大正時代の南アルプス縦走
収録者 伊藤 善夫 信越放送飯田支局長 話 者 後藤 忠人 収録日 昭和56年10月27日 |
この話は、当時中学4年生(17歳)だった私が、実際に経験した山登りの記録です。
長野県の上・下伊那の小・中学校の先生方が、植物・地質研究のために、南アルプスの赤石岳に登ることになりました。
同好会の先生が8名、地元から山案内人の鶴さ、人夫7名、和田小学校の関口校長など4名、総勢20名の登山隊で、
中でも一番若い私は、やっとお袋の許しをむらい参加できました。
山行きは6泊7日の計画で、ワラジ6足・ゲートル・冬着・氷砂糖・かつぶし・鍋・釜・米・味噌・鮭の缶詰・天幕
など用意しました。
そのころの天幕というのは、灯油をひいて作ったものでなんしろ重かった。
大正12年(1923)8月1日、出発の朝のことです。
お袋が奥のほうから、昔っからある刀を持ってきて、渡してくれました。
「これをおまえ差えてけ。熊が出たらこれでぶっころせ」
そんときの写真はいまでも残っとるが、腰に日本刀を差し、とにかくおっかなびっくり、みんなの後についていったわけです。
一行の中にゃ、大田という巡査がおって、村境までお供しますということで、みんな心強く元気に出発しました。
縦走計画は、登山道がはじめてできた池口から、光岳へ出て、茶臼岳・易老
「池口の山の神様へ着いたら、一休みして飯でも食べまいか」と、鶴さがみんなを励ましてくれる。
ところがその途中、熊の糞があちこち転がっとった。
「おい、こりゃあ、近くに熊がおるぞう。この糞は、いまひったばっかでまだほえが出とる」
鶴さの話を聞きつけ、一番うしろからついてきとった大田巡査が顔色を変えた。
「わしは、はえこれで帰らしてもらう。どうかみなさん失敗せんよう、元気に行ってきてくんな」
「まあまあ、大田さんそんなことを言わず、村境まで行っとくんな。ひと登りするりゃ着くで」と、しきりに鶴さがなだめる。
「わしも勤務があるで、これで失礼します。みなさまがたの無事と成功を祈ります」
大田巡査は、直立不動で敬礼したかと思うと、腰のサーベルをおさえながら、一目散に帰っていった。
「いくらおまわりさんでも、熊は怖いんずら。それに帰りは一人きりだしなあ」
みんな笑って見送っとった。
ところで案内人の鶴さは、明治時代に内務省の測量部の手伝いで、方々の山へ登っとる。
その印を目当てに、あとの人たちがのぼってくるわけだ。
その切り当があるはずだというが、20年も前のことだで、いくら探えても見つからん。
「それじゃ、わしの勘で登るが、まずまちがいねえずらよ」
先生一行も地図をたよりに、後ろからついてきとった。
だんだん登っていったが、まあず、藪で藪でおそうしくて前へ歩けん。
木立を切り明けきり明けちゃあ登ったが、えらえ時間がたっちまった。
「もうこりゃあしょうがないで、ここらで昼飯だけでも食わまいか」
みんな大急ぎでメンパ飯をかきこみ、腹ごしらえをした。
「いくらなんでも、今日中に光へ着かにゃ、うまくないずら。鶴さ、こんなわけじゃしょうがないぞう。なんとか道を早く進めにゃ」桜井先生がせく。
「兄さま、そんなことう言ったって無理じゃあねえか。この藪じゃとても登れんぞえ」
まあ、しょうねえしょうねえということで、だんだん進んでいったが、もう陽はメソメソだ。
「こりゃ、はえ、下に沢があるで、そこで一夜をあかさにゃしょうねえずら。
いるだけのもんを持って、あとはここへおいといてくんな」
人夫頭の鶴さを先頭にして、沢をめがけて獣道を下り始めたが、陽は暮れてくるし、腹が減ってきた。
おまけにバラの刺にゃ体中刺されるし、そのうちにゃ風倒木のあいさへ、2間も下へずり落ちちまい、
やっとのことで、みんなのあとをついていった。
上のほうから「見つかったかあ」だれかが呼ばる。
ほうすると、下のほうから「まだだぞう」声が返ってくる。
そんな呼ばわりっこが小1時間も続き、ヘトヘトになっちまった。
やがて、「水があったぞう」と、うれしそうに呼ばってきた。
