再定義ということ

 伝統的な文化が形骸化する理由は、原点を失っていくことであります。存在意義の本質、存在の理由が判らなくなって行くのです。水引に置いても原点・本質との距離が開いているものであります。
 原点がどこにあるのか?存在意義、その文化が成立したことの必然性が何であるのかを掘り起こし、その本質を分析し、そしてさらに今という時代に照らし合わせることによって、本質に根ざした進化をもたらす行為が「再定義」です。

 例えば、大伴家持様、紀貫之様、藤原定家様がそれぞれに時代と時代の節目に和歌の原点に立ち返って和歌を再定義し、活力ある真新しく伝統的な様式美を確立したように、受け継がれる文化は、時代の節目ごとに再定義が行われて来ました。また、その中には飯尾宗祇様や、松永貞徳様、そして松尾芭蕉様によって、新たな文化・様式美が現れて来ました。

 いずれにせよ、原点・本質に根ざした進化が文化の活力であり、受け継がれてゆくための生命力であります。不肖水心と一同、様々な要因あって水引細工と家紋との際定義に取り組みそろそろ十年の節目でありますので、企業としてのリスクは高いのでありますが、敢えて文化の生命力のためにその再定義に付いての内容を公開する事としました。お読みになられた方々は、水引と家紋の再定義の証人となっていただいて、この更新以降に似た文章・表現、そして作品等を見つけたなら、それらが水心の再定義以降に其れを二次利用したものと認識していただけると有り難いものであります。

 オリジナルが誰なのかの証人になっていただきたいのであります。

 特許や意匠登録では守れないものが伝統文化の世界にはあるものであります。守るには、作り手と用い手・買い手との間柄・共通の認識が一番肝心と考えるのであります。
 また、「技を見て同じ技を覚える」、「デザインを見て真似る」、これらの行為については、日本の作り手の伝統に倣って、先達を敬う心を持って行ってください。つまり「水心に倣ってこれをつくる」と明記してくださるようお願いします。またそうして作品を公開した際にも、水心から見て倣って作ったものとしての出来が「至らず」と判断された場合には「至らず」と水心が評価する権利を持つものと覚悟して真似してください。
 技、デザイン等の転用には多々泣かされて来ましたが、それもこれも私どもが趣味レベルの普遍性の無いアソビのレベルの作品を良しとせず、「十年先まで売れる」レベルで製作に取り組んできたからであります。変な話、うちのを真似すると売れます。
 時々、いらっしゃる「この技出来る」とか「こんなの見れば作れる」とか仰る方々は、日々責任を持ってお客さまと面と向ってプロとして水引を結んで仕事するレベルで仕事が出来るかどうか再考いただきたいものであります。
 
  水引細工の再定義
 これまでは、敢えてふれなかった部分にも触れて書くので、少々覚悟をしております。まず、水引細工は「結び」によって心を伝え、気持ちを表す、神聖なもので、心と心のあり方を表現する物と定義されます。
 水引は和紙の紙縒りです。和紙はその製作の工程の全てにおいて洗い清められて作られることから「清浄」なものであります。また、「縒る」という工程は、注連縄と同様に、「依代(よりしろ)」の意味を持ち、神聖なものが宿るための目印であります。また、心と心が寄り合い、繋がり、続いて行くことを表しております。
 そして「結び」でありますが、結びの定義というものが、非常に重要でありながら疎かにされてきてしまったもので、細工の本質なのに、自分の水引細工人生の中で、どの師匠と呼ばれるような人、先生と呼ばれるような人に聞いても、どの問屋さんやどの業者さんに聞いても答えがなかったことであります。寂しいことではありますが、肝心の細工の本質はどこかで忘れ去られていたようであります。
 結びとは、立体交差の一種で、対象のねじれの関係にある紐によって形成された立体構造であります。素材の紐が水引のような弾力を有するものである場合、弾力の作用・反作用が、互いに正面に向き合う形で差用し、支えあう構造となる者です。「動画での説明はこちら」
 心と心のあり方を結び、水引の結びで表現すると決めた古の日本人は、結びの構造の本質を理解して決めたのでありましょう。この結びの定義の実演を見たなら結び意外でそれを表現することは思いつきようも無いほどに納得されることかと思われます。
 飯田で玄人がしておる水引細工・水引工芸と手芸系の水引モノとの違いは、結び意味へのこだわりと、結びの技の内容の違いです。一つ一つの結びの奥の深さを知り、一朝一夕では使いこなせないコツとコツとの組み合わせの積み上げで形を作るのが私どもであります。
 また、私どもは、今現在当流のみが用いている「オリジナルの結びの技」を持っております。結びの手順と定義から自ら創り出した技を持っております。
 
