飯田・下伊那の金属鉱山と鉱石
      
          今村理則
 
         Metallic Mines of the Iida and Shimoina Area
               IMAMURA Mitinori
 
          *金属の会 〒399-2563長野県飯田市時又1688
 
 現在、飯田・下伊那地域で稼働中の金属鉱山は一つもない。かっては20ヶ所にも及んだの鉱山または試掘の跡は土砂くずれや崩落で、その場所を特定しがたくなっている。時間の経過とともに痕跡は薄らいでいる。そうした跡を尋ねて確認し、可能なかぎり標本を採集してきた結果を報告する。
 
はじめに              
第二次世界大戦のさなか、日本では空前絶後の鉱物資源探索が行われていた。飯田・下伊那各地でも各地で試掘が行われている。戦後になってもそれらの探査結果に進駐軍が強い関心を寄せていたという。
 日本で鉱物資源調査が大々的に行われたのは、第二次大戦以前にもあった。それは明治のはじめで、明治6年に国の鉱山寮職員が飯田入りしている。下伊那を代表する二つの鉱山、小日影銅山と戸沢鉱山が稼働しはじめたのも明治時代だった。このころ多くの山師がこの地域に入り込んでいた結果であろうと思われる。
 戦後半世紀以上を経過したいま、飯田・下伊那で稼働している鉱山はない。それは当然として、この地に200人もの人たちが働いていた鉱山があったこと、試掘も含めて20ヶ所にも及ぶ鉱山があったという事実さえ、知っている人は非常に少なくなっている。それらの鉱山がどこにあったのか、そこではどんな鉱物が採掘されていたのか、ますます忘却のかなたにかすみつつある。
 かって鉱物に興味をもっていた少年が、50年後にその当時を思い出し一念発起して、飯田市立図書館で資料をあさり、現地をたずねて土地の人たちに聞き調べ標本を採集してきた。その記録をここにまとめた。
 地図をつけるには多少の躊躇もあった。ほとんどの坑口はふさがって、採集可能な鉱石は増えることは決してない。こうした中で大量の鉱石を持ち出すことに手を貸すことになりはしないか、という懸念もある。しかし、一方で鉱物に関心をもつ子どもたち、あるいは調査にたずさわる研究者もいる。やはり、どこかに地図を残しておかなければ、鉱石の痕跡さえ、この地域から消えてしまうのでないかと思い、地図をいれることにした。
 
飯田・下伊那の金属鉱山一覧
1.小日影鉱山(大鹿銅山)大鹿村大河原釜沢
2.大鹿鉱山       大鹿村大河原清水
3.中ッ沢鉱山      大鹿村大河原上青木
4.大鹿村のその他の鉱石産地  大鹿村
5.漆平(しっぺい)沢        上村程野ウトドチ
6.桜井鉱山       南信濃村池口
7.加々良銅山      南信濃村加々森山
8.天竜鉱山       南信濃村八重河内青崩
9.神豊太陽鉱山     天龍村見遠
10.天龍村のその他の鉱石産地  天龍村
11.開生・戸沢鉱山    阿智村高野谷
12.阿智川鉱山      阿智村伍和備中原川
13.春日鉱山       阿智村会地春日
14.横川の須山      阿智村智里横
15.阿智村のその他の鉱石産地  阿智村
16.和合の金山      阿南町和合金山
17.治部坂の横岳     浪合村治部坂
18.清内路村の石割    清内路村石割 
19.堀越の金山      豊丘村河野堀越
20.浪合村のその他の鉱石産地  浪合村
21.鳩打峠        飯田市伊賀良
22.千代の土嵐      飯田市千代 
23.大沢鉱山       飯田市上久堅蛇沢
24.その他の鉱石産地
 
1 小日影鉱山(大鹿銅山)
 小日影鉱山は大鹿村大河原の釜沢入にあった。
 大鹿村の上市場で国道256号線とわかれて、小渋川に沿って南東へ進むと、釜沢の信濃の宮の森に至る。ここで支流の小河内沢をさかのぼる。ここで左折して、北東の方向へ進むことになる。2km余りで御所平に到着する。宗良親王の隠棲地で新しいお宮もみえる。それ以上は車が入らないので、そこにある駐車場にとめておく。
 お宮から真北へ向かう道もあるが、これは三伏峠の登山道。鉱山跡は右の道をとる。支流の寺沢の右岸を辿って行って、これを渡る。
水かさがなければ、飛び石の上を歩くだけでいい。この寺沢、さらに寺屋敷の地名も残っていて、宗良親王建立になる大龍寺の痕跡ではないか、といわれている。
 急坂をジグザグに上り、しばらく平坦な道を歩くと、豊口山の登山道に出る。ここでも右のルートをとる。崖が崩れていて道がわかりにくいので、高いところでだいたいの見通しをつけておいた方がいい。藪こぎの大変なところ。
 道の左手に建物跡があって、黄銅鉱や磁硫鉄鉱も拾えるので、選鉱所の跡と思われる。残念なことだったが、ここから数キロにも及ぶ鉱石を持ち出した人たちがいたことを新聞で知った。
 大正3年6月ごろ、前澤淵月は大鹿村役場の掲示で小日影銅山が国税滞納で差し押さえられ、競売に付せられていることを知る。彼は、その銅山へ行ってみることにした。
 「道は谿声を遠く脚下に聞きながらうねうねと上がる。寺沢を越えてから東南行しつつ小河内川へ近づいて、遂に之を渡り、支流に沿うて進と。五六の破れた無人の建物を見た。採鉱当時の事務所である。事務所の対岸へ、支流を渡って這ひ上がると廃坑である。変質した千枚岩状の粘板岩層が掘られてある。坑口へ喰み出して折れ曲がったレール、朽ちつヽある採鉱箱、一時は二百余人も活動した小日影銅山としては華やかな幕が余りに短かった。」(『赤石嶽より』1933)とあるように、選鉱所跡を過ぎるとすぐに豊口沢の川原が見えてくる。
 沢を下っていくと、すぐに小日影沢との合流点に出る。そこを渡ったところが鉱山跡で、ちょうど二つの沢に挟まれたところになる。
 平成13年(2001)7月になって寺沢を渡ったが、けもの道が交錯して銅山跡への道を見つけることはできなかった。
 銅山の歴史をまとめると次のようになる。
明治31年(1898)頃:釜沢の下沢政重郎、小河内川          原で金色の達磨形の石を拾う。
明治32年(1899):3月上蔵の下平初吉 狩猟中に小        日影山裾の下手で金色の岩を発見。
明治35年(1902):1月銅のほかに金銀を含んでいる         こともわかる。試掘。
明治35年(1902):11月大鹿鉱毒協議会結成(河野           村ほか13ケ村の村長。)
明治38年(1905):5月採掘に着手(人夫は越前・飛          騨から)。
 二年ほどが最盛期で300人ほどが従事。     請願巡査・床屋・銭湯あり。・簡易学校の要望も。
明治39年(1906):2,000貫(7,200円)、 明治40年        (1907)10,000貫(4万円)を産出。
 『下伊那郡地質誌』(1925)によると、日に70〜  80貫を生産し、200〜500人が入山。
明治44年(1911):9月従事工夫18人、黄銅鉱         1,500Kg/日→銅120Kgに減少。
大正3年(1914):5月経営者の田中久太郎は国税滞納     で鉱山が差し押さえられている(前記)。
大正10年(1921)ころ:小口某が2ケ年ほど採掘したが           中止。
昭和15年(1940):3月『東京鉱山監督局管内長野県 分金属鉱山地質鉱床概況』には 
 釜沢銅山 大鹿村釜沢、小日陰
 位置:・・・大河原よりは三里半釜沢部落よりは一里  半の処にあり、駿河と信濃の界なる赤石岳、槍ヶ  岳の連山の一部小日陰山の西北部を占むる北は釜  沢に界し鉱区の中央は銅山沢北流し事務所は海抜  4200尺の位置に在り。
 地質鉱床:古生層の千枚岩中に層状を成すもの。走  向東西にて南へ2、30度の傾斜をなす、巾二尺  余含銅10%に達するものあれど長く続かず坑口  数坑ああり平行脈あり何れも鉱山沢を東西に切り  て走る。(『長野県史近代資料編』第5巻)
昭和18年(1943)頃:伊原五郎兵衛が再開したが人夫 不足で休山。この間、12回経営者が交代。
 