その声に元気づけられたみんなは、ヨイショヨイショと山を滑り降りてった。
ほうすると、ふた抱えもあるような大きな木が2本ある所へ着いた。
「すぐに、薪を集めまいか」
ヤレヤレと腰を下ろす暇もなく、今夜の支度にとりかかった。
人夫衆はナタやノコギリで木を切り、わしらはそれを運び出す。
ほかの人たちゃ、そこらの葉っぱを集めてきて今夜の寝場をつくる。
寝場にゃあ油紙を敷き、雨が降ってきても大丈夫なようにして、その夜は、簡単な夕食をすませて眠りについた。
案じたとおり、ウトウトしはじめた夜中の3時ころ、ザーッという音とともに、大雨が降ってきた。
雨合羽は持っとったし、じきに止んだから心配いらんかった。
ところが、突然、暗がりのなかで関口校長が大声を出した。
「おーいみんなあ、熊が出たぞう」
「こりゃ、どえらいことになった」
みんなびっくらこいて飛び起き、人夫衆はてんでにナタや薪でとっさに身構える。
わしは、おっかないもんで日本刀を一所懸命にぎっとった。
バタリバタリと、だんだん真っ黒なもんが、こっちに近づいてくる。
一番端に寝とった校長が、丸太ん棒を振り上げようとした寸前、
「おれだよ!」
と、薄闇の中っから顔を出したのは、なんと農学校出の若い先生だった。
そりゃ無理もねえ。
黒頭巾をかむり、黒の外套を着とったんで、熊にまちがえられてしまったんだ。
寝場でモゾモゾしとるうちに、下へ滑り落ちてしまい、いま這い上がってきたとこだという。
「なんだ、君かあ。たまがかいたなあ」と、みんな笑って安堵した。
第2日目 8月2日(晴)
そのうちに夜が明けてきたんで、飯をみんな腹一杯食えるように、たくさん炊えて味噌汁も大盛りにつくった。
そうやっとるうちに、わしらは顔を洗いに沢の上へ出かけた。
沢にゃ岩と岩ののあいさから水が落ちとって、ちいさな水溜りができとったが、
その水をひと口飲んだら、手の切れるように冷たくてうまかった。
顔を洗ったあとにゃ、それぞれ水筒に詰めたりした。
「きのう遅れた分を取り戻さにゃなあ」
朝飯を手早くすませ、出発した。案内人の鶴さは、今朝も元気がいい。
しばらく歩きだしたとこで、先頭に立っとった鶴さが、いきなり恐ろしい剣幕で怒鳴りだした。
「やあ、これはえらいことをしたぞ。どいつかここへ糞をした奴がいるぞう」
なんと、鶴さが覗いとる水たまりは、卵とじのように真っ黄色だ。
「えらいことしてくれたもんだ。非常識めが」
みんな顔色を変えて怒り、水筒の水をあわててこぼす。
さっき飲んだ水が腹ん中でゴロゴロしだし、気持ちが悪くってたまらなんだ。
そうこうするうちに、光岳(2591b)へ着き、易老岳(2359b)の頂上で昼飯をすませ再び歩き出した。
ところが、きのうまで先頭にたっとった若い先生の様子がどうもおかしい。
青え顔をしてあえぎながら、みんなのあとをやっとこさついてくる。
年かさの先生が心配して、
「どうした、具合でもわるいのか」
「じつは、ゆうべから腹がシクシク病んで、下痢のしっぱなしです」
どうも高山病にかかったらしく、手持ちの正露丸を飲ませた。
その先生の荷物をみんなで背負って、わしらは、先生を助けながら最後尾をゆっくり登って行った。
「われみたいなやつあ、なんでついてきた」
とうとう鶴平おやじが怒り出した。
「まあ、そんなことういったってしょうがないで。なんとかしてくりょ」
あわてて、ほかの先生方が鶴さをなだめる。
尾根づたいにさしかかった。
「カモシカがいるぞう」
先頭にたっとった鶴さが大声で呼ぶ。
みると、岩場の上を5,6頭のカモシカがとびはねとる。
「それみんな、犬の鳴き声をせれよ」
いっせいに、ワンワンワンワンと犬の鳴き声をまねした。
ほうしたら、本当に犬が来たと思って群れが高いとこへのぼっていく。
やっぱし、カモシカってのはヤギの系統なんずらか。
這い松帯に入った。
仁田岳(2523b)を下り、その夜は、仁田池で露営することになった。
第3日目 8月3日(晴)
「今日は、茶臼岳・上河内岳を通り、聖平へ泊まる予定です」
隊長の北原先生から注意があって、全員出発した。
