真田六連銭後半

 侍大将格として大坂城に入ったとされる幸村は、あくまで大物浪人扱いであった様で、軍師であったとか司令官的な存在であったということはなかったといわれております。秀頼・淀君が頼みとしていたのは豊臣恩顧の大名達であった様ですが、豊臣恩顧の大名たちは悉く淀君に恩義を感じておらず、北の政所から政権移譲を取り付けていた家康に付いてしまいました。
 大坂城内の首脳部達は、どうしてもかつての部下を頼みとする気分が抜けず、そのことが結果としての完敗を招くこととなりました。戦を目前にしての軍議においても、援軍を期待できる局面での戦術である「篭城策」を採ることとしてしまいます。
 「東軍の軍備が整う前に打って出て、畿内への入り口となる渡河地点等を押さえて、畿内を確保せよ。」という後藤又兵衛や幸村らの主張は、太閤贔屓の畿内の民衆の人心を考慮に入れた尤もな策であったのですが、東軍が送り込んでいたスパイで首脳部に入っていた小幡景憲の暗躍もあって採用されませんでした。
 幸村は策が入れられなくとも少しも腐らずに次の策を出します。大阪城は天下武人秀吉が築いた名城であり、家康は城戦が苦手だ。ならば城に篭りつつ打って出ようという策を出したのであります。
 幸村は、大坂城南方に弱点ありと主張します。東軍は大軍であり、北の天満川、西の難波の港、東の湿地帯を通ることはありえず、南方より大挙して押し寄せ、城を一挙に包囲するに違いない。だから出丸を設け、そこを自分が引き受けると申し出たのです。兄が徳川方に仕えていることもあり、内通を疑われる等なかなか信用されなかったようですが、幸村の手勢が少なかったことや、後藤又兵衛らの口添え等によって申し出が受理され、御急ぎで出城が築かれます。これが名高い世に言う「真田丸」で大坂城の堀を背に三重の空堀と三重の柵を巡らせ、櫓まで設けられた立派な出城であったと伝えられております。
 徳川家康本隊が大和路から大坂へ向い、秀忠隊が河内路から大坂に入り、大坂城は遠巻きに完全包囲され、戦闘が開始されます。戦闘が始まっても豊臣恩顧の大名は寝返る気配も無く方位側にあって攻め手を繰り出すので、大坂城内の士気は奮わず、一方的に不利な終戦へと流れが向くのですが、幸村の立てこもる真田丸は連戦連勝し、そのこともあって敗北とは違う「講和」という形にで戦いに区切りがつきました。
 幸村の戦いぶりについてはどのようなものであったかは様々に伝わっておりますが、その冷静さと「決定力」が特に素晴らしいと思われます。
 出城真田丸を築く際に取り込みを見送り、敵方が布陣するものと考えていた篠山という小山に相手が布陣しないと見るやそこに少人数の「鉄砲隊」を送り込み、射撃という攻め手側一方的優位な攻撃を仕掛けてダメージを与えました。そして、相手が「動かない」ことから相手方の作戦を持久作戦であると読みきるのです。幸村は、家康は城内の人心を動揺させ、謀略で自滅に追いやる腹であろうと読んだのだろうと思われます。
 幸村は、篠山の目前に布陣する前田利常隊に、自分がダメージを負わない攻撃である射撃でダメージを与え続け、さらに徹底的に挑発して篠山への突撃をしないでは居られない心理に追いやります。そして、前田隊がいざ篠山に突撃をすると、先を読んだ幸村は篠山をもぬけの空にしており、敵のいない場所へ突撃した前田隊は「敵味方双方から笑いものとなる」という目に逢わされます。
 これで完全に切れてしまった前田利常隊は、「ぬけがけ」となってしまう真田丸への突撃をしてしまうのです。 さて、戦では、自分方が優位である場合どの部隊も「手柄をとること」だけしか頭に無いので、ぬけがけを見たなら半ば反射的に我先にと突撃してしまうのです。この戦でも、前田隊の突撃を見て幾つかの武隊が突撃をしてしまいました。
