桜堤防

05,01,29

上郷の堤防を 桜堤防 と今でも言う人もいるし、その当時の懐かしい記憶があったり、家族や近所の人達よりの話で、ある程度の年の方なら見聞きして知っているかと思わわれる。
地域の広報誌 みのり に大分前だが 丸山俊一さんが地域案内の中で「桜堤防」と題して投稿されている。桜堤防の由来等や、その当時の花見の写真から昔が偲ばれる。原文のまま紹介します。写真はうちにあるものを使って頂いたようである。 


桜堤防

 天竜川に沿って、飯沼前から初崎へかけ、千数百米に亘って長大な堤防が、三区四十町歩の美田を守って築かれています。且つては、桜堤防と呼ばれ一抱もある桜の大樹が咲き誇り、花見客で賑わいました。
 「当時は、桜堤防というより向島の桜っていってナア、地元よりも他所の衆が出かけて来たんナ。時期になると、綺麗に着飾った衆がワシラホの横の道をゾロゾロと引も切らず通って、畑で仕事なんしとるのは嫌だったにー」(浜島いささん談) 桜のあとには又、月見草を尋ねて風流の男女が近郷から大勢やって来ました。「夕方になると、月見草を見に飯田から着物姿に下駄ばきトコトコ出かけて行ったものナ。今は金銭的には恵まれてきたが、ああいう余裕は無くなったなナア。」(松島書店主人談)
 明治四十一、二年飯沼川原に近代的石堤が築造された(上郷史)といいますが、館松福一さんが子供の頃で、「工事に使った石は古川(別府)からもらってナア、荷車で引いて、座光寺境で下ろし土曽川の中をトロッコで運んでナア、そのトロッコに乗りに行ったもんナ」と。
 この後、南条河原の堤防建設は大正年代に行われ、別府河原の堤防は昭和年代になって手がつけられ(上郷史)、堤防が出来ると桜の苗木が植えられて来たものらしく、館松福一、吉川計二両氏の記憶では、南条前には既に大正10年以前に桜があったといいます。
 ところで、写真は昭和2年4月14、5日頃。新戸川の突当りのすぐ上手の堤防上で、「オラホの長屋を建った年で、お宮のお祭りすんですぐナ、親父が同年会の当番で、写真の籠はオラホの籠、後の方にいる衆は飯沼の染物屋の衆だってー、乳母車のそばの子供は丁稚で子守をさせられとるんナ」(宮脇仙市氏談) 下井政男氏をのぞいて、他は皆故人となっていますが、南条の一時代を画した壮々たる面々で、桜町の田口酒店の正宗の三升やながでんと据えてある。
 桜へ電灯を吊して夜店が出たり、‘松幾サ‘が小屋掛をして酒肴を売った頃は桜堤防の全盛時代でしょうか、「堤防外の川面へ舟を浮べて花見をした」とか、「花見の酔客が畑中淵へ転げ込んで濡れねずみになった」話もあります。昭和13年の出水の折に桜の枝を下ろして木流しによって堤防を守ったのを、水防に出ていた父のもとへ、末子の叔父と何か届けに行ってこの目で見たのが、私の堤防についての最も古い記憶です。戦後間もなく堤防のかさ上げ、補強の工事が行われて、桜は切られ今は無い。月見草も又、昔日の面影はなく絶滅寸前です。 (丸山俊一)


その当時の桜堤防での写真が あと2枚 我が家に残っています。懐かしいお顔が。