちいち目的や理由を深く考える必要はないのです。スキーをしたり、パチンコを楽しんだり、また酒を飲むのと同じ山に登っているだけです。さらに、男には遊びだけでなくロマンが必要です。女には子供という素晴らしいものがあります。女性は子供だけで人生を生き抜けます。母と子の関係はそれほど深いものがあると思う。しかし、男にとって父と子の間柄はある種のよそよそしさが常に存在します。その間隙を埋めてくれるのがロマンなのだと思います。教育に情熱を燃やす、出世を目指す、それぞれロマンの求め方は人によって様々ですが、私のロマンは山なのです。あんまり利口でないから、幾つになっても高いところにあこがれるのです。
実は、四年前にも一度アルプスへ出かけました。その時、あまりお金を使うのは家族に悪いから、もうこれっきりにしようと決意したのですが、マッターホルンへの想い立ち難く、また、この度公私にわたってご迷惑をおかけして、一か月にわたりアルプスへ出かけてきました。前回は、山の状態も悪く、おまけに天候悪化でわずか2時間登っただけで敗退し、あとは、パリ、ロンドンで遊んでいましたが、この度は、天候に恵まれ、五つの山の頂に立つことができました。ヨーロッパアルプスは大きく分けて四つの山群からなっています。モンブラン山群、ヴァリス山群、ベルナーオーバーランド山群、ベルニナ山群です。そのうち前三つの山群をまわって、モンブラン(4807m)
モアヌ針峰(3412m)
グレポン(3482m)
マッターホルン(4478m)
アイガー(3970m)
に登りました。
モンブランは雪稜を主とし、モアヌとグレポンはロッククライミング(3〜4級)、マッターホルンとアイガーは岩稜のコースで、それぞれの登攀は変化があって興味深いものでした。中でも一番印象に残ったのはアイガーでした。私が登ったミッテルレギ山稜は元日本山岳協会会長槇有恒氏が初登攀したコースで、稜線の端に彼の建てた小屋がポツンとたっていました。中には彼の若き日の写真が飾ってありました。その小屋で年齢、国籍もまちまちのアルピニスト10人ほどが一夜をともにしました。山稜は3級程度のクライミングで岩角が鋭く、両手の指先が割れ、血が吹き出してきて大変つらかったが、北壁側に1500m、反対側に700〜800mも切れていて高度感満点、身の引き締まる緊張感が素晴らしかった。それに、モンブランやマッターホルンに比べて登山者が少なく、大変静かな山域で、山の魅力を十分に楽しむことができました。
そして、一番つらく、危険な目にあったのはグレポンでした。朝3時半にテントを出て帰った来たのは夜中の一時少し前、なんと21時間以上も行動していたのです。よくもまあこんな華奢な体でもったものだと我ながら感心した次第です。日本の岩場と違ってルートに残置ハーケンはほとんどありません。ですから、トップでリードする場合、50mザイル一杯確保なしで登るのです。落ちたら100m転落することになり、非常に神経を使いました。懸垂下降の時、斜めに下っていて足を滑らせ振り子のように降られて岩角にガツーン、一瞬クラクラしました。ヘルメットがなければあの世行き。午後になると日中の太陽に温められた雪が緩み、雪崩や落石がひっきりなしに起こる。夜10時頃、ナンチョン氷河を下降していた時、大音響とともに落石があり、火花を散らし飛行機のような唸りをあげて石が落ちてくる。4〜5m近い雪煙、暗くて何処を石が落ちてくるかわからない。小石でも当たれば体が砕けてしまう。恐ろしくて身震いした。心身ともに憔悴しきってしまいました。
三つの山群の基地となっている街はシャモニ、ツエルマット、グリンデルワルトでシャモニに13日、ツエルマットに4日、グリンデルワルトに6日、そしてインターラーケンに3日滞在しました。いずれもキャンプ場でテント生活です。ヨーロッパのリゾート地は何処もキャンプ場が幾つもあり、炊事場、シャワー、洗濯場が完備していて快適なキャンプ生活が送れるようになっており、キャンピングカーの家族連れや世界各地のキャンパーで賑わっています。一日一人600〜800円です。グリンデルワルトで二つ星ツインが95フラン(約一万円)ですから随分安く済ませられます。シャモニのロジェールキャンプ場には日本人専用の倉庫があり、鍵はひと夏をシャモニで過ごすといったキャンプ場の主みたいなのがいて、そのテントに置いてあります。私が会ったのは一日3フラン(90円)で暮らしている若者で、毎朝誰よりも早くゴミへ行き空き缶を集めて、それを金に替えて生活していました。自転車もゴミ捨て場から拾ってきて直して乗っていて、毎日点検怠りないと自慢しておりました。また、私の隣のテントは法政大学の政治学の教授でロンドン大学へ留学している夫妻でした。
