天竜川の渡し舟

05,01,30

 天竜川に堤防が無かった頃、竜東の伊久間との交通手段として渡し舟があった。我が家の下まで天竜川が流れていて、大きな桐の木がありそこに渡し舟をつなぐ所となっていて、我が家の先祖はその渡し舟の船頭をしていたそうな。

そんな様子を 丸山俊一さんが地域の広報誌 みのり に地域案内の中で「船渡」と題して投稿している。随分前の記事であるが 我が家の事も記されているので原文のまま紹介します。 



舟渡(フナト)

 天竜川も所々へ橋がかゝって対岸との交通に何不自由の無い今日、つい四十数年程前迄向こう岸との往来が渡し舟でなされたことも、又それが此処南条の地先にあったことも想像がつきません。
 下井あさえさん(下井茂治氏祖母 慶応二年生まれ)が、川向こうの小川から南条に嫁いで来た頃には、天竜川の本川(ホンセン)が下井さんの家の庭先に打ち当っていて、そこが渡し舟の舟着き場でした。孫の茂治氏があさえお婆さんから「相撲が飯田へ巡業に来た時、土手下の桐の木に舟を繋いで上がってきた。中に怪我をした相撲とりが居て、戸板に乗せて担がれて行ったのを覚えている」と、よく聞かされたそうです。
 天竜の流れは、現在の新田地帯をも含めた一千米近い川巾の中を蛇行していました。従って、出水(でみず)によって流れや瀬が変ると船渡の位置は適当なところを求めて上下に移動しました。後年堤防が出来てからも、凡そ現在の南条縦線、往時の呼名で船渡道の延長戦上を上下に余り遠くない位置が渡し舟の往還でした。
 雲彩寺住職小木曽英寿氏によれば「私がこの上の中学(旧飯中)へ通う頃(大正10年頃)、舟賃は学生が往復5銭、大人片道5銭であった」とかー。
 昭和も十年代の初めには、未だ渡し舟の名残りがあって、水浴び行った悪童共が舟頭さんをからかった記憶があり又、舟渡を利用して女学校への往復、我家の藪の腰を通った女学生に当時五ツか六ツの私がどう言うつもりか悪態ついた覚えもあります。さぞ憎たらしい小僧ッ子だと思ったことでしょう。
 ところで平常の水なら兎も角、少し増水すると可成危険なものであったらしく、此処の渡しにも難船と言って事故がありました。 「ワシは小さかったのでウロ覚えだが、五ツか六ツごろだったかー。阿島には春の神武祭っていう神輿の出る賑やかな祭りがあるの。イタキンの製糸へ工女に行ってた娘達が祭りに帰りたいと舟渡に来たが、大水で舟止めのため渡れない、と言って、弁天の橋へ廻るには遠いし、まごまごしていたんでは祭りが終わってしまうと気がせく、そこで大水だからと嫌がる舟頭に無理にせがんで流れ越しで舟を出させた。ところが波が大きいので娘達が動揺し片側へ寄ったから舟が傾いて水をかぶって転覆、舟頭は岩へ這い上がって助かったが娘達は流されて死人が出た。ワシの生まれた家のまえでの娘も亡くなって、川流れは畳の上へ上げないと言うわけで縁側(エンゴ)へ寝かさせてあるのをオッカナイモノ見たさで見に行ったモンナ」(浜島イサさん談 阿島出身 明二十八年生)
 又、次の様な古文書の残っていることからも、難船と言うものがこつ丈のものでなく頻度の高かったことが窺がわれます。

     覚
 今般河野村渡場難船
 之節各別相働呉候に付き乍二
 軽少一米拾俵猶又其方生涯 
 壱人扶持可二相渡一もの也
    丑六月  阿島役所印
            喜代松へ

 阿島の殿様が江戸からの帰路、難船して舟頭の喜代松に助けられた時のものだそうで、殿様の乗った舟さえ転覆しました。
 文章  丸山俊一 



南条舟渡跡

05,02,19

上郷側には、舟渡に関する石碑や印みたいなものが見当たらないが、
対岸の伊久間の堤防にはりっぱな石碑が建てられている。
石碑の裏面に舟渡の歴史が記されている。

     明治中期に伊久間桑原地籍(現在地)と対岸の飯沼村
     河原田地籍との間に渡し舟ができ 伊久間小川阿島方面から
     飯田市へ通ずる渡船として昭和初期まで続いた
     当時の渡船請負願書によると二ヶ年十一月毎に更新願をだし
     渡船指令を県より受けて営業を続けた 人壱人壱銭
     満水時弐銭 牛馬弐銭 満水時不通と記されている
     ここに往時を偲び記念碑を建立する  喬木村
 
          喬木村百十五年記念
          平成元年十一月十八日建立

石碑より対岸南条を見る

   


阿島舟渡跡


喬木 阿島橋北の堤防上に阿島舟渡跡の石碑がある。
この石碑の裏面に舟渡の歴史が記されている。


     阿島の舟渡は江戸中期以前にできたものと思われ阿島南(現在地)と
     対岸の座光寺水神島を結び近隣の人々や薪炭等の運搬に利用された
     明治の末期頃よりワイヤーロープ滑車の吊越式による渡船が行なわれ
     渇水期には土橋もかけられた 橋銭は明治末期には大人壱銭 牛馬
     弐銭で通行人は一日八十人ほどと推定され昭和十五年頃まで続いた
     ここに往時を偲び記念碑を建立する     喬木村
          喬木村百十五年記念
          平成元年十一月十八日建立


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