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遠山郷・下栗


 遠山地名考      文責・遠山信一郎
 
 遠山という地名について、いくつかの資料をもとに考察しました。
 昨年10月飯田市と合併した南信濃村と上村は、古くから「遠山」「遠山谷」あるいは「遠山郷」と呼ばれてきました。
 その名前が記録として残されているのが『吾妻鏡』で1186年文治2年3月12日後白河上皇が、源頼朝に未済年貢の取り立てを催促しましたが、その年貢未済の庄として「江儀遠山庄」とあるのが最古で、これ以前にはすでに遠山という地名が存在したと考えられ、古くからの呼称でたいへん歴史あるものといえます。
 この「江儀遠山庄」の江儀とは江儀山、南アルプス最南端に位置する池口岳の古称ではないかと考えられおり、いわば江儀遠山庄とは、江儀山麓に広域する遠山の庄として、他の遠山と判別していたのではないでしょうか。
 ただ、『大日本地名辞書』によりますと、「遠山」と呼ばれていた地域は、信濃、美濃、三河、遠江の国境にまたがった広い山岳地帯を指す総称として使われていたといいますが、中世以降社会情勢などの変遷につれて東西両地域にわかれていったのではないでしょうか。
 吾妻鏡には遠山庄と江儀遠山と2通りの記述があり、すでにこの頃には別個の地域であったことが分かります。
 この頃の江儀遠山の地域の範囲はどのようであったか考えてみますと、吾妻鏡に、下伊那には当時、伊賀良、郡戸、伴野、大河原鹿塩、それに江儀遠山などの荘園があったことが記載されています。この「江儀遠山庄」は、遠山川を中心とした現在の遠山地方を含めた、もう少し広い範囲を指すものではなかったかと思います。
 南信濃村村史「遠山」によりますと、
 鶴岡八幡宮の僧に信濃の国阿闇梨仲円が補任されたとき、信州遠山庄を唯一の荘園としたが、単に遠山川流域のみならず、阿南地方一帯を包含する地域であったことも考えられる。
 「この頃、北条時政は、伊賀良庄の地頭でもあったので、併せて江儀遠山庄を治めていたものと考えられる。
 遠山地方には、八幡宮がたくさんあるがそのほとんどが「鎌倉八幡」と呼ぶのは鶴岡八幡宮の社領であったことが暗示されるものである。」
 とあります。
 このことから初期遠山庄は、下条山脈と呼ばれる山陵を境として、その以南の下条、富草、大下条等の現在阿南町と呼ばれる地域はもちろん、その南天龍村から国境地域にかけ、さらに西方にかけては、いずれも遠山庄内であったのではないかと、推察されています。
 また、下条氏の根拠地、吉岡城を富山城というのは、この頃遠山と呼ばれていた名残ではないかという説もあるそうです。
 ところで、なぜ「遠山」と呼ばれるようになったのでしょうか。
 現在、遠山が付く行政区名は各地にあります。
 ・茨城県牛久市遠山町。(常陸)
 ・山形県米沢市遠山町。(陸前)
 ・埼玉県嵐山町遠山町。(武蔵)
 この他に公的機関に遠山を冠するところ(千葉成田市遠山公民館)もありますが
 これらはいずれも、市の中心地など開けたところにあり、地形から付いた名とは考えられません。
 これは、かっての豪族遠山氏に関係するのではないかと考えます。
 それは、遠山景朝を祖とする美濃遠山氏、信濃遠山氏、相模遠山氏さらにその別れとなる遠山氏が下総、常陸、相模、武蔵、陸前、丹波など全国各地におり、牛久市、米沢市などにも遠山氏はいたからであります。
 しかし、信濃、美濃、三河、遠江の国境にまたがった広い山岳地帯を指す初期の遠山は、人間を簡単には寄せ付けないような、遙かに続く山並みからそう呼ばれるようになったことは、紛れもないことだと思います。
 木沢と和田小学校長を歴任された故池田寿一先生が編んだ「遠山紀行」の中に、それを裏付けるような紀行文があります。
