霜月祭りと遠山さま

 今日は遠いとこを、よくこんな山奥まで、霜月祭りを見にきてくれましたなあ。

順に舞いがはじまるまで、こんな話でもききながら、楽しんでいってくれんかな。

 遠山の谷々にゃあ、湯立て神楽の原型といわれとる、霜月祭りが伝わっておっ

て、十二月になると、あっちこっちの神社でとりおこなわれるようになるんな。

 もうじき、遠山氏一族の面(おもて)といわれとる、八社の神の面(注1)がでてく

るで、そ
の話からとするかな。

 この霜月祭りに遠山氏一族の霊をなぐさめる意味がこめられるようになった

には、いろいろなとりざたがあってな、どれが正しいかってせんさくはできん

のな。

 だいいち、遠山さまを百姓一揆でほろぼしたっちゅうことさえ、さだかじゃ

あねえし、反対に遠山さまは領民にしたわれておって、この霜月祭りで出会え

ることを、かんしゃしておるんだという話もあるのな。

 どっちにしても、霜月祭りと遠山さまは、切ってもきれん関係にあるって

ことだけはたしかな。

で、霜月祭りをかたるにゃあ、まず遠山さまのことを、
それなりに心にきめ

ておかんと、かんこうがつかんちゅうわけな。

 いずれにしても、遠山さまがほろんだこたあ、たしかなことで、それにど

んな説をもってきたって、その裏にゃあ、時の権力をもっとった、幕府の力

をぬきにしちゃあ考えれん。

 それでさ、いちばんさかんな時分は、遠山谷の程野から満島まで八つもの

城、
三つの館、それに多くの物見のとりでを構えとった。

そんな大勢力の
遠山氏がほろぶっちゅうこたあ、一つや二つの原因じゃねえ

ってことな。

 そこで、まずだいたいの筋がきは、こんなもんだとしてみるに。

 名君といわれ、徳川から「丸に二つ引」(注2)っちゅう家紋までちょうだい

した土佐守景直
(とさのかみかげなお)さまが、元和元年(一六一五)になくなって、

たった二年して、あとつぎの景重さまがなくなっちまったそのあと、あとつ

ぎのことで遠山を二分するほどの、争いがおこったんだって。

 もともと幕府は、この豊かな遠山の山林資源をねらっておったのな。

そこへうまい具合にお家騒動だ。

さっそくここへ代官をおいて、元和三、四年の二カ年分の年貢を、いっきに

とりたてた。

それもな、それまで見てみんふりをしとった、かくし田
(注3)の分まで、み

っちり取り立てたというわけな。

そこでおいつめられた百姓しゅうが、遠山さまっちゅうより、幕府にたいし

ていかりがつのって、一揆を起こした。

 幕府にしてみりゃ、願ったりかなったりだ。

たちまち遠山さまはおとりつぶし、遠山領を天領にしちまったというわけな。

考えてもみな。

今にいたるも「姫君の米行列」とか「遠山さまの姫君」なんちゅういい伝えを、

ずっとかたりついできたことは、遠山さまをよほどしたっておらにゃあ、いく

らなんでもできんことだに。

 それそれ、よく見てよく見て、八社の神の面がしずかに舞いはじめましたに。

 あれがなあ、ご先祖さまがかたり伝えてきた、遠山さまへの祈りなんだと

思いますに。

(注1) 八社の神の面…遠山さまやその若党の面
(注2) 丸に二つ引… 「かくしめし」の民話にもなっている
(注3) かくし田…  農民がかくしもつ土地。届出がしてないため、税を課せられることがない


 かみさまのたまご