 試掘が始まった年に、下流の町村を中心に「大鹿鉱毒協議会」が結成された。田中正造が帝国議会で足尾鉱毒問題を訴えたのは11年前で、銅鉱山による公害はあまねく知れ渡っていたためである。数年を経ずして鉱脈が尽きたので、下流が汚染されるのはまぬがれたが、吹き分け場(精錬所)付近の樹木は枯死した。ために銅山付近は、数年間にわたって禿げ山のままだったという。
 人の背で運んだ70貫の精錬用踏鞴(たたら)に選鉱した原料を木炭とともに入れて素焼し、一本8貫の仕上がった銅を一日に17,8本、これも人が運んだという。
 鉱床は久根鉱山と同じ含銅硫化鉄鉱床でキ−スラ−ガ−と呼ばれているもので、秩父古生層の黒色粘板岩、石灰岩互層中にその鉱層がある。太平洋海底で生成し、付加体として地上に現れたものと思われる。
【採集鉱石】黄銅鉱CuFeS、磁硫鉄鉱Fe1ーx。他に斑銅鉱、石英(鹿間時夫『南信の鉱物』1951)。
分析結果は表1のとおりで、「磁硫鉄鉱 少量の黄銅鉱を伴い、石英+方解石脈中」となっている。                    
2 大鹿鉱山
 大鹿鉱山は大鹿村大河原清水にある。上市場から北東方向に車で上っていく。つづら折りになっているので方向は定めがたいが、豊口山方面に向かう林道をすすめばよい。河合方面への分岐から大きく右に左にヘアピンカーブを切った後で、左手に少し入ったところに鉱山跡がある。清水の集落は家が散在しているが、その集落の中にある。だからそれと知らずに掘削していって、民家の直下に達して、民家が傾いてきてあわてたこともあるようだ(梶速雄さん談)。
 小さな祠があるが、その周辺の緩い傾斜地一帯で掘っていたようで、至る所にズリがある。石英が主であるが、その中に酸化されて真っ黒になったマンガン鉱が混じっている。
 あちこちに索道の跡らしきものが残っていて、この鉱山から西側の崖の下にある大碩神社にケーブルで鉱石を降ろしていたという。因みにこの神社の祭神をみると、建御名方命・八坂刀売命・天照皇大神・大物主命にまじって、天鈿如之命と天目箇命が祭られていることは注目に値する。この神社がこの鉱山と関わっていたかどうかは、はっきりしない。もしかかわっていたとすれば、鉱山の操業はかなりさかのぼることになるし、その場合にはマンガン以外の、例えば銅などを掘り出していた可能性も出てくる。
 その鉱山の操業開始時期は「昭和19年(1944)花岡氏等により試掘され・・・」(『長野県の地学T』1951)とあるので、マンガンを採掘し始めたのはこの頃と思われる。閉山したのはいつか。地元の話では「昭和21年(1946)ころまで稼働していた」といっている。しかし、昭和24年(1949)の『長野県事業場総覧』(長野労働基準局)には
「マンガン鉱 大鹿鉱山工業所 従業員5人 大河原 」
とあるので、閉山が昭和24年(1949)前ということはない。 昭和20年(1945)には「月産60トン」の生産量を上げていたという記録がある(『長野県の地学T』)。
 このマンガン鉱床は中央構造線の東側、三波川帯の中、鉱脈はその緑泥変岩の中にある。
【採集鉱石】黄鉄鉱FeS、バラ輝石MnSiO、軟マンガン鉱MnO。、他に、サイロメレ−ン鉱(硬マンガン鉱)、マンガン方解石、菱マンガン鉱、ペンウィス石(『下伊那の地質解説』1976)
    
3 中ツ沢鉱山
 国道256号線を中央構造線博物館から、もっと南へ3kmほど進んだところで左折する。ちょうど青木川左岸へ二度目に渡ろうする直前あたりになる。左折してすぐ左手に見えるのが松沢正人さんの家で、ここで中ッ沢鉱山のことを聞くことができた。松沢さんの所には、この鉱山産出の自然銅があってそれを見せていただいた。表面をこすると、赤銅色の輝きが見えてきたのは感動的だった。
 近くを湯川が流れている。この川の上流からお湯を引いていたというので、この「湯川」は金属地名ではないようだ。舗装された道を離れて廃道を行くと、やがて湯川を渡る。渡ったところに車をとめておく。湯川に沿ったそま道を進むと、大きな堰堤につきあたる。それを越えていくと滝が見えてくる。その滝の上の右岸は蛇紋岩のガレ場になっている。
 これが鉱山跡。もちろん坑口は見当もつかないほどに崩れている。太平洋戦争中から戦後にかけて3人ほどで採掘していたが、そのうちの一人が落盤事故で生き埋めになってしまったという。この事故がきっかけで閉山となった。
 鉱脈は細くていもづるのように太いところもあれば、細かったり切れたりしていた。「しかし品質はよくて県の調査結果だと90%が銅で、自然銅の中には金や銀がまじっていた」(牧島隆幸さん)という。とすれば、採掘していたのは黄銅鉱よりもむしろ自然銅が多かったのではないか。「鉱石は黒い色をしていた」(松沢さん)というのもそのことを裏付けている。
 銅鉱らしい鉱石が見あたらないので、重そうな石を選んで持ち帰った。それらを分析してみると、ほとんどが磁鉄鉱だった。ただ、ガレ場の近くに選鉱所跡といわれている場所があって、そこで孔雀石(あるいは珪孔雀石)を採集している。
 なお、『地質調査報告書』(長野県資源調査研究会編1955)には、ニッケル鉱床がある場所として上青木をあげている。それには「橄欖岩、蛇紋岩等の複合岩体の蛇紋岩中に大きさ数十糎の団塊を含むが、その団塊は磁鉄鉱を主とし、その中に微粒状にニッケルの鉱石を含む。尚団塊の周囲にはニッケルの二次的に富化した蛇紋岩が皮殻状に黄色乃至黄緑色の美麗な色を呈して附着し、その巾数糎内外である。その詳細については研究中なるも、ニッケルの含量は高いものと思われる。」とある。
 この上青木のニッケル鉱床は中ッ沢鉱山の鉱脈を抱えていた同じ岩体と思われる。
【採集鉱石】磁鉄鉱Fe 、孔雀石(珪孔雀石)Cu(CO)(OH) 、あられ石CaCO。他に、自然銅Cu(中央構造線博物館)
【分析結果】磁鉄鉱の細かな結晶 顕微鏡(鉱物科学研究所1994)
 
4 大鹿村のその他の鉱石産地
 (1)塩川広河原
 鹿塩の塩河で国道256号線とわかれて東に進む。右手に鹿塩の湯を見ながら2.5kmほど行くと南山に抜ける道と交差する。そこを直進して塩川の右岸を上流へとたどる。1.5kmほどで左岸に渡るが、左手の道は入沢井に通じている。道なりに進んで塩川を何回か渡る。最初に左岸に渡ったところから、ほぼ3.3kmに銅試掘跡がある。梶速雄さんに教えていただいたが、指さしていただかないとわからないほど。国道の鹿塩分岐からは7.3kmになる。
 さらに上流に進めばほぼ1.0mでバスの終点でもある塩川小屋に到着する。三伏峠や塩見岳への登山基地でもある。
 場所がはっきりしない場合は、いったん塩川小屋まで行って、1.0kmもどってみる。という方法もある。
 この場所には道路の右肩に、普通車だったら2〜3台駐車可能な場所もある。塩川を渡ったところ、水面から3mほどの高さに試掘坑らしい跡があった。 採集できたのは黄鉄鉱とマンガン鉱だけで、銅鉱をみることはできなかった。
 なお、途中に樺沢という塩川の支流があって、その上流で梶速雄さんはマンガン鉱の大きな塊を採集している。
 (2)その他  
 以下の産地については未確認で、鉱石名と掲載文献のみをあげておく。
@大鹿村:褐鉄鉱(『南信伊那史料』1899)
A下青木入口:クロ−ムカオリン、アラレ石、輝安鉱、 方解石(含苦土)(『下伊那の地質解説』1976)
B下青木:ニッケル鉱(磁硫鉄鉱とともに暗緑色の小 塊状で)、針ニッケル鉱(蛇紋岩中に)。(『南信の 鉱物』教育出版1951)
C安康:黄鉄鉱、黄銅鉱(塊状緑色岩が母岩)(『地 質調査報告書』1955)
D ?:リチウム(『長野県の地下資源』1945)
 
5 漆平沢
 『明治43年下伊那郡自治要覧』に、「銅 上村本谷山 採掘34,926貫 製出8,932斤」という記載があって、ずっと気になっていた。上村の役場へ出かけて聞いてみてもはっきりしない。そこで何人かの人に接触するなかで「確かに銅を掘っていたことがあったと聞いたことがある」という情報を得ることができた。村長もやっていたという前島啓一さんがいちばん知っているというので、お邪魔した。
 場所は国道から上がったウトドチの集落の道が漆平沢と交差するところで沢に降りて、500mほど遡る。その川から30m高い左岸の中腹にあったという。
 坑道が二本あいていたが、坑口が残っているかどうかはわからないという。
 実際に山へ入ってみると、よくわからない。4時間ほど崖を登ったり滑り降りたりして探したが坑口を見ることはできなかったし、それらしい重い岩石を持ち帰ったが銅成分もニッケルも検出することはできなかった。
 この鉱山が稼働していたのは、昭和30年(1955)〜40年(1965)というから、鉱山としては新しい。南信濃村の桜井鉱山も同じ頃は出荷していたので、関連はあるかもしれない。いったん前島さんのお宅へ集めた原鉱石は、そのまま平岡駅まで運んだらしい。
 その原鉱石がどんなものか、はっきりしない。青くて光っていたといから、孔雀石のような銅の二次鉱物だった可能性が高い。中央構造線の東側になっており、中ッ沢鉱山と同じ三波川帯にあるので、「光っていた」とうのは蛇紋岩のことではないだろうか。
 後になって、資料を整理しているうちに「上村本谷山」というのはどうやら加々良鉱山のことをさしているらしい、ということがわかった。
 
