落人の里 万古(まんご)

 昭和57年 米山賢昭さんの家


  飯田線為栗(してぐり)駅から万古川に沿った起伏のある山道を四十分ほど遡ったとろに、

かつて万古集落のひとつがありました。

 そこから十分ほど、急峻な道を上り詰めたところに、大きな松の木の下に石碑群がひっ

そりと建っています。

 村人は庚申ぼつと呼んでいましたが、ここは泰阜(やすおか)・阿南方面から谷京峠へと

通ずる秋葉信仰、観音信仰の道だったのです。谷京峠の石碑に温田
(ぬくた)、田本、美佐野、

我治名
(がじな)の地名と人名が刻まれていることからみても、大勢の人たちがこの道を辿っ

たことが想像できます。

 この庚申塚を下ったところに秦文夫(大正十一年生まれ)さんの家があります。

万古には、終戦直後三つの集落に十三戸の家がありましたが、昭和四
十年後半から五十年に

かけて、平岡ダムの影響による移転などでほとんどの
人たちが去ったあとも、奏さんはたっ

た一人で生きてきました。

 万古の行政区は南信濃村ですが、郵便は平岡局区内、電話は泰阜村(やすおかむら)二十五

局、そして学校も泰阜の学校とその地形からたいへん複雑です。

 明治七年岡島学校(後の村立名古山学校の前身)の分教所が設置されましたが、泰阜村の

南山学校(後の泰阜南小学校)へ通学を始めたため、これには
村も困り郡長へ『御願書』を

出すなど、騒動となりました(南信濃村史)。

 万古の歴史は古く、平家の落人とか、十五世紀に京都から秦氏(現在飯田市に在住の秦弘

氏の先祖)の一族一党が住み着いたとも伝えられています。

またその地名については、『秦一族は産鉄技術者の集団であったのではないか。その頭領が

巫術
(ふじゅつ)を使う若い女性で『万古』の地名のもととなったのではないか』

と考える人もいます。

 沖縄県宮古本島に『万古山』と呼ばれる山がありますが、ここも神女と開係が深く、柳田

国男は「まんこ″はもと、あるいは童子の霊の口を寄せる巫
女の名であったかも知れぬ」

と書いています。

 昭和の初めには、問屋も宿屋もあり交通の要所として賑わった万古。

今こ
こに住む人は僅か二戸三人だけです。

        万古  1982.3
         庚申ぼつ

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