泰 阜 村 立 学 校 美 術 館

・・・ 一般参観者へのご案内 ・・・


1 昭和初期の世相
2 美術館建設の端緒 吉川宗一校長先生の願い「貧すれど貪せず」
3 教育を大事にする泰阜村吉沢村長と村民の決意
4 倉沢興世先生の協力
5 美術品購入の努力
6 美術館の建設
7 美術館の移転
8 美術館の現在


1 昭和初期の世相

 昭和5年(1930年)、今から70年前のことです。その頃、日本の国は不景気で長野県の各地でも影響を受け、特に田舎の暮らしは苦しく、ここ泰阜村でも学校を休んだり、学校へ弁当を持ってこられない子供も出てきました。

 昭和4年(1929年)10月、米国で始まった恐慌は、昭和5年(1930年)に入る頃から全世界へ広がった. 政府の金解禁により日本経済は混乱.生糸の対米輸出が後退し価格が暴落、重要な現金収入であった養蚕業に大きな打撃を与え、農民を窮乏させた。泰阜村でも養蚕の他に、米、木材、炭、等  五割減になった。


 とうとう村では、先生方に給料さえも支払えなくなりました。そこで、先生方の給料の1割を村に出して欲しいと、村から要望が出されました。

 その当時、県下各地で教員給与強制寄付が波及した。校舎の移転改築の為、多くの費用を負担し、更にこの不況でやむを得ず他の町村に倣って、教員給与の一部寄附を議決した。当時泰阜北学区の教育費負担は一戸当たり40円で県下最高クラスであった。

2 美術館建設の端緒 吉川宗一校長先生の願い「貧すれど貪せず」

 時の校長吉川宗一先生(喬木村出身)は、「お金を出すのはやぶさかではないが、給料の一部寄附をもってしても、それは学校費補填のごく少部分に過ぎない。むしろそのお金をもって将来の教育振興に役立てるべきである」と考え、美術品購入のことを時の村長吉沢亀弥氏並びに村議会に建言しました。
 そのお金を貯めて、絵や彫刻、書などの美術作品を買い、「将来、村をしょって立つ 子供たちの夢や愛を豊かに膨らめてやることが大事だ」と考えたのです。「貧しいけれども、心は貪しない」と言う信念です。美術品を集め、児童の情操教育を行うと同時に将来はこの地に美術館を建設したいという熱意をもっておられました。
 吉川校長は、「どんなに物がなく生活が苦しくても、心だけは清らかで温かく、豊かでありたい」と願っていたからです。

3 教育を大事にする泰阜村吉沢村長と村民の決意

 反対意見はあったものの、優れた歴代校長によって培われてきた教育尊重の気風から、泰阜村のほとんどの人達はこの考えに賛成し「学校に任せる」ということになりました。吉川校長の意見が取り入れられ、その事業については学校に一任されたのです。

4 倉沢興世先生の協力

 当時この泰阜村出身で、彫刻家をめざして修行する倉沢量世という青年が、苦学の末、東京美術学校に入り、日本でも指折りの「帝展」に連続入選するまでになっていました。吉川校長は早速上京して倉沢量世先生を訪ね、決意を打ち明けました。吉川校長の構 想とその熱意に感動した倉沢先生は全面的な協力を約し、吉川校長を激励しました
 倉沢先生は、泰阜学校の「美術による感性の陶冶」「絵や彫刻にふれることで、人間としての心根を豊かにしていくこと」の高遠なる呼びかけに心から感動され、著名な作家や知人にも作品の寄附を求めてくれました。
 先生は、昭和2年母校の校舎改築のお祝いに、少女像「偲」〈大正15年・量世(後に興世と改名)3回目の帝展入選作〉を寄贈してくださっていました。これは、泰阜郵便局長金田一馬氏から倉沢量世先生への要請によって実現したものです。
 吉川校長先生はその「偲(しのぶ)」を見て痛く感動し、美術品の収集を思い立たれたそうです。

5 美術品購入の努力

 学校では、泰阜村や長野県内の有名な作家の絵や書を買うことになり、その第一号に菱田春草の姪に当たる菱田きくの「紫陽花」を購入しました。
 その後も、児童生徒までもが寄附を寄せ、先生方や村の人たちの協力で、素晴らしい美術品が集められていきました。中には、泰阜の小学校を卒業してすぐに遠くの紡績工場や天竜社阿南工場に就職し、そこで働いて得たほんの僅かな給料の中から、50銭・1円と贈ってくれる女工さんもいたのです。
 このように多くの人々のお力添えで、丸山晩霞、中村不折等、次第に高名な作家の美術品が増えていきました。

6 美術館の建設

 時が流れ、昭和26年、当時の久保田諭校長は、戦前に蒐集された40点に及ぶ美術品が収納庫に封印されたまゝになっているのを遺憾に思い、講和発効記念事業として、吉川宗一校長の遺志を継承して美術館の再興を計画し、中学校長坂牧和一氏に計り、小 中学校職員が一丸となってこれを推進することになりました。この美術館建設が実行に移されたのも、第二次大戦後の困窮の最中でした。
 両校長の意図を聞いた時のPTA会長宮下喜代蔵氏は、以前から何かと協力の手を差しのべてくれた金田一馬郵便局長を訪ね協力を仰ぎました。金田局長は活動資金にとポンと5万円を差し出してくれたそうです。
 反対者を説得し、児童生徒・先生・同窓会・PTA(当時の会長は倉沢興世先生)など村中の協力を得て、お金も労力も自分たちが奉仕し、みんなの手で建設したのです。中には、自分の山から木材を切り出してくれた人たちもいました。これこそ正に今で 言うボランティア活動です。
 昭和29年(1954年)、今から46年前、出発から24年後、学校の裏山に美術館が建てられました。満天星と松の木に囲まれた、宇治の平等院風を模した左右対称の美しい建物です。
                                
7 美術館の移転

 昭和50年(1975年)現在の校舎を造るに当たって、昇降口の二階に展示室をしつらえ、作品を現在の場所に移しました。山の上の旧館が老朽化し、屋根瓦のふきかえ等修理をしても、美術品の管理に適さなくなったためです。

8 美術館の現在

 その後も寄附や購入・作品修復(表装・鋳造等)を続け、今では、池上秀畝、丸山晩霞、中村不折、片桐白登、等々高名作家の収蔵作品が340点を越える程になり、年間 約600人ほどの見学者が鑑賞に訪れるようになりました。作品管理の為、平成11年3月、美術館横へ杉材をふんだんに使った作品収蔵庫を建設しました。
 全国でも例をみないこの「学校美術館」は、正に泰阜村の精神的な核となっています。
 私たちは、先人の求めた心(吉川宗一校長・吉沢村長等による美術館建設の精神『貧すれど貪せず』、倉沢興世先生の言う『夢』、久保田、坂牧両校長、金田一馬氏等の貴い志)を大事に継承していきたいと思います。
 また、泰阜村民の「教育を愛する気風」を有難く頂き、泰阜教育に精一杯取り組んでいる毎日です。
 以上で、簡単ですが「学校美術館」の説明を終わります。
 ご自由に、作品の鑑賞をしてください。