第十二章 母木の事
伊奈郡南に、箒木(ははきぎ)(20)といふものあり。外より詠むれば、山々のうちに、
わけて木梢(こずへ)たかく見ゆ。其所にわけ入ては、いづれの木といふことをしらず。
是を母木といへり。むかしより此説ありて、母木の名ある也。
此あたりは、すべて坂高くさかしく、深林は鬱茂(さかん)にして天を刺斗なり。
ある人一とせ、所の受領に訴へて、山に斧を入ることあるに、一つの巨樹(おふき)ありし
が、渓より數丈のびて、上なる石穂(いは)にはさみ、立のび、又他の木とたちならびて、梢
猶高し。あやしき木なればこれのみ斧をいれず。
後又、官にうつたへて、小祠(ほこら)を立て祭る。これを隠れ木といへりとぞ。
こゝにはすべて大木あれど、とかく宿り木のごとく、枝組合て繁茂せり。
爰によつて、何といふ木と、名を聞にわからず。
しかるに、遠山のうちに、此所によく似たる所あり。
遠山のうち、かゞ原の奥に日かげを(ママ)山有。
其うしろの谷に、大木のびて生茂り、岩をつらぬきて、又立のび、其上に木二本ありしを、や
どり木として、一つに生茂り、からみて、其繁茂せるを見るに、山のごとく、鳥の巣を組しあ
とありしが、それが猶まとひかゝりて、雲を見す。斧をいるゝに手なし。
かの箒木のうちの巨樹のさたを聞より、猶又これを見て肝をひやしぬ。
又鹽代(しほしろ)山の谷かけに一だかいほどの古木六本、家の柱のごとく、立ならび、枝組
合やねのごとくからむ。
こゝは以前椎茸作の人通ひ、やどりとしたるが、今はだんだん繁茂し、怪異枝上にすみて、こ
ゝにやどるものなし。いかさま物すごきけしき也。
深山は是にかぎらず。里にて見なれぬ。ふしぎなることゞも甚多し。
書顕(かきあらは)すに、數多くして、何れより書べしと、まよへる也、此余のふしぎなるこ
とどもは、此あとに、遠山奇談續編といふにあらはして、人々の興にそなふ。