6 桜井鉱山(池口鉱山)
 南信濃村の大島バス停のところで国道152号線とわかれて東に曲がる。池口へつながる道路である。池口川を渡って300mほど行くと左手に車が何台も置けるような広場がある。そこから歩いて登るのだが、そのことは『南信濃村史遠山』にわかりやすく書かれているのでそのまま引用させていただく。
 「池口川を逆上っていくと、左側に大規模な砂岩、粘板岩のくずれが見え、そのそばのつり橋を渡るとまもなく右側の山へ登る道がある。この道を150mほど登ると、傾斜のゆるやかな高位段丘池原に出る。この段丘の最も奥に、昭和46年11月まで採掘していた鉱山がある。この鉱山では、黒輝りした閃亜鉛鉱と黄味がかった銀色の硫砒鉄鉱を採掘していた。数人の鉱夫が働くだけの小規模鉱山で、入口がひとつで途中から西坑と東坑に分かれ、総延長200m足らずである。
 赤石山脈の上部を走る四万十帯の中軸帯は、遠山地方で大きく西寄りに曲がり、山脈の尾根筋からはずれ八重河内方面へ延びてきている。この中軸帯に沿って池口の段丘・池原付近では塩基性凝灰岩層が走っている。中軸帯が広域動力変成作用を受け、激しくもまれたため、塩基性凝灰岩が変成分化し、石英脈を主体にした層状の閃亜鉛鉱と硫砒鉄鉱の集合体ができた。
 坑内を見ると、塩基性凝灰岩層中に、その走向方向と同じに石英脈と鉱床の合わさったものが巾10cmほどに走っている。これより厚いものや薄いものも何本か走っている。」(坂本正夫1981)
 急な坂道を上りきると、比較的平らな段丘上に出る。いまはそこにヒノキが整然と植林されているが、かっては戦後旧満州等から引き上げてきた人たちの開拓地だった。林のなかに点在する石塚は、開墾のなかで耕作には邪魔になるだけの石を一つひとつ拾い出し積み上げたものに違いない。
 坑口は崩壊して埋まっているが、ズリがあるのでありがたい。中央構造線沿いの鉱山でこれだけ鉱石が採集できるところは他にはない。
 この鉱山が稼働を止めたのは、昭和46年(1971)。それでは始めたのはいつか。これがよくわからない。ただ、明治32年(1899)の「金石土性村別表」(『南信伊那史料』)に、「和田他一村 梶尾池口 銀鉛、方鉛」とあるのは、この鉱山のことと思われる。明治40年(1907)には、和田村池口の民有地で金鉱が発見され、東京の三浦政一と片瀬篤の両名が752,000坪の試掘願を提出した、と村沢武夫さんが『伊那』(1978,10)に書いている。
 池口の鉱山といえば桜井鉱山しかない。明治32年には少なくとも試掘程度の採鉱は行われていたものと思われる。
【採集鉱石】硫砒鉄鉱FeAsS、閃亜鉛鉱ZnS、方鉛鉱PbS、毛鉱PbFeSb14
 
5 加々良銅山
 南信濃村の大島から池口川をさかのぼる。桜井鉱山の麓を通って池口の集落へ出る。左手を大きく迂回したところが赤石山脈の支脈の尾根の先端になっている。そこが池口でいちがん高いところになる。そこへ車を置いて歩くことになるが、銅山跡が見えるところへ行くまでに4〜5時間かかる。尾根づたいのルートを辿って行って、ダケカンバの老木がある見晴らしのきく場所で北東方向をのぞむと、そこにちょうど手のひらのような崩落地が見える。それが加々良銅山跡である。
 加々良銅山で精錬された銅は人の背によって池口まで運ばれてきたという(遠山要(もとむ)さんの話)。一日に一往復しかできなかったわけで、今から考えてみると気の遠くなるような話だ。
 手元にある国土地理院の地図にも「加々良銅山跡」と明記されている。飯田下伊那で、鉱山跡が地図に載っているのはここしかない。
 いつごろから採掘をはじめたのだろうか。長野県の統計書を見ると、明治15,16年(1882,1883)には何も載っていないのに明治17年(1884)からは表2のようになっている。しかし、明治16年(1883)以前に稼働し
ていた可能性もないわけではない。
 「明治初年」という文献(八木貞助)もある。 
  さらに注目すべきことがある。この加々良銅山が、明治20年(1887)の前後の少なくも明治17(1884)〜34年(1901)の間、長野県の銅の生産を一手に引き受けていたのではないか、と思われるふしがある。明治20年の統計書を見ると、この年に銅を産出したのは全県で下伊那の1ケ所だけ。その年、下伊那で公に稼働していたのは加々良銅山のみ。従って、明治20年(1887)の長野県の銅の全産出量は加々良銅山一山で採掘したことになる。
 明治17(1884)〜19年(1886)の産出量は、右上の表のようになっている。『長野県統計書』をみると、これがそのまま全県の産出量になっていることがわかる。ということは、この間も加々良一山で長野県の銅を生産していた、と考えていい。
 明治35年(1902)には大鹿村の小日影銅山が生産活動を開始した。明治40年(1907)の『長野県第二十五統計書』には、全県で銅を生産しているのは下伊那だけ。その下伊那では、大鹿と木澤の二ケ所から8,932斤(5,359Kg)を産出している。少なくともこの明治40年(1907)までは、小日影・加々良の二つの山で長野県の全銅を生産していたことになる。
 因みに、第一次世界大戦前、日本は世界第二位の銅産国(銅入超国となったのは昭和8年1933)だったが、明治40年(1907)というのはその7年前にあたる。
 閉山はいつか。昭和4年(1929)発行の地図には下伊那南東部に「銅産出」のマークがついており、翌5年(1930)の統計書には「銅 木澤」(坪数・就業人員は空欄)となっている。さらに昭和12年(1937)4月の『県下鉱山所在地・鉱夫数一覧』によると、「木澤村 加々良銅山 7人」となっている。これらのことから判断すると、1937年より後ということになる。なお、阿南高校山岳部が昭和30年代後半にこの付近を通過したときには、鉱山跡を確認できたし、黄銅鉱を採集することもできたという。 しかし、今では銅山跡で銅鉱石を手にすることはできない。 
 
8 天竜鉱山
 国道152号線を南下して八重河内の小嵐地籍で兵越峠への道と分かれて青崩峠へ直進する。小嵐川をそのまま遡ることになる。車の行き止まり地点が長野営林局の建物になっていて、広場もあるので、そこへ車をとめて置く。整備された歩道を行くと青崩神社がある。その付近東側から峠一帯にかけてあちこちに露天掘の跡がある。坑道もあったようだが、ここは中央構造線破砕帯の名にし負う”青くずれ”、坑口があいているはずはない。
 天竜鉱山は含ニッケル磁硫鉄鉱床であり、「下伊那郡天竜ニッケル鉱山概況」(『東京鉱山監督局管内長野県分金属鉱山地質鉱床概況』1938)は次のように書いている。
「塩基性乃至過塩基性火成岩に伴へる含ニッケル磁硫鉄鉱の産出を聞くは外国にては珍しからざるも本邦内地にては極めて稀なり。然るに最近に到りて長野県下伊那郡八重河内村地内にて斑糲岩を伴へるニッケル鉱床の存在を知られ天竜鉱山と命名されて目下探鉱中なり。昭和12年夏、筆者は木下教授の御厚意に依りて該鉱山付近の地質鉱床を見学するの機会を得し・・(略)・・鉱区は事務所から南方信遠国境青崩峠を越えて、静岡県周智郡水窪町字辰之戸の北部に及ぶ。・・(略)・・硫化鉱物鉱床の探鉱は、地表面に於ける露頭にて其母岩たる斑糲岩を発見し、又場所に依りては夫々剥土、ダイヤモンド試錐、物理探鉱等を適宜に行ひて、其分布を知り、更に幾多の探鉱坑道に依りて其実在を確め、それより樋押し坑道を掘進しつつあり。・・・」
 この鉱山は『化学大辞典』(共立出版1960)にも、「蛇紋岩などの塩基性火成岩中に鉱塊をなして産する磁硫鉄鉱」として紹介されている。名称が”天竜鉱山”となっているので誤解されていて、保育社の『原色鉱物図鑑』(1957)には天龍村に所在するかのように記載されている。
 駐車場から少し登ったところに青崩神社がある。そこに掲げられている『神社の由来』はつぎのうようになっている。
「古くから遠山郷に文化をもたらした秋葉街道の青崩峠は遠江国信濃国の県境にあって往来のはげしかった頃、峠にあった鳥居は享保三年(1718)の大地震によって信州側へ崩壊し埋没したが、その後秋葉街道の修理の際に道祖神の安置を計画して比較的安全な場所であるこの地に祀られたのである。
 昭和十三年、時の日本鉱業界のリ−ダ−であった昭和鉱業社長(三木武夫元首相の義父)森矗てる氏が地下資源をこの地の産業とする計画を立てニッケル鉱物発掘事業に着手した。
 その時事業の成功と坑夫の安全を護るため発掘事業担当者西沢熊雄氏(飯田市)に鉱山護神の金山彦ノ命を護り神として建立するよう命じ、同年五月二十七日地震によって地名が誕れた由緒正しい青崩神社と命名し祠を建立したのである。
 昭和四十一年長野営林局の直轄治山事業に着手、昭和六十一年五月社殿再建までいくたびかの神社修理、境内の整備等を行い、事業の発展と作業員の安全を護るため青崩神社を祀り毎年祭事を行っております。    昭和六十一年五月二十七日        」
 これによると、操業開始は昭和13年(1938)とあるが、実は既に明治30年(1897)に発見されており昭和8年(1933)に本格稼働し始めたとする文献(『長野県の地下資源』1945)もある。昭和12年(1937)4月末日現在、下伊那郡八重河内村の天竜工業所には鉱夫18(内女1)と明記した記録(『長野県史近代資料編』第5巻)もあるので、「操業開始昭和13年」はもっと早まる。
 1951年4月発刊の『長野県の地学T』に取り上げられていることから、稼働を止めたのは、この年より後のことと思われるがはっきりしない。 
 1994年の秋、この一帯を磁硫鉄鉱をさがしてあるきまわった。勾配はそれほどでもないので、歩くのはそれほど苦痛ではなかった。その時に水の枯れた川岸の岩の上で、一目で磁硫鉄鉱とわかる大きな鉱塊を見つけることができた。しかし、その後、何回か鉱山跡をさがしたが再び磁硫鉄鉱を見ることはなかった。今ではわずかに黄鉄鉱を採集できるだけである。
 なお、八重河内の梶尾川の上流にある梶谷の奥で昭和10年(1935)から10年間ほどニッケル等が採掘されている。
【採集鉱石】黄鉄鉱FeS、磁硫鉄鉱Fe1−xS(共に鉱物科学研究所で確認)、黄銅鉱 CuFeSと斑銅鉱CuFeS (ともに実体顕微鏡で確認)。他に ペントランド鉱(Fe,Ni) 、リンネ鉱 Co 、黄鉄ニッケル鉱 (Ni,Fe)S 、ポリジム鉱 Ni4、 (筒井豊『下伊那の地質解説』1976)
 
