第十八章 たばしね山さくら花よしのにまさる事
安曇郡に、たばしね山といふは、櫻一面なり。其ゆへを問へば、むかしのことなりしが、こ
ゝも芳野にならべんとて、よしのゝ種を、とりてうゆるに、土地さくらに相應せしや、山は一
面のさくら也。今高館より横に見へわたりて櫻多く、よしのゝ外には、かゝる地も有まじとい
へり。
まことに外の木はまれにて、櫻のみ也。此山のけしき、所の人は格別、他國の人のしる所にあ
らず。
芳野の花は、都の西嵐山にもうつされしが、今は異木多なりて、櫻をかくす。惜むべし。
よしのも、今はむかしとは、さくら少して異木やゝまじり、谷によりては櫻まれなる所もあ
りしが、こゝは芳野にもまさるやうに覺ゆ。
落花の時は、風に誘はれて散ゆくけしき、いかにも雪のふるに異ならず。
其時は他の木に、花ちりかゝりて、山一面にさくらと見へて、一入(ひとしほ)賞(しゃう)ず
べし。
いにしへより、言の葉にも、みよし野ゝさくら、更級の月と、並ものに賞翫(しょうくわん)
せしかども、其三芳野の花は、此さらしな近き所にうへて、斯繁茂しては、吉野も更級も一所
へよりて、夫婦のごとく思はれて、一入おかし。
西行の哥に、
きゝもせず たばしね山の櫻花 よしのゝ外に かゝるべしとは
同行打つれ、此たばしね山のさくらの事を、委しくきゝて、さてさて有がたし。
此櫻を見るにつけ、いよいよわれらの往生極樂疑ひなし。大和の吉野山は、櫻の根本。
是を天竺佛道根本となぞらへ、其佛教の種今此日本へ渡り、年月たちて、よしのにまさる此さ
くら、佛道も其ごとく、根本の天竺は、結句末法となり。
今此地こそさかんに行はる。今其時節に生れ合したるとは、さてさて有がたし。今われわれの
喜ぶ法義には、中々異木(ことぎ)のまじりて、櫻の見へかぬることはなし。
一念歸命の節目、明らかに聴聞する時とは、さてさてうれしやと、たばしね山の櫻を見るに、
思ひよらず法義を付合せて、よろこびぬ。