嶋の地名
 嶋の地名とその変遷を次に示す。資料は主に『川路村誌』による。
慶安2年(1649)と元禄6年(1693)は検地帳によるもので、明治22年(1889)は土地台帳、寛文7年(1667)は絵図による。
    地名 慶安(1649) 寛文(1667) 元禄(1693) 明治(1889)
三枚所     ○(1町) ○(1町)
 中新田      ○(1町) ○(1町)
 上新田      ○(2反) ○(8反)
 古新田       
 駒沢添        ○(1町))
  駒沢      ○(5反)
  西沢        ○(9反)
  古川      ○(1町) ○(2町)
古川新田      
10  おくで        ○(4反)
11 かべくろ       ○(5反)
12 かいくら淵     ○(9反)
13   垣外  ○?(2町)   ○(4町) ○(4反)
14   大島  ○(6町) ○(4町) ○(1町)
15   狐島    ○(2町) ○(2町)
16 こんす島      
17   嶋   ○(2反)   ○(1畝)  
   [註1]天竜西口をせき止めたのは、正保2年(1645).
   [註2]貝暮ヶ淵埋め立ては、元禄7年(1694)
 
 古新田Cは、図面では、ほぼ中新田Aと上新田Bに重なる。慶安検地の時にはすでに陸地になっていたはずであるが、堰き止めてから4年、未だ生産をあげるには至っていなかったものと思われる。なぜ「古」がついているのか、はっきりはしない。この付近には古くから、例えば大堰工事が始まる前から既に田んぼがあってそのことをいうのか。それとも、「ふる」には崖地の意味があるので、旧天竜河岸の崖地にできた新田という意味で名付けられたのか、わからない。
 古新田と対をなすように古川新田Hがある。「古川」は天竜川の西流のこと、その跡に造成した新田の意であろう。
 三枚所@は全国的に分布する地名、地元ではサンマショと呼んでいる。叡山の三昧院にならって各地に造られた死者追善のための三昧堂にちなむもので、墓場とか火葬場を意味する。大正3年、腸チフスによる死亡者を久米川左岸の天竜川原で火葬に付したという記録もある。
 駒沢Eは暴れ川で、大満水の時には大量の土砂を運んだ。貝暮ヶ淵を埋め立てる時に、駒沢を切って貝暮ヶ淵に流し込んで埋めた。それほどの量の土砂を運ぶ能力を、この川はもっていた。多分、未(ひつじ)満水のときだったと思われるが、家が一軒、この駒沢を流れていった、という口碑も残っている。洪水時の水量も多かったことがわかる。これらの土砂により駒沢に沿って微高地が形成され、ここへ数軒の家が移ってきた。三六災害前には、この微高地を国道151号線が通っていて、自転車やリヤカーの時代で、上り下りするのに少し苦労した記憶がある。南側の坂が「熊谷の坂」で北側の坂が「奥手の坂」でいずれも近くの家の屋号で呼ばれていた。この微高地に駒沢添Dの小字名がついている。この駒沢添微高地が形成されたのは、正徳5年(1715)の未満水の時と思われる。この復旧工事は竹佐役所から指示されて、当時の下川路村の庄屋が関係者を嶋の地に派遣して当たらせたという。
 西沢Fは井水である。水量がほぼ一定していて、雨が降ってもそれほど増えない。駒沢とは対照的に静かな川で、この川に沿っては家並みができるほどであった。この水を使って、食器洗いや洗濯をし、風呂水を汲んだ。大正時代に奥手(屋号)で水力発電を計画したが、下流に水が来なくなるという反対が部落内で出て中止となったこともあった。子ども達は、西沢でも駒沢でも手で魚取りをした。取った魚は口にくわえたイネ科の雑草に刺して運んだ。むろん両手があけば、魚を連ねた草は手で持つのだが。
 おくでIは「奥出」か。奥は深く入ったところ、出は本村からの分村を意味する。下川路村から見れば村はずれになるので、この名前になったものと思われる。貝暮ヶ淵埋め立て後に、下川路から出向いて新田開拓に当たった人たちの住んでいたところか。
 かべくろJは「かべ」は崖を、「くろ」は畔(くろ)で「崖の周辺」という意味になる。近くに黒い粘土が出るが、これとは関係がないと思われる。
 かいくら淵Kは貝暮ヶ淵というロマンチックな漢字が当てられているが、「かい」は峡で狭間のこと、「くら」は断崖のことで、「狭間にあって断崖のある淵」の意と思われる。
 
 
 垣外Lは分かりにくいが面白いところもある。元禄の検地帳にも「垣外(4町歩以上)」があり、明治の土地台帳にも「垣外(4反歩)」がある。しかし、面積をみても、明治は十分の一に減っており、元禄の垣外が嶋にあるとは言い切れない。寛文7年の図面をみると、「垣外」地籍には家が2軒あり、「垣外」地名はこの2軒の住居そのものではないかと思われる。ここでは、「垣外」は畑を意味するのではなくて、住居または住居跡を意味していると考えたい。
 大島Mは「大きな島」、狐島Nは「狐の多い島」。こんす島Oはなんだろうか。「こむ」という言葉がある。「水浸しになる」という意味で、「す」は洲で砂浜のこと。となると、こんす島は「水浸しになる砂浜」ということになる。こんす島は天竜川沿いにあり、後に川筋が西に動いて、天竜川の流れのなかに消えていった。
 次に示す図面は三六災害後のもので、明治の小字名を書き入れた。