9 神豊太陽鉱山
 国道151号線を新野へ登る途中、ドドメキ川の手前で旧国道へ入り、さらに左折して細い道に入る。三つ目の沢を越えたところに広場がある。そこへ車を置いて、その沢を登る。阿南町との境界になっている沢だ。この沢はよく荒れるようで、すぐ道上の左岸にもかっては坑口が開いていたというが、今は埋まってしまってあとかたもない。沢に沿って20mも行かないところに左手の南側から小川が落ちている。その小川の右岸の少し高いところに坑口が見える。坑口は開いているが縦坑は埋まっており、5mぐらいでつきあたる。この坑道の中は暗いので明かりがないとよく見えない。晩秋に訪れたときにコウモリが2匹飛び出したこともあった。
 ズリはすっかり埋まってしまっているが、坑道の中では今でも黄銅鉱や斑銅鉱を採集することができる。しかし目当ての鉄満重石は採集できないでいる。鉱脈は粘板岩層の中にあり、近くには花崗岩の岩盤もあるので、貫入花崗岩によって形成されたものと思われる。
「太平洋戦争中は稼行していて、近所の女衆も仕事をしていた。銅だったかタングステンだかを掘り出して近くの沢で鉱石を洗っていた」(村松金元さんの家で)という。坑道が2本開いていて、かなりの人たちが鉄満重石と黄銅鉱を採掘していたようだ。『長野県の地下資源』(八木貞助1945)には、「(鉄満重石は)美濃の恵比寿鉱山に次ぐ優良の鉱床である」と記載されている。
 原董さんの聞き取り調査によると、「見遠では金を掘っていた」という人が複数いる。また、『下伊那20世紀年表』(寺田一雄ほか1996)には「昭和15,2,27 神原村(現天龍村)で砂金が発見され、大阪市某資本家が発掘を申請する」とある。見遠で金が掘られていた可能性はかなり高い。
【採集鉱石】黄銅鉱CuFeS 、 斑銅鉱 CuFeS。他に、鉄マンガン重石(『長野県の地下資源』1945)。
 
10 天龍村のその他の鉱石産地
 (1)神原村福島の奥的瀬:輝安鉱(『信濃の地下資源』1946)。旧福島小学校の近くに坑道らしきものがあったと聞いたが、はっきりしていない。
 (2)天竜村向方:ゼノタイム、モナズ石、ジルコン、紅柱石、青玉(『下伊那の地質解説』1976)。
早木戸川で電気石を採集しているが、他は不明。
 
11 開生鉱山・戸沢鉱山
 国道256号線を清内路に向かう。昼神温泉を過ぎて左折する。そのまま園原インター入口を目標にして進む。阿智村の智里地区である。インターには入らないで、直進して阿知川支流の本谷川に沿ってのぼる。戸沢の集落の最後の家(渋谷志乃さん宅)のところで左折して本谷川にかかる戸沢橋を渡る。ここからは林道で普通車で入るのは難しい。木地師の屋敷跡を見ながら高野谷を進む。風化した花崗岩地帯でしばしば崩壊して、雪解け後の五月のはじめに入ったときには、車が突っ込んだ砂の下に残雪があって立ち往生したこともあった。
 道なりに進んでいくと、大きな堰堤の下に出る。戸沢橋からほぼ1.5km。そこに、ちょっとして空き地があるので、車を止めておく。この堰堤とその上硫にあるもう一つの堰堤を越えると、そこから見渡せる一帯が開生・戸沢鉱山跡。戸沢鉱山は開生鉱山と別の場所だったが、後に一緒になっている。赤ナギでは光明鉱山とも呼ばれたこともある。
この場所は、数回にわたって歩きまわったが、鉱山跡を確認するに至らなかった。それだけ崩壊が進んでいたこと、その崩壊をとめるために大きな砂防堰堤が二つできたことなどによる。とくに恵那山の「御池」の下流域にあたる赤なぎの沢筋は大雨のたびに崩れて、すさまじいばかりの礫原となっている。わからなかったのも無理はない。 
 渋谷志乃さんに「下尾尻と日影尾尻の上の方を探したら・・・」と言われた。「尾尻」というのは”尾根が平地や沢へ落ち込むところ”を意味する地域の言葉だ。その二つの谷筋に絞ることによって調査区域が限定され、ようやくにアンチモン鉱を手にすることができた。
 本谷川左岸にある赤ナギの大崩落地はよくわかるので、それを目当てにする。赤ナギにも光明坑など4本の坑道があったが、荒れていてその痕跡すらない。同じ左岸の下流隣りの沢筋が下尾尻で、ここには昭和8年から11年にかけて採掘されて4本の坑道が埋まっている。この谷には今も確認できる滝の上に選鉱所があって、そこから架線で鉱石を麓の鉱石小屋まで降ろしていたという(渋谷増雄さん)。坑道の一つがあったと思われる所からはソブが流れ出ていた。夏はブユがひどくいので網をかぶっていきたい。動物の気配を感じて振り向くと、子どものカモシカが水を飲んでいる。いつの間に、後ろに来ていたのか。目と目があうと、身を翻して走り去った。
 赤ナギのちょうど対岸付近に小川が小さな滝となって本谷川に落ちている。右岸の日陰尾尻の谷で
ここでは昭和8〜11年の坑道と昭和19年の坑道が開いていたという。
 戸沢鉱山は、大鹿村小日影鉱山と並んでこの地域の二大鉱山である。以下、渋谷志乃・増雄両氏の話を中心にして、この鉱山の歴史をまとめると次のようになる。
明治30年(1897):恵那山にアンチモニ鉱発見(『下伊 那20世紀年表』1996)
明治38年(1905):大阪の人が採掘を始めたが中止。(『長野県の地下資源』信毎1945)
明治43年(1910):1月。「登録 阿智村  安質母尼 鉱区75,000坪 林信太郎ほか1」とある           (『改訂日本鉱業名鑑』1918)。
大正3(1914)〜6年 (1917):大阪人平林甚輔の経営 で300人を動員して稼業した(最盛期で年間約10 万貫)。現場で「ツボタタラ吹き」という方法を用 いて80%位に濃縮し、御坂峠を越えて中津川へ馬 の背で運び出し大阪に送った。それが更に第一次世 界大戦下の欧州に輸出されている(第2回目)。ア ンチモンは平時には活字合金に使われたが、戦時に は鉛とまぜて弾丸に使った。鉛のみのダムダム弾は 禁止されていたのでアンチモンとの合金にしたのだ という。
昭和9年(1934):阿部連・児玉譽志夫(常駐したのは 弟の巌雄氏)両氏が戸沢鉱山(株)を設立、発掘を 再開(第3回目)。このとき、60〜70人が秋田 から阿部氏について来ている。阿部氏はそれまで選 鉱所まで馬で運んでいたのを”きんま”に切り替え ている。昭和になるとアンチモニイ鉱塊は駒場で取 り引きされるようになっている。日影尾尻でも採掘 を始めており、従業員は70〜80名。秋田・岐阜県 から本職の坑夫が入り、地元からも多く採用されて いる。この頃には園原川と本谷川の合流点である山 王に「浮油選鉱場」があって、ここで選鉱されたア ンチモンが東京の蒲田、横浜の鶴見で精錬されて軍 部に納められていた。当時、国内(内地)需要の8 割が戸沢鉱山産、後の2割はボリビアとトルコから 輸入していたという。
 阿部氏が手を引いたあとはアメリカ帰りの小林氏が 経営にあたった(志乃さん)というのは、大崩落の 前のことと思われる。 
昭和12年(1937):「戸沢鉱山 鉱夫(男)48人 採 掘、開生鉱山 鉱夫 男5人女1人採掘」(『長野 県史近代資料編』第5巻)とある。
昭和14年(1939):8月、豪雨で頂上の御池が溢出し、 坑口が崩壊。
昭和19年(1944):6月再び操業を開始(第4回目)。 戦争中で出鉱量の割り当て等もあって、本格的な稼 働状況になったが、思わしくなかったのか後に帝国 鉱業開発(株)が買収している。
昭和20年(1945):8月15日(1945) 休山。山城氏が 事務所責任者として残務整理して、2年ほど在住。
 
 『南信の鑛物』(鹿間時夫1951,9)には、次のように記されている。 
「中央線に沿って、南信から紀伊四国にかけて分布するいままで輝安鉱と云われていたものの中にはベルチェ鉱が入っています。戸沢鉱山は日本でもベルチェ鉱の主な産地です。花崗岩中に硫化鉱物といっしょに鉱脈をなしています。戸沢鉱山では石英、石榴石、燐灰石、黄鉄鉱と共に出て来ます。開生からは2〜5糎の輝安鉱の柱状の放射状結晶が水晶に包まれた立派なものが出ました。色は銀白色でm・a・h等の面がみられます。ベルチェ鉱は輝安鉱に比べると多少硬く色は稍暗く細い柱状の結晶です。」                    
 なお、前掲『長野県の地下資源』(1945)には、「開生鉱山は赤薙澤の粗粒花崗岩中に、4尺の粘土ひを通じ、其の中に鉱石が入って居る。走向北20°東、60〜80°西に傾斜する。裂罅充填鉱床である。」と記載されている。「鉱石は球状になっているものが多かった。鉱物があるところは堅いからだ。その玉を割ると銀色の鉱物が出てきたが、しばらくすると錆びてくる。」(渋谷志乃さん)という話とも一致する。
【採集鉱石】ベルチェ鉱 FeSb 、輝安鉱 Sb 、黄安鉱 Sb(OH)、鶏冠石AsS、黄鉄鉱 FeS 、紅安鉱 SbO 、石黄As。、他に、方安鉱 Sb 、バレンチン鉱 Sb (『下伊那の地質解説』1976)、方鉛鉱PbS(『南信鑛物』1951)。分析結果は表3のとおり。
  
