真田六連銭
              

 この度は戦国武将から、信濃の国の戦国武将「真田」幸隆、昌幸、信之、そして幸村の呼び名で知られる信繁(以降幸村で統一します)使用の真田家紋章「真田六連銭」について、幸村公を中心に、紹介させて頂こうと思います。通称では六文銭と呼び習わすのですが、六連銭が正しい呼び名なようです。地蔵尊信仰の六道銭に由来するものとのことです。 

 六道銭の六道は「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」で死後生まれ変わってからの行き先のことであります。六文の銭は三途の川の渡り賃です。死者を埋葬する際に棺に入れ、それを渡し賃にすることで三途の川を渡れるよう、成仏を遂げられるようにとのものであったようです。また六の数字にかけて六道の衆生の救済を地藏尊に祈願する物でもあったので、六文の銭を用いた紋章は地藏尊信仰の象徴でありました。
 
 この地藏尊信仰は、世が末法の世になり、現世での救済が望めなくなるとの風潮が広まった平安時代末頃から阿弥陀信仰ともに盛んになったものです。荒みきった世にあって、罪を逃れては生きて行きようが無い人々にとって、罪による分け隔て無く、まったくの慈悲で救済に臨み、罰を受ける人間の身代わりにさえ成る地藏尊は、生き抜くことに精一杯の日々に心の平安をもたらし、死の恐怖と自責の念を和らげる仏として、とくに死に臨むことが日常でさえあった武士の心を捉えたようです。六連銭を紋章として用いたのは、滋野氏とされ、その流れの海野氏、真田氏が継いで用いたようです。

 真田氏は、戦国時代初め頃北信濃の山間僻地に、石高を仮につけるとしたら一万石程の、ぎりぎり大名クラスの土豪として現れました。六連銭を初めて旗印に用いたとされる真田幸隆は、武田信玄の配下で数々の戦功をあげ、戦上手として名を轟かせた智謀に長けた武将でありましたが、そもそも代々の所領を奪った相手が武田信虎であり、信虎を追放して国主となったとはいえ信虎の子である武田信玄の元に入るに至る経緯で父親と意を異にし、所領を守り家を守るために、情を捨て父を暗殺したと言われております。また信玄に忠誠を誓い、証を立てるために三男で後に徳川の大軍を相手に勝ち戦をするなど、戦国最高の智謀武将とも言われることになる「昌幸」を人質として甲府に差し出しています(昌幸は武藤家に養子入りし武藤喜兵衛を名乗りました)。幸隆はしかし信玄公という人物を真に敬っていたと思われます。幸隆も、幸隆摘子信綱も信玄公に忠義を尽くして戦いました。しかしながら信玄公が伊那駒場の地で亡くなられ、勝頼が跡を嗣ぐと、幸隆は後を追うように病死、後を継いだ真田信綱は信玄公の魂に殉じるかのように長篠の戦で討ち死にを果たし、真田家は昌幸によって継がれました。真田幸隆親子の判断は武田家の先行きについて「もはやこれまで」と感じての事であったようですが、結果的に信綱らは武士としての本懐を、昌幸は武家としての存続を見事成し遂げ、真田家は忠義を守る闘いと、家を守る闘い両方において勝利しました。
 さて家を守る役目を負った昌幸は家を滅ぼさないための闘いを開始し、まず武田支配体制の瓦解の混乱に乗じて本領の周囲の要衝名胡桃城、沼田城を攻め落として併合しました。武田家の滅亡時にはすばやく織田方につき、程無くして本能寺の変が起こると、隣接していた大勢力北条方に取り入り、更には徳川家康の配下に入り、と目まぐるしく変化する情勢の中で、時に応じた見事な身の振り方で本領を安堵し、力を蓄えました。
 ところが徳川家康が羽柴秀吉との対立を深め小牧・長久手において会戦という情勢に至り、徳川は後顧の憂いを立つべく北条と和を結ぼうと画策し、北条方への譲歩のために真田昌幸の所領となっていた、沼田城の割譲を勝手に決め、昌幸に沼田城の開け渡たしを命令しました。昌幸はこれを拒絶し、徳川と戦になるのですが、見事に撃退してしまいます。昌幸はこの際次男幸村を上杉景勝のもとへ人質として差出し、自らは羽柴秀吉の元に入ります。秀吉は昌幸を「表裏比興の者」と評し、裏表があって油断ならないと言ったようです。
そして自らの配下のものとして家康の下に派遣します。この時昌幸は長子信幸を家康に仕えさせ、また次男幸村は秀吉に仕える事にとなりました。時代の先行きをよく考えてのことであったのでしょう、そして信幸、幸村共にそれぞれの主君の下でよく働いたようで、主君からの信任を得たようです。
 この当時秀吉の天下統一の最後の障壁であった北条勢力は、真田と国境を接していたのですが、秀吉は真田昌幸に真田所領の沼田城を北条への引渡しを命じました。そして家康が同様の命令を下した際には断りを入れたのに、なぜか断らずに所領を割譲したのでした。この領土割譲は北条側の悲願であった関東統一を目の前にぶら下げた格好になり、さらに北条側は秀吉と真田昌幸の態度を見て、侮りの念が頭をもたげてしまったのか、兵を動かして真田所領の名胡桃城を攻め、領土を奪うという軽挙に出てしまい、秀吉の天下に号令をかけての北条征伐を呼び込み、北条勢力は消滅、秀吉の天下統一が成し遂げらるという結果になったのでした。
 
