祭りを伝えた修験者


遠山の霜月祭りと修験道とは、切っても切れない縁があるといわれています。

霜月祭りの原点、湯立て神楽を伝えたのは修験者で、日本各地にさまざまな影響を与えてい

ます。
とくに神楽や田楽など民俗芸能の多くは、明治の神仏分離令(一八六八年)により見

えにくくなっていますが、実は修験者の芸能だった(五来重・宗教
学者)といわれています。

「花祭り」で有名な愛知県三河の地方には、祭りは
修験者によって始められたという言い伝え

がありますが、民俗学者で遠山谷
ではなじみの深い武井正弘氏によれば、「天竜水系には平安

末期から鎌倉中期
にかけて熊野修験が来訪流入し、花祭りはそうした熊野修験がもたらし創り

出した祭り」だと結論しています。

 霜月祭りで行われる湯立ては修験者の作法によってなされ、九字を切り、印を組み神々を

勧請するという一連の動作は、修験道そのものです。

 和田の霜月祭りのクライマックスである「面」の登場の前に、太夫(禰宜)が火伏せの神

事を行いますが、そのとき唱える呪文は『臨・兵・闘・者
(や)・皆・陳・烈・在・前』で、

これは道教にルーツを持つ、修験の代表的な秘法のひとつです。

 修験道は、和歌山県の葛城山で呪禁道の修行をしていた役小角(えんのおづぬ)が開祖といわれています。

 役(えん)の行者とも呼ばれる役小角は、七世紀飛鳥時代に実在していたことはたしかなようです

が、修験道の開祖、役行者とは別個の、理想化された修験道
の祖師であるといわれています。

平安時代、律令制の崩壊により、出家憎が激増し、彼らは山岳地域に進出、呪術を習得して

いきました。

このころ、紀伊半島の南端熊野地方あるいは越前白山で修験する密教憎が大きな勢力を蓄

え、原始的な山岳信仰は密教修験道の基礎になっていきました。

山岳で修行をつんだ、空海は真言宗を、最澄は天台宗をおこし、多くの一般民衆の支持を

得、山岳仏教は盛んになっていきました。

 日本は山の国。

 山は、神が降臨する霊場であり、山そのものが神とされてきました。

 山には金鉱師、木地師、仙人、炭焼きなど山人あるいは謎の漂泊民サンカと呼ばれる集団

が、古代から明治にいたるまで日本の山地、山岳に存在して
いました。

 山人は、神武東征の際征服され山に追われた先住民で、支配の網から逸脱していったた

め、里人からは鬼・天狗・山男・山姥などと恐れられていまし
た。

これら山人に関する記録はほとんど残っていませんが、日本の山岳宗教が山人との深い結び

つきの上に成立したことはたしかなようです。

修験者は、
こうした山人との交流により、金属文化をとり入れ、護摩など火を操る技術を習得

していきました。

また、昭和初期まで遠山地方であったクダショウ憑きを追いはらった禰宜とか、拝み屋さ

んとかいわれる民間祈祷師は、山伏の息災護摩、調伏法、憑き
物落としなど加持祈祷の影響

が強く、密接な関係にあるといわれています。

蔵王権現の不動明王を崇拝する修験者は、仏教・神道からは「雑宗」と呼ばれ低俗視され

ながらも、日本全国の山々を巡り、自分たちの宗教と文化を
小さな村にまで広げていったの

です。


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