合戸(あいど)

   和田から合戸峠の二本杉を望む


  柳田国男が東国古道と呼んだ秋葉街道は、古くは諏訪道と呼ばれ中央構造線に沿って諏訪と遠州を
峠と峠で結ぶ信仰の道として開かれ、杖突、分杭、
地蔵、青崩という峠の間には遠山、大鹿、高遠の
集落がそれぞれの肥沃な地
味によって形成されていきました。(後藤総一郎著 神のかよい路から)
 峠のもとの意味は、「たわむ」(撓む)ところを越えていく、「たわごえ」に
あったのでは、と
柳田国男は書いていますが、峠は食料を、信仰を、文化を、
そして疫病までも運んだのです。
 谷間に住む人々は峠に地蔵を建立し、大わ
らじを飾り、隣の村から疫病などの入るのを防ごうと必
死にまつりました。

それほど人々に大切にされ旅人が難儀した峠道も、戦後急速な道路網の発
展により状況は一変し、旧
道は廃れ、野の仏と寂しく草に埋もれていったの
です。
 それでも最近になり、杖突、分杭、地蔵峠は自動車道が開き青崩峠はハイ
キングコースとして整備
が進み、それぞれに脚光を浴び秋葉街道の復活に一
役買っています。
 合戸峠。

和田と木沢を結ぶ小さな峠で、辞職峠の小川路峠、女工哀史の青崩峠と違って印象の少ない、
いわば無名の峠ですが、かつてこよなく愛した人もいました。
 昭和二十(一九四五)年十二月木沢小学校長を拝命し、昭和三十一年にはアルコール爆発事故
(昭和三十年十一月十二日発生)処理のため和田小学校
長に復職した、故池田寿一先生です。
「一九四五年十二月三十一日、わたしは待望の峠に登り立って実に感慨無量であった。
汗も覚えぬ間に平凡に頂きに達してしまったが、杉の老樹の群立
つところ手向けの小祠の他何も
ない。一人枯草にさす夕日が赤い足のもとに、
合戸峠を意識しつつ敗戦の年を送る心持ちは今言
い尽くし難いものがある」

「わたしの父も越えたし、弟も越えた。もとは峠の茶屋もあったという。かつては大平小州も片
桐三省も往きすぎた道である。向山雅重さんや竹内利美
さんが探訪の旅も、市村咸人先生・福島
豊先生等史跡調査の旅も、さては井
深勉さんや自然調査・地理調査の人たちの、幾度となき往還
―― 一筋の細道
にそれらの足跡は深く埋もれていることであろう」
と先生は「遠山紀行」(昭
和四十一年発行 編著者池田寿一)に記されています。
 村内には数少ない真言密教の本尊「大日如来」が祀られている合戸峠の傍
らには、遠山谷のシン
ボル的な二本の杉が長いながい歴史を見下ろすかのよ
うに、空に向かってそびえ立っています。

       合戸峠
     峠の大日如来の石碑


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