| 満蒙開拓問題を考える |
| 満蒙開拓に拘わる歴史年表/その2:終戦〜72国交正常化まで |
| **本年表は、昭和20(1945)年8月15日から1972年までを記載した。** |
注: 1) 長野県および飯田下伊那地方に拘わるものは黒色で、国内外の事項は〈 〉内に青色で記載した。
2) また、年表の閲覧に当たっては、画面を十分に広げて見てください。年月日とずれてしまうことが有りますので!
| 年 次 | 時々のできごと |
| 1945(昭20) 8月14日 8月15日 8月16日 8月20日 【主な開拓団の動向】 8月27日 8月30日 10月 1日 11月19日 11月22日 |
ポツダム宣言受諾 日本無条件降伏、終戦 河野村開拓団,集団自決事件 満州国崩壊、ソ連軍中国東北部占領→注1参照 満州国解散発表 〈水曲柳開拓団〉20.9.11ハルピンに移動、20.9.26新京に移動「南大房身」で冬を越す。 翌年の21.7 新京を出発、錦州を経て壷蘆島より佐世保港に上陸。21.7.21飯田駅到着。(698人) 〈川路村開拓団〉20.8.16現地開拓団小学校へ集合、開拓団本部で冬を越す。 翌年21.5 団を分散しハルピンへ避難、21.8.29ハルピンを離れ10月帰国。(391人) 〈泰村阜開拓団〉20.8.10ソ連軍侵攻、20.812閻家駅に集合するも避難列車見送る 20.8.13徒歩により逃避行開始、20.9.3方正県到着、冬を越す。 翌年一部の人はハルピンに移り21.9頃より逐次帰国。 〈千代村開拓団〉 20.8.12ソ連軍侵攻により全員避難、8.14開拓地を出発、8.17ハルピン到着、ここで冬を越す。 21.9ハルピンを出発、21.10帰国(266人) 〈上久堅開拓団〉 20.8.12濃河鎮集結翌日再び部落へ戻る、8.20ソ連軍侵攻、製油工場、倉庫で冬を越す。 21.7濃河鎮を出てハルピンを経由して21.9帰国。 佐渡開拓団跡事件 各地開拓団婦女子等2000余人ソ連軍戦車に襲われ死亡 外地及び外国在留邦人引揚者応急処置要綱決定(次官会議) (財)満州国関係帰国者援護会の設立が認可される 戦争終結に伴う外地在留邦人引き揚げ民に対する援護に関する件(厚生省健民発関係機関あて) GHQ命令、(財)満州国関係帰国者援護会の基金3億円凍結命令、業務停止 社会局に引揚援護課新設 |
| 1946(昭21) 1月26日 3月15日 5月11日 5月14日 7月27日 8月15日 8月21日 9月 1日 10月10日 10月22日 11月 3日 |
引き揚げ関係各省連絡室設置の件公布。 GHQ引揚に関する基本指令、引揚援護事業のみ再開許可(財)「満蒙同胞援護会」として再発足。 国民党政府軍と米軍間に在満日本人の送還協定成立(壷蘆島引揚に関する協定) 在満日本人引揚第一陣、壷蘆島より開始(5.15 奉天より、7.28長春より引揚第一列車出発) 「胡桃沢 盛」河野村村長自殺 満州中共地区邦人送還協定成立。 中共、満州に自治政府樹立発表 東北地方日本人救済総会設立 於長春 会長 高橋達之助、11月に「日僑善後連絡総処」と改称。 高崎密書(9.22付)東京に届く「目下北満各地ヨリ集マレル罹災者ハ、 ハルピン七万、新京五万 死者続 出ノ模様ハ地獄ノ様相ニテ…云々」。 長野県開拓民自興会長野県支部結成 日本国憲法公布。(翌年の5月3日から実施) |
| 1947(昭22) 5月15日 7月29日 |
奉天より引揚第一列車が出発。 参議院に海外同胞引揚に関する特別委員会設置。 |
| 1948(昭23) 8月 3日 11月24日 |