 一点を目がけて大軍が雪崩れ込めば身動きが取れなくなるのが道理であります。そして幸村は攻め寄せてくる寄せ手を前にあくまで冷静であり、相手をしっかりと誘い込んでから鉄砲を打ちかけました。どのタイミングで仕掛けるか、機が熟したといえるのはどういう状況なのかを知るのが真の武将といえると思うのですが、幸村は正に真の武将といえましょう。
 前線は突如の強烈な反撃に算を乱して混乱し、崩れるように後ずさりします。前線の状況を把握できない後続部隊は手柄に目がくらんだ状態で前へ前へと殺到し、見方同士がぶつかり合い、身動きを取れない以上に悪い、戦闘ということが不可能な状態になってしまいます。撃ちかける鉄砲は判断力を失った敵を的確に捉え、訳も判らず射程距離に入ってしまった後続部隊まで大ダメージを負うのです。
 この混乱がはじまるちょうどのタイミングを逃さず、幸村は槍隊、騎馬隊で突撃を繰り出しました。突撃部隊は背中を見せている敵を選んでどけるように切り進みながら敵方の「将」を探し出し、狙い撃ちにして討ち取り、敵方の指揮系統も機能停止させてしまうのです。
 東軍方が手柄を求めて殺到した要因の一つに、「東軍方に内応していた南条某の寝返りの合図が出たと勘違いした」ということがあったのですが。これは、「真田丸西後方の城壁守備隊が失火を起こし、火薬桶に火が入った為に大爆発がおこり、櫓まで焼け落ちた」という事件であったそうです。
 この後方での大アクシデントに際しても真田隊はあくまで目前の敵に集中してむやみに混乱することなく戦闘を圧倒的に優位に進めたのでした。
 幸村は、この様に状況に対して常に冷静で、相手が予想に反した布陣を敷いたことも、下手をすれば総崩れとなりかねないアクシデントが発生したことも、その的確な状況判断で自軍が優位に戦闘を展開する要素に変えてしまっています。用意周到さもさることながら、この冷静さは確かに戦国屈指のものでしょう。また、幸村は、戦場での二大攻撃力の「鉄砲」と「突撃」をフルに活かし、無謀な突撃をせず、余計な発砲をしないで、まさに「ここだ」というタイミングで発砲・突撃を仕掛けて戦況を決定づけてしまうのです。サッカー日本代表にも分けてほしいこの強力な決定力もまた戦国屈指のものでしょう。このように、幸村率いる真田隊の活躍は誰よりも家康を恐れさせたことでありましょう。
 家康は大局的には圧倒的に有利な状況でありながら、戦が長引くことで大阪方が団結を強めることを恐れてか、急いで講和を結びにかかります。家康はなるべく戦わずに勝ちたいので、必ず相手を一致団結させないよう内応者を作り、互いに疑心暗鬼になるよう仕向けるのが常套手段なのですが、真田丸に立て篭もる幸村にも「信濃十万石」でこちらに来ないかという話を持ちかけたと伝わっております。そういった駆け引きが多々あった末に、一応の講和が成立します。
 講和とは言ってみたものの、その内容は大坂城を城砦で無くさせるための前振りであり、またどうあっても合戦となるよう追い詰めるための手順でありました。
 主たる内容は「外堀を埋め立てて戦闘放棄の姿勢を示す」と言うものであり、埋め立て工事は東軍側と西軍側とがそれぞれに割り当てが決められ、それぞれが割り当てられた分を各自の出す人員でやるという段取でしたが、工事が始まってみると西軍方がわざわざ時間を稼ぐために放って置いたほりを東軍側の人員が勝手に埋め立て、割り当てがどうなっているんだともめて下らない手続き・交渉をしている間に内堀まで埋められてしまいました。