 秀吉が昌幸を利用したか、或いは昌幸が秀吉と謀ったか、どちらにも推測できるのですが、後に豊臣方について戦った事から考えるに、昌幸が自らの智謀を持って秀吉の作戦実行に際して「軍師」として一役買って出たとも推測できます。また、昌幸は真田を受け継いだ時点で、このような事態を予測し
武田政権崩壊から織田信長の死といった混乱時の隙をつき杉・北条・徳川といった大勢力が鎬を削りあい、かつけん制しあっていた要衝の地を押さえたのかもしれません。石高・兵力共に圧倒的な相手を向こうに回して大立ち回りをする事ができるのは、その時その時のパワーバランスを把握し、パワーとパワーのバランスの支点を押さえる事を実行できたからであると考えられます。
 さて、豊臣秀吉の天下は成ったのでしたが、その後は朝鮮半島出兵があり、大名たちの状況は安定せず、秀吉の自滅的な振る舞いをよそに徳川家康が虎視眈々と天下を狙う足固めをし、そしてついに幼い秀頼を残して秀吉が没すると、家康の天下取りは時間の問題となっていきました。
 慎重な家康は、実力者である前田利家の死まではそれなりに表立った行動を起こさずにいましたが、利家の死を契機に、朝鮮役から帰ってきてようやく領国経営に乗り出した有力大名たちに巧みな挑発を仕掛け、また、豊臣家配下の大名たちの仲たがいを巧みにあおっては自分の陣営につく大名を増やしつつ、対抗する立場をとる大名を孤立させていきました。
 おとなしく従うしかないと考え人質を差し出すなどした大名もあらわれ。また豊臣家臣の大名たちは石田三成派と反石田派と対立が激化しました。家康は、その対立をあおっておきながら、石田三成が危うい場面では、わざわざ助け舟を出して其の対立が収拾しないように仕向けるなどしました。これは、天下分け目の合戦を演出するための布石だったように思われます。
 家康以外の大名たちも、心の中のどこかで戦国乱世に終止符を打つための儀式としての決戦が必要なのではと感じていたような気がします。
 さて真田昌幸、信幸・幸村父子は、秀吉の天下統一以降ある意味目立つ動きを見せずにいました。信幸が家康に仕え、幸村が秀吉仕えた経緯もあり、どちらに転んでも真田は生き残るという前提的目標は達成できていたこともあってか、とりあえず状況を静観していたのかもしれません。
 しかし、其の目標達成にはある意味どちらかの死が必要であるという側面もあり、当然くるであろう戦国時代を清算する一大決戦において父子・兄弟が敵味方に分かれて戦うことも当然の事として受け止めねばならないのですから、内面に於ける葛藤に激しく揺れ動く頃であったかもしれません。
 さて、家康の挑発に乗った形で、有力大名の「上杉景勝」が徳川家康にあからさまな反抗的態度を見せると、家康は天下の大名に号令をかけ、上杉討伐軍を編成しました。そしていよいよ決戦の機運が高まりました。
 家康はわざわざ大阪に背を見せる格好で上杉討伐の進軍を開始し、大阪では石田三成が反徳川陣営の結束を図り、どうにかこうにか大軍を集めて家康討伐の号令をかけます。家康は、敵方の有力大名の家臣に内通者を作っており、相手方の出方をかなり把握していたため、ほぼ計算どうりの時間と場所で一大決戦に臨むこととなります。世に言う「関ヶ原の合戦」はほぼ日本中の有力大名が揃っての史上最大のセレモニーとして幕を開け、後に出来レースであったと言われるほど、ある意味一方的な勝負として幕をとじました。 この関ヶ原の戦いに際して真田父子はある意味予定通り親子兄弟が敵味方に分かれて戦いました。上杉討伐軍として徳川方とともに行動していた真田軍は、犬伏と言う場所で石田三成からの密書を受け取ります。そして徳川方に付くか、三成方に着くかを話し合いました。徳川方に仕え、さらに本多忠勝の娘で家康の養女であった「小松姫」を妻としていた信幸は徳川方に組することを決意し、昌幸・幸村は光成方に組することを決意したので、信幸は父親が徳川方から離反したことを秀忠に伝え、徳川軍に合流し、昌幸・幸村は戦場と想定していた上田城へ移動しました。
 戦国時代屈指の勝負師と言える昌幸は、二代将軍秀忠率いる大軍を、圧倒的数的不利にもかかわらず散々に討ち破り、関が原に秀忠軍が到着することを阻止することに成功しますが、関が原では家康の謀略が見事に成功して、徳川方の勝利に終わっていたので、勝ちながらにして敗軍の将となります。