ある明け方異様な息ずかい、うめき声に目が醒めたが、なんとカナダのトロントから来たカップルが夫婦の営みを始めたのである。おかげでその日の山行は調子が悪かった。肉食文化の白人は性欲が強いのか白昼衆目のあるところでも平気でテントの中でごそごそしている。
食料は専らスーパーや生協を利用しました。品物は豊富で米も売っています。だいたい一日1500円くらいですみました。スイスは観光立国故、日本に負けないくらい高い。酪製品以外は日本より高いくらいです。それに比べるとフランスは20%ほど安い。外食もフランスは安くてうまいが、日本食は非常に高い。シャモニで食べたざる蕎麦は1200円もしました。特に美味しかったのは野菜です。形も大きさも不揃いですが、温室栽培でないせいか味わいがありました。トマトなんか子供のころに食べたなつかしい味がした。
シャモニ、ツエルマット、グリンデルワルトいずれの街にも日本人があふれています。特に多いのがグリンデルワルトです。何もここだけがアルプスではあるまいにと思うのですが、何故か日本人が多い。三両編成の登山電車がすべて日本人で一杯なんていうのをみました。ですから、ここには日本語の観光案内所があって、切符の手配やホテルの予約をしてくれます。私も5フランで帰りの飛行機のリコンファームをしてもらいました。おそらく、みんなが行くから又行くのでしょう。日本人の修正ですね。そうそう、この街は安曇村と姉妹都市でした。
グリンデルワルトは高山植物が咲き乱れ、カウベルの音を響かせて牛が草をはみ、いかにも牧歌的でハイジの世界そのものです。特にユングフラウヨッホへの乗換駅クライネシャイデック周辺は夢のような景色が展開します。間近に迫るアイガーの北壁の圧巻と、のどかな牧場風景のコントラストはたとえようがありません。
ツエルマット、は登山電車のどんずまりの街で、両側に山が迫り狭い谷底に展開している街です。その奥にマッターホルンの雄姿が望まれます。ロープウェイや登山電車で高原まで登らないと眺望はあまりよくありません。ここは、3884mのクラインマッターホルンまでロープウェイがあり、そこからブライトホルン(4164m)に登れるし、氷河スキーも楽しめます。しかし、主にマッターホルンという独立峰を中心にしたところで、日本でいえば富士山を眺めに行くという感じのところです。
しかし、なんといっても私はシャモニが一番良いと思います。開けた谷、両側に展開する4000m級の山々のスケールの雄大さ、またそれへのアクセスの交通機関の整備とトレッキングコースの多さ、さらにここの天気予報の正確な事は定評がある。どれをとっても、前二者はおよばない。なによりも、スイスに比べて物価が安いのが助かります。ヨーロッパへ出かける機会がありましたら、是非シャモニを訪れてみてください。きっとその素晴らしい景観に満足されることでしょう。
参考までに、ヨーロッパ一か月間の経費をあげておきます。(起点松本、1F=110円)
交通費 228,738
食費 44,418
宿泊費 26,009
通信費 2,877
保険料 14,080
その他 7,567
合計 323,689
資本主義の限界 永田 昌弘
世界的な経済学者宇沢弘文(敬称略)を扱った「資本主義と闘った男」の本の中に次のような文がある。ローマ法王パウロ2世から、1891年にレオ13世が出した回勅から100年後にあたって、新しい回勅を出すので協力してほしいという手紙が届いた。レオ13世のテーマは「資本主義の弊害、社会主義の幻想」だった。手紙の中で特に宇沢の目を引いたのは「資本主義は大丈夫でしょうか?」という問いかけであった。これはまさに宇沢が問い続けていた難問であった。彼はレオ13世の回勅をひっくり返して「社会主義の弊害、資本主義の幻想」とすべきではないかと進言した。冷戦は社会主義の敗北で幕を閉じたが、資本主義に問題がないわけではない。取り組み始めた地球温暖化問題を挙げ、合わせて社会的共通資本の考えを紹介したというものである。