 昭和10年秋、画家であり歌人でもあった加藤淘綾は、三宜亭から天龍川対岸の山脈を眺めながら、こう思ったと書いています。
 「あの山の向こうには村はないだろうなあ」と、独り言のようにつぶやくと、友人丸山がこう答えた。
 「あるとも、あの向こうには遠山と言って、まだ幾つもの村がちゃんとあるさ」。
 私は驚愕した。「人というものは実にえらい所まで住みつくものだと思った。」
 と、そう書き残しています。
 知らない人から見れば、遠山はとても人が住むような所でない秘境の地、獣(けもの)しか住まない山岳地帯に見えるのでした。
 まさしくそれは江戸時代(1798年発行)に多くの京都の人達に読まれた「遠山奇談」の世界であります。
 そんな山奥に、「なぜ人は住みついたのか」。
 後藤総一郎先生は、自分が生まれ育った遠山のことを、子供の頃そう疑問に思ったそうです。(後藤総一郎 1993年〜2003年没。著書『遠山物語』他多数。明治大学教授を歴任。)
 そして、その意味を柳田圀男の『後狩詞記(のちのかりことばのき)』と『遠野物語』に見つけたと『神のかよい路』に書いています。
 「遠山の先住民は、山の木の実、木の根、野の菜を求めて山中に分け入り、日当たりのよい台地を伐り拓き、集落を形成していった。そして一方、それら縄文作物の荒らされるのを守るために、狩猟が始まった。それがやがて信仰と結びつき、耳裂け鹿を捧げた諏訪社と深いかかわりを持っていった。」のではないかと。 余談ですが、後藤先生は、一時期遠山にアワ・ヒエ・エゴマなど縄文穀物の栽培を呼びかけられていました。
 信仰により諏訪とのかかわりが深かったことを重視した柳田は、『東国古道記』に「遠山という荘園名は外からつけられたもので、命名したのは、諏訪神社の奉仕者たちであろう。」と述べています。
 しかし、谷川健一先生は違いました。
「遠山ということばには、美濃や三河、遠江から信州の内陸へと入り込んでいく人達の意識がこめられている。重畳する山並みの彼方にある僻遠という意味で、こうした称を持ったのがこの土地の起こりとなったのであろう。(『民俗の神』)」と言っています。
 柳田は内陸から見て、谷川は太平洋側から見て遠山と付けたと言うわけであります。
 この二つの地名説は、名付けた方向こそ違いはありますが、
「中央構造線によって地形的に遠山谷と呼ばれる山峡ではありますが、それ故に、古代から交通の要衝の地として、古層の歴史、文化を育み、霜月祭をはじめ、全国的に知られる貴重な文化遺産を現在に伝えた、深遠な地域である」と解釈しているのであります。
 明治8年上村・木沢村・八重河内村・和田村が合併して遠山村と命名したのは、当時の指導的立場にある人たちは、歴史ある遠山を誇りに思っていたからでに相違ありません。
 その後幾度となく分離・合併を繰り返し、遠山というが地図上から消えたのは、交通の便がよくなり村外との経済交流・文化交流が盛んになり始めた昭和35年4月の遠山村と木沢村との合併でした。
 そのとき遠山谷の人達は、飯田や近在の人からの「遠山の山猿」の蔑称から解き放たれたいと、後藤の言葉を借りれば「なんの歴史的風土や地名ともかかわりのない信濃の南というどこのもある普遍的で抽象的な、いわば揚底された無国籍的村名と動いていった」のです。
 なぜ、飯田や近在の人達は遠山の人びとを山猿などと悪く言ったのでしょうか。
 遠山の地形もあるかもしれませんが、もう一つの要素も見逃せません。
 それは、こんにゃくや、栗などで儲けた一部の遠山の金持ちが、飯田に出てきて金融業をして人を泣かせたとも、あまりに羽振りがいいため、恨まれたためだとも言われています。
 飯田証券の創設者もそうですが、遠山出身の有名人は大勢おり、立派な人も大勢いた訳ですが、残念ではありますが今でも「遠山の山猿」と言う言葉を聴くことがあります。
 話がそれてしまいましたが、
