『触れない指先』 1 風が少し強くなった。 店舗廻りを終えて車に乗り込み、会社に持っていく資料が揃ってるのを確認してからエンジンをかける。 ギュルルルという音がして、冷房がゴオオオと足元にあたり、ラジオが流れる。 『‥の影響で、県内のガソリン価格は1リットル150円代に値上がりし、今後も更に上がる見通しです。××市内のガソリンスタンドでは‥‥』 またか。 ここ一ヶ月、ガソリン価格は上がりっぱなしだ。 高卒で就職して8年。ある程度の蓄えがあるとはいえ、最近は何もかもが値上がりで、ほんと困る。 確か、残り半分だったな‥‥。 会社帰りに忘れないように、右ポケットからメモを取り出し、スタンドとだけ記入する。それを左ポケットに入れて、アクセルを踏み発進する。 夕方4時半を回った市内は、同じように会社に戻る車が行き交っている。 歩行者がほとんどいない田舎では、歩道が狭く段差が多い。この先の道は拡張工事をして綺麗になったけど、ここは交通量が多いから簡単にはできないのかな。 複雑な交差点を抜けると会社が見えてくる。 二階建ての、小さめの一軒家程度の建物。 南側にある会社専用車の駐車場に入り、エアコンのスイッチを切ってエンジンを止める。 4台。皆戻って来てるな。 書類と鍵を持って、全部の車に鍵が付いたままになっていないことを確かめ、事務所に入る。 「戻りましたー」 直ぐに受付の加島さんが顔を上げ「おかえり」と手を出す。 鍵を渡し、窓際へ移動しFAXが届いてないか確認する。ついでにコピー。 机に移動すると、留守の間に置かれた書類が散らばっていた。 「槇原、どうだった?」 沢山のファイルで遮られた斜め前の席に座り、悠々と煙草を吹かす上司の成田課長。 「成田課長、室内は禁煙ですよ」 「おー、いかんいかん。つい」 外にある灰皿にのんびり移動し、消して戻ってくる。のっそり歩くでぶ猫みたいだ。 「田島屋さんから、これ、貰ってきました。発注書と、あとケースと瓶の回収を月曜にして欲しいそうです」 「んー。月曜なら大丈夫だな。わかった」 「榊から連絡ありました?」 「ああ。熱も下がったし、明日は来るそうだ」 「え、1日で治ったんですか?」 「な。実はズルだったんじゃって俺も思った」 ひとしきり雑談をしてから、コピーした発注書の金額を計算し、外回り報告書を書く。 明日処理をする書類をまとめて、あとは‥‥無いかな。 一通り机を整理し終えたところで終業のベルが鳴る。 営業時間は朝8時半から5時半。 いわゆる第六次産業のうちの会社は、農作物を集め加工・販売をしている。 社長は会社のすぐ近くに広い農地を持っていて、会議や来客以外は殆ど畑にいる。 その社長も含め、地元の農家から出る規格外品をジャムやジュースにして、主に地元の店に売る。 地産地消を意識した会社といえば聞こえはいいけど、実は社長が自分で作った果物を加工して食べたかっただけという、安直な理由で出来た会社だ。 加工所は2キロ離れた場所にあって、俺の仕事は加工所に注文をしたり店に請求書を書いたり、いわゆる雑用だ。 今日みたいに営業で休みが出れば、代わりに外回りにも行く。 もう少し残るという加島さんに戸締りを頼み、タイムカードを押す。殆どの社員は皆帰り、事務所は暗い。 残業はなるべくしないというのがこの会社のスタンス。 車に向かいながら左ポケットのメモを出す。 ガソリンと、米と卵、あと醤油。 帰りの用事を確認して、日に当たって熱い車内に乗り込み発進する。 毎日がこの繰り返し。 土曜日は上司や同期と飲みに行ったりもするが、平日は大抵買い物をして真っ直ぐ帰る。 「槇原君、まだ26だろ?若いってのにつまらんなぁ」 いつだったか飲み会で言われたセリフがよぎる。 彼女探さないとな、結婚するなら社内で誰がいい、だの、正直言うと勘弁して欲しい。 恋人はここ4年いない。 最初に付き合ったのは中2の夏で、隣のクラスの美人だった。 で、「部活や友達ばっかり大事にしてて、私の事ほったらかしてる」みたいな事を言われて、ケンカして別れた。 高校3年から付き合ったのはサバサバしてて活発な子で、でも向うは進学、俺は就職で時間や価値観にズレが出てきて、 またケンカして別れた。 彼女が欲しくないのか、と訊かれれば、支え合える相手が欲しいってのが俺の気持ちだ。 今は停電した時のような気持ちで、 きっとそのうちつくだろうけど、 真っ暗で自分の手すらまともに見えない状態で、 どこに進めばいいか途方に暮れていて、 相手が何処かに居るんだろうけどそれどころじゃない、 そんな状況だ。 そして灯りがついて、でもその時そのまま相手がそこに居てくれる保証など、どこにもない。 しょうもない事を考えてるうちにガソリンスタンドに着く。 給油機の右側に車を着けて窓を開ける。 慌てて走ってきたのは、入ってまだ1ヶ月の高校生アルバイト。 「こんにちは、お世話になります」 ぺこっと頭を下げて、にこにこ笑う。 「こんにちは。レギュラー満タンで」 「はい。カード預かりますね」 あらかじめ手に持っていたカードを渡し、ガソリンタンクの蓋を開ける。 注がれる機械音が聞こえてくると、すぐに窓ふき用タオルを持ってきてくれた。 元々半分残っていたからすぐに入れ終わり、タオルを渡してカードを受け取る。 「もう大分慣れたみたいだね」 話しかけると、顔を真っ赤にして俯いてしまった。 「‥はい、あの時はありがとうございました」 入ったばかりの頃は右往左往していて、俺がタオルを窓枠に置いていたのを受け取らず、俺も気づかずに帰ってしまったことがあった。 まあ直ぐに気づいたんだけど。 それ以来、必ずタオルは手渡しする。 「どちらから出ますか?」 「左で」 歩道に行き誘導して、車が来ないか確認してくれる。 「ありがとうございました!」 「じゃあまた」 左にウインカーを出し発進する。 バックミラーに、頭を深々と下げる姿が映る。 とりあえず用事がひとつ済んだことに安堵して、スーパーに車を向かわせた。 1 →● TOP |