満蒙開拓問題を考える |
満蒙開拓に拘わる歴史年表/その1:開拓の草創期〜終戦まで |
**本年表は、日本が日露戦争で戦勝国となった時点からを記載することとしました。** |
国策のなかで非常識の最たるものである戦争、植民地政策は国家が長い時間をかけて練り上げられ、官民一体であらゆる体制をつくりあげて 初めて可能となることを考えれば、本表の歴史の起点をどこにするかは迷うところである。 したがって、近代国家となって日本が最初に宣戦布告した日清戦争(1894−95)と、これに勝利しての経過、清国からの賠償金の使途、その後 の日露戦争を十分考えなければならないと思われ、冒頭に日清戦争・日露戦争の項目のみ記載した。 |
注: 1) 長野県および飯田下伊那地方に拘わるものは黒色で、国内外の事項は〈 〉内に青色で記載した。
2) また、年表の閲覧に当たっては、画面を十分に広げて見てください。年月日とずれてしまうことが有りますので!
年 次 | 時々のできごと |
日清戦争 |
1894(明27)年8月(宣戦布告)〜1895年4月(日清講和条約調印) 日本は清国より賠償金2億3,100万両(テール清国通貨)、日本円に換算して3億6,000万円(現在の 貨幣価値に換算すると約360兆円)を受け取る。1895年 5月遼東半島還付(三国干渉への同意) |
日露戦争 | 1904(明37)年2月(宣戦布告)〜1905年9月(講和条約〈ポーツマス条約〉調印) 日本は@韓国の自由処分(韓国併合) A ロシア軍の満州撤退 B 遼東半島租借権と長春・大連間の 鉄道譲与(日清満州問題〈満州事変・日中戦争〉満鉄設立) は受けたが、賠償金は取れませんでした。(日比谷焼き討ち事件) |
1905(明38) 9月 5日 |
〈日ロ戦争で日本が戦勝国となり9月のポーツマス条約でロシアから中国東北部の旅順、大連など 関東州の租借権を譲渡され加えて長春・旅順間の南満州鉄道経営権を獲得〉 |
1915(大 4) 5月 9日 |
〈中国に対して二十一ヵ条を要求し、南満州、東部内モンゴルにおける日本の権益を獲得〉 |
1917(大 6) 9月27日 |
〈ロシア革命なる。2年後の1919年6月8日ソ連が帝政時代の満州の特権を放棄〉 9月27日〜10月26日 飯田下伊那の支那実業視察団 22名が鮮支旅行を実施。 主な参加者 樋口秀雄・野原半三郎・吉川亮夫・中原謹司・伊原五郎兵衛・下平政一 |
1922(大11) |
信濃海外協会設立、 総裁:県知事 副総裁:信濃教育会会長。 |
1923(大12) |
自由青年連盟の核心となる、LYL( リベラル・ヤング・リーグ )を結成。機関誌「第一線」を発行。 (翌年 1924.3.17検挙者19名が出る) |
1924(大13) 10月26日 |
〈米国、排日移民法の成立(北米、南米への移民困難となる〉 下伊那郡国民精神作興会設立。 北原阿智之助(上郷)・大平豁郎(千代)・森本洲平(松尾)等、思想善導。 |
1928(昭 3) 6月 4日 |
〈張作霖爆死事件、11月中国共産党満州省委成立、満州民衆に排日を呼び掛ける〉 |
1929(昭 4) 6月10日 |
〈拓務省設置、朝鮮総督、台湾総督、関東庁、南洋庁ほか統括、1942年に大東亜省に編入〉 〈世界恐慌の影響が日本に及ぶ、国内の失業者増大、農村不況深刻化〉 繭価暴落 長野県下 繭価格/1貫目:大14年/10.14円→昭 4年/ 6.49円→ 昭 5年/ 2.55円 |
1931(昭 6) 9月18日 |
満州事変勃発、関東軍柳条湖の鉄道線路爆破、奉天占領、15年戦争の出発点となる〉 南信国民大会 飯田劇場にて、* 決議文「国論ヲ喚起シ満蒙国策大儀ヲ敷クベシ」中原謹司。 |
1932(昭 7) 1月 3月 1日 5月 2日 8月 1日 8月 6日 10月 3日 10月14日 |