 今、全国各地で合併が半強制的に行われ、小さな地名が消されていき、四国中央市や南アルプス市のようなイメージをかき立てるすばらしい地名が誕生しています。
 地名は土地に刻まれた文化遺産と言い切る谷川の言葉から、昨年の飯田市との合併は歴史ある遠山の復活の絶好の機会でありました。
 ところが、呼称をどうするかとの問いに多くの村民が南信濃を選択し、遠山という地名は永遠に地図に載ることはなくなってしまいました。
 しかし、「遠山という地名と呼称は、不滅のごとく歴史のなかの人びとによって呼び残されてゆくであろう。」という、村史に残された後藤の一文が、悔しがる後藤の顔と悲痛の叫び声に聞こえてきます。
 27日付け信州日報の記事に旧上村・南信濃村の記述の他に「遠山郷」という言葉が何カ所にも出てきておりました。上村と南信濃を「遠山」とひとつの呼称にしても差し支えがないし、その方が誰にもわかりやすいのではないでしょうか。
飯田市の観光の目玉に「遠山」は、なる宝を十分に持ち合わせています。
 「人びとは自分のまなざしの届くところに全て名前を付けた。手のひらほどの土地にも名前があった。それには必然的な理由が存在したからだ」と谷川は書いています(「神は細部に宿り給う」の序説)。
 その通りだと思います。
 遠山には「うっさけろくぼほうぜんじ」の他に「てろうてんぱくやまのかみ」という言葉あそびがありました。子供の頃よく聴いたテンポ良い言葉が、じつは地名を言っているのだということを知ったとき、私は先人たちの知恵と、歴史に感動しました。
 なぜ、千代の地名が遠山に伝わったのか、それはかって昭和初期には交通の要衝であった千代と遠山を結ぶ道があったからではないでしょうか。
 その道は木沢新道と呼ばれ、明治初期一人の比丘尼が勧化して資金を集めて開いた道ですが、その後一時期廃道になりましたが、幾度となく改修され、今も工事続行中の千代遠山線、いわゆる千遠線であります。
 「てろうてんぱくやまのかみ」は、秋葉街道の合戸峠近くに押出という集落にあります。押出という地名は、1718年の遠山地震に起因するものでありますが、その押出の裏山が「てろうやま」でそのすぐ下に「てろうした」さらにその下に「やまのかみ」というところがあります。
 これは、古老からの聞き取りと、土地台帳により字名として確認することができました。
 また、天白というのは天白神のことで、遠山には朝日天白、夕日天白、平松天白、辰巳天白、本谷天白、天白社など他にもたくさん祀られていますし、霜月祭の最後に出てくる神様が天白様で、天白は遠山の守り神とまで言われています。
 そのことから「てろう山」には天白様が祀られていたと考えても良いのではないでしょうか。
 子供の遊びに、歴史が刻み込まれている例は他にもあります。
南和田の大町と言う小さな集落に、子供のおしなご遊び(お手玉)の歌に次のようなのがありました。
 (南和田出身者、佐藤千文さん、大正13年生まれに確認)
 「じゃっくろ
  じゃっくろ
  つかみ じゃっくろ
  お花は千咲く 実はひとつ
  はらいそ はらいそ
  手をたたけ
  おんてなたたいて
  ななてばこ」(松山義男著『新編伊那風土記』より)
というもので、遠山で阿南分校の教諭をされていました松山義男先生によりますとキリシタン信仰にかかわる歌ではないか、と言われています。
 今、若者の間やテレビ等で方言が話題を呼んでおりますが、消えていく地名に多くの人達は無関心です。
 特に合併により、地名が変わったりなくなったりしたことにより、地域興しに翳りが出ることも考えられます。
 せめて、今住んでいる所の地名が、どんな意味と歴史があるのかを知ると愛着がより深まり、地域の結束にも励みになると思います。
 
(平成18年1月29日伊那谷地名研究会シンポジウムにおいて「遠山地名考」として発表しました。)