家紋について


 上絵師の方を初めとする、家紋に、長く、それこそ歴史的にといえるほど長く、かつ専門的に携わって働いてこられた方々には及びも付かない知識であることを最初にお断りさせていただきます。ただ、日々家紋に関わって働き、その中で勉強している修行中の者の立場で家紋についての紹介をさせていただきます。家紋の専門家の方々の関わっておられるホームページへのリンク先を紹介させていただくので、更なる知識を求められる方は、ぜひそちらへ足を運ばれることを進めます。


    家紋の成立とその過程


其の一 古代
 日本国に限らず、「紋章」は世界のありとあらゆる地域にあるのですが、紋章はある意味「文字」よりも古いとさえ言われ、日本国でも、紋章といえるものは弥生時代、縄文時代の土器の文様などで確認されているようです。しかしながら、確立されたスタイルをもち、その様式に基づいた系統的な進化と洗練をへて「家紋」と呼ばれる日本独自の様式美が確立され始めたのは、仏教文化の伝来を経て後の国風文化が花開く平安時代中頃からのようです。


其の二 国風文化の頃
  千四百年前頃から大陸より請来した建築を中心とする工芸に関する様々な技術は、長い時をかけて日本の人々に消化、吸収され、日本の技術者たちは、受け継いできた技を日本の気候風土の中で応用し、また日本独自の文化とも融合させ、今から千年ほど前の時代に新しい「国風文化」と呼ばれる文化を開花させました。その頃、いわゆる王朝貴族達は、衣服や、外出の際の乗り物である牛車に趣向を凝らした装飾を施し、互いの美を競いました。そのため、貴族の教養や趣味を反映した、四季折々の植物をモチーフにした文様が数多く生まれました。やがて、その文様は、その文様を用いる人物をあらわす「紋章」としての役割を果たすようになり、更に家柄血筋を重んじる貴族の伝統から、「系」の象徴としての役目を負う章として『家紋』が成立してきたのでした。この頃の家紋は調度品や、牛車の装飾に用いられるものであったようです。


其の三 武士団の台頭の頃

   貴族主体の「摂関政治」の時代が終わり、地方の武士団の勢力が高まった平安末期より、日本は長く戦乱の時代へと入ってゆくのですが、そういった時代の移り変わりは「家の紋章」に新たな意義をもたらし、デザイン的にも内容的にも変化を遂げました。
 
 おおよそ七百五十年の昔に起こった、保元平治の戦乱に始まる源平合戦においては「紅」の幟(のぼり)と「白」の幟で敵味方を区別していたのですが、既存の権威の弱体、無力化による自主独立の気風の発達、利害関係の複雑化と言う時代の流れの中で、武士団はそれぞれの「旗印」を作り、その旗印を、戦場での敵味方の識別の目印に用いました。紋章は、自分たちのオリジナリティを主張する手段、集団の結束を強化する手段としても大いに効果があったので、新たに文様を作る者が多くあらわれました、こうして、貴族時代のものとは大分趣の違う文様が数多く生まれたようです。この時代の「家の紋章」は軍旗、陣幕に書かれるものが主であったようです。


其の四 鎌倉幕府時代
   武士主体の「武家政権」時代である鎌倉時代になると、武家の格式というものが定まり初め、支配する幕府側にとっての都合からも、各地方の武士団の棟梁側からも、戦場での識別のための目印以外の、権威をあらわす「家の紋章」の必要性が高まり、確立された形での「武家の家紋」が定められていきます。源氏の棟梁たる鎌倉将軍は、他の武士団をすべて配下に収め、源氏の正統の象徴として、「白旗」を別格のものとして使用を禁止する一方で、各地方の武士団のの旗印を「幕府公認」の紋章として一族ごとの識別票とし、旗印的なものを持たなかった集団には与えたりもしました。各地方の武士団の棟梁たちも将軍家幕府をならったことは想像に難くないと思われます。こうして「家の紋章」は、武士階の級隅々まで行き渡っていき、そこに階級、等級付けが当然付随していたため、バリエーションも少しずつ増えていったようです。この頃には、軍旗を初めとして、馬具や様々な武具に、また武士の衣服にも「家の紋章」が書かれていったようです。