12 阿智川鉱山
 国道153号線を南下して駒場で左折して下條村方面に向かうが、阿知川を越えた下中関の辻本屋さんの交差点をさらに左折すると備中原の台地に出る。
 備中原の南側の斜面に、今なお大きな露天掘?の跡が二つ以上残っている。これが阿智川鉱山跡と思われる。一つの坑口にはごみがいっぱい捨てられている。その周辺をさがしまわったが、ついにズリらしい岩砕を見つけることはできなかった。その坑口にあったピンクの鉱物を分析したが、フッ素(蛍石)もコバルト(コバルト鉱)も検出していない。
 「阿智川鉱山」の上に”阿知川河畔”という名称を冠する場合もある。この”河畔”にこだわれば、これは阿知川の河畔になくてはならないということになる。備中原の北側にも崖の中腹に坑口があいていた、と地元の人(原美国さん)がいう。阿知川の右岸になる。しかし、案内していただいたその場所には、すでに坑口はなかった。対岸の左岸からははっきり見えていたというから、近年になって崩落してわからなくなってしまったようだ。わずかに黄鉄鉱を採集することができる。
 備中原のあちこちにあった坑道・試掘跡は一人の鉱山主が所有していたもので、これらすべてを網羅して阿智川鉱山と呼んでいたのでないかと思われる。
 太平洋戦争前後の阿智村には”鉱山ばあさん”の名で親しまれていた婦人がいて、彼女は鉱物ハンマーを持って村内近隣をくまなく叩いて回っていたという(原美国さん)。文献に掲載されている、鳶巣・城山・春日・横川等の多くの鉱山や試掘跡も彼女のハンマーから生まれたのかもしれない。
 阿智川鉱山は蛍石・磁硫鉄鉱・黄銅鉱・コバルト鉱・ニッケル鉱などを採掘していたが、太平洋戦争中は蛍石が中心だったという。しかし、選鉱所がどこにあったのか、また選鉱所から出た不良鉱石がどこに貯えられ、いまどうなっているのか、わからない。これだけ大きな鉱山で、鉱石が拾えないとうことも珍しい。それだけ人の居住圏に近かったためだろうか。
 前掲『長野県の地下資源』(1945)には、「阿智川鉱山では、走向断層に胚胎した、斑糲岩を伴う角閃橄欖岩を運鉱岩として、磁硫鉄鉱・輝コバルト鉱・酸化タングステン其他を随伴して産出する。コバルトにタングステンを伴ふものは、内地に他に一つあって非常に興味がある。日本鑛産會社の経営である。」とある。
【採集鉱石】黄鉄鉱 FeS 。 他に、蛍石CaF、リンネ鉱(四三コバルト鉱)Co、  黄銅鉱CuFeS 、四三ニッケル鉱 Ni 、磁硫鉄鉱Fe1−xS (『南信の鑛物』1951)。ペントランド鉱(Ni,Fe)8、黄鉄ニッケル鉱(Ni,Fe)S、灰重石CaWO4、ポリジム鉱Ni(『下伊那の地質解説』1976)。
 阿知川右岸の黄白色の鉱物を分析した。結果は表4。
 
13春日鉱山
  国道153号線を南に進むと、阿智村へ入ったところで右手に春日神社が見える。そこを右折する。細い道を1.5Kmほど進むとY字路になる。その右手に草原があるので、車はそこに置ける。ほぼ200mほど歩くと右に入る道がある。注意しないとわからないほどのかすかな道だがこれを右に入っていくと、やがて沢に出る。道はわからなくなるが、この沢を遡るとホルンフェルスの露頭に至る。これが試掘跡ともいわれている春日鉱山である。
 『長野県の地下資源』(1945)には「春日山鉱山」となっている。同書のタングステンの項には、「阿智村前原、春日神社奥にある。前(阿智川鉱山)と同様日本鉱産会社の所有で、鉱石は灰重石の細粒を産する。目下試掘中である。」とある。
 スカルン鉱床といわれており、岩石が硬いので取り出すのに苦労するが、熱変成を受けているので、ここの柘榴石の結晶は美しい。灰重石は波長の短い紫外線を当てると、淡青色を放ってこれも美しい。しかし結晶そのものはせいぜい辺の長さは7mm程度と大きくはない。
【採集鉱石】灰重石CaWO
    
14 横川の須山
 阿智村智里横川に住宅のある小林甫さんが、横川の集落の奥にあった鉱山のことをよく知っている、と聞いた。今は坑口も崩落で塞がっているが、戦後もかなりの間、その坑道は開いていたという。ひとりでは熊が怖いということもあって、小林さんに現地まで案内していただいた。
 昼神温泉を出たところで、園原インターの方へ左折する。途中、本谷川と横川川の合流点付近がY字路になっているので、そこを右折する。ここでインター方面への道と分かれる。横川の集落へ入る直前にY字路がある。左をとって横川を過ぎると、あとは横川川に沿ってその左岸を進む。しかし、この道はジープか軽トラでないと難しい。終点に車を置き、歩いてさらに川に沿って上る。
 道沿いに二つの製材工場の跡が並んでいて、その間にアラケダシ沢が流れている。水車を使って丸鋸を動かしたとかで、水路の跡もたどることができる。沢をせき止めて材木を浮かべておき、一気に流すという方法で、上流から原料を運ぶ。それで駅弁の容器を作り、製品は馬で清内路へ運んだという。昭和11年(1936)には、これらの工場はまだあったはずだが、小林さんには稼働していたという記憶はないという。弁財天の石碑(明治42年)がひとつ森のなかにひっそりと立っていた。
 ドウトク沢が左手対岸に見えてくる。「銅毒沢」ともとれる。この沢にも鉱脈があるという(羽場睦美さん)。ネバネ沢(ツボラ沢だったか?)とアカタル沢の合流点を渡ったところに木地屋跡がある。そこには栃の大木があった。ブナの樹もある。近くに熊が登った痕跡のある樹もある。小林さんは、「このあたりは熊の遊び場ですよ」と、こともなげにいう。
 クマザサの原に入ってしばらく進むと、戦後に開かれたという須山開拓地跡に至る。旧満州から引き上げ再出発を誓い合いながら、この地も去らざるをえなかった人たちの思いも残っているような気がする。ひっそりと静まりかえる村跡の辻をゆっくりと通りぬける。
 崖下でアカタル沢の沢音がする。ヒノキ・サワラ・カラマツが植林されている。どれほど来たのか。歩き始めて1時間近く経過している。行く手に細い沢が流れている。これが須山川で、この川を100mほど上った左手右岸に試掘跡があった。
 昭和30年(1955)頃には、まだ坑口は残っていた。おそらく伊勢湾台風の時に埋まってしまったのだろう、という。太平洋戦争中に、三人が交代で銅を掘っていたという。戸沢の熊谷弘さんもその一人。同じ頃、富士見台でも試掘をしていたとか。
 『南信伊那史料』(1899)の金石土性村別表には、會地村横川の黄銅が掲載されている。少なくとも明治時代に、横川で銅を産出することが知られていたことがわかる。ちなみに同表の黄銅の項をみると、下伊那では他に、喬木村と木澤村がある。木澤村は加々良銅山であることは、はっきりしているが、喬木村については不明。                   
【採集鉱石】 閃亜鉛鉱(Zn,Fe)S、黄鉄鉱FeS 。分析結果は表5の通り。
 
15 阿智村のその他の鉱石産地
 (1) 暮白の滝
 羽場睦美さんが発見した鉱石産地で、園原の御坂神社へ行く道から左手に入る。新しくできた瓦投げ場を通って車の置ける空き地まで行く。右手の高い所に中央道恵那山トンネルの排気口の煙突が見えている。杉の木平遺跡である。
 園原川を渡ると、そこにも製材所跡と思える平地がある。暮白ノ滝に出てみると、なるほど鉱脈が走っている。いくつかの試料を採集することができた。一見してベルチェ鉱と見えたが、アンチモンは検出できなかった。
【採集鉱石】黄銅鉱CuFeS 、磁硫鉄鉱Fe1−xS、閃亜鉛鉱(Zn,Fe)S。分析結果は表6.
 (2)愛国鉱山
 阿智村駒場にあって黄銅鉱を採掘(『南信の鑛物』1951)とあるが不明。
 (3)城山鉱山 
 阿智村駒場にあって、花崗岩中の蛍石やマンガン鉱を採掘する(『長野県の地下資源』1945、『南信の鑛物』1951)という。城山一帯を調査したがそれらしい場所を見つけることはできなかった。
 
