天竜川絵図について

これは天竜川を挟んで、上郷と伊久間との200年にもわたる村境(境界線)の争いの歴史です。

その当時 1700年前後の封建の時代、伊久間は尾張徳川松平家の領地、上郷は飯田藩堀家の領地であり、同じ大名であっても随分身分や勢力が違う事も、境界線が不明確になって争いの要因になったようである。

その昔 天竜川は洪水のたびに大きく流れが変わり、東や西に本瀬(本流)が蛇行していたようである。度々の水害で伊久間では、松平家より年々補助を受けて小川川から流れ出た石で堤防を作り、聖牛を組み、ジャカゴを積んで水害を防ぐようになった。そのため洪水なると小川川から氾濫した水と、天竜川上流からの洪水がその堤防にぶち当たった水が上郷側の方へ横に向かって流れ、上郷の丹保 南条 別府の田畑を削って湾曲した流れになった。それ以来ずっと天竜川の本線はたえず上郷側に寄っていた。

伊久間では耕地が狭い事もあって、広くなった川原に集団で境界線を越えて耕作するようになって、そこから境界をめぐって争いが始まった。伊久間側では松平家のうしろだてもあり、また天竜川の本流が境界だとの認識により、さらに耕作するようになって既得権(耕作権)を主張して争いが大きくなる。それからもたびたび洪水が出ては、田畑は流されていたようであるが明治の初め(明治元年8月1日 辰の満水)大洪水があり田畑は殆ど流されてしまったが、水が引いた広大な中州にまた伊久間の人達が今迄以上に大きく境界を越えて田畑を耕作するようになって、さらに境界線や耕作権をめぐって争いも大きくなる。幾度となく伊久間側と談判してきたが決着がつかず、明治33年所有権確認訴訟を起こしたが、これも延々と決着が付かずにいたが、時の県議 代議士 郡長などの仲裁によって大正2年にようやく和解し、覚書を取り交わして200年にもわたる争いが解決した。

覚書

第1項 下伊那郡上郷村飯沼 南条 別府及び喬木村伊久間間 天竜川川敷官有地と民有地の境界は別紙図面中の紫色線と決定するに異議なき事

第2項 下伊那郡上郷村飯沼 南条 別府及喬木村伊久間間の境界は 別紙図面中朱線間の黒線と決定するに異議なき事

第3項 下伊那郡上郷村飯沼 南条 別府地籍内天竜川敷紫色線外堤防方線内の土地を 官有廃川敷と決定するに異議なき事

第4項 下伊那郡上郷村関係者に於いて喬木村伊久間有地及び牧野清右衛門外二十六人共有田荒地堤防方線外の土地を代金2000円にて買い入れ 前項官有廃川敷地と交換方其筋へ申請するに対し 喬木村伊久間間に於いて異議なき事

但し本項天竜川敷後日官有廃川敷と変したる場合の於いて 上郷村は縁故関係を有せず

第5項   下伊那郡喬木村伊久間は其の地籍内天竜川に堤防延長100間以上新設方県に申請し金1000円を該費用中に寄付する事

第6項   従来双方間に於いて締結せる諸般の契約は総て効力を失うものとす

上郷村史より

上郷 喬木両村境の確定―堤防内川敷の民有化

 借用耕作していた堤防内官有川敷地がやがて上郷三区関係者のものになる時が来た。それは大正2年12月、上郷 喬木両村境確定の機会である。

川を距てて相対峙する二つの村の境界線は普通は川瀬の中央、川瀬が変動しやすい場合は川筋官有地の中央線である。ところが上郷 喬木両村の間の天竜川については複雑な事情があった。喬木村伊久間区住民の所有地が天竜川東岸堤防線外の川原にあるのみならず、川の西側の洲にも占有地を持っていた。川西の洲は伊久間―南条間に昔からあった渡し船の線上にあたっており、一見して上郷村地籍に当たる場所であるが、伊久間側から船で渡ってきて耕作していた。上郷側ではこれを快く思わず、明治32年頃からその占有の不当性を主張し、耕作妨害行為に出るなどして争いが絶えなかった。この複雑な地籍関係のため村境は不明確のままであったが、郡有力者の平野桑四郎、上柳喜右衛門等六人が仲裁者となり、大正2年2月に覚書を交換して村境が決定した。