新緑の谷京(やきょう)

    谷京峠の石碑群


  四月十八日、名田熊の谷京(焼尾)峠で近隣の人たちにより例年祭りが行われます。

 飯島から村道を上り、名田熊集落に入ったところで車道は行き止まりとなり、比較的手入

れの届いた山道を歩きます。

人があまり入らないのが幸いして、至るところで春ランの可憐な花が、木漏れ日にきらき

ら輝いていました。

一二〇〇年ころ、鎗倉から落ち延びてきてこの地に定住したという歴史を持つ、今は無人

の秦家の前を通り、約三十分で尾根に出ました。

芽吹きの淡い緑の中に、山ツツジの赤紫が鮮やかな尾根伝いに、幾度となく登ったり

下ったりしてさらに二十分、最後の急坂を登りきると開けた平地に出ました。

そこが谷京峠です。

 そこでは、飯島と平岡の人たち十数人がすでに神事を終え、車座になり持参の料理に舌つ

づみを打ち、話に花を咲かせていました。

大げさな神事はあ
りません。観音様の赤い旗を立て、石仏におまると呼ぶだんごを供え、全員

で線香をあげて手を合わせるだけです。

 峠は、結構広い平地の端に今にも朽ち果てそうな鳥居(地元では一の鳥居と呼んでいます)

があり、三十三の観音像がひとまとめに置かれています。

秋葉大権現に左和田村(ひだりわだむら)と刻まれた石碑の他、中央に大きな碑文石柱があり

ます。

 石柱は横四十センチ高さ一メートルで、四面に細かい漢字で谷京峠の由緒が刻まれています。

 その石碑の東面には、

『東南鄰于駿遠皆山也其中突兀?(てへん ッ冖ロ牙)空蔚然挿雲秀乎(横にてへんあり)

(上に山がつく)(上に山がつく)之間有焼尾也…』
(一部、旧漢字が表記できないため、画像処理)

とあり、その意味は「東南は駿州、遠州に隣する高い山ばかりであるが、その中でもぬきん

でて高く空を支える勢いで雲を挿し、秀でたる重なり合う峰々
の間にあるのが焼尾(谷京峠

のこと)である…」(参考・松山義雄著、新編伊那風土記)

 そして、末尾には「峠で行われる観音祭りのことを後生に伝えんがためこの石碑を建立し

た」とあり発願者二名の他十六名の出身地と氏名が刻まれて
います。

 二十年前、初めてここに立ったとき、この大きな石碑や石像群に驚かされ、木々の葉音

が、万古へ、平岡へ、また秋葉山を目指した旅人の足音に聞こえ、
旅の安全を祈る人々の願

いが伝わってきたことを、昨日のことのように思い
出しました。

祭りを終え、山を下りる人々の話し声も遠くなり、一時賑やかだった峠も、またいつもの

静寂の中に戻っていました。

    ◆

 *谷京峠の例祭は、現在四月十八日に近い日曜日に行われます。

 *鳥居は、平成八年に新しく建立されました。

        碑 文
       一の鳥居

 
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