16 和合の金谷
 国道151号線を巾川から西に入る。和合の心川を通って、五座小屋峠を経て平谷村へ抜ける道の途中に金谷はある。金谷の先にあるのが、鈴ヶ沢で金谷を流れる川も鈴ヶ沢川。スズは褐鉄鉱のことだという話もあるので、二つの地名には関わりがあるのかもしれない。
 金谷には、今でも9mほどの坑道(高さ190cm、坑口巾180cm、奥行6mで分岐して右が3.8mで左が3m)が残っている。この坑口は金属鉱脈とわかる赤さびで覆われていて、周辺に転がっているさび色の重い石に磁石はたちまち反応する。鈴ヶ沢川を渡って、金光利秋さんの家の平にも同じような石が拾える。磁鉄鉱である。
 金谷が登場する文献を時代順にあげてみる。
@銅鉱   和合ノ内金石洞 明治7年(1874)熊井与次郎が開坑(『内国勧業博覧会出品解説』1877)
A黄金   和合丸山(1899)
B黄鉄鉱  和合金谷(『下伊那郡地質志』1921、『南信の鉱物』1951)
C磁鉄鉱  日吉(『長野県の地下資源』1945)
 最初の勧業博覧会の文献と関わっているかどうかはっきりしないが、明治8年(1875)に旦開村が長野県に提出した報告書には「下矢坪上、丸山の中丸一町歩南半腹より出る。口碑に銅鉱という。未だ鉱脈験さず。性、分析せず。本村の西北、和合の西なり。民有に属す。鉱物発見何年間か詳かならず」(『阿南町誌』1987)とある。
 『南信伊那史料』の金石土性村別表の「黄金」の項に、下伊那では和合丸山一ヶ所しか記載されていない。なお上伊那には「三義村三ヶ所、美和村二ヶ所」がある。
 これらの文献から、金谷あるいは金谷の近くのどこかで、金・銅・鉄を採掘したことがあった(噂も含めて)ということがわかる。
 金光利秋さんからお話を聞いた(1997)。金光さんの家の屋号は「金谷」。先祖は川田(阿南町大下条)に住んでいた。武田信玄の支配が及んだときに、茅野市の金沢金山の金堀に派遣された。その後、この金谷で鉄がとれるということがわかると、信玄によって金谷へ回された。それ以来、ここで鉄の採掘に従事するようになったという。いつごろまで採掘していたかはわからない。宅地の南方の一段高いところに鍛冶屋場があって、ここで鉄を造っていた、と言い伝えられてきている。鍛冶屋場の跡は不浄にしてはいけないので、今は池にしている。鍛冶屋場を取り壊した時に、そこに祀られていた金山様はお鍬様と合祀した。また、敷地内から石皿が三枚みつかっている。家の付近一帯から、鉄を取った残りだといわれている鉱石が出てくる。江戸時代には和合心川の名主役も務めた。
 裏手に坑道がある伊東千代さん宅の前向かって右手には、かっては縦坑があった。現在は埋まってしまったが、それは信玄が金を掘ったものだという。
 戦後になって1960年代に日鉄鉱業が試掘したたことがあった。それは売木村に出る峠の近くで、5日ほどかけて調査し、金光さんも採掘を手伝っている。その時には磁鉄鉱を精錬してみたが、硫黄分が多くて使い物にならない、ということだった。
 表7に示すように金光さんの近くの畑から拾った鉱石を分析してみると、硫黄がほとんで検出されていない。金光さんの祖先が製鉄に使ったと思われる鉱石である。一方で戦後の日鉄鉱業が試掘した試料は硫黄が多くて、採掘を断念している。この矛盾をどう考えたらいいのか。同じ金谷産の磁鉄鉱の中に、硫黄分の多いものと少ないものがあった。そしてそれぞれに産出する場所が異なっていた。硫黄分が少ないのは金光家で採掘していた磁鉄鉱であり、多いのは日鉄鉱業のそれだった、と考えれば辻褄は合う。それを証明するのがこの分析結果である、と考えている。
【採集鉱石】磁鉄鉱Fe2+Fe3+ 、チタン鉄鉱FeTiO3、他に、黄鉄鉱FeS(『南信の鑛物』1951)、黄銅鉱CuFeS (『博覧会出品解説』1874)、金Au(『南信伊那史料』1899)。分析結果は表7.
  
17 治部坂の横岳
 浪合には、鉱石にまつわる文献がある。「明治40年6月 蛇峠山に銀鉱発見.鉱山監督署から試掘許可.」(『下伊那地誌』)と「明治44年1月 静岡県庵原郡菅山村藤波藤松が浪合村で鉱業権を得る」(「郷土史年表」)というのがそれ。この二つは同じ銀鉱についての記事だったのではないだろうか。しかし、その後どうなったのか、まったくわからない。少なくとも現在、浪合で銀を掘った、あるいは掘ろうとしたという話は全く忘れられている。
 ここで取り上げるのは、横岳での試掘のこと。『南信の鑛物』(1951)には、「波合村治部坂 黄鉄鉱」とある。浪合村の人たちに聞いていく中に、「金や銀は知らないが、アンチモニーなら掘った穴を見たことがある」とう人がいて、いちばん知っているに違いないという川上和三さんを紹介してくれた。
 川上さんは、アンチモニーではなく銅を掘っていたという。治部坂の中屋観光の漬け物をやっているところを通って右に折れると、そこに「デンソーリゾート治部坂こまくさ」の建物がある。そこを右へ行くとサゴエ洞という小さな川がある。そこを少し遡ると、坑口のところへ出る。一つは川の水位の同じくらいで入ることはできない。その奥にも30mくらいの坑道があったが崩落している。その試掘跡までは治部坂から30分くらいでではなかったかということだった。
 現場へ行ってみると、それらしい場所はすぐにわかったし、その付近の礫には金属鉱物らしいものもあった。しかし、坑口らしい痕跡は一つも見つけることはできなかった。
 この試掘には静岡の山師が関わっていて、何年か泊まり込んで掘っていたという話もあった。それは明治の銀騒動にも関係する人だったかもしれない。
【採集鉱石】 磁硫鉄鉱Fe1−XS  、 閃亜鉛鉱ZnS、 その他に、銀鉱(『下伊那地誌』)、黄鉄鉱(『南信の鑛物』1951)。分析結果は表8.
 
18 石割のマンガン鉱山
 『南信伊那史料』(1899)の「金石土性村別表」には、「清内路村下区 安質母尼」とある。また清内路村には、千代田鉱山があったことも聞いている。この下区のアンチモニーが千代田鉱山とかかわっているのかどうかはわからない。さらに現在、跡がはっきりと残っている石割のマンガン鉱山とはどういう関係になるのか、これもわかっていない。
 桜井定人さんに聞くと、「最初の採掘の時には”千代田鉱山”と呼んでいたかもしれない」という。昭和40年代のはじめには、天生産業が桜マンガンを掘っていた。智里生まれの飯田の人が経営していたが、結局、借金をつくっただけで終わってしまったようだ。50mほど掘り進んだ坑道もあったし、ちょっと掘ってみた程度で終わってしまった坑道もある。伊賀良のマンガン鉱より品質が悪かったようで、飯田駅に野積みされたままになっていたのをみたことがあるという。  国道256号線を清内路峠の方へ進む。清内路川と黒川が合流するところがバス停になっているが、そこを北に右折する。黒川左岸を200mほどいくと分岐があるが左の本道をとる。500mほど道なりに進む。ここで小黒川が合流している。土地の人が「この辺じゃちょっとしたもんだに」とう橋は渡らないで真っ直ぐに行く。洞根・丸山・兎平・石割の集落を過ぎて萩の平に入る前、ちょうど改修した直線道路が曲がるところにホド久保沢がある。この沢の上流にマンガン鉱山がある。車は少し手前に置く。
 急斜面の左手の道をジグザグに登る。登り口には鉄製の丈夫なはしごが取り付けられているので、すぐにわかる。急勾配の道を10分ほどで登り切ると、右手奥にズリが見えてくる。
 このズリには鉱物らしいものはない。ズリの右手の斜面を登ると、一面に露天掘りの跡があり、そのなかには50m掘ったという坑道も口を開けている。しかし年々坑口は狭まっており、1998年(平成10年)には辛うじて潜り込めるくらいに狭まっていた。あたりには酸化して真っ黒になったマンガン鉱が散乱している。叩いて割るとピンクでバラ輝石であることがわかる。
 いまのところ、この地方ではもっともマンガン鉱を手に入れやすい鉱山跡である。しかし、大量に持ち出せば、たちまち無くなってしまうことも、はっきりしている。
【採集鉱石】 バラ輝石(Mn,Ca)SiO15 、軟マンガン鉱MnO 、他に、緑マンガン鉱MnO もあり得る。分析結果は表9.
              
19 堀越の金山(かなやま)
 河野の村松国男さんに話を聞いた(1997)。「わしが案内してやる」と元気だったが、家族に止められてあきらめたようだった。”かなやま”といってそこからは、銅を掘り出していた。明治のはじめころから大正の始め頃まで採掘していて、天竜川にかかる万年橋(山吹と河野を結ぶ)は当時はなかったが、そこまでは馬で運ぶ。そこから舟に積み替えて静岡方面に出していた。採掘した期間はそれほど長くはなかったという。村松さんの体調も気になったので、それ以上を聞くことはできなかった。
 金山は寺沢川の上流にある。村松さん宅周辺が堂平。これらの地名をみると、昔このあたりには大きな寺院があったようだ。堂平の東に小さな辻があって、二万五千分の一の地図(下市田)にもはっきり出ている辻である。ここで、間沢川へ出るトンネルをくぐらないで、東に向かう。
 かって、この道は大鹿村へつながっていた道で、三十三観音が路傍に安置されているという。
 130mほど行くと枝道があるので、それを左へ。250mでさらに左へ分岐する。 150mでいきどまる。ここへ車を置く。
 村松さんの指示通りに杣道を進むと、
堰堤の下に出る。そこからソブが流れ出いる。
 このソブが金山跡にちがいない、というのが、迷った末の結論だった。この結論を出すのには三年ほどここへ通わなければならなかった。間沢川水系にまで入って、ガニ沢もさかのぼった。きのこ山だというので、比較的手入れがされている山なので歩きやすかったが、鹿に会っただけで遂に鉱石らしいものを手にすることはできなかった。
【採集鉱石】 『下伊那の地質解説』(1976 )によると、褐鉄鉱と磁硫鉄鉱が採集できたという。
 
20 粒良脇の鬼板
 原董さんによると、下條村粒良脇には古くから「入ノ洞の金くそ石」の伝説がある。入ノ洞には「鍛冶屋畑」地籍があって、かってはここで製鉄を行っていた。そこでできた鉄は山本の久米に運んで選り分けてもらい、使っていたという。また桃立原では、大昔、鍛冶屋があって鉄を造っており、”一つ目小僧”伝承もある。この粒良脇にある鉄鉱石が、鬼板つまり褐鉄鉱である。
 『下伊那地質志』(1925)には、褐鉄鉱は「各段丘の上部、赤土層の下部に沈殿して1cm位の厚さを有し、仏塔状をなすもの多し。竜丘村臼井原、下條村桃立、三穂小学校敷地等にあり」とある。
なお、その竜丘臼井原にも鬼ケ久保という金属地名がある。
 この地域で製鉄に使われた鉄鉱石はなんだろうか。それは鬼板である褐鉄鉱しか考えられないのではないか。このことを証明するために、金属の会は、平成3年(1991)に下條村と共催で”下條古代製鉄実験”を実施している。その結果、鬼板が製鉄可能な原料であることをみごとに証明することができた。
 詳しいことは製鉄実験の報告書に譲るが、この地方では、褐鉄鉱による製鉄が行われていた。その可能性が、この実験結果で一挙に開けてきたことになる。
 
