丹波ナチュラルスクールの事件について考える
施設に入所中の中学3年の少女(14)に暴行を加え、けがを負わせたとして、京都府警は9日、同府京丹波町のフリースクール「丹波ナチュラルスクール」経営・朴聖烈(60)、施設責任者・森下美津枝(55)の両容疑者が傷害容疑で逮捕された

 報道されている事件の内容が事実であれば、絶対に在ってはならないことであり、同じようにフリースクールを運営している身の人間からしてみれば、大変迷惑な事件である。しかし、今回の事件で実存するフリースクールの特異な内情が明るみになったのであれば、『事件の発覚』それ自体は好ましいことなのかもかもしれない。
 フリースクールのほとんどは民間の手によって運営される、いわゆる『任意団体』。活動や方針などはそれぞれに個性を持っているが、フリースクールの一つの特徴として簡生短命(容易に発生するが、すぐに絶える)という実情がある。(もちろん、長年に渡って活動している団体も存在する)だから国すらも国内のフリースクールの実態やその数を性格に把握できていないのである。そんな中、ただの商売としてフリースクールを立ち上げたり、子ども達に対する人権の侵害、性的暴力まで行う団体が潜んでいる。
 
 今回の事件発覚は氷山の一角なのかもしれない。
子ども達に対する人権の侵害は、絶対に在ってはならないことではあるが、もし在るのなら見つけ出し、廃絶しなければならない。家庭や学校という場所で自分の居場所を確立できない(自分の存在意義を見出せない)子ども達に心休まる環境を提供し、彼らがのびのびと成長できるよう見守ることにこそ、私達フリースクールの存在意義があるのだから。
掲載記事(『不登校理解フォーラムで伝えたかった事』と、内容はほとんど同じです)
〜不登校は活かすべき経験〜
 
 私は『不登校』という言葉に疑問を感じている。 
『不登校』というのは、簡単に言うと~学校に行かない~或いは行けない~ということ。つまり『学校に行く』ということが前提に生まれた言葉である。学校に通うことが当たり前の世の中だから、再登校が目標となる。
 
 学校という環境が当たり前になっていることから分かるのは、私たちがいつの間にかそれに依存している可能性が高いということだ。
 たしかに学校は誰でも平等に教育が受けられる環境であり、必要不可欠なものだ。しかし、次第に強まっていく子ども達の個性を一つの形態で全て受容するのは難しい。それならば学校という環境からハミ出ること自体には何の罪もなく、むしろ自然なことのようにも感じる。 

 不登校児数を削減する事ばかりに眼を向けていては問題解決は望めない。私たちは、不登校の子どもたちそれぞれが、それぞれの道を、それぞれのペースで歩んでゆける…。そんな環境を用意していくべきではないだろうか。
 
 また、学校に通わないことを『克服すべきもの』と捉えることが多いようだが、逆に『活かすべき経験』と好意的に考えることはできないだろうか。『何をしたか?』ではなく『その経験が活きているか?』が社会に出てから重要だからである。 

 教育現場が多様化し、『学校』に通うことが当たり前でなくなれば『不登校』という言葉は無くなる。私は元不登校児としてそんな未来を切に望んでいる。
           
波田町講演会で伝えたかったこと。
まず、今回の講演会での話しは支離滅裂で、せっかくおいで下さった方々にお詫びを申し上げたい…。
結局なにが言いたかったのか、ここに要約します。(保健福祉センターのご担当者様。せっかく呼んでいただいたのに、グズグズでごめんさい』

『不登校のお子さんを持つお母様へ』 

 子ども達の多くは、自分が他の子どもと違うということで不安を感じています。この国に古くから伝わる『皆一緒が良い』という美徳観が不登校児とその親御さんの不安の原因であるのは否めません。 この美徳観、これがその子の回りから消えると、次のステップに自ら進み出すはずです。 

 私の母は、私が不登校になった事、家族に深い事情があったことのダブルパンチで大変苦しみました。
(あの当時は今よりもっと、不登校は異例な存在でした。相談機関もほとんどありませんでした。)母を苦しめている事がわかっていたので、私もとても苦悩しました。でも、あの頃の私にはどうすることもできませんでした。母はよく泣いていました。口癖は『どうして…』でした。
ですから、母が『学校に行かなくても良いよ』と言ったのは、非常に強い葛藤の末であったと思います。

その母が、先日私に言いました。 
『母親が腹をくくらないと子どもは自由になれない』 

でも、親だからこそ心配で仕方ないのです。 
そんな簡単に腹をくくるなんてできないのです。 

でも、大丈夫です。 
お子さんは今日も確実に成長しています。 
だから安心してください。すこし、心配を休んでください。
ただ、お子さんが自分の気持ちをお母さんに表すことが出来るように、コミュニケーションはとってください。(これが放任と放置の違いです)信頼関係を築いてください。家庭の中で意思の疎通ができていれば、悪い方向には向かわないと思います(個人的な意見ですが…)

さて、子どもたちの抱えている不安が解消されると、希望・夢、別の言い方をすれば『目標』が
生まれます。(もちろん、お母さんが不安に思っていては子どもは安心できません) 
そして明日が楽しみになります。目に見えにくいかもしれませんが、その時からお子さんの
大躍進が始まると思います。 

