中川村の姫伝説

 上伊那郡中川村葛島(かつらじま)に姫宮と呼ばれ、大きな五本の杉に囲まれている

祠があります。小さな祠で、傷みもありますが、屋根は瓦ぶきの立派なものです。

所有者の原重信さんによりますと、昔遠山で一揆があり遠山氏が滅んだとき、伊那山脈を越

え逃れてきてこの地でなくなった姫さまをまつっているという
ことです。ただ、原さんの祖

先は浪合村の出身で五、六年前に葛島に越して
きたため、それ以上のことは詳しく伝えられ

ていないそうです。

昭和のはじめころまでは、祠の中に数枚の鏡や古銭があったそうですが、今では数枚の古銭

しか残っていません。

 また、地元の人に聞いた話では、祠の下に宝が埋められているという伝説もあるそうです。

 遠山氏には何人の姫がいたか知りませんが、滅亡のとき、落ちていく奥方や姫の話は他に

もいくつかあります。

 その中でも木沢川合の木下家(当主木下英彦氏現飯田市在住)に伝わる話と、便りケ島

(たよりがしま)
の名の由来になった話はよく知られています。

 この他に葛島の隣、松川町生田(いくた)にも遠山氏にかかわる言い伝えがあります。

 そのひとつが、「青蛇丸」(あおろじまる)の伝説で『生田村史』に載っています。

 『昔ある年の夏、遠山氏の主、遠山土佐守藤原友徳が、家来の武士を連れて、

白諏神社(しらすじんじゃ)に参詣し、社前の霊水を頂き、自分は社殿の近くに座をしめて、

かたわらの木の枝に大小の刀を掛けてしばらく休んでいると、急に天の一方が曇り、

たちまちのうちに雷光、雷鳴、ものすごい大雨が沛然と降ってきて、あたりは暗くなる程で

した。ふと見るとこの枝に掛けた自分の刀が、
二匹の蛇と化して、それはそれはものすごい

形相でこちらをにらんでいるではありませんか。

 武将友徳は、これは必ず神意のせいだ、部下の武士があの霊水を汚した神の怒りに違いな

いと覚り、早速部下の将をして社前にこれを陳謝せしめましたところ雨は止み、次第にもと

の静おんに返りました。それと同時に、
青い蛇と化した二振りの刀もいつかもとの姿に返っ

ていました。

 友徳はふかく神意の霊感にうたれ、あらためて社前に詣で、武運と長久と自家の繁栄を祈

願いたし、件の刀二振りを神社に奉納したということです』

(生田村史から原文のまま抜粋。次文も同じ)

 村史にはもう一つ遠山氏にかかわる話が載っています。

『元和元年(一六一五)遠山領内に暴動が起こり、当時江戸詰の遠山新助は変を聞いて急

ぎ帰国の途上、大河原にて暴民に襲われ死亡した。(中略)その
時難を逃れて小渋川沿いの

山麓岩洞日陰(唐沢洞)にかくれ棲んだ者の子孫
が峠部落に入り山野を開伐して定住した。

その中に遠山氏の侍医がおり、当
時疫病が流行して多数の死者が相次いだ時、その侍医が里

人に諮って薬師如
来を刻み、溝沢安置して礼拝したところ疫病が退散した』

 一五九三年、遠山土佐守景直は徳川家康に謁見し、遠山、天龍、大鹿の他赤
穂、箕輪、福島

を加増され全盛期に達しました。

 しかし、一六一五年土佐守が病死すると家督争いが起こりあっという間に没落し、

一六二二年、武勇に優れた新助景道が大河原で殺害され、遠山氏は
滅びました。

        中川村 姫宮
   遠山土佐守の奥方といわれる「一の宮」の面

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