 家康が死ぬまで粘れるだけ粘ろうという牛歩戦術はあっけなくうらをかかれ、不安に駆られた豊臣家が兵を集めるのは必定で、後はどのタイミングで家康が動くか、と言う状況にって行きます。
 これらの講和以降の一時の間、幸村は真田本家の縁者や家臣と過ごしていたようですが、幸村らしいエピソードとして、『大坂冬の陣で大坂方に付いたことで本家に迷惑をかけたことをわびる手紙を姉に送り、その手紙の中で「明日にはかはり候は知らず候へども・・・」とまた何時合戦になるか判らない状況であるという言葉を残した』という話があるのですが。幸村は、講和への流れになった時点から次の戦の策を練っていたのであろうと思われます。そして、真田家・豊臣家に殉じ、戦国時代に殉じて戦いて果てるであろう自分を、静かに振り返っていたかもしれません。
 冬の陣が終わって年が変わり、武器・兵糧を集め、浪人を集める秀頼に対して、家康は国替えに応じて城を開け渡し、恭順の意を示せと命令。当然応じない大坂方に対し、家康は四月に大坂征伐を命じました。全国の大名がこれに応じ、合戦の機運が高まりました。幸村は当然大坂方として参戦し、後藤又兵衛や、薄田兼相・木村重成・明石全登といった名高い武将たちが再び大坂方に参陣しました。そしてその頃主家没落によって大量に世にあぶれていた浪人が続々とあつまり、その数十万とも言われております。
 要塞としての機能を果たせなくなった大坂城では篭城は出来ないことは明白なので、打って出ることが前提で軍議がもたれました。そして先制攻撃を仕掛けることが決まり、大野治長率いる武隊が紀州に打って出ますが、敵の逆襲にあって戦果を揚げることが出来ずに撤退。次善の策として大坂への進入経路の中、狭まった道となる道明寺付近での迎撃・各個撃破しようという策に出ます。そして後藤又兵衛が道明寺へと向いました。ところが、軍議に余計な時間をかけ、しかも先制攻撃の失敗もあり、その上内通者もいた為にこの策は敵に筒抜けであり、東軍は西軍に気づかれる前に道明寺の隘路を抜けていたのでした。勇猛果敢な後藤又兵衛は此処が死に場所と覚悟を決めたのか、後続部隊との合流を待たずに突撃し、奮戦。相手に大きなダメージを与えた末伊達政宗率いる伊達隊との戦闘で力尽き大将又兵衛も戦死、続いて薄田兼相隊も後続を待たずに突撃して果ててしまいます。
 道明寺に着いた真田隊は後藤隊・薄田隊の敗北を知るや退却を決意し、大坂方の「しんがり」の役目を背負って、攻め寄せる東軍に応戦しながらの退却を決行します。真田代々の得意技とされる、「部隊を幾つかに等分し、その内一部隊が攻め手として攻撃を仕掛けて相手がひるんだら引き、また相手が攻め寄せてきたら、今度は交代で別の武隊が攻め手となって繰り出し相手を叩く」波状戦術を駆使して、難敵伊達隊をやり過ごし見事に退却戦を全うしましたそうであります。
 退却成功とは言え最早後がありません。東軍の大坂城攻めと、西軍の最終防衛線上での攻防となるのですが、幸村にはこの期に及んでもまだ策があるのでした。その策とは、家康の首一つを狙っての一点集中切り込みという策でありました。幸村はその策を実行すべく、家康本隊が通る経路を天王寺付近経由と予測し、戦は岡山口方面で開始し、そちらに敵の戦闘力を引き付けて置いてから、一丸となって家康本陣目がけて突撃すると決め。機が熟さない内にはけして抜け駆けしないこと等を格将たちと申し合わせました。
 ところが、戦闘が開始されると、天王寺に布陣していた武隊が戦闘を開始してしまい、機が熟したとはいえない状況下での突撃が余儀なくされてしまいました。