引揚同胞対策審議会設置、総理府内に厚生大臣を会長として設置。 未帰還者対策要綱、閣議決定。(ソ連・中共残留邦人の引揚促進) |
| 1949(昭24) 4月26日 10月 1日 10月 3日 10月 3日 |
衆参両院引揚促進を決議 中華人民共和国成立 大連からの引き揚げ最終船 山澄丸、舞鶴入港 中国からの集団引揚中断 |
| 1950(昭25) 6月25日 10月25日 |
朝鮮戦争始まる 中国人民義勇軍朝鮮戦争に参戦 (残留孤児ら韓国、中国両軍に参加) |
| 1951(昭26) 7月10日 9月18日 |
朝鮮戦争休戦会談開始 対日講和条約調印(サン・フランシスコ条約、翌4月28日発効、占領が集結) |
| 1952(昭27) 3月18日 4月28日 12月 1日 12月23日 |
海外邦人の引揚に関する件で閣議決定(永住帰国の根拠) 中華民国(台湾)と平和条約調印 中国政府(北京)残留日本人3万人の帰国援助を表明 中国政府は引き揚げ交渉3団体を指定(日赤、日中友好協会、日本平和連絡委員会) |
| 1953(昭28) 2月 1日 3月 5日 8月18日 8月20日 |
引揚者に帰還手当支給開始 日赤等3団体が中国紅十字会と北京協定を結ぶ、集団引き揚げ再開する。第二次日本人引揚が始まり、 残留していた日本人の大半が引揚。 長野県中国俘虜殉難者慰霊実行委員会結成(半田孝海委員長) 長野県中国人殉難者遺骨調査に華僑連「除王」氏が天龍村を訪問 |
| 1954(昭29) 4月 1日 11月 2日 11月 3日 |
引揚援護局が厚生省に設置され、これまでの引き揚げ援護庁が廃止。 中国紅十字会長「李徳全女史」一行、殉難中国人慰霊祭(浅草浅草寺) 上記、訪日代表団と日本赤十字社など3団体との間で邦人帰国問題の覚書を交わす。→中国残留婦人 の里帰りが実現(昭和33年までに590人が一時帰国した。) |
| 1955(昭30) 2月24日 7月31日 |
前年に続き引揚船「興安丸」舞鶴に入港(この年、第10次、11次、12次の3回入港) NHK「尋ね人」放送開始10年(3000回以上、82,738件/巡り会ったもの22,599件) |
| 1956(昭31) 6月28日 7月 3日 8月22日 |
中国紅十字会と日本赤十字社など3団体との間で「天津協定」締結→正式国交の無い中、中国人と 結婚をした残留婦人等に帰国又は里帰りの道が開かれる。(2年後に打ち切られる) 前年に続き引揚船「興安丸」舞鶴に入港(この年、第13次、14次、15次の3回入港) 在華邦人遺骨収集協議会と飯田市の今村清(元水曲柳開拓団長)氏が平岡ダムの遺骨現地調査 |
| 1957(昭32) 6月25日 8月30日 10月20日 |
前年に続き引揚船「興安丸」舞鶴に入港(この年、第16次の1回入港) 中国俘虜殉難者慰霊実行委員会ほか関係者平岡ダム殉難者遺骨を収集、善光寺大勧進に安置。 中国紅十字会代表団訪日、中国残留日本人調査人名簿、遺骨名簿発表。 |
| 1958(昭33) 3月 4日 4月24日 5月 2日 5月10日 5月 |
永住帰国者400名以上、遺骨2000柱以上を送還する旨、紅十字会長「李徳全女史」が訪問中の 勝間田清一に伝える。 前年に続き引揚船「白山丸」舞鶴に入港(この年、第17次〜21次の5回入港) 長崎国旗事件→紅十字会は里帰り日本人に対する援助をしばらく中止すると通告。→注2参照 日中国交全面断絶。 中国で大躍進運動が始まり、大飢餓にみまわれる。(1958年〜63年)→注3参照 |
