年取り行事 1  飛騨鰤(ひだぶり)


      松本市で開催された鰤展

 大晦日にはよそで働いている子どもたちも帰省し、年取りをします。

南信
濃村では年取り行事は早いほど良い、とされていましたが、最近ではほとんどの家庭で

夕方から夜にかけて行われるようです。

 そして、食卓には宅配便で取り寄せた大きなカニ、街で買ってきた寿司や刺身が並び、

昆布巻きやタツクリ、黒豆、お菜など本来の年取り料理はすみ
に追いやられ、すっかり忘れ

られようとしています。

 それでも、年取り魚『ブリ』は今でも主役です。

 明治の中ころ、越中氷見(えっちゅうひみ)では旧暦十一月末、能登など富山湾で水揚げされ

た寒ブリの腸を出し中をきれいに洗い、甘塩にこしらえます。

塩ブリ四本を竹寵に入れむしろで包んで一行李
(ひとこうり)、四行李約三十二貫が一荷(ひとに)

となり「越中ブり」として各地に出荷されました。

 むしろには、今の商標に当たる店の印を墨で書き入れられました。

 越中ブリは、馬方により二泊三日で飛騨高山へ運ばれ、番所となっている「川上問屋」を

経由し飛騨一円・信州・美濃へと送られました。

 信州へは、牛
方により野麦峠を越し松本へ、もうひとつは木曽の薮原から権兵衛峠を越し

伊那谷へ入ったのです。

川上問屋へは約八千行李、すなわち三万匹前後のブリが入り、一行李三銭の運上金が明治政

府の収入になったそうです。

 遠山へはもうひとつのルート、下呂から馬寵、妻寵、大平峠を経由して飯田へ入り、

さらに伊那山脈を越し、運ばれてきました。

こうして運ばれたブリは、信州に入り「飛騨鰤」と呼ばれ、高値で売買されました。

一方糸魚川から塩の道を運ばれ、大町地方に入ったブリは糸魚川ブリと呼ばれていました。

甘塩の越中ブリに比べ腸を洗わずたくさんの塩をふるため、
価値も低かったそうです。

明治十九年ころ、旧暦の十二月四・五日ころ氷見を出たブリは、上穂(現在の駒ヶ根市)

へは二十日ほどかかって着き、米一石(百升)が二円八十銭の
ころ、一匹一円四・五十銭で

売られていました。富山の問屋(ブリ屋)は、仕
入れが約二十八銭、仕込み賃や上納金、運

び賃を支払い、一行李で一円
五十銭の利益があったそうです。

今でも高いブリ。このころ遠山谷では、ブリ一匹いったいいくらしたのでしょうか。

とても普通の家では買えなかったのではないでしょうか。

 明治の終わりころ、越中での浜値は「一斗ブリ」といって、米一斗がブリ一本というのが

相場でした。ところが信州では「一俵ぶり」といわれ約四倍の
高値がつけられていた(鰤街道)

と記されています。

 ふるさとへの伝言の中には、こう書かれています。

『正月は、サンマを半分ずつ、どっちが大きいかくらべて横目でにらんでとる。』

 デイサービスに通うお年寄りたちに聞きますと、当時はたいへん貧しかった、と口をそろ

えていいます。野牧シゲ子さん(大正八年生まれ)は八歳のと
き、諏訪へ子守り奉公に行か

されたと涙を浮かべて話されました。

一方では、コンニャクや養蚕、煙草、勝栗で財をなした人や、山師相手の商売で稼いだ人

が多くいたことも事実です。こうした一部の人が飛騨鰤を食べ
られ、普通の家庭の年取り魚

はサンマかイワシでした。

 霜月祭りに、必ずサンマが出されるのはサンマは晴れの日の一番のごちそうだったからな

のです。

(注)遠山谷へは、青崩峠を越えて入ってきたブリもあり、飛騨鰤とはいいませんでした。

       富山市 氷見漁港でのブリ市 撮影 沢田猛氏 (毎日新聞社記者)


          2001.12 松本市で開催された 「鰤のきた道」 展
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