 幸村はしかし、どこまでも状況に屈せず、状況を活用するのです。半ば伝説でありますが、「自分に似た背格好の兵士に大将の格好をさせてあちこちに配置して、手柄に目がくらんで「幸村を打つ」といきり立つ諸将を重要地点からそらさせ、家康本陣への道を開けた。」とか、「突撃の際も道具・武具までそっくりに仕立てた複数の部隊に、そっくり同じの陣立てをさせた上で先の波状戦術を用い、攻め手の「攻め疲れ・ダメージ」を最小限に食い止めつつの切れ目の無い突撃を行ないった。」というのです。相手は幸村があちこちに現れ、また攻めてくる幸村隊の攻め手が疲れを見せずに突撃を繰り返す為、相手は悪い夢でも見ているのかと感じてかなり動揺したと言われております。同じ相手に繰り返し繰り返し攻め立てられ続けると、まるで相手が不死身の化け物であるかのような錯覚に陥りそうになるのです。

 幸村にまつわる伝説の多くは「忍術・妖術」といったSF的なものに彩られますが、そういう空想を生んだ根っこには、そう思わせるほどの事実があったはずなので、伝えられる幸村の戦い方はかなり事実を伝えるものかもしれません。そうでなければ圧倒的少数でありなが敵自陣深く切り込み、大将を追い詰めるなどという非常識なことはありえないでしょう。
 真田隊は、ついに家康本陣に到達し、家康は決死の逃亡に追いやられ本陣の旗印が倒れたといいます。これは対武田信玄戦三方が原以来はじめてのことであったそうです。しかし家康は運良く死を逃れ、真田対もついには寡兵となり再度の突撃が叶わぬ所まできてしまいます。此処でも幸村は最後の切り札として五万の浪人が残る大坂城の秀頼に、総大将秀頼自らの出馬を要請します。
 「もしも真田隊が家康をしとめていたなら・・・」これはによく言われるのですが、確かに紙一重の所で逃したからそういわれるのだと思われます。しかし、本陣深く踏み込まれた軍勢というものは、もうどちらに転ぶか判らないものです。あるいは秀頼出馬となれば、形勢はひっくり返ったかもしれません。大坂城落城の際も、多くの大名が秀頼との戦闘に気が進まず、城に雪崩れ込んだのは略奪目当ての雑兵と、人質奪還の手柄を目指す腕に覚えのある一匹狼タイプの武者ばかりであったといわれている位ですし、毛利家などは密かに大坂方に軍資金持参の武将を派遣していたりした位ですから、このタイミングでの秀頼出馬は切り札となりうる策であったはずであります。
 しかし、秀頼は出馬せず、東軍は勢いを取り戻してしまいました。幸村は突撃で傷ついた体を手当てするために安居天神の近くの畦に腰を下ろしていたところで松平忠直隊の西尾宗次に槍で刺されついに果ててしまいます。
 一説には疲労困憊して休んでいる幸村に偶然遭遇した西尾に対し、幸村が自ら首をとらせたと言われていますが、秀頼出馬が叶わなかった時点で戦が終わっており、自らは最善を尽くしきった幸村が、敢えて首をとらせることは十分にありえる話ですし、死もまた真田家の為には引き受けるべきと考えていたであろう幸村ですから、姿を眩ますことを選ばなかったのだろうと思われます。この戦功により家康や忠直から褒美を得た西尾は、国元に幸村の霊を祀る「真田地蔵尊」を建立したそうです。武士の情けを知る行ないでありましょう。

 この幸村の奮戦と死は、敵味方を問わず多くの武将たちの心を打ち、戦国屈指の強さを誇った島津軍団の将島津家久は「真田日本一のつわものいにしえよりの物語にもこれなき由・・」と称えたと言われております。
 
真田幸村こと真田信繁は、その名乗りを武田信玄公の弟で、信玄公の影武者の一人として武田軍団の陰の柱として活躍した武田信繁からとったと言われており、幸村の父昌幸が幸村に真田家の陰の柱として立派に生きてほしいと考えてのことでありましょう。