其の五 南北動乱の頃
   やがて、鎌倉幕府が衰退し、日本各地に戦乱が吹き荒れた南北朝時代へと時代が移り変わるのですが、この頃までには、名門武家の家紋は、その家の代名詞的に用いられる程に知れ渡っていたようです。この南北両朝の争いは、天皇家の一族内での争いに端を発しており、足利将軍家が京都に幕府を開くに至っても本質的な解決に至らず、また、足利将軍家内でも同族での戦闘がおこるという大混乱の時代であり、日本各地でその地の豪族が天皇の血筋の方、貴族の血筋の方を擁立するかたちで争うという、同族間戦争がおこっています。その混乱のなかで、家紋も様々に変化をとげました。同じ家紋を使っていたもの同士が合い争うことになると、それぞれに家紋に変化をつけざるを得ず、またその際に自らを正当化するよりどころをモチーフにすることも多々あり、また、擁立した権威から紋章を付与してもらう事も多く行われたようです。混乱を極めた時代であったことは、かえって確固たるものへの憧れを掻き立てたのでしょうか「家」、「一族」という個を超越したものを敬う風潮はかえって強まり、その象徴である「家の紋章」は一族の精神的なよりどころとなっていったようです。この時代「家の紋章」は貴族、皇族が日本全土で活躍したこともあって、武具だけでなく、調度品にも用いられ始めたようです。また、皇室の紋章としての菊桐紋が公に用いられ、また臣下のもの達に報償として与えら始めたようです。


其の六 戦国乱世
  足利将軍政権がその権威を失い、応仁の戦乱を機に戦国乱世の時代に入ると、下克上の世相を反映してか、既存の権威に無縁の紋章も現れ、またその系統や、権威は効力を失います。しかしながら上杉謙信、武田信玄ら、本格的な戦国大名が現れ、天下統一の機運が高まると、かえって権威や系統が効力を強めることとなり、有力な大名たちは、足利将軍家なり、清和源氏、恒武平氏、藤原家、といった名門の家柄との縁故を、南北朝期以前まで遡って自らに付与し、「家の紋章」にもそれを反映させていきました。紋章の使用権を、軍功の褒美として与えたりということが盛んに行われたのも、この頃のことで、これは鎌倉、室町将軍、そして天皇家に習ってのことと推測できます。
  


其の七 江戸幕府成立の頃
  関が原の合戦、大阪の陣を経て、徳川政権の世となると、権威を重んじ、儀礼を重んじた幕府の政策もあって、「家の紋章」は文字通りの「家紋」になっていきます。江戸幕府は、室町幕府の服制を採用し、束帯以外の礼服に家紋をつけることを規定し、武家の正装を、直垂に家紋を大きく九箇所付けた「大紋」と呼ばれるものに定めたりしたので、大名や旗本は、幕府に正式に家の紋を届け出なければならず、勝手に変えることもできなくなりました。そしてこの正式に届け出た紋が「定紋」、「表紋」と呼ばれるものとなり、更に個人的な趣味を反映した紋章として、副紋、添え紋と呼ばれる紋が使われ、女性が、自分の女系列一族の紋を個人的に使った女紋も始まったようです。さらに、制度によって事細かに身分、順序の別が分けられたために、「家の紋章」にも本家、分家、の派生が生じ、現在あるようなバリエーションの基礎ができました。「家の紋章」から一家の「家紋」へと変化し始めたこの時期から、家紋は、武具に付随するものという性質を弱め、また身分制度の枠組みの一部という性質を帯び、その使用法にも決まり事が制定されたことから「様式」が確立し、現在のものとほぼ同じ形の「家紋」が成立しました。