 因みに、昨今の状況を言えば、結びには定義が無い状態であります。水引の流派はかつて沢山ありましたが、各流派の内容の違いをいってしまえば、例えば海の近い土地の流派には、「海産物」を表す結びが多かったり、町衆の勢力の強かった土地の流派では格式よりも華美・大きさを主眼においた技術体系であったり、武家がパトロンであった流派は「陰陽五行説」になぞらえた結びの名前や色の組み合わせ方が説かれていたりといったかたちで、結ぶと言う行為に気持を込め、結びによって心と心のあり方を表現すると言う、水心による再定義の部分を除くと、てんでバラバラでありました。不必要な重複が多く、一度しか使われなかったと思われる意味不明かつ未完成な結びも、名称と形が用途も無いまま伝わっておることもままあります。
 それはそれで、文化の道筋でありますし、悪いことでは無いですが、時代に対しての真剣な対応や、本質に対しての誠実な取り組みが欠けた状態でそれらのてんでバラバラがそれぞれにてんでバラバラに自らの流派の正当性を根拠や論拠無しに突き出すようなことをしてきたので、実態が不明な文化となったと分析しております。
 自分も自分の流派を起こしておりますから、他流に対しても相応の敬意と評価を持っておるものですが、こちらが見て素晴らしい感じるような腕前の方はまぁいらっしゃっても、その腕前の割に文化的な内容を感じないケースがほとんどであります。「じゃあお前はなにを知っていて、なにができるのか?」と仰る方は、水心は逃げも隠れもせず日々お客さまの前で作品を作り、自らの作品の前で仕事しておりますので、水心の所にいらして実際を見て実際にあって、自らの心と目と耳で水心を評価して見てください。ただし、一般のお客様の少ない間を図っていただく事は絶対の条件であります。この条件を守れない方はすなわち「営業妨害」をする物で、犯罪行為として通報するほか無いものであります。
 水心は、結びの図形的な本質を根底に置いて、菅原道真公以降の「国風文化」遣唐使廃止後の日本古来の感性のルネサンス期からの文化(客観性のある視点を備えた純日本文化)を日本国文化と定義した上で「結びの意味」を再定義しております。
 また、細工のデザインにおいては、繋がりの象徴である水引ですから、細工の工程における「ハサミの出番」の回数を極力減らすことを美学としております。
 織りや、編みが細工の主体にならないよう心がけております。織りや編みが主体の水引細工では、意味の無い・心の無い細工になってしまうと思うのです。意味の無い・心の無い細工では「お目出度い」記念品など作りようがないと思います。心と心の理想のあり方を結びの構造の本質に求めた古代日本人の心を重んじております。

 

 
 
 
 
 

 白龍 2008.05.22



 諏訪湖を源とする天竜川、天竜川の姿を龍として表すなら白龍であろうとは、絵師の意見であります。水心にとって龍の姿は赤・青・金・白様々であります。

 水心は龍の姿を心が捕まえるまでに十余年かかったものでありましたが、心が捉えた龍の姿を水引細工として実体化するためにはさらに多くの「技術的な突破口」を開ける必要があったものであります。
 この白龍の様式は、百年後まで受け継がれることを目標に作ったもので、背中の鱗は、鬣(たてがみ)から尻尾まで、結びと結びの連続が連なった一つ連なり構造で、はさみを用いることなく仕上がるものです。背びれ・腹の鱗、それぞれも一つ連なりの結びの連続です。この結びの技は水心オリジナルの技であります。
 手足の構造も水心流のみの伝承の技で、それぞれ仕上げの工程以外にはハサミの出番はなく、本体とも結びによって一体に仕上がるものです。
 真に特殊な工芸素材ワイヤーを用いており、ポーズが変えられるため、所有者になった方は自分の好みでポーズを変えることができます。

 先例のないもの、誰も作ったことの無い物を、その構造を決定付ける技術的な根本から初めて作った為に十一年がかりとなりましたが、自信を持って御出しできる出来での完成であります。



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 by水心