満州愛国信濃村建設趣意書 長野県が作成。 満州国建国、首都長春→新京と改名、関東軍「移民方策案」「日本人移民案要綱「屯田兵制民案要綱」作成。 拓務省はそれを受け「満州移民案の大綱」等、閣議に提出し、臨時議会通過〉〈満州農業移民正式募集開始〉 〈国際連盟リットン調査団一行、新京到着〉 満州愛国信濃村建設資金募集 県全体で10万円 一戸平均35銭。 信濃教育会主催満州視察 座光寺小学校長:林 重春参加。 〈第一次武装農業移民 (東北北陸,関東の在郷軍人中心) 492人神戸港出発、永豊鎮(後に弥栄村)入植〉 上記、武装移民、長野県内から39人が渡満しジャムスへ到着、その後弥栄村「長野屯」へ入植。 *以下、日本は満州への武装移民(試験移民)送出の時代に入る。(第一次弥栄村 第二次千振 第三次瑞穂村 第四次開原城子河 第四次哈達河 第七次西弥栄村の6団が入植、計 2,989人 *長野県からは、弥栄176人千振235人瑞穂171人開原城子河51人哈達河203人西弥栄43人が入植。 |
1933(昭 8) 1月 2月11日 2月 4日 3月27日 7月 5日 7月25日 8月20日 |
青年代表満州視察,2週間、翌年(1934.8) 同視察団派遣、翌々年(1935.10)同視察団派遣。 弥栄村開拓団入植式 吉林省、長野県など11県の在郷軍人会主体493人 2.4事件(教員赤化事件)608名検挙(内教員108名、下伊那 7名) 〈日本国際連盟を脱退(国際連盟より、軍を満州より撤退させるよう勧告されて脱退) 〈第二次武装農業移民455人 原宿駅出発千振村へ。以降瑞穂村、開原城子河、哈達河と続く。 東宮鉄男「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」を作詞〉 千振開拓団入植式(吉林省) 在郷軍人会が送出母体 1943年時点で1870人 県内 235人(S18年末) 8月20日〜9月24日 信濃教育会主催満州移民地視察 飯田中学校長:小山保雄参加。 |
1934(昭 9) 3月 8日 7月29日 9月 9月29日 |
〈土竜山事件発生〉→*注参照 7月29日〜9月18日 第三次信濃教育会主催満州移民視察 飯田中学校長:小山保雄参加。 少年武装移民全国で13名入植 内長野県3名 翌年19名 〈第一次武装農業移民団の「大陸の花嫁」30名(内長野県から20名、下伊那から長沼〈旧姓丸岡〉さんら3名) ハルピンを経て弥栄村に入植。〉 |
1935(昭10) 5月 7日 6月 12月11日 12月13日 |
〈拓務省「満州農業移民根本方策に関する件」を決定〉 〈第二次武装農業移民団の「大陸の花嫁」130名現地到着 信濃海外協会松尾支部設立 支部長:吉川亮夫松尾村長 12月11日〜13日 移植民講習会 会場:信濃教育会館 11月に満州移民に関する宣伝、募集、訓練、渡航その他必要な事項を処理する中央機関として 「満州移民協会」を発足させた。一方、満州国は12月13日、現地における開拓助成機関として 「満州拓殖株式会社」を設立し翌年1月、政府任命の総裁を置き国策会社として発足させた。 |
1936(昭11) 2月26日 6月21日 7月 2日 8月25日 10月 4日 11月12日 11月 |
〈2・26事件発生,満州国移民事業に反対の高橋是清蔵相暗殺〉 更科農業拓殖学校設立 下伊那町村会長主催(県主催とも)「満州信濃村建設ニ関スル郡市協議会」会場:飯田商業学校 7月 2日〜 5日 移民宣伝映写会、座談会 会場 2日市田小学校 3日竜丘小学校 4日大下条小学校 5日会地小学校 〈広田内閣[七大重要国策決定] (開拓移民20年/100万戸計画)、満州移民が国策となる〉 全国に先駆けて長野県単独編成の開拓移民団送出を実現、「第5次黒台信濃村」の入植式を行う。 (送出母体長野県 終戦時357戸 1610人/長野県最大) これに続いて12年6月に第6次、13年3月7次、14年2月第8次と、県単独の集団移民を編成送出し、 いずれも長野村、信濃村と称した。(計5,368人) 昭和12年度満州農業移民ニ関スル郡単位協議会 上飯田町役場会議室 範囲下伊那郡。 11月〜翌年 1月 松島親造(吉林省日本領事館朝鮮課長、市田村(現高森町)出身)が 「満州農業自由移民指導要綱(案)」を発表。 * 飯田下伊那の満蒙開拓として、下伊那郡市田村出身の松島親造が計画し、下伊那郡町村会が 送出の主体となって関東軍の指示を受け吉林省へ入植した「松島自由開拓団三団」とその分派で ある「水曲柳開拓団」が自由移民団として特徴的に上げられ、その数は1,435人に上る。 |
1937(昭12) 1月15日 2月16日 3月11日 3月16日 3月16日 3月16日 4月 1日 4月 1日 4月 4月30日 7月 7月 7日 7月12日 7月28日 8月31日 10月 10月29日 |
1月15日〜2月 移植民講演会並映画会が開催される。内容は満州移民高揚に関する等。 三穂村経済改善委員会で「満州三穂分村計画」を樹立。 松島自由移民40名壮行会、出発。 江密峰松島開拓組合入植式 吉林省 送出母体下伊那町村会、組合長 坂牧加助(市田村)。 (最終人数 28戸 115人) 水曲柳開拓団入植式 吉林省 送出母体下伊那町村会 団長:今村 清(竜丘) (最終人数 226戸 1092人) 白山子松島開拓組合入植式 吉林省 送出母体下伊那町村会 組合長:岩間信好(下久堅) (最終人数 32戸 95人) 満州国農業移民助成規定作成 下久堅村 (10年に150戸を移植こと、1戸につき渡満奨励金として50円を交付すること。) 高山子満鉄鉄道自警村入植式.、錦洲省、送出母体:長野県 終戦時29戸 119人。(満鉄の募集に応じ) 下伊那郡西部四カ村 1,100戸を目標に阿南郷協議会を結成。 「少年満州農業移民募集ノ件」学務部長名で通達 各市町村・各学校長宛 年齢は15歳〜18歳 家族構成2〜3男 個人出資金30円。 下伊那町村会、下伊那郷建設 300名移民の具体化急ぐ。 〈廬溝橋事件発生、日中全面戦争に入る、農村の労働力不足深刻化〉 聯合村満州移民協議会 龍江村役場にて、参加村 下久堅・上久堅村・龍江村・千代村・泰阜村。 県、満州開拓青少年移民募集義勇軍割当、下伊那郡 1938/26人、 1939年/260人。 飯 田 市 1938/ 5人、 1939年/200人。 〈満州拓殖株式会社を改め、満州拓殖公社を設立〉 泰阜村満州視察団を派遣。 10月29日〜11月 1日 第6次本隊選考会 飯田市役所で実施 満州国竜峡郷建設大綱、参加村 竜丘村、川路村、三穂村、下條村、富草村、大下条村。 |
1938(昭13) 2月 4月 3月13日 3月22日 3月23日 4月 5日 4月15日 5月 7日 5月15日 7月15日 7月16日 |
〈国家総動員法を公布〉 〈農林、拓務両省による「分村移民計画」が成立〉。海外移住民政策から農村経済更生対策の一環へ。 〈満蒙開拓青少年義勇軍(隊)の本格的募集始まる。4月10日青少年義勇軍5000人渡満開始〉 〈拓務省「大陸の花嫁」募集、満州移民協会「大陸の花嫁」2400人を募集〉 〈拓務省が府県主催の女子拓殖講習会へ助成を開始〉 昭和13年度第7次満州信濃村建設先遣隊選考、会場 飯田市役所、範囲は上下伊那、応募者44名、内合格者41名。 分村移民全国で始めて、満州大日向村建設を計画。 満州天龍郷分郷計画 喬木村ほか 4村。 満州国阿智郷分郷計画 清内路村ほか4村。 第七次中和鎮信濃村開拓団入植式 浜江省延寿県中和鎮 送出母体 長野県 団長:松村朝信(松尾村) (終戦時人数 282戸 1164人 内下伊那 51戸 229人 義勇軍内原訓練所入所(先遣隊)祈願祭・壮行会ののち長野市中行進 県全体で510名 飯田下伊那は城下グランドで壮行会 川路村村民大会で分村を決定(下伊那地方最初の分村を決定) 松島移民団83名出発 千代村村会議員・区長・農会産業組合在郷・青年会を集め満州移民について協議会を開く。 5月15日〜6月 7日 下伊那町村会主催「満州農業移民地視察。町村長ら40名が参加 泰阜村先遣隊21名門島駅を出発、翌日気比丸にて敦賀港出発 川路村先遣隊17名敦賀港出発 |
