第十八章 天狗のことをいひだして法義をよろこぶ事
此日も暮ぬれば同行打寄勤行のいとなみをなし、打よりいふには、岩吉も念佛者なるに、天
狗に犯さるゝとは似合ざることなれどといひ出すもの有しに付、齢松寺たまりかね、さにはあ
らず、念佛者とても業報ならば何にかはせん、死の緑無量とあれば、是に限るべからず。しか
はあれど、念佛者にかやうのことあれは他のながめあまりよからず、是によりて、常々慇懇(
ねんごろ)に聴聞(し)て、こゝろへ置べきことならん。
つくづく思ふに、天地の間に萬物の長といひし人間なれば、萬物皆人の威に恐れぬはなけれど
も、人の人たる道を行ものは、いかにも威をふるうといへども、必無間(ひつだむけん)のわ
れわれ何一つとりえなければ、天狗にもおかされ、狐狸にもさへらるゝ筈也。
人の人たる道は、今此われわれのことなれば、成やすきことなれども、親の心を休るほどの行
などは、物のかずにてもなけれども、夫さへ成がたく、銘々人我(にんが)を出し、わが望のま
ゝならぬに付ては、親の気をいためる、何矧(いはん)や其余のことをや。
これらさへなりかぬるものなれば、佛道修行中々思ひもよらずこゝを憐みて他力の信横超(
しんわうてう)のことはり共、いかなる宿善ありてか、此みのりを聞身になし給ふとは、なんと
上もなき事にあらずや。
人の人たる道を學ぶさへ威をますものを、無上大利(むしゃうたいり)の功徳をり、此よにあ
るうちより、正定聚にめしなし給ふて、めには更に見へねど、光明のうちに攝取なし給ふとき
けは、幾ほどの嬉しさやらいはんかたなし。此ことにあつからずば、さりとはさりとはとりえ
なし。
我身は取所もなき必無間のものと心得知るも我才にあらず、一念の信心領解(しんじむりゃ
うけ)の手まへより、夜の明たる如く、はじめて我非をしれり。
此みのり心に徹せざるゆへ、我あしさまをしることあたはす、何事にも人欲といふて、我なす
ことまだよしとこそ思へ、あしとは更に思はず。
目の前の道理をもつてなすことゆへ、よしと思ふ愚なる慢心を、天狗は嘲てこれを犯すなら
ん。天狗のあしきにあらず、こなたの行届かぬにありと、天狗のことにちなみてしばらくよろ
こびて夜をあかしぬ。
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