21 鳩打峠
 鳩打峠のマンガン鉱山については、小河原由晴さんが詳しい。
 昭和20年代の太平洋戦争中から戦後にかけて採掘していた。鈴木さんという人が中心になって6人でやっていて、小河原さんはその人達に家を貸している。事業は思うようにいかないらしくて、家賃も飲食代も払ってもれない。仕方がないので、後ろ盾になっていた今村忠助代議士をたづねたが、やはり金は出してくっれなかった、という。鈴木さんが名古屋へ出てしまったので、当時のことを知る人は一人もいない。清内路よりも良質だといわれていた鉱山だったが、維持するのはむずかしかったようだ。
 山ノ神のところで、沢城湖へ行く道と分かれて鳩打峠へ登る。射撃場への分岐を過ぎてしばらく進むと、二度目に左へ急なカーヴをするところに、花崗岩の風化した露頭がある。そこを通過した直線コースの中程の空き地に車を置いて、山をよじ登る。
 その緩い傾斜地に原鉱石が集められたようだ。坑道は崩れているが、坑口から小さなV字溝が真っ直ぐに山腹を駆け下りている。この溝をさかのぼって行き着いたところが坑道跡である。ちょうど鳩打峠展望台の真下になっていて、おそらく坑道は展望台直下に達していたと思われる。
 平成9年(1997)に調査したときには、ズリはほとんどなかったが、ところどころに真っ黒く酸化したバラ輝石が落ちているので、標本は採集できた。しかし、その後どうなっているか。まだ鉱石が採集できるかどうかはわからない。 
【採集鉱石】バラ輝石(Mn,Ca)SiO15、他に、磁硫鉄鉱,パイロリュース鉱,サイロメレーン鉱,菱マンガン鉱,バラ輝石(『下伊那の地質解説』1976)
 
22 千代の土嵐
 この地域の鉱物採集のメッカが土嵐だった。近くに山王(土嵐の北どなりの谷)や大牧(土嵐の南側の尾根から南西に見える峰)がある。いずれも旧制飯田中学の北原寛先生が編集した地域教材テキストにあったと思う。テキストそのものがなくなってしまったのではっきりはしないが、たしか黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱などが石榴石や大理石と共にあげられていたような気がする。一日をかければ行けそうな唯一の採集可能地だったので、小学校のころからの憧れの地だった。いちど野池川を遡ったが、歩きにあるいてただむなしく帰ってきたこともあった。
 今は土嵐の地名も地図から消えており、その地名さえ知る人は少なくなっている。その数少ない土嵐体験者である金沢重敏さんから聞いてようやく土嵐に入ったのは、平成9年(1997)の熊も冬眠に入った頃だった。
 米川左岸を遡って、熊谷さん宅のところで南へ右折して金太郎川に沿って進む。”わる洞”と土地の人たちは呼んでいる。軽トラだったら、かなり奥まで入ることができる。堰堤の手前で駐車する。
 途中で道はなくなるが、水が少ない時期であれば、沢登りでも濡れることはない。炭焼きがまの跡があちこちにある。途中には熊を生け捕る檻があったりして気持よくはない。
 途中で左へ行くと山王へ至るという沢と合流している。右の沢をのぼっていくと、やがて左手の右岸に屋敷跡と思われる石積みがあちこちにあるところに出る。米川との合流点から約3km、歩いてほぼ1時間半。これが土嵐だった。もっと見晴らしのいいところと思っていたので、やや落胆はしたが、長いこと想い焦がれてきたところだから感慨はある。
 よく見ると道路にも、石垣のなかにも鉱石はあった。方鉛鉱と閃亜鉛鉱のスカルン鉱物で、輝水鉛鉱もあるというが、これは見つかるはずはないとあきらめた。
 土嵐では「金、銀、銅、亜鉛」が採掘できるように、すでに明治43年(1910)に登録されている(『改訂日本鉱業名鑑 鉱山総会編』1918)。しかし、試掘程度で終わっている可能性が高い。
【採集鉱物】閃亜鉛鉱ZnS、方鉛鉱PbS、磁硫鉄鉱Fe1−xS、他に、黄鉄鉱,輝水鉛鉱MoS,磁硫鉄鉱,黄銅鉱(『長野県の地学T』1951 )。
分析結果は表10。
         
23 大澤鉱山
 この地域で、はっきりと「金、輝銀鉱」が産出したとされているのが、 上久堅蛇沢にある大澤鉱山である。『長野県の地学T』(1951)には「金・輝銀鉱:花崗岩中の領家片岩に熱水液やガスが浸み込んだため、巾1.7mの含銅鉛脈となり中に銀と共に金を含んでいます。(金含有率 10万分の2)」とある。  
 千代の米川と上久堅の小野子をつなぐ県道に、蛇沼集落センターがある。そこから東に入っていくと、ヘアピンカーブするところがある。その曲がり角に車を置くことができる。そこを流れている鼬ケ沢右岸を上ると堰堤が二つある。上流の堰堤からはソブが流れ出ている。ここに大沢鉱山は埋められているものと思われる。  
 近所の大澤益美さん(蛇沢)に話を聞く。やはり堰堤ができて大沢鉱山は埋没してしまった。銅や亜鉛は出たが、金や銀については知らないという。選鉱所もなかったし、出荷もしていないというので、試掘程度のものだったかもしれない。
【採集鉱石】標本採集はできなかったが、金・輝銀鉱・方鉛鉱・藍銅鉱・孔雀石(『長野県の地学T』(1951)などが採掘されたという。 
 
24 その他の鉱石産地
 (1)喬木村
@鬼ヶ城山;黄銅鉱(『南信の鑛物』1951)。『南信伊那史料』(1899)にある「喬木村 黄銅」も同じ産地をさしているものと思われる。 
A小豆畑 ;ジルコン(風信子鉱)。小川の湯から矢筈トンネル方面に向かう途中に、小豆畑という地籍がある。小川川に小豆沢が合流しているところで、道路の対岸に民家が一軒ある。民家の東にある沢がその小豆沢で、そこに風化した川原の砂礫に混じっているという。「帯紅色をなし4mm×3mm」(『信濃鑛物誌』1923)あるいは「喬木村では小豆砂と称して産出することが知られて居る」(『長野県の地下資源』1945)という。他に黄鉄鉱も採集されている(『南信の鑛物』1951。)
 (2)飯田市
@下久堅上虎岩小字飛岡
 武石(黄鉄鉱)を産出するという。『下伊那郡地質志』(1925)には「1.5cm〜4cmの6面体でカド石(角石)またはカネイシという」とある。
A上飯田 西俣川支流の燕沢
 伊奈川花崗岩中の石英脈の中にアンチモン鉱床が確認されている(『地質図幅説明書』1957)。
B上飯田 クラガリ沢(松川支流)
 『中山道並北陸筋諸鑛山点検明細録』(1773)には「銀鑛ニ鉛ヲ含ムモノヽ如シ」とある。
C上飯田 入道砂小屋 
 輝安鉱(『信濃鑛物誌』1923)
D上飯田 中西山字伯耆沢
 「中西山ノ鑛ナルモノハ,アンチモニーノ鑛質ニ類セリ、其伯耆沢ノ鑛ナルモノハ、銀鉱ニ鉛ヲ含ム質ノ如シ」(『中山道並北陸筋諸鑛山点検明細録』1773)
E千代の萩坪岩コバ
 燐重土ウラン石Ba(UO(PO)・10ー12HO(『下伊那の地質解説』1976)。
ボーリングにより試掘している。
 (3)泰阜村二軒屋付近 
 黄鉄鉱,輝水鉛鉱,磁硫鉄鉱(ペグマタイト)を産出する(鹿間時夫『南信の鑛物』1951)。
 (4)阿南町富草鴨目,日陰田
 黄鉄鉱(武石)を産出(鹿間時夫『南信の鑛物』1951)。
 
おわりに
 まず鉱山や試掘跡を探し、次に標本を採集する。最後にその標本がなんであるかを同定する。この一連の作業を繰り返してきた。その過程で、図書館や地質・鉱物の研究者、現地の人たちにご指導いただいたり、お世話になった。文中に氏名を記載させていただいた方々には、ここで改めてお礼申しあげたい。
 
終わりに
 まず鉱山や試掘跡を探し、次に標本を採集する。最後にその標本がなんであるかを同定する。この一連の作業を繰り返してきた。その過程で、図書館や地質・鉱物の研究者、現地の人たちに教えていただいたり、お世話になった。文中に氏名を記載させていただいた方々には、ここで改めてお礼申し上げたい。
 
引用・参考資料
佐野重直1899『南信伊那史料』
? 1918『改訂 日本鑛業名鑑』「鑛山総会編」
北原寛ほか1925『下伊那地質志』古今書院
前澤淵月1933『赤石嶽より』西澤書店
八木貞助1937『信濃鑛物誌』古今書院
滝本清1938『東京鉱山監督局管内長野縣分金属鑛山  地質鑛床概況』
八木貞助1945『長野縣の地下資源』信濃毎日新聞社
鹿間時夫1951『長野県の地学T』「南信の鑛物」教育  出版
木下亀城1957『原色鉱物図鑑』保育社
水島三一郎1960『化学大辞典』共立出版
長野県資源調査研究会1955『地質調査報告書』
長野県  『長野県史近代資料編』第5巻「鉱業」長  野県史刊行会
筒井豊1976『下伊那の地質解説』下伊那誌編纂会
下伊那教育会  『下伊那地誌(浪合・平谷・根羽)』
坂本正夫1981『南信濃村史 遠山』南信濃村
阿南町町誌編纂委員会1987『阿南町誌』阿南町
寺田一雄ほか1996『下伊那20世紀年表』新葉社
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『飯田・下伊那の金属鉱山』の図表
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                          
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                           空き地(駐車場)から     
                                ほぼ2km    
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
                                         