1939(昭14) 1月 8日 2月 2月11日 2月11日 2月11日 3月 1日 3月 3日 3月 4日 4月10日 9月 1日 12月 |
〈拓務、農林、文部3省が協力して「大陸の花嫁」100万人計画を樹立〉 「長野県満州分村実行要領」を県が発表 満蒙開拓女子修練所開催日 (満蒙開拓者の配偶者または将来成りたい人の修練所として下記で開催) ・上久堅小学校にて2月15日〜21日 ・千 代小学校にて2月17日〜23日 ・泰 阜小学校にて2月19日〜25日 ・川 路小学校にて3月 3 日〜 9日 老石房川路村開拓団入植式 浜江省 送出母体 川路村 団長:清水 清 (在籍人員 134戸 552人 内下伊那 75戸 315人) 大八浪泰阜村開拓団入植式 三江省 送出母体 泰阜村を中心にした近隣村 団長:倉沢 大発智 (終戦時 219戸 1067人 内下伊那飯田 216戸 1054人) 大古洞下伊那郷開拓団入植式 三江省 送出母体下伊那町村会 団長:大久保 秦(上高井) (終戦時 195戸 970人 内下伊那 193戸 961人) 窪丹崗千代村開拓団入植式 三江省 送出母体 千代村 団長:清水 直夫(千代村) (終戦時 109戸 465人 内千代飯田 108戸 454人) 新立屯上久堅村開拓団入植式 三江省 送出母体 上久堅村 団長:島岡 米男(上久堅) (終戦時 169戸 789人 全員飯田・下伊那) 3月4日〜3月25日 長野県分村移住村視察団への参加、清内路,泰阜,智里,浪合,千代,上久堅から参加。 「商工業労務者移民について」経済部下伊那出張所長より飯田市長、各村長に文書伝達 注: 1939年における満州小学校設立 ( )内は16年現在の生徒数 ・ 9月 1日 川路小学校 (104人) ・10月 1日 泰阜小学校 (229人) ・12月 1日下伊那郷小学校 (186人) ・12月 1日 上久堅小学校 (122人) ・12月25日 千代小学校 ( 95人) 〈独軍ポーランド進撃、第二次世界大戦始まる〉 〈大陸の花嫁養成のための満州最初の開拓女塾開設〉 〈満州移民事業を「日満両国の一体的重要国策」と位置づけた「満州開拓政策基本要領」日満両国の閣議で決定〉 |
1940(昭15) 11月27日 |
満州移民模範県として、勅令で山形、新潟、長野、廣島、熊本に拓務課を設置。 この頃政府内では満州開拓政策の失策論がでる。 労働力不足による食糧生産力が低下。 桔梗ヶ原女子拓務訓練所設立。 9月21日〜 9月23日 上飯田小学校にて下伊那教育会卒業生指導部宿泊訓練講習会 11月27日〜11月30日 拓殖講習会 下伊那農学校にて 181名 |
1941(昭16) 4月13日 12月 4日 12月 12月21日 12月 8日 12月31日 |
この年、ほとんどの町村で「青少年義勇軍父兄会」を結成。(会長は村長又は校長) 〈日ソ中立条約調印〉 満蒙開拓青少年義勇軍長野県父兄会下伊那支部結成。(会長:下伊那教育会長) 12月 雑誌「信濃教育」12月号〈興亜教育〉特集号発行 例月の3倍頁 12月21日〜26日、翌年1月 5日〜1月13日 年末から年始に掛け、県開拓課長が下伊那郡の町村を 満州開拓の遊説・懇談会に巡回。 〈米、英に対して戦線布告、太平洋戦争始まる〉 〈経済統制政策による都市の失業者・転職者を「大陸帰農移民」として送出〉 〈満州拓殖公社の「満州拓殖5ヵ年計画要領」閣議決定〉 |
