千遠線・千代峠


 子どものころ『うっさ、けろくぼ、ほうぜんじ』とよく耳にしました。

それが『打沢
(うっさ)、毛呂窪、法全寺』という地名だということを知ったのは、ずっとあと

のことでした。
 
 ほんとうはそのあとに『金の唐傘百万本、大こうりに入れて八ノ倉に収める。クルミのぬた

あえで酒を飲みましょう』と続き、その言葉の中には「金野・唐傘・黒見・怒田
(ぬた)・左

京・沼塩」の地名が唄われているのだそうです。

 なぜ、千代や泰阜の地名の唄が遠山で唄われていたのか、たいへん不思議で仕方がありませ

んでしたが、飯田市千代と遠山はひとつの道により一時期盛んに交流があったことを知り、納

得がいきました。

 その道は、千遠線といいますが、千代では「和田線」また「遠山線」「木沢新道」とも呼ば

れていたことがありました。


 
しかし、古くから千代の人たちが利用していたのは千遠線ではなく、野池から秋葉街道に出

る道で、秋葉詣でに小川路峠を越えたことが千代風土記に詳しく書かれています。

 平成十二年、木沢公民館と千代法山同志会の人たちが千代峠で初めての交流会を行いました。

木沢地区の人たちは地域の活性化と小嵐公園の開発を、千代の人たちは千遠線を改修し往来でき

るように復活を期し、お互いに長期にわたる活動を誓い合ったのです。

 千遠線は、
『天文四年(一五四五年)武田信玄に攻められた知久氏が兎ケ城が落ち遠山へ逃

れる道を開いたのが始めである』という伝説が千代風土記に載っています。

 文献では『明治初年ひとりの比丘尼が、法全寺より木沢に通ずる新道を開こうと勧化して資金

を集め、それを以て人夫十数人を雇って苦心の未開通した。

人々は木沢新道と呼んでこれを喜んだが、以後修繕する者もなくついに廃道になった』と記され

ています。

(林賢治郎編「千代村史」)

 そのご、千代村では大正元年、村費の一年間に相当する費用を投じ、同四年、千遠線を開通

させました。

 そのころ千代では盛んに石灰焼きが行われており、大量の木材や木炭が運ばれるなど、千遠

線は千代の人々にとって大変重要な道でした。

 道は改良が重ねられ、馬も通れるほどに拡幅され、ますます通行者も増え、馬宿や店、休み

所、それに大皿というところには遠山との郵便物の引継所もできました。
         
 また、小嵐
(こあらし)神社参詣は商人や養蚕家の人々にたいへんな人気で、毎月二十三日縁

日には三十人から五十人もの人が、十三里の道のりを日帰りしたことが記録されています。

 それほど重要で、多くの人たちが行き来した道も、石灰焼きが行われなくなるとまもなく荒

廃し、いつしか人も通れなくなってしまいました。
 
 終戦後、千遠線は大幹線林道として開発が始まり、現在も工事は続けられていますが、全線

開通はまだまだ先のようです。

 千代の人たちがウツギ窪峠と呼び、かつてカスミ綱猟が盛んに行われた千代峠は、標高一三

六五メートル、今も一基の馬頭観音が熊笹に埋もれながらも長い歴史を見守っています。

 木沢から険しい山道を何時間もかけ峠にたどり着き、眼下に千代が望めたとき、やはりそこ

は誰もが『千代峠』と名づけたのではないでしょうか。

(注)天文四年は一五三五年の誤り。武田軍が知久氏を滅ぼしたのは一五五四年

かつて千代の人たちも峠を越え訪れた小嵐神社


飯田市千代ホームページへ

次の作品へ