這い松の下から、チョロチョロと顔を出した鳥がいる。
「あっ、鳩がおる」
「こりゃ、鳩じゃないよ。雷鳥というんだ。保護色といって、季節によって毛の色が変わるんだよ」
近くの先生が教えてくれた。
夕方、全員無事に聖平へ着き、寝場を作り泊まった。
第4日目 8月4日(晴)
2時間ばか歩くと、前聖岳(3011b)へ着いた。
頂上に立ったときゃあ、これがふんとに天下の絶景だとおもいました。
遠くのほうが東海方面だというので、望遠鏡を貸してむらい覗くと、箸のようなものが見えた。
あれが沼津のアサノセメントの煙突で、その先に、青白く見えるのが太平洋だという。
いまのようにいい望遠鏡がありゃ、まっとよっく見えたと思うがなあ。
そのうち、白い煙を吐いて、マッチ箱のような汽車が走ってきた。
「これが話に聞いとった東海道線か。いいとこへ連れてきてもらったもんだ」
わしらは感動して、とても喜びあいました。
兎岳(2799b)で昼飯をとり、中盛山から大沢岳(2819b)へ着いたときゃあ、
午後3時をまわっとった。
さすがに強行軍だったんで、ブツブツいう人も出てきた。
「こんねに苦労するとは思わなんだ。賃をあげてもらわにゃあ」人夫衆がごねだして、なにやら険悪な場面になってきた。
鶴おやじが、大声で人夫衆に怒鳴った。
「わとう、なにこく。こんなときこそ一身同体でがんばらにゃいかん。おめらはそんなにへぼいやつか、いやならけえれ」」
「皆さんの苦労はよく承知しとります。日当は考えさせてもらいますので、あと2日どうかよろしくおねがいします」
あいさへ入り、なんとかその場をおさめたのは北原先生だった。
一同、ボソリボソリと寝場に入った。
第5日 8月5日(晴)
最後の行程、赤石岳(3120b)へ登る日だ。
鶴さから何人か草履をもらい、履き替えて出発した。
先生がたも、最後の植物や鉱石の採取作業に一生懸命だ。
人夫衆の荷も日ごとに軽くなってきたんで、先生がたの採集物を分け合い背負ってもらう。
露営地の山小屋で、最後の山の食事をとった。
持っていった酒もみんなで分け合って飲む。わしはもちろん小さいもんで飲まんかったがな……。
「あしたは里へ下りて、久しぶりに宿の飯が食えるで」みな嬉しそうに眠りについた。
ところが、夜中におかしな音がどっからか聞こえてきた。
「バリバリッ、バリバリッ」
驚えて外へ飛び出えてみたら、山小屋の板壁を剥がえとる奴がおる。
なんとその板を割って、火を焚き暖をとっとる。不届き者は隣部屋の連中らしい。
桜井先生がどえらい剣幕で怒鳴った。
「このふてえ野郎め、なにごとだ。この山奥に小屋を建った人の身になってみょう。
そんなもんは登山する資格がねえ。これからぶっ帰れ」
「もうしわけありません。どうか許してください」
名古屋からきた会社員の二人づれだった。
連中は、あくる朝まだ暗いうちに、逃げるようコソコソ小屋を出て行った。
第6日目 8月6日(晴)
山を下り、小渋川へ出た。
橋がないんで、浅瀬を選んじゃあ35回も川を渡った。
草むらにゃ、山ヒルが頭を振って待ち構えとった。
昼飯んとき、脚絆を脱いだら5,6人がヒルに吸い付かれとって、ヨードチンキを塗ったら、コロコロ落ちた。
その晩は、盛大に慰労会が行われ、遠山の民謡や軍歌も飛び出えてにぎやかなものだった。
いろいろあったがとにかく無事目的は果たえたし、人夫衆には賃をはずむことになる。
人夫にゃ、50銭値上げして一日2円とし、7日間分14円。鶴さは、案内人として50銭増しの一日2円50銭とし、
7日間分17円50銭を明日の朝支払うことになった。
第7日 8月7日(晴)
一同、朝食をすませ宿屋を出発し、途中で、飯田へ帰る先生方と分かれた。
地蔵峠を越えて、上村に入り和田へ着いたのは夕方だった。
今になって考えても、一生一度の大切な経験をさせてむらったもんだと、ありがたく感謝しとります。
(方言などわからない点がありましたら連絡ください。 ホームページ掲載者)
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