 昌幸・幸村父子は、信之の助命嘆願もあって、死罪を逃れて、九度山と言う場所に配流されることで決着しました。家康との勝負に敗北したことは昌幸にとってよほどショックであったのか、昌幸はひたすら許されて帰郷することだけを望んで過ごしたと言われています。一方幸村は関ヶ原で一応の決着を見た戦国乱世の最後の仕上げとなる「大阪の陣」を予測していたのか、表向きには平静な日々の中で兵書をあさり、来るべき決戦の準備に怠りがなかったと言われています。
 
 家康方は、江戸幕府を中心とした中央集権体制を着実に固め、大阪・京都との距離を微妙に保ちつつ、大名たちに対する支配を強固なものとしました。そうして、豊臣方がなんとなく、豊臣恩顧の大名は自分たちの配下にあるものだと思い込んでいある間に、
軍事的圧倒的優位を確立してしまいました。そして、軍事的優位の確立に平行して、段々と大阪方を追い詰め、挑発するようになりました。
 大阪方が軍事衝突を考えて大阪が行動を開始すると、豊臣方に付く大名は皆無であったため、大阪方は秀吉が残した財力を使って戦国乱世の終焉によってあぶれ出た浪人や、主を失った、あるいは主家から切り捨てられた武将、徳川政権によって信教の自由を奪われたキリシタンらをかき集めました。恐ろしいことに、征夷大将軍の地位を得て、確かに全国の軍事力を掌握していた徳川家と戦をすることが可能なほどの兵・武将が大阪に結集してしまうのです。
 戦国乱世とはよく言ったもので、運試しや博打に使い勝負で成り上がることが夢でなく。明日の命の保障などどのみち無いのだからやるかやられるかの勝負に打って出るのは当然。そういう風潮が常識であった時代であったのだと痛感させられる史実であると思います。
 さて、そんな物々しいさなかにあって昌幸が世を去ります。寡兵で大軍を打ち破る神がかり的な勝利をあげ、外交手腕で大大名を手玉に取った戦国武将の中の戦国武将の昌幸の死は、残された息子幸村のおかれる状況をややこしくしたのではないでしょうか。父昌幸のように、神がかり的な勝利を呼び込めるに違いない武将だと、無責任に期待され、一方では、父ほどのことも無いのに、自らを大物であると振舞っている輩であると、無責任に誹謗され・・・という具合に無責任な幸村像が形成され、無責任な期待と不安が幸村を被っていたと考えられます。
 そんなさなかにあって幸村自身は、それほどの年でもないのに白髪が増え歯が抜けてきたと嘆き、さらに主家である兄信之達に迷惑を掛けたくないという心情を手紙等で親しい者にもらす、という様子であったといわれています。また、一方で、自分の死によってしか真田一族の安泰
と平和は確立しないであろうと言うすでにあった覚悟の部分から、さらに、昌幸亡き後、戦国乱世が終焉するために死ななければ成らない戦国武将の第一は自分であろうと、そして、死に向かってどのように全力を尽くすかが肝心であると言う究極的な「覚悟」へと自身を突き詰めてゆく、静かでありながら激しい葛藤の中にある日々を過ごしていたであろうと考えられます。
 とうとう、幸村の覚悟へ葛藤の日々に区切りを付く時がきます。徳川方は、自らが其の後押しをした寺院建立事業の一環である釣鐘の鋳造に際して、わざわざ学者を使って鐘の銘文が「徳川への呪である」と「言い掛かり」を付けるのです。そしてわざわざこれから始まる戦が下らない戦であることをアピールする化のような形で大阪がたとの攻防を開始したのです。幸村は大阪城に入り、いよいよ決戦の火蓋が切って落とされたのでした。

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