底稲開拓史

 

      底稲 当堂神社


 底稲は黒石岳中腹、標高千メートルにあり、縄文時代前期の遺跡が発掘されている古い歴史

を持ったところです。

ここに緑川福雄さんが父親の省三さんと入植したのは、昭和二十一年、まだ雪の残る二月の

ことでした。 

当時二軒の作小屋はありましたが、このときが初めての入植でした。

まず、一番先ににしたことは水汲みでした。

二十分くらい山道を下ったところに『水の口』と呼ぶ湧き水があり、そこから水を運ぶのが生

きていく上での大切な仕事でした。

 翌年、山の中腹に七十メートルもの穴を掘り、木をくり抜いた桶で各戸に水を引いたものの

水量は少なく、その後簡易水道が引かれましたが、山を下
りる日まで水には苦しみました。

 福雄さんは、父親と木を切り、根を掘り、石を拾ってすこしずつ、少しずつ畑を作り、豆を

蒔き、また畑を作っていきました。

 こうして二年後には、一町五反の畑を開墾することができました。どの人植者もソバ、こん

にゃく、陸稲、大豆、小豆、さつまいも、ジャガイモなどを
作りましたが、収穫量は少なく、

ひもじい思いはついなくなることはありま
せんでした。

 開拓は、昭和二十一年食料不足解消のため全国で行われた事業で、遠山谷では程野と底稲

が適用を受けました。

 底稲開拓地は、山原の遠山順一さんの父親、正男さんが自ら開拓組合長となり、自家所有

の山林五十町歩を開放したものです。

 緑川さん親子が入植してから、鎌倉千代利さん、松下兵松さん、山口義平さん、遠山大さ

ん、小林武義さん、石堂郡一さん、鎌倉太郎さん、松長力男さ
ん、遠山正巳さんらが次々入

植し、十八戸五十六人にもなりました。

 子どもたちは、年長が下の子のお守りをし面倒をみ、そして片道二時間の道のりを毎日学

校へ通いました。冬は、まだ暗いうちに家を出て、帰ってく
るのもいつも真っ暗闇で、とて

も勉強をする状況ではありませんでした。

 交通の便が悪く、飲料水にも事欠いた底稲ですが、昭和四十年林道底稲線開通が、底稲開

拓史の終わりを告げる幕開けであったことは、何とも皮肉な
ことでした。

 現金収入を求めて出稼ぎに行く人たちが増え、そのまま帰らない家族が一戸、また一戸と

続き、昭和二十四年に発足した開拓農業協同組合は四十七年
に解散しました。

 昭和五十一年、最後まで残った緑川さん一家が集落整備事業により山を下り、底稲開拓史は

幕を閉じました。

             底稲 1974年2月
底稲住民の記念写真 1955年 緑川福雄さん提供


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