資本主義とは何か。「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」の著者ナンシーフレイザーは「制度化された社会秩序」といった。資本主義経済を基本に政治、文化、社会などあらゆる分野を通底する秩序であるというのだ。これは500年ほど前、キリスト協会が利子を認めて以来のことで、我々はそれ以外の社会秩序を想像することすらできなくなっている。
では、その基本の資本主義経済とはどのようなものか。大学の教養部の授業で、次のように教わった。G(お金)―W(商品)―G‘ G
さらに、資本は人間だけでなく自然おも略奪する。それを助けたのがキリスト教と啓蒙思想である。創世期には「神は言われた、『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜と、地の獣と、地を這うものすべてを支配させよう』」とある。ベーコンは「自然は征服し、服従させるもの」とし、デカルトは「人間以外の生物は思考力のない物質に過ぎない」。カントは「人間以外の存在に対して、私たちに直接的な義務はない。それらは目的のための手段としてのみ存在する。その目的とは人間である」こうしてアニミズム思想は破壊され、資本家を喜ばした。土地は財産になり、生物はモノになり、生態系は資源になった。コークス精錬法が開発されるまで、製鉄業は木炭のためにイギリスの森を切りつくした。今に残るのどかな草原風景は森林破壊の結果である。また、石油の利用が始まるまで、労働者の長時間労働のための灯火として鯨油が使われた。油以外はすべて捨てられ、滅亡寸前まで取りつくされた。アニミズム世界では、自然からの贈り物として神に感謝し、神として祀ったり、供養塔、忠魂碑を建てたりしたのと大違いである。
技術革新によって生産力を増大させたイギリスは資源と商品の販路を求めて、ヨーロッパ諸国に進出したが、やがて、それらの国々も資本主義段階に至るに及び、さらなるフロンティアを求めて、ヨーロッパ以外に進出した。植民地の獲得である。木材、綿、砂糖、ゴム、コーヒーなどあらゆる産業資源がただ同然で強奪された。プランテーションでは原住民が過酷な環境で働かされた。グローバルサウスの人々は「野蛮」で人間以下の「モノ」と見なされた。どんなひどい扱いをしても、本国で咎められることはなかった。最も人権を否定された存在は、アフリカから新大陸へ連れてこられた奴隷である。労働力の搾取を超えた収奪そのものであった。さらに、植民地を大量生産商品の市場にするため、植民地の自給自足経済を破壊した。食物、衣服その他の必需品を資本家に依存せざるを得ないようにした。とりわけアジアでは独自の手工業が発達していたが、本国の安価な商品を大量に導入することによってつぶした。こうしてヨーロッパの資本主義が成長するにつれ、世界の製造業におけるグローバルサウスのシェアは1750年の77%から1900年には13%まで落ち込んだ。
資本主義を達成した欧米及び日本は原料と市場を求めて、熾烈な植民地獲得競争をすることになった。その大規模なものが、帝国主義戦争といわれる先の二つの大戦である。戦争は多くの資産を破壊するため、戦後は再建のために資本の場を提供する。ピケティによれば、戦争とその後のしばらくの間は格差が縮小し、労働者にとって例外の時代だという。それには社会主義ソ連の成立と資本家のそれへの恐怖があったのではないかと思う。この時代、ベラルーシュの経済学者サイモン・クズネックがGDPの基礎になる測定基準を開発した。GDPは総生産額の市場価値を集計するが、有益、無益の判断はしない。病気や災害で支出が増加してもGDPは増えるが、家庭で介護をしてもカウントされない。GDPは資本主義の成功の指標であっても、幸福の指標ではない。以後、GDPをあげることが資本主義国の最大の関心事になる。第二次大戦後は、南の植民地国は次々と独立して資本主義化した。収奪できなくなった先進資本主義国は新植民地政策で、これらの国を安価な労働力と資源、市場のための新たなフロンティアとした。
1970年代後半になると、西側諸国の経済成長は減速し、資本の利益率が下がり始める。資本のグローバリゼイションがアフリカにまで及び、資本の空間的フロンティアが消滅したことを意味している。そこで、電子、金融空間を生み出し、資本主義の延命を図った。これは、ITと金融自由化が結合してつくられたもので、1億分の1秒で取引できるシステムとか、金融工学による複雑な金融商品を開発して、バブルとその崩壊をくりかえして利益を上げるというもの。サプライムローンとその崩壊はその最大の例であろう。崩壊のたびに資本家側は国家による保護対策を受け、労働者は放置され中産階級は没落し格差は拡大した。
