当事者から観た、日本における不登校問題の本質と今後の展開予測(抜粋)
『大人になりきれない子ども達』  〜遊べ!〜

 我々は生命として誕生して確実に年をとり、少しずつ、時に大きく成長していく。
この日本社会という枠組みの中で考えてみれば幼少時代を保育園や幼稚園で過ごし、やがて小学校に入学し、次に進学するのは中学校。中学校を卒業した時点で形式上は義務教育が終了し、初めて子ども達に形式的な選択肢が与えられる。社会に出て仕事をして生きていくか、或は高校に進学して更には大学まで進んでいくことになる。

 遅かれ早かれ結果としては社会にでて自立し、各々が精神的にも日常生活上でも自己を確立していくことになる。私はこれこそが自立の本質だと考えている。

 いわば教育というのは幼い生命を自立という一種のゴールに向ける役割の一端を担っているのではないだろうか。義務教育期間というのは、ゴールまでの成長過程であり、子どもに課せられた絶対的義務ではない。あくまでも選択肢の一つである。義務教育期間に無償で教育を受けられる学校組織を選択するか、或はその他の環境を選ぶかは大変重要なことである。 

 私の周りには就職をした後も仕事一本に集中することが出来ず、学生気分が抜けきらないで不完全燃焼の状態にある友人が多い。彼らは社会人というゴールに到達するまでの過程で【不十分】が多く生じてきたように考えられる。極めて端的且つ明確に言うなれば、彼らは『年齢的に子どもとされる時期にあまり遊ばなかったのでは?』という疑問が浮かぶのである。そもそも、子どもに課せられた義務とは、自由でいることであり、自由に遊ぶことは子どもの成長の過程で非常に重要な意味を持つのではないだろうか?

 何事でも十分に行動すればおのずと納得する結果が出され、やがて自然発生的に次の段階へと(成長段階)進んでいくのである。これは自己決定することによって自己責任の感覚を身につけることでもあり、この成長は社会で一人前の大人として生きていくために必要不可欠な要素である。しかし学校という組織のなかでは勉強の内容も進めていくペースも、ほぼ画一的に定められており、子どもの仕事は勉強することだと教育されることもしばしば…。
さらに憂慮すべきことは、家庭によっては子どもの遊ぶ時間が皆無に等しく、子どもの一日のサイクルを全て親が決定し、その内容のほとんどが勉強や習い事で埋まっていることである。
果たして彼らが高校、大学と進学し、やがて社会人となったときに完全に大人になれるのだろうか。

 【遊び】という大切な成長プロセスを飛ばして大人になったとしても、それはあくまでも見た目上の大人に過ぎす、その土台となる部分は実に空虚で、攻撃を受ければいとも簡単に崩れ落ちるのではないか。

 教育基本法の一文を観ても、教育の目的は【自己完成】である。しかし今の教育は
『立派な大人になるために正しいことだけやりなさい』といった要素が強く感じられる。
社会一般で立派だとされる『勉強をする』ということが中心軸になって教育が回っている。
近年多少の変化は観られるようになってはいるが、現状としてこの事実は誰にも否定しがたいものであろう。
私はこんな時代に教育の本質を自己決定と自己責任だと呼びかけ、
子ども本来の姿に『遊び』を見出し主張したい。

子どもよ、遊べ。もっと、もっと。


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