1942(昭17) 1月 6日 5月12日 6月20日 8月18日 11月1日 11月29日 |
満州開拓第2期5ヶ年計画要綱発表(全国で開拓民22万戸、義勇隊13万人を計画) 送出計画数 下伊那郡 2280人 飯田市 400人 義勇軍原中隊祈願祭並に壮行会 会場 飯田市城下グランド 後、市内行進 城下グランド→谷川線→広小路→知久町1→飯田駅へ 参加者 5200人 満州建国十周年記念講演会並に映画会 会場 飯田市 大松座 国の開拓特別指導部の指定を下伊那郡が受ける。全国で12地域、下伊那郡送出基準案作成 〈大東亜省創設。 「満州開拓女子拓殖事業対策」「女子拓殖指導者提要」発表〉→注参照 信濃海外協会下伊那支部結成式 飯田商業学校にて |
1943(昭18) 3月 3月29日 3月31日 4月12日 4月12日 4月30日 7月26日 8月10日 8月22日 |
〈帝国議会貴族院にて「満蒙開拓女子義勇隊制度創設」に関する誓願〉 下伊那報国農場入植 東満総省 送出母体 下伊那町村長会 食料増産のための満州建設 勤労奉仕隊・第1次50人 第2次 28人 南信濃郷開拓団入植式 東安省東横林 送出母体 智里村他4ヶ村 分郷組合 * 終戦時 113戸 478人 団長 水上 福市(智里村) 天皇が地方長官会議で郡山長野県知事に「長野県民の満州開拓移民の状況はどうか」と下問。 松尾村議会で「満州開拓単村分村実施ノ件」を村長より提案。 〈更ニ猶調査ノ要アルヲ以ッテ一時保留ト致ス〉 濃々河飯田郷開拓団入植 三江省 通河県新立屯(上久堅開拓団の隣) 送出母体 飯田市 商業者の失業対策として「転業帰農集合移民」の入植形態で入植。 ・送出母体 飯田市(旧飯田市) 入植地 三江省通河県新立屯(上久堅分村の隣) ・開拓移民 送出日 1943年4月30日 1945年3月14日の2回 (入植人数 26戸 110人 (内復員帰還22人 未帰還4 人 死亡84人) 〈110人の内訳:飯田市 92人 川路村 2人 鼎村 12人 松尾村 4人〉 ・団長:島岡 米男(上久堅団長兼務) 副団長(経理指導)吉川 宗治(箕瀬) 〈満映会社「開拓の花嫁」撮影のため、北安省埼玉村開拓団を訪問〉 〈大日本青少年団、大日本婦人会が協力して全国から慰問袋20万個を義勇隊に送る運動を始める〉 8月22日〜 松尾村主催の満州開拓調査視察団出発 18名 内女性2名参加 |
1944(昭19) 1月16日 3月 1日 3月10日 4月 1日 6月11日 7月 8日 7月30日 8月13日 12月12日 12月20日 |
松島親造 葬儀 飯田龍翔寺にて 〈満州農地開拓公社設立〉 信濃海外協会を長野県開拓協会に改組 事務所を県庁拓務課におく。役員の内、下伊那関係者 参与:吉川 亮夫、中原謹司, 理事:遠山 方景(飯田市長)、代田市郎(下伊那町村会長) 阿智郷開拓団入植式 東満総省 送出母体 会地・伍和・山本、 団長:小笠原正賢(会地村) (終戦時 65戸 196人 ) 下伊那開拓館建設設立、江戸町1丁目(現飯田裁判所東隣、長野県開拓協会より2万円補助) 〈学童の集団疎開を開始〉 第1回竜丘義勇軍父兄会竜丘学校記念会 石碑嶺河野村河開拓団入植式 新京 分村移民 送出母体 河野村、団長:筒井 愛吉 (終戦時 24戸 95人) 結婚斡旋連絡協議会 飯田図書館にて 小出佐一 長野県開拓協会を退任し飯田市助役に就任。 *注:この一年の長野県内、開拓移民渡満者数 3,893人、この年が最多となる。 |
1945(昭20) 2月 4日 3月 3月10日 3月25日 4月 5日 5月 8日 5月30日 7月10日 7月26日 8月 6日 8月 8日 8月 9日 8月 9日 8月10日 8月10日 8月12日 8月14日 8月14日 8月15日 8月16日 |