ともかくまずは、焦らせないこと…。
勉強?常識?コミュニケーション力? 
大丈夫。そんなものあっという間に取り戻します。
どうか覚えておいてください。

急がば回れ。
教育(子育て)は、急がば回れです。
不登校理解フォーラムで伝えたかったこと。
 私は、『不登校』という言葉に少し疑問をもっています。
『不登校』というのは、簡単に言うと学校に行かない、あるいは行けなということでしょう。つまり『学校に行く』ということが前提に生まれた言葉なのではないでしょうか?
いつの間にか学校という場所が教育の中心となり、絶対的な存在になっていったような気がします。

 公益性が強く、誰でも均等に教育が受けられる学校はいい物です。しかしながら、どんどん強まっていく子ども達の個性を一つの形態で全て受容するのは難しいのではないでしょうか?ですから、学校という場所からハミ出すこと自体には、なんの罪もありません。それはとても自然なことだと思うのです。

 『皆一緒』が良いのではありません。それぞれが、それぞれの道を、それぞれのペースで歩んでゆける事が素晴らしいのだと思います。つまり、学校だけが全てなのではないということです。

 学校に通うのが当たり前でなくなれば、それを前提とした『不登校』という言葉は無くなります。
私はそんな未来を望んでいます。
不登校の経験者が望む『ゆとり教育』(抜粋)
 つい先日のことです。30年以上もの間、減少を続けていた日本の学校の授業数が大幅に増えることが決まりました。子ども達の学力低下を危惧して、施行からわずか数年、ゆとり教育の廃止も決まっています。

『失敗だった』

ゆとり教育はそんなふうに言われます。しかしどうでしょう。本当にゆとり教育は失敗だったのでしょうか。
今の子ども達に学力を強化させることが本当に必要なのでしょうか…。私なりに改めて考えてみたいと思います。
 
 今から16年前(平成4年)、『不登校』という言葉が生まれました。『不登校』とは、〜年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの〜とされており、かく言う私もその1人でした。当時の私には勉強をする意味がわからず、当然、学校に行く意味も理解できませんでした。
毎日ハイスピードに進んでいく勉強に悩まされ、必ず仲間はずれを生み出す集団行動、そしていじめ。私にとって学校生活は苦しみ以外の何物でもありませんでした。そうして私は、小学3年生から中学を卒業するまでの6年間、不登校を経験することになったのです。

 不登校になった私は、民間の教育施設に通うようになったのですが、この環境が衝撃的でした。そこは今で言うところのフリースクールというところで、私がそれまで経験してきた学校のシステムや雰囲気とはまったく違うものでした。そこに集まった子どもたちはのびのびとしていて、眼に力があり、優しく、また自発的でした。今改めて彼らの姿を思い出しても、そこには子ども本来の姿があったと思いますし、何の強制もせず、それをただ受容するオーラがそこには満ちていました。
 学校ともっとも異なっていたのは、決められたカリキュラムに沿って1日を過ごすのではなく、それぞれが、それぞれの意思でそれぞれのスケジュールを決めて、それぞれのペースで進めていくというところです。それだからこそ、そこに集まる子どもたちに自主性が生まれ、ゆとりも有ったのではないかと思います。
 
 画一的な教育プログラムはもちろん、何一つとして強制されるものもなく、ただ、自由という名の『ゆとり』があったのです。

 その後、私も高校、大学と進学し、無事に就職を果たした頃にゆとり教育制度が施行されました。私はゆとり教育を受けたからこそ、今の自分が存在するのだと思っていますから、ゆとり教育制度には賛成だったのです。しかし世間の目は大変厳しく、子どもたちの学力低下を掲げて猛反対。バッシングに次ぐバッシング。私はとても残念に思いました。世間が学力ばかりに眼を向けている限りは、いくら登校日数を減らしても、どれだけ教科書を薄くしても、それは子どもたちに時間を持たせるだけであり、ゆとりを与えることにはなりません。なぜなら、時間はゆとりを与える1要素に過ぎないからです。
 どれだけ時間があっても場がなければ何もできませんし、その場が必要だと思わなければ、誰もそれを作りません。つまり意識が場を創造し、場を活かすために時間が必要だと言うことです。意識と場、そして時間。これこそがゆとりを作る三大要素なのだと私は思います。

 どこかでゆとり教育が語られると、必ず子どもたちの学力低下を危惧する声を耳にするのですが、よくよく考えてみると、学力というのは、目的そのものなのではなく、夢を手にする1手段なのではないでしょうか。

 私は、ゆとりの中で幸せな子ども時代を過ごしました。あの経験が無ければどうなっていたかわかりません。苦しみの末、最悪のパターンを選んでいたかもしれません。ですから、私はこう考えます。
ゆとり教育は失敗だったのではなく、子どもたちを中心とした残虐な事件や生涯学習を重んじる点から観ても、むしろその理念は良い物だったと思います。ただ足らなかったのは、

@勉強が大好きな日本人の意識を変えられてなかったこと。
A学力に変わる他の評価基準が確立されていなかったこと。

2つ目のことは、私も模索中です。
ただ、学力だけが一人の人間を構成するのではないということは、多くの人がご存知の通りかと思います。
もしも学力を重視する風潮が薄れたり、希少化し、既存の学校の他にも、子どもたちの学びの場が増え、またそこに通う子どもたちを容認する意識がこの国全体に広がったなら、その時はゆとり教育制度が100%活かされるのではないでしょうか。

 


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