第二十三章 あさま血の池をみること


 深山には、色々の奇なることあるもの也。淺間山は其絶頂つねに雲かゝり、終に青天を見ず。

よし絶頂あきらかなりといへども、雲は白雲にして棚引。

夏の日たまたま青雲を見ることあれど、甚だまれ也。
浅間嶽は古哥にも、

 雲はれぬあさまの山のあさましや人のこゝろを見てこそやまめ 
 いたづらにたつやあさまの夕けふりさととひかぬるをちこちのやま

 此哥の心にてしるべし。淺間は硫黄多くして、つねに烟(けふり)たつ。

硫黄の勢ある山は、いづれにても、常にもゆる。絶頂の大坑(おおあな)つねに烟たちのぼる

は硫黄の気也。

坑の廣
凡三百間ほど坑の中に硫黄滿時は、地火突發し、大石ほとばしり、砂石をふらすこと

有て、麓をやく。其音數百里に聞ゆ。中々おそろしさ、いはんかたなし。

 近ごろ天明三年七月に、此山燒出る事あり。此ふもと沓掛輕井澤などいふは、人家も崩れ、大石や
けおち、石はじて音、數百の雷のごとくにて、人多く死す。遁はしる所なく、水ながれ出るは、皆に
く湯になりて、手もさへられず。人馬ことごとくたへ、通路するに道なし。此時の地ひゞき、諸國へ
ひゞき、其時諸方ふしんしあへる。

かくて山も崩るゝやうにも思はれしが、事しづまりて見るに、山のすがた少しも損ぜず。

麓の里、往來のみちは、大崩れ也。かほどに火發する勢ひあるに、甚だ奇なることあり。

年中此山烟たへねば、火気盛にあることめにみるごとくなるに、例年四月八日にかぎりて、

火気なし。

  これによつて、四月八日を散錢あつめといふて、此坑へ下りて、手に手に散錢を集るに、

他の石や砂は、
たれども、錢はすこしもず。此うへ大きにふしんなるは、錢を紙に包投

入し物
々有しが、其つゝみし紙、少しも損じず。其儘にてあるなり。

是大きに奇とすべし。さて此山に入て、おそろしきは、溪の中に、血の池あり。

血の池より流れ出し溪川を、湯川といふ。
石多く流れいづる也。

血の池は、まことに血のご
とくみゆ。大きさ谷間ゆへ、見へわかず。

半は山に入て、目に見ゆる所五十間斗り、十四五間に見ゆれども霜ふかく湯気みちて委しくは、

見へわかず。血の池の湧ことは、湯玉(ゆだま)をなすか。其音大きなる時の太鼓を、せわしく

打ごとく、うなり、鳴。其池の色赤くして、げに血のごとく也。

崕岸
(がけぎし)より覗みるに、足をふるはして漸く杖を力とす。又谷の間に、向ふの山をか

くす白烟のごとき立かさなりし所有しが、是は一丈四方ほ
どに見へし。

洞穴なれど、人家の井戸のごとく、深さ三丈斗にも見ゆ。底は火也。

其烟其あたりの谷をめぐりて、五間むかふを見せず。其もゆる音、血の池と同じ。

妙なるかな。其所へ行て試み見るべし。

  遠山の槻を、取出す手立に、隣の山々、深山の様子を考へ見るとて、種々品々の奇妙な
  ることを見聞するも、如來の御手まはし、佛神の威力、又土地に靈なることのあるも、皆
  人力ならぬふしぎ。

  これを思ふに、いよいよわれわれの往生極楽の不思議、思ひあはせて、いよいよ如來の御慈
  悲を、よろこびぬ。しかるに此外に奇なることゞも
々あれども、とかく事しげければ、ま
  ぎれやすく、や
がて此讀編をあらはすべし。
  これにもれたるものを、ことごとく書集るゆへ、先こゝにて筆を、とゞむるといふ。

                              遠山奇談後篇巻之四 大尾      
                         
               
 南信濃村史 「遠山」より転記



初偏にもどる


篇にもどる



                            
  
 お断り パソコンで表記できない旧漢字や文字は、一部画像処理しました