〈ヤルタ会談(米英ソ)対独戦後処理、ソ連参戦などが決定される〉 石碑嶺河野村河開拓団家族招致完了 24戸 95人 〈東京大空襲〉 〈満州国は一切の政策を決戦に自戦改正に転換の発表〉 〈ソ連、日ソ中立条約不延長を通告〉 〈ドイツ降伏〉 〈大本営「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」発令、満州の4分の3の放棄を決める〉 *注:〈5月時点の開拓団16万7091人 義勇軍5万8494人 計22万5585人、満州開拓史〉 〈在満在郷軍人根こそぎ動員〉 *注:満州開拓移民は招集免除であったが、18歳以上45歳以下の男子が根こそぎ動員により招集さ れ、開拓団の家には老人・女性・子供が残される。 〈ポツダム宣言(米英中) 〈広島に原爆投下〉 〈ソ連対日参戦通告〉 〈ソ連軍満州侵攻開始 午前零時を期し各方面から一斉に侵攻、新京、ハルピン等爆撃〉 〈長崎に原爆投下〉 〈大本営命令 「朝鮮は保衝、満州は全土放棄も可」〉 各開拓団避難、死の逃避行のはじまる。 東安駅事件 関東軍が駅構内を爆破、避難中の開拓団婦女子700人余死亡 麻山事件 哈達河開拓団 ソ連軍戦車に襲われ多数が戦死、自決460人余 葛根廟事件 ソ連軍戦車に襲われ開拓団婦女子等1000人以上が死亡 〈ポツダム宣言受諾〉 〈日本無条件降伏、終戦〉 石碑嶺河野村開拓団集団自決 |
上記年表における「*注」書きの説明 |
注:「女子拓殖指導者提要」では、以下のように明文化されている。 一、開拓政策遂行の一翼として、(イ)民族資源確保のため先ず開拓民の定着性を増強すること。(ロ)民族資源の量的 確保と共に大和民族の純血を保持すること。(ハ)日本婦道を大陸に移植し満州新文化 を創建すること。(ニ)民族 協和の達成上女子の協力とする部面の多いこと。 二、農村共同体における女性として(一)衣食住問題を解決し開拓地家庭文化を創造すること。 三、開拓農家における主婦として(一)開拓農民のよき助耕者であること。(二)開拓家庭のよき慰安者であること。 (三)第 二世のよき保育者であること。 |
注:「満蒙開拓青少年義勇軍」は、昭和13年度から開始16歳(中には12,4歳もいたという)から19歳の青少年を、茨城県 内原訓練所で約2ヶ月訓練をして、満州現地の訓練所で3ヶ年の訓練を終えたものを、開拓民として定着させる。とし て、約8万5千人を送出した。応召、軍需労務のため開拓民の送出は計画通り遂行できない状況に立ち至り、対ソ戦 防衛のためにも移民政策は中断できないので、一般開拓民のほかに満蒙開拓青少年義勇軍の送出が行われた。 この過酷な状況に少年達を送り込むために、日本政府は精神性を付与し「鍬の戦士」と讃えた。「満蒙開拓青少年 義勇軍」は満州国内では中国人の感情を刺激するとの理由で、「満蒙開拓青少年義勇隊」と名乗っていた。妻を必要 とするまでには間があったが、昭和14年1月8日には、拓務省、農林省、文部省が協力して、「花嫁100万人」送出計 画を発表した。 |
注:「武装移民団」は関東軍では「屯田兵移民」「在郷軍人屯墾部隊」と呼び、「対ソ作戦上後方の憂いをなくすため」吉 林掃匪軍司令部として、「一朝、事あるときは、関東軍司令部の指揮下」で軍事行動を行うことと決めていた。 |
注:「土竜山事件」昭和9年3月、依蘭県第3区八虎力屯の保長兼自衛団長で大地主であった謝文東が農兵を率いて 移民用地収奪反対の武装蜂起に立ち上がり、土竜山を根拠地にして弥栄村・千振村を襲った事件。 |
*本年表をまとめる上で、以下の資料その他を参考にした。 @ 飯田歴史研究所、齋藤俊江氏講義(2003.7.20)「下伊那地方の満州移民送出」 A 国立総合研究大学院大学 教育研究交流センター、藤沼敏子氏「中国帰国者問題の歴史と援護施策の展開」 |