さて、日本における甲冑の歴史を簡単に述べたいのですが、はじめると簡単に済みそうに無いので大鎧に関する部分でのみの解説に必要な最小限の事に絞って話をすすめますと、そもそも金属器の導入に関しても大陸との文化交流から本格化した日本国において、武具オリジナリティある日本式の武具が確立したのは奈良時代以降のことで、地方豪族の武装が黙認され、所謂武士団が現れた頃のこととされています。同時期に戦闘方法も変革を遂げ、騎馬で弓を射る戦法が発達した事から、その戦法に順応した純日本的な「式正鎧」が成立したのでした。この鎧の確立が「武士・侍」の確立と時と経緯を同じくしての物であることは、その後の歴史の上でのさまざまな事と思うに非常に重く意義のある事と感じられます。


 武士団の発生は、其れまで官給の武器を与えられて辺境の警備に当たっていた、「健児の制」によって徴兵されて編制された軍隊と異なり、国家体制が一応の確立を見た時代の常備軍であり、皇室や公家の血筋から出て地方に下った血統を軸に、国体を重んじる統制の取れた専門の軍人で、その性質においてその正統性が重んじられた事が、一つの大きな特徴であると思われます。


 皇室の軍事行動が「神事」とされ、其れが神話としての形で記述されてゆくご時世で有りましたから、その流れである事を由縁とする武士は、当然闘いにおいて神に対しての公明正大さを重んじる風潮があり、戦闘の際に名乗りをあげ一騎打ちで戦う事が基本とされていました。こういった正々堂々等の江戸時代にまで連なる様々な「武士・侍」士らしさの原型は平安時代中頃までに確立していったとされています。武器が凶器にならないようにと言う配慮からでしょう国体の秩序に根本において連なる権威と結びついた形で結束する事が常に重んじられました。そして、最終的にその帰属する所が「皇室」であったことが武士の終焉に至るまでの流れの要所要所に見受けられます。


 さて、その様にして確立した武士の正装「大鎧・式正鎧」は、まず騎馬戦闘様の防具でありして、体にフィットすると言うよりは体を覆う様にデザインされ、また主たる武器が弓矢でありましたから弓を持つ手の側と、弦を引く手の側との格好が異なり、また弦がひっかららないように胴の部分に一枚皮が張られているものでありました。徒歩の為の便宜はあまり図られておらず、また後の時代にどんどん簡略化されてゆく「大袖」と呼ばれる肩を覆うパーツが特徴的で、つまり「盾」を両肩に下げた格好でありました。この大袖には防御の上での重要な役割があり、半身の体勢で前傾姿勢をとれば前方向の殆んど全てが防具で覆われるようデザインされていました。また、余談ですが大鎧にはその名も「水引」と言うパーツもあります。化粧の板と言うパーツの下に「白赤二色で綾をうつ物」であります。


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  更に学びたい方の為のリンク集
 ウェブサイト「甲冑」様 書物等で何度もまなばさせて頂いた甲冑師の方々の名前も多々見受けられ、見つけたときは小躍りしてしまった記憶があります。とにかく硬派で、格好いいです。私的には、鎧関係のサイト中最も好感が持て、また最も学ぶ所の多かったサイト様です。御サイト内で、方針等について曰く

「日本甲冑は、
「戦闘時に身を守るための武具」としての評価だけではなく、漆芸、鉄工、彫金、韋染、組糸等の工芸技術を駆使した、日本を代表する美術品として世界から高い評価を集めています。

 甲冑(KATCHU.COM)は、
創業昭和30年の玩具人形問屋三浦商店から独立した三浦一郎(甲冑武具研究家)が、
甲冑師とともに考え検証をした正確なレプリカの製作、販売を目的にスタートいたしました」

 であります。日本文化というものを、甲冑を視点として見つめることのできる素晴らしいサイト様です。「基本無くして応用無し」という大切なわきまえが実践しようのない昨今の時勢でありますが。このサイト様で「大鎧・式正鎧」の知識と、視覚的情報をしっかり見につけておけば、鎧兜及びそれらにまつわる様々な物事の見え方、理解の出来方ががらっと変わる事間違いなし。更には日本的美意識の本質さえも垣間見られるようになるかもしれません。