| 1959(昭34) 3月 3日 |
未帰還者に関する特別措置法(戦時死亡宣告)公布。→注4参照 |
| 1960(昭35) | |
| 1961(昭36) 6月 1日 9月 6日 |
引揚援護局を援護局と改称。 日本赤十字社、中国紅十字会に帰国希望日本人の出国許可など、個別引揚の援助を申し入れ。 |
| 1962(昭37) | |
| 1963(昭38) 3月 12月14日 |
日中友好協会飯伊支部(現、飯田日中友好協会)結成(支部長小笠原正賢) 中国紅十字会「倪斐君女史」来訪のもと平岡ダム中国人殉難烈士慰霊祭を挙行。 |
| 1964(昭39) 4月20日 12月14日 |
天龍村平岡に中国人殉難烈士慰霊碑建立除幕式(中国紅十字会長「李徳全女史」列席) 下伊那地方事務所にて満蒙開拓未帰還者調査結果発表(93名) |
| 1965(昭40) 10月 6日 |
日中友好協会訪中団、北京にて紅十字会から中共地域残留者等の消息名簿受領 |
| 1966(昭41) 8月 8日 8月23日 12月14日 |
中国プロレタリア文化大革命に関する決定。以後手紙のやり取りも出来なくなる。(77年まで続く) 長岳寺境内に「日中友好の碑」建立 長野県元開拓団友好訪中団訪中(団長:長野県開拓自興会長、小笠原正賢) |
| 1967(昭42) 6月21日 |
長野県日中友好議員連盟設立 |
| 1968(昭43) 6月26日 |
小笠原返還 |
| 1969(昭44) 1970(昭45) 1971(昭46) |
特記事項なし |
| 1972(昭47) 5月15日 9月25日 9月29日 |
米軍基地の存続など問題を残し沖縄施政権を返還 田中角栄総理大臣一行中華人民共和国訪問 日中共同声明(国交正常化)。台湾対日国交断絶を宣言 |
| 上記年表における「*注」書きの説明 |
| 注1: 「ソ連軍中国東北部を占領」ソ連から最初に満州に侵攻したのは「囚人部隊」であったと言われている。 当初、日本人への略奪・婦女暴行が続発した。日本軍は武装解除を受けるが、多くは捕虜となりシベリア に送られ、老人、女、子供だけが残った。 |
| 注2: 「長崎国旗事件」日中友好協会主催の中国切手展の会場で、一人の青年によって中国国旗が引きずり下 ろされた事件。これに対する中国政府の抗議に、岸信介首相は台湾政府との友好を主張し、「中共」政府無 視の発言をする。これを受け中国紅十字会は「岸政府が中国人民を敵視することを継続するので、本会は里 帰り日本人に対する援助をしばらく中止する」と通告。 |
| 注3: 「中国の大躍進運動と大飢餓」1958年から1961年の間に餓死者2千万人を出したと言われている。中国政府 は自然災害に人的災害が加わったためとしているが正式には公表されていない。小説ではあるが、ノンフィク ション性を強調した『ワイルド・スワン』には、大躍進運動の重工業政策に重点を置き過ぎたことにより、農業生 産性が落ちたことがその原因として捉えられている。 |
| 注4: 「未帰還者に関する特別措置法」当時3万3千人にのぼるとされた戦時死亡確認がされていない者に戦時死亡 宣告がされ、1万3600余名の戸籍が抹消された。日本と連絡が取れなかった多くの残留婦人・残留孤児の戸 籍も抹消された。 |
| *本年表をまとめる上で、以下の資料その他を参考にした。 @ 飯田歴史研究所、齋藤俊江氏講義(2003.7.20)「下伊那地方の満州移民送出」 A 国立総合研究大学院大学 教育研究交流センター、藤沼敏子氏「中国帰国者問題の歴史と援護施策の展開」 |