水引細工は、正直主体性が無いと言えば無い細工物であります。水引自体が用いられてきた状況・場面を歴史的に振り返って見ますと、やはり公式な贈答の場面であり、特に趣向を凝らした細工物が作られたのは結納儀式の場面であります。


 江戸時代は水引にも家元制度のようなものがあり(飯田でのことは不明。金沢様等では確かに水引家元があり、現在も続いているようです)、日本古来の伝統的ラッピング「折方(和紙による装飾的包装で、用途に応じた様式の使い分けがある。こちらも家元制度があり現在も続いている様です)」付随して存続していたのでありまして、水引は公式の場での贈答に用いる包装を「綴じる」ものであり、特に趣向を凝らすにしても、細工物としてあまりに主張をしては役目を逸脱してしまう訳で、結納儀式での鶴・亀・伊勢海老を例外として、立体的な造形の作成は公式には行われておらず、資料としても残っておりません。しかしながら作り手というものは常に努力し、進歩する事を願う生き物ですから、技術に磨きをかけ水引の公の用いられ方の外で細工物を作っていたようであります。そして一寸した座興として、人目に触れる形の細工物を作ったようで、そのため水引細工は趣味人の間でのみ披露されていたと推測されます。


 人目に触れる形での装飾品として残る水引は、やはり京都様にあり、江戸初期の物とされる祇園祭の山鉾の装飾に用いられている「絹巻水引」であります。細工としては房を押さえる部分の風鎮のようなものであるようですが残念な事に他に水引細工の古いものは残っている記録があまりありません。捜し求めてはいるのですが、奉納品等に用いられず、基本的に包装を綴じるものであり、中身を出す際に解かれてしまう用い方が正式であった為でしょう。今後の発見を期待しております。


 さて、水引細工は趣味人にの間でのみ鑑賞され、正規の用い方でなかった事もあって、古い時代の折り紙細工が残っていないのと同じく作品自体が残っておりません。また、用いられるにあたり家元制度の存在等制約があり、また水引そのものがフォーマルな素材であって安価でないこともあって技術が一般に広まったことがありませんから、水引細工を一般に目にする機会は大変少なかった事と推測されます。しかしながら、水引細工は歴史的な実在面から、所謂縁起物に関わる様々な文物を題材に需要があり、純日本的な行事にまつわるものほとんどについての水引細工が求められて来ました。


 文字通り時代が変わり、社会のあらゆる状況が変化した明治時代頃から、水引細工はそれまでのあり方から根本的な変化を遂げたようであります。あくまで私調べで恐縮なのでありますが、それまでの正規の用いられ方を離れて「表現技術」的な、芸術系の細工物が始まったのは、金沢に産まれた「津田左右吉氏」による創作的な蝶形内裏雛・鎧具足の販売からであろうと考えられます。
画像は、津田左右吉作芭蕉 北国出版社 加賀の水引人形師 より


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