遠山奇談 巻之一
 
  第一章 發 端

天明八つの年、むつき晦日五更の天に風はげしくて、鴨河の東より火出て、其火京極通へう

つるより、都のちまた残りなく火となり。

 かけまくも、いとも尊き宮造も、時のまに火うつり、靈物靈場も亦残りなく
成にき。

 天災陽を梵焼して、灰燼瓦礫の塵となる。

いでや年比みのりを
聞せられ給ひし靈場
(1)は都の南にかくれなき大伽藍なりしも、時のまに

うつりて、殿宇ことごとく灰燼となれり。

 力なしといふもさら也。時なる
哉此火。惜哉此うてな。こは夢ならばさめよかし。

 きのふ迄おがみし周
備満足の御荘厳を、いつ又再び拜むことぞとおもひ、雨涙袂をうるほせ

しに、国々の御門葉いで再びせずばと走集る。

 老若心づくしのはてまでも我も我もと参りあひ、悲嘆胸にせまりとみにもとのごとくせん

とはかるに、ためしまれなる大堂なれば、立ならぶふとしきも亦よに稀なるべしと云あへり。

 つらつら思ふに、いにしへ明暦といひし比はじめて大堂なりし時は、富士山へ山入あらせら

れてふとしきそろひぬと也。 

 此たびはそこにもなく、かなたこなたと尋ねもとむること成けるに、遠江濱松といひしに

齢松寺とといふ僧心をゆだね發起して、門徒にかたり粉骨砕身報ゆるにたらず、何卒手よりに

木をもとむべしやと、つゐに遠山のことをはかりしと也。

 比遠山紀行をくわしく聞に、稀なることなれば聞ながすことをおしみて、
筆をとり其はじ

め終りをもとめしるすなり。


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