林鉄に散った幼い命

      慰霊碑

 遠山川と上村川の出合い、梨元の川端に一基の石碑が建立されており、毎年四月には営林

署により慰霊祭が行われています。

 その石碑には殉職した職員の他、上村黒川礼子二十四歳、久美子三歳、徳文一歳、木沢仲

山武文十八歳と刻まれています。

                      ◇   ◇   ◇ 

昭和十五年、梨元を起点に着工した遠山森林鉄道は、十七年には北又渡まで、十九年には

北又・大沢渡間が三十一年には北又・西沢渡間が開通、総延
長三十キロメートルの林鉄が完

成しました。

 遠山川奥地に眠る無尽蔵の森林資源開発の夜明け、とまでいわれ、林鉄が国有林、公・国

有林から搬出した木材は百数十万石にもなりました。

 それだけではなく、南アルブス登山史には大きな足跡を残しました。

時には登山家の足となり、また遭難事政には救助隊や遭難者を輸送したり、計り知れない役目

を果たしました。

 広大な国有林の開発と、南アルプス登山史に大いに貢献した林鉄でしたが、知られざる悲

劇もありました。

 昭和二十五年四月十八日、黒川親子らを乗せた、台車六輌とトロッコ一輌編成の林鉄は、午

後一時ころ大沢渡を梨元に向け出発しました。

 礼子さんと二人の子ども、それに程野の山崎とき子さんは先頭機関車の中に乗っていました。

礼子さん親子は、四輌目に乗っている夫黒川治重さんと
ともに、休暇で中郷の実家に帰るとこ

ろでした。

仲山武文さんはまだ臨時職員でしたが、中程の台車でブレーキ操作をしていました。

林鉄は北又渡の少し手前、コスマ橋を渡っていました。

機関車が橋を渡りきったそのとき、一部が朽ちていた橋は満載の木材の重みに耐え切れず、

大音響とともに崩れ落ちていきました。

機関車は台車に引きづられるように、後方から遠山川の急流に飲み込まれていきました。

線路は、保線係が毎日のように点検していたのですが、木製の橋脚は防腐剤が塗ってあり、

外観は何ともないため見過ごされていたのです。

少し下流で作業をしていた、当時保線係の分区長だった熊谷武光さん(当時十七歳)ら五

名は流されてきたとき子さんより事故を知り、救助に駆けつ
けました。

貨車はX字状に折れ重なり、大部分は水の中に埋もれていました。

治重さんは川に投げ出されたものの軽傷で済みましたが、仲山さんは、台車の間で材木に挟

まれ、ほとんど即死状態でした。

死亡時間は午後三時二十五分と記録されております。

礼子さんと長男の徳文くんは、運悪く機関車の中で機械に挟まれており、百数十名の必死の作

業も難航を極め、石油玉の明かりの下、引き上げられた
のは夜七時過ぎでした。

そして、とき子さんの膝に抱かれていた長女の久美子さんは渓流に投げ出され、冷たい雪

解け水に幼く尊い命を奪われるという、悲惨な事故になった
のです。

    ◇   ◇   ◇ 

昭和四十三年赤石林道と遠山併用林道が開通し、木材の運搬はトラック輸送に切り替えられ

ました。


  三十年にわたり年間一万五千立方メートル、樹齢二百五十年以上もの木材を搬出した林鉄

でしたが、昭和四十八年九月に全てが撤去され、その役目を終えました。
             

            慰霊祭

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