其の八 元禄、化政の民衆文化の頃
  徳川江戸政権下で久しぶりに平和な時代を迎えた日本では、商人を始めとする庶民が台頭し、元禄文化と呼ばれる文化を開花させる頃になると、有力な商人や、富農たちは、苗字帯刀が認められた身分でなければ名乗れなくされていた苗字を、「屋号」という名目で事実上名乗るようになり、また武家に習って、自分たちの目印を、家紋にしていくようになりました。
 江戸時代中期以降に現れたこれらの家紋は、それまでの文様が、武家、公家、寺社と関連したものばかりで、「厳しい」感じの図案が多かったのと対照的に、ユーモラスだったり、洒落っ気があるものだったりで、自由な雰囲気のあるものが多いようです。また、この頃に「紋上絵師」と呼ばれる家紋描きの専門職人が現れ、彼らの手によって多様化されたデザインの洗練が一気に進められました。この頃から段々と裕福な庶民の正装に「紋付」と呼ばれる家紋をつけた羽織袴が用いられるようになり、「家紋」はこの紋付を主に、かしこまった衣服に描かれ、また富裕な層、武家たちは様々な持ち物の装飾にまるで競うように家紋を描きました。


其の九 大正、昭和を経て
 戦中戦後の、大混乱をへて、いわゆる高度経済成長期や、空虚で内実を伴わない紙の上の「好景気」だったバブル経済期のような、とり憑かれたように視野が狭くなった、良くも悪くも無我夢中の時期を経験し、今少しずつ世界情勢というものの中で日常生活を捉える時代へと移り変わりつつあります。そして、世界中のそれぞれの民族、国家固有の、文化、習慣、価値観を、単に形式の上で守るとか、単に流行り廃りのなかで捉えるとかではなく、その意義、内容を、背景までを含めて「理解」し伝えてゆく事が大切なのだということが、多くの人の認識の範囲、視野に入ってきています。家紋にせよ、水引にせよその背景としての歴史や、意義がもっと理解されることは切なる願いであります。また逆に今までにない視点からの理解や、解釈がなされていくことも、望まれるべき今後の課題であります。近年は家紋・水引は、やはり冠婚葬祭の儀礼の場の装いに用いられることが主ですが、単純に廃れるとかでなく、また流行るというでもなく、理解して行きたいという向きの方が多く現れてきているので、今後が益々大切である現状だと考えられます。


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    家紋ホームページ御案内
家紋ワールド様  家紋についての歴史的知識が恐ろしいほどに詰まった超人的サイトであります。たびたびお邪魔させていただいております。この御サイト様からは様々な知識を学ばさせていただいており、いわば大先生サイトであります。

Kamon Japon 家紋日本様 紋上絵師の先生のサイトであります。デザインが洗練されており、大変にオリジナリティあふれる綺麗で個性的なサイトです。色々な人にお勧めできる家紋サイトだと思われます。
 
紋工房紋武様
 紋上絵師の先生のサイトでありますが、流石としか言いようのない美しいサイト様であります。内容もまた「美」を第一としており、家紋というとすぐ「武士」の話が出てくる自分のような無粋?人間には真似のできない・・センス溢れるサイト様です。素晴らしいですね。


最後に
 伝統的な美術工芸の融合である水引家紋においても、純粋なデザイン的魅力から求められることも、御家の由緒の象徴として求められることも、ともに本望であるのですが、願わくばその両方で、つまり文化的工芸品としての魅力と、そこに込められた歴史的な意義や願いへの思いの、両方から求めていただければそれ以上ないほどに嬉しい事ことです。また、それだけの内容のある仕事になるべく更なる努力を重ねたい一心であります。歴史ある家紋専業の方々の仕事から多くを学び、まだまだ修行中の立場でることをわきまえつつ、一層の精進に励む所存であります。今後ともよろしくお願いします。
 

家紋 歴史 水引 飯田