さらに、成長減速対策として、イギリスのサッチャーリズム、アメリカのレーガノミックス、日本の中曽根内閣の臨調行政改革に示される新自由主義政策がとられるようになる。これは官から民へ、小さな政府、企業の規制緩和の三つが主な特徴である。労働者の搾取を強化するもので、まず抵抗勢力と思われる労働組合の弾圧を行った。日本でも国鉄の民営化に際し、国鉄労組を解体させ、戦う労働ナショナルセンター総評はつぶされ、連合となってストライキのない社会になった。こうして牙を抜かれた労働者は自由市場という弱肉強食のジャングルに放り込まれた。小泉改革では大量の非正規労働者が生み出され、今や全労働者の4割に達している。低賃金労働者として厳しい搾取にあっている。大企業は過去最高益を更新しても、労働者の実質賃金は下がり続けている。いま、日本では年収200万円以下の人が18.5%いる。労働力再生産ギリギリの生活を送っている。この間、格差はさらに拡大し、1%の富裕層が世界の富の約38%を占めている。ということは、どんなに技術革新が進んで生産性が上がっても、人々は幸せにならない。むしろ、生産性が上がり労働者が不必要になれば失業が増える。1930年、ケインズは技術の進歩によって2030年には労働時間は週15時間になり、人々は余暇を楽しむようになるだろうと言ったが、現実は過労死するほど働かされている。AIが普及すれば働き場所を失う人が増えるとされるのは、AIが問題なのではなく、資本主義システムが問題なのである。資本主義は成長のみを求めるのであって人々のしあわせには無関心である。少子化は労働者の無意識の抵抗かもしれない。こうして、資本主義は利益空間の喪失と基本的矛盾のため限界に近づきつつある。基本的矛盾とは剰余価値を生む労働力商品を資本家は自ら作れないということ、そして生産された商品はそれを購入する消費者(労働者)が居なければならない。彼らは労働力という商品を売る労働者であると同時に商品を買う消費者でもあるのだ。搾取を強めればものは売れない。これを経済学者の宇野弘蔵は資本主義の無理と言った。無理を押すには戦争でリセットするくらいしかない。
もう一つ資本主義の限界を表すことがある。それは自然の収奪の限界のことである。自然は征服し、収奪し、廃棄物の処理場であった。資本主義は毎年2〜3%の成長が必要と言われる。そうするとGDPは指数関数的に増える。それに連動してマテリアル・フットプリント(消費される天然資源)も指数関数的に増加する。1900年代は毎年70億tであったが、2017年には970億t、地球が耐えられる量の倍である。経済成長にはエネルギーが必要であるから、化石燃料が消費され、気候変動に影響するCO2を放出する。20世紀前半には年間20億tであったものが、2019年には370億tになっている。
近年の自然科学、生態学の研究から明らかになったことは、自然は征服、支配、制御の対象でなく、我々は自然の一部であり、複雑な生態系の構成員である。従って、生態系を離れては存在しえない。例えば、我々の腸の中では何兆という微生物が住み、その微妙なバランスによって生命が維持されている。
地球は驚くほどの回復力を持っており、人間が消費したものを再生産するのみならず、廃棄物をも処理してくれる。地球のそのような能力を維持するには、我々の活動は地球の能力の範囲内にとどめなければならない。生態学者はそれをプラネタリーバウンダリー(地球の限界)といい、もし、これらの限界を超えたら生態系は崩壊し始める。学者たちは、不安定化している9の系を特定した。そのうちの4つが既にプラネタリーバウンダリーを超えているという。その四つとは、気候変動、生物多様性の喪失、森林破壊、生物地球科学的循環である。海洋の酸性化は限界目前で、2050年にはマイクロプラスチックと魚の質量が同じになるという。
政治経済学者のフランシス・フクヤマは「自由資本主義市場は、唯一の選択肢であり、永久に続く」と著書に書いた。また、レーガンは「成長に限界などというものはない。なぜなら、人間の想像力に限界はないからだ」といった。果たして本当にそうなのか。一日は24時間、地球という天体を離れては生きられない。限定された時間と空間の中で、無限の価値増殖を求める資本主義は可能なのか。プラネタリーバウンダリーの範囲内で機能するような社会システムを構築しなければならないのではないか。