貝暮ヶ淵跡
正保2年(1645)に天竜川の西河口をせき止めたときに生じた池で、元禄7年(1694)に埋め立てられている。貝暮ヶ淵の埋め立てにあたり脇坂侯大堰の故事を踏襲して、人柱がわりに墓石を池底に沈めている。その後、享保年間に至り、にえとされた墓の冥福のために供養碑が建てられた。川路8区にある「六親眷族七世父母」の石碑として残る。貝暮ヶ淵はいくつかの伝説を生んだ。
ただ大昔というだけでいつのこととも分からぬ。下川路に大きな池があった。ある時どこから来た 旅の人とも知らぬ美しい女が、赤子を抱いて知らぬ旅路に行き悩む風情であった。艶やかな黒い 髪、玉のような肌に燃えるかとも思われる唇の色、風にも堪えぬなよやかさは雨に打たれた花の ように美しかったという。夕日が斜めに肩を滑って頬のあたりをさしのぞくと、女は美しい眉を上げ て夕日の赤いのを仰ぐ。黄昏の色が池の上にせまってくる。と女は静かに池の岸にたたずんで水 の面を眺める。瞳は火のように燃えて、頬には紅の色が浮かぶ。ふさふさとした黒髪は波を打って 女は見えぬ炎に身をこがすような気配である。やがて池の面に夕日が溶けて灰色の夕闇が水の 面を包んで暮れると女の姿はいつの間にか消えて岸を打つ水の音のみが冷ややかに響く。
新しい日輪が東の山の端に暁を告げると不思議や昨日の美しい女が水際に現れて、終日池の 面を眺めつつ暮らす。夕日が沈むと女の姿が消える。
ある日、池の端を通りかかった百姓はその美しい女に呼びとめられた。
「知らぬ他国にさまよう者、おりいってのお願いでございます。この子を負うて深見の里まで案内し てくだされ」という。情けに厚い百姓は乞われるままに赤子を背負って深見の里へ女を送る。女は 名残惜しげに池の面を見返りながら深見へ急ぐ。深見の里は風静かにうららかな日光を浴びて眠 れるようだ。
不思議な物音のしたのに驚いて振り返った百姓は、今までそこにいたはずの女の姿が見えない のを怪しんだ。今まで人に顧みもせられなかった路傍の古井戸が、この時にわかに水を噴き出し てみるみる付近の田を浸し畠を流してたちまち大きな池ができた。それと同時に下川路の古池は 知らぬ間に消えうせて広々とした田になった。(『川路村水防史』から『伊那の傳説』の孫引き)