      図12 須山試掘跡                           
                                         
                                         
                                         
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 表1 磁硫鉄鉱  蛍光X線分析(鉱物科学研究所1997)       
  Wt(%) at/mole(%) 測定強度比 積分強度 標準偏差 
   Al
   Si
   S
   Ca
   Mn
   Fe
   Cu
 0.4942
39.9193
 8.0801
30.9796
 0.5005
18.0144
 2.0119
  0.6477
  50.2604
  8.9111
  27.3326
  0.3221
  11.4065
  1.1196
0.0019350
0.2714365
0.0369201
0.2190988
0.0026431
0.0974420
0.0110415
  904
111036
 39333
120373
  3497
141026
 18218
0.1377   
0.0962   
0.0619   
0.0891   
0.0636   
0.0595   
0.0615   
 
  『下伊那郡統計一斑』から  
明治17年 下伊那 銅 1,007,500匁(3,778Kg)
明治18年 下伊那 銅  591,000匁(2,216Kg)
明治19年 下伊那 銅  134,700匁( 505Kg)
明治20年 下伊那 銅  566,000匁(2,122Kg)
 
        表2 下伊那産出の銅    
 
表3 戸沢鉱山の鉱石                                   
@輝安鉱 Sb と紅安鉱 SbO   蛍光X線分析(鉱物科学研究所 1997)    
    wt(%) at/mole(%) 測定強度比 積分強度 標準偏差         
    Al
    Si   S    K    Fe   As   Sb   Pb
  2.1798
 62.8481
 12.1685
  1.0209
  0.7348
  0.0793
 20.8719
  0.0967
  2.7760
 76.8911
 13.0405
  0.8971
  0.4521
  0.0364
  5.8907
  0.0160
 0.0064795
 0.2913853
 0.0304483
 0.0037854
 0.0028956
 0.0006363
 0.1049322
 0.0014263
  3027
 119196
  32438
  1458
  4191
   991
  18642
   867
 0.0771          
 0.0594          
 0.0483          
 0.0932          
 0.0336          
 0.2021          
 0.2021          
 0.0779          
    メモ「石英脈中の輝安鉱、紅色は紅安鉱」                      
Aベルチェ鉱 FeSb と鶏冠石AsS   蛍光X線分析(長野県精密工業試験場2000) 
     (酸化物表示)                                 
   wt%  StdErr    wt%  StdErr            
  SiO
  Al
   S
  K
  Fe
82.96
 9.35
 2.96
 2.00
 1.13
 0.42
  0.19
  0.11
  0.08
  0.04
 Sb3   MgO
 As
 CaO
 TiO
 0.575
 0.237
 0.198
 0.170
 0.152
 0.026            
 0.033            
 0.024            
 0.026            
 0.022            
   形状等と合わせてみると、 石英の中にベルチェ鉱と鶏冠石が含まれているものと思われる。 
B石黄As         X線分析装置(飯田市工業技術センター)          
    cps    AT%                         
   Si
   Fe
   Al
   As
   K
   S
   Ti
   Sb
 146.1967
  76.3929
 55.9375
  39.0028
  36.1862
  11.2406
  7.3069
  1.0028
  40.90          鉱石の色などと合わせて考えると、
  19.76          石黄であると考えられる。    
  20.70                          
   7.39                          
   6.74                          
   2.92                          
  1.42                          
   0.18                          
 
表4 阿智川鉱山の鉱物       蛍光X線(鉱物科学研究所1997)         
   wt(%)   at/mole(%)    wt(%)   at/mole(%)   
     Si
     Fe
     Ca
 35.8076
  25.2346
 23.6452
  44.8356
  15.8904
  20.7469
  Al
  Mn
  S
 11.6076
  1.5860
  0.8474
  15.1288    
   1.0153    
   0.9294    
  少量の黄鉄鉱と磁鉄鉱と思われるがはきりしない。                 
 
表5 須山試掘跡の鉱石                                
@閃亜鉛鉱    閃亜鉛鉱(Zn,Fe)S    X線分析装置(飯田市工業技術センター1999)                                          
  資料1(wt%)  資料2(wt%)                  
     Zn
     Fe
     S
     Si
     Al
     K
 39.19%
 19.11%
 16.15%
  13.54%
 10.56%
  1.46%
  31.79%        資料1,2ともに「鉄閃亜鉛
  32.69%        と思われる。      
   12.65%                    
  13.40%                    
   9.47%                    
                          
A黄鉄鉱     黄鉄鉱FeS     X線分析装置(飯田市工業技術センター1999)   
    wt%                                
    Fe
    Zn
    Si
    S
    Ca
    Mn
  38.96%                               
  18.11%                               
  17.13%                               
  11.00%                               
  1.10%                                
  0.90%                                
 
表6 暮白の滝の鉱石                                 
@磁硫鉄鉱   Fe1−xS       X線分析装置(飯田市工業技術センター2000)   
    wt%                                 
   Fe
   S
   Si
   Al
  47.22%          ベルチェ鉱に見えた試料で、磁硫鉄鉱と思われる。
 30.09%                                
  16.35%                                
  6.35%                                
A閃亜鉛鉱(Zn,Fe)S と 黄銅鉱CuFeS  X線分析装置(飯田市工業技術センター2000)
    試料1(wt%)  試料2(wt%)                  
   Al
   Cu
   Zn
   Si
   Fe
 39.59%
  25.13%
  19.02%
  10.75%
  5.51%
  74.35%       アプライトの中に鉱物がある。 
  15.30%      鉛色が閃亜鉛鉱で、黄褐色が黄銅鉱
  8.10%      と考えられる。          
                           
Mg 2.25%                      
表7 金谷の鉱石                                   
@磁鉄鉱   Fe2+Fe3+     蛍光X線分析器(鉱物科学研究所1997)     





 
     Wt %
FeO
SiO
CaO
MgO
 
  66.75%
  27.59%
   2.44%
   2.28%
 
                          
    鈴ヶ沢右岸の金光さん宅付近の「鉄の原鉱石」と
    思われる鉱物で分析結果は「磁鉄鉱」。     
    注目すべきは硫黄をほとんど含有していないこと。
                          
                          
 
A磁鉄鉱    Fe2+Fe3+    X線分析装置(工業技術センター1999 )   




 
    Wt %
  Fe
  Si
  Al
  Ca
  87.45%
   8.48%
   2.33%
   1.74%
                          
    これも鈴ヶ沢右岸の試料で硫黄は含有んでいない。
                          
                          
                          
                                          
Bチタン鉄鉱FeTiO         X線分析装置(工業技術センター1999 )   







 
    Wt%
 Ti
 Si
 Fe
 Al
 K
 S
 Ca
  35.27%
  27.44%
  16.87%
  16.85%
  2.05%
   0.91%
   0.61%
                           
       二次鉱物である青色膜状結晶        
                           
                           
                           
                           
                           
                           
 
表8 治部坂の鉱石                                   
磁硫鉄鉱Fe1−XS  、 閃亜鉛鉱ZnS     蛍光X線分析器(鉱物科学研究所1997)   












 
   Wt(%)  at/mole(%)
 Fe
  Si
  Al
  S
 K
  Ca
  Na
  Zn
  Mg
  Ti
  Mn
  Cu
38.71%
24.36%
12.58%
10.92%
 3.38%
 3.01%
 2.63%
 1.71%
 1.31%
 0.46%
 0.40%
 0.51%
  25.2147
  31.5521
  16.9624
  12.4005
   3.1456
   2.7339
   4.1672
   0.9491
   1.9604
   0.3542
   0.2669
   0.2930
                       
                       
    主に磁硫鉄鉱で、微量の閃亜鉛鉱や黄銅鉱を
    含んでいる。             
                       
                       
                       
                       
                       
                       
                       
                       
                       
 
表9 清内路石割のマンガン鉱                            
バラ輝石(Mn,Ca)SiO15   蛍光X線分析器(鉱物科学研究所1997)        






 
    wt(%) at/mole(%)    wt(%)  at/mole(%)
SiO
MnO
CaO
BaO

 
 45.03%
 43.15%
  6.56%
  2.21%

 
 48.7825
 39.6020
  7.6152
  0.9397

 
AlO
 MgO
 SO
 ZnO

 
 1.49%
 1.06%
 0.26%
 0.23%
  0.9539
  1.7082
  0.2127
  0.1858

 
         
 分析者の堀秀道氏は
Ba が出ていることに
注目している.  
         
         
         
 
 
表10 千代土嵐の                                     
 @磁硫鉄鉱Fe1−xS、閃亜鉛鉱(Zn,Fe)S   蛍光X線分析器(鉱物科学研究所1997)
 


 
  wt(%) at/mole(%)    wt(%) at/mole(%)
 Fe
 S
 Zn
 9.23%
23.13%
14.10%
 39.1160
 32.0072
 9.5721
 Si
 Ca
 Mn
 9.50%
 3.48%
 0.55%
 15.0112
  3.8525
  0.4410
               
 磁硫鉄鉱を主体とし、鉄閃亜 
鉛鉱を含む鉱石。       
               
 A方鉛鉱PbS、鉄閃亜鉛鉱(Zn,Fe)S                        




 
  wt(%)  at/mole(%)   wt(%) at/mole(%)
 Fe
 S
 Zn
 Pb
62.49%
14.41%
10.74%
 9.76%
 60.1957
 24.1778
  8.8393
  2.5348
 Si
 Ca
 P
 Mn
 1.32%
 0.73%
 0.28%
 0.26%
 2.5200
 0.9853
 0.4878
 0.2593
  鉄閃亜鉛鉱がほとんどで、輝
 いている細かな結晶が方鉛鉱。