今日も当たり前の様に五月五日に鎧兜、武者人形が飾られます。しかし、それがいったいどう日本の心なのか?日本に産まれた男たるものが背負わねばならぬものがどう込められているのか?この問いについての答えが見つからなかったばかりに製作に大いに苦労した事もあってか、甲冑鑑賞と言う事が世に確立していないことを事実と感じて居ります故、微力ながら述べねばならぬと感じてお題とさせていただきます。また、まだまだ誰も述べていない水引工芸鑑賞についても、いちおう製作者側からの提案も有りかと思いますので、述べさせていただきます。


 さて、甲冑の鑑賞についてでありますが、甲冑のデザイン的イメージとして最上級にあるのが「大鎧・式正鎧」であります。次に来るのが、デザイン的には、よく言えば主張があり斬新。悪く言えば下品な、「当世具足」。更に実践向きの方向性から外れて飾りものとなり、ついには飾り物としての役目からも墜落した「復古調鎧」が有ります。




 誰しもが憧れ、またリアリティを持って空想し共感するのは、源平合戦の頃の武将・室町動乱の頃の武将ではなく、「戦国乱世」の時代、天下取りを巡って様々に戦った戦国大名・戦国武将であることが、その当時用いられていた当世具足のイメージを甲冑のイメージとして多くの人の脳裏に残すわけですが、一部の物を除いて、当世具足は実戦的にも、デザイン的にも未完成であります。そんな馬鹿なと思われる方も多いかと思われますが、源平合戦の頃の「もののふ」と異なり、一騎討ち的な合戦は応仁の乱後行われておらず、槍・鉄砲が勝負を決定付ける兵器として完全に地位を固めていった時代である為、戦国武将・戦国大名共に、なにが強かったかと言えば、情勢・時勢を見抜く力と、判断力、そしてそれに裏打ちされた覚悟と、合戦までの間の駆け引きがつよかったわけで、実際「大鎧」をまとっていようと実戦的であるという「胴丸」をまとっていようと、槍部隊の槍衾、鉄砲隊の一斉射撃の前に立てば同じことであったでしょう。


 とにかく数が必要であった事と、騎馬戦術が過去の物となり、戦争が神聖な儀式であった頃必要であった格式も過去の物となったことが、戦国時代の特徴ではないでしょうか?そうすると戦場での武士の様子は、戦場では実際戦う人員は主に徒歩、将校クラスは移動には(特に逃げるとき)騎馬を使うため馬上にあるが、常に見方部隊の中心位置にあって共に移動し、下知を下すだけ。従って甲冑は、腰でまとい歩きに不便しない事が前提となり、戦場に赴けるだけの精神的安定をもたらす程度には防御力を持ち、大量の兵隊が戦場に趣く事からとにかく数作れる事が第一条件となり、そして手柄を上げた際には目立たねばならず、仮に挙げなくても戦場での働きが目立無ければ意味がない事からデザイン的に奇抜で派手であり・・・と言うものが多かったのではないでしょうか。当然ながらこの例に当てはまらない甲冑も多々あるのですが、「大鎧・式正鎧」のデザインの完成度と其処に込められた意義の前には、それらもある程度譲らざるを得ない所があると考えています。


 さて大鎧・式正鎧について述べますと、其れは一つの神殿であります。つまり勝敗を決めるのは、公明正大な神であり、勝敗を決する事の意味は正々堂々の勝負によって決められた勝敗で無ければ得られないとする、「天」を信じる「人」としての謙虚で高潔な心情から構築されたものであったと言う事であります。


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