 実に真田家は戦国時代を通して乱世の武家らしく戦いぬいた一族であります。父を裏切る形でかつての敵であった「武田」の配下に入った真田幸隆、そして、親とともに武田軍団の主力として活躍し、信玄公がこの世を去るとそれに殉じるかのように長篠の戦で戦死した真田信継・昌輝兄弟、幸隆三男であり、人質として甲府に送られ、武藤喜兵衛の名で武田軍団で活躍し、兄達の死後に真田家を継ぎ、周囲の上杉・北条・徳川と言った大勢力のパワーバランスの支点をたくみに押さえて、天下を左右する大立ち回りを演じた名将中の名将真田昌幸、そしてその子供が、父の宿敵とも言える徳川配下に入り幕末まで存続した松代藩の祖真田信之と「幸村」兄弟なのです。一人一人を見れば、例えば昌幸が秀吉に「表裏比興の者」すなわち裏表があり卑怯な奴と言われたように、あざとい駆け引きや裏切りもしているのですが、全体としてみれば、「あくまで戦い抜き、そして生き残る。」という、武士に求められる理想を実現しているもの凄い一族であります。
 真田六連銭の紋は、地蔵尊信仰に基づくもので、罪咎を犯さずには生きて行けぬ「末法」の世にあって、人の罪をその身に背負って、煉獄での責め苦の身代わりにさえなると言う地蔵尊の隔ての無い慈悲を象徴するものだと言われております。真田家は、平時には「雁金」紋を用い、戦時に六連銭の紋を用いたそうで、戦乱の戦が避けられない世相にあって、生と死とによって隔てられることになる戦場での人間同士の上に、敵味方の隔てなしの救済を祈念しようと言う気高い志が込められているように思われます。また、それほどの覚悟があるからこそ互いを信じて兄弟親子であっても敵味方に分かれて戦うことが実行できるのでしょう。
 「三途の川の渡し賃」でもある六連銭・六文銭を心に背負って戦い抜いた幸村の魂は、今もって多くの日本人の心を捉えて止まないのでありますが、それは、幸村が単純な、例えば勝ち負けのような「結果」を超えた所に深い到達点を見出して戦ったからではないでしょうか?
 わかりやすい結果だけに動機や論点を置いて思慮・行動してばかりでは収拾がつかないだけでなく、世の中が足の引っ張り合いや、相互誹謗中傷だらけになってしまいます。決めた以上は、覚悟した以上は、徹底的に最善を尽くす。この姿勢こそが、例えば戦争といった本来あって欲しくない事態の、どうにも変えようの無い状況の向こう側に光明をもたらす心構えではないでしょうか?同じような例として、自分は函館まで転戦した新撰組副長土方歳三や、榎本武揚などを思い浮かべるのですが・・・・
 幸村に代表される真田六連銭を背負って戦国乱世を戦い抜いた、世に言う真田三代「幸隆、その子、信継・昌輝と昌幸、そして信之・幸村」彼らの生き様はそれぞれに素晴らしくまた壮絶ですが、それを支えた気高い地蔵尊信仰と[家紋「真田六連銭」]・・・紋章というものは図であり、文字に似たものであります。文字同様、形であり型であるわけですが、文字が文法に従って綴られることによって情報を伝達し、更には感情や心、思いを伝えるのに似て、紋章には、伝えたい思いや願い祈り、歴史が込められており、さらに家々に、また広く世に伝えられてきた紋章にも有形無形の気持ちや歴史が込められております。真田六連銭もまた、願いや祈りそのものとして日本の歴史に大きな何かを残した紋章であると思います。
 例によって長い文章となってしまいました。誤字脱字を我慢して(見つけられた方ぜひ掲示板でお知らせくださいね)此処まで読んでくださり本当にありがとうであります。

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