遠山の姥捨伝説
収録者 伊藤 善夫 信越放送飯田支局長 話 者 大屋敷 政太郎 収録日 昭和56年10月27日 |
むかし、むかしのことだがのう。
そのころあ、六十になると役立たずちゅうことで、おっ父やおっ母を奥深い山ん中へ、
捨てに行ったんだそうな。
それで、この山をだれいうとなく、おばすて山と言っとった。
あるとき、このおばすて山のふもとに、一人の孝行息子がおっかあと二人で住んでおった。
その息子のおっかあも、もうすぐ六十になり、お山へ捨てる日がだんだん近づいとった。
息子は、「なんたるこった。おらをひとねて(注)くれたご恩あるおっかあを、山へ連れ
てくわけにゃあ行かねえ。」と、毎日嘆き悲しんでおった。
そんでもなあ、掟を破りゃ、ただじゃすまねえ。
そいだもんで、ある日のこと、息子はおっかあを背負って、家を出たそうな。
追われるように飯田の町まで来たッちゅうことだ。
そうして、久堅の五里峠を越えて、上村へ抜け遠山郷にへえって、信州と遠州との境の青崩峠を越え、歩きに歩いて、とうとう遠州の気田村(注)へたどり着いたそうだ。
一旦、この村へ逃げこみゃ、どんな悪いことしたもんでも、やたら見つけられんちゅう、谷のふけえとこだ。息子は、この谷間に掘っ立て小屋を建って、おっかあとひっそり暮しておったそうな。
そうしたある日のこった。
お殿様が、「灰で縄をなって御前に持って来い。できなくば打ち首にする」と、村の長に無理難題をふっかけてきたちゅう。
村の衆は青い顔で、大勢集まって相談したが、さっぱりいい知恵が浮かばん。
すると、ひとりの男が、進み出て、「灰で縄をなって来いなんて、どだいムリなこった。そんだが、むかっしから、わからんことは年寄りに聞けっていうで、あのお婆あなら、なんか知っとるかもしれん」
それで、弱り果てとったみんなは、ワラにもすがる思いで、山小屋を訪ねたちゅうよ。
「これこれこういうわけで、お殿様に、どえらいことを持ちかけられて困っとる。
おばあさん、なんとかいい知恵をさずけてくれまいか」
「そりゃあ、あんたがた、わけのないことですに」
おばあさんは、ニコニコ笑っとる。
「わけがないちゅうが、どうすりゃいいづら」
「そりゃあなあ、おめえたち、ワラを塩水で湿らして、縄をなってみょう。ほうして、でかい火を焚いて、縄の形がくづれんよう、大事に火の上に乗せて焼いてみろ。灰でなったように、うまくできるでよ」と教えてくれた。
村の衆は、喜んでさっそく、そのとおりにしたら、なんときれいに出来上がった。
すると、殿様はことのほか上機嫌で、「ほほう、これは見事なできばえじゃ。して、お前たちはどこでこれを習った」と、お尋ねになった。
「あんまりくわしい話あすると困るだが、実はその人あ遠いとっから、この気田村へ来て、山ん中に住んでおりますんで。へえ、作り方あ、その人に聞いたのでごぜえます」と、村の衆は、オロオロしながら答えちゅう。
無理もねえ。年寄りをかくまっていることが知れりゃ、どんなお咎めが村の衆にふりかかるか分かったもんじゃねえからな。
だが、お殿様はそんなことに一切おかまいなく、「いや、よくわかった。余の願いを聞き届けてくれた褒美として、お前たちの住む山の三里四方は、今後自由につかってよいぞ」と、申し渡されたそうな。
村の衆は小躍りし、「うれしいこっちゃ、なんともありがたい」と、喜び勇んで村へ帰ってきたちゅう。
こんとき、殿様からいただいたその山にゃあ、灰縄ちゅう名前がついたそうだ。
(注) ひとねて→育てて
(注) 気田村 →現在は、静岡県周智郡春野町気田
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