水引 飯田 歴史 家紋 


 カラー日本の工芸 『紙』(昭和五十三年) 淡交社刊より 紙探訪記 飯田より抜粋 


 和紙を用いた二次的な加工品には、数多くのものが昔から作られている。たとえば今日殆んど見られなくなった「紙布」や「紙衣」のごとく、絹・木綿繊維の代わりに紙を糸や布として扱った加工品をはじめ、「袋物」、「包装容器』の類、「提灯」、「雨合羽」、「帳面」などの文房具類はいうに及ばず、「かるた」、「張子」、「凧」などの玩具に至るまで、日常生活の多方面にわたって深く浸透し愛用されてきた。しかし、工業化社会の発展がもたらした洋紙の普及に加えて、近年諸所の素材開発の行われた結果、和紙の活躍する世界は徐々にせばめられ、強い制限を受けざるを得なくなってきている。そしてそのほとんどが、伝統的で特殊な工芸品の領域に限られ利用されており、和紙と私たちの生活とのつながりは、益々縁の浅いものに変化しつつある現状といえるだろう。このように、和紙が応用されている加工品の範囲は、現在のところ極めて狭いといわざるを得ないが、それでも日本家屋に無くてはならない障子や、襖、壁紙など、室内装飾用品の例は、昔からほとんど変わらない代表的な和紙の使い方であり、いぜん現代社会にも活用されているものである。さらにこれも伝統的な利用法に違いないが、日本の礼法・冠婚葬祭等の習慣上私たちの今日でも欠かさず用いられるものとして、「水引」があげられる。


 煩雑なしきたりを避け、多くのものが簡略化された現代生活とはいえ、重要な儀式や祭礼に際して、私たちの身辺にはいまだ古来からの習慣や風習が強く守られ、生き続けている。贈答の品々に「編む」、「結ぶ」の形を整え、感謝や契約の心を表す紅白、金銀、その他さまざまな種類の紙紐、つまり水引は、古典的な儀礼作法の結晶化した、日本独自の生活様式を作り上げている装飾用品でもあろう。


 私がこの水引工芸取材のために訪れた長野県飯田は、豊かな水引に関する歴史と伝統に支えられ、全国の市場占有率、実に六十五パーセント以上を占めるという一大生産地である。信州長野のほぼ南端に位置し、中央アルプスと南アルプスにはさまれた伊那谷がゆるやかに開けた盆地、遠く北の諏訪湖から流れる天竜川が中央を横切り、美しいアルプスの山並みが近くに望まれるこの飯田市は、人口八万に近い高原都市であり、北部信州と違って風雨が少なく、気候温暖なため、水引生産に最も適した土地柄とも言われている。もともとこの地方は、製糸業と養蚕業の極めて盛んなところであった。現在でもあちこちに見られる桑畑や、私が訪ねた水引加工業の人々が、つい先年まで家の中に漉き舟を置き、自らの手で水引の原料となる三椏紙を漉いていたことからもわかるように、元来は原料生産地として発達した土地なのである。水田工作と併用して栽培された楮・三椏や生糸の生産が、江戸時代にいたって飯田藩の主要な産業ともなり、飯田は信州の中でもめずらしくめぐまれた条件を持つ地方に育った。元禄のころ領主によって美濃の紙漉き工が招かれてからは、加えて製紙業も確立し、強力な藩の奨励を背景に水引産地の地歩を次第に固めていったのである。水引の起源とその起こりについて、あまり定かな記述は残っていないようだ。ただ、飯田に語り継がれているところによると、水引の名が成立したのは、ほぼ元禄末期頃と考えられており、それまでに使われていた紅白に染め分けた麻紐は、「くれない」とよばれていたという。このくれないは古くからの慣例で、宮中への献上品には必ず結ばれていたものであった。当時の儀礼水引は現在のように種類豊かな色とりどりのものではなく、単に紅白のみに限られていた。これを飯田では、当地の名産品氷豆腐の上に輪結びにして添え、江戸の将軍家への贈答品としたところから、名実ともに飯田産水引が始まったといわれている。また、水引の語源に関しても、古来、麻・綿糸を用いて縒り合せたていたものを、そのよりが戻らないように水を引きながら作ったという説や、宝殿の前に引く幕を御厨(みず)引きと呼ぶところから生まれたという説などが伝わっているが、そのいずれも出所や記録は不明であり確実なものとはいいがたいであろう。


 しかし起源や語源はともかく、特異な紙工芸品水引の成立に水が関連していることだけは、その名から判断しても否定しがたいように思われる。また同地方が従来、紙漉きを行っていた事実を、全国の和紙産地および既述した越前和紙の例ともあわせてみると、日本の和紙と水との深い縁に、いまさらながら驚かざるを得ない。白い紙に強い自然の結晶作用を認めていた日本古来の精神は、同時に紙の生成を助ける清浄な水に、人知を超える神霊と精霊が宿るのを感じていた。白い紙から生まれる水引が、それゆえ神的な行事や祭礼、儀式に際し、感謝と返礼の貢物・贈答品等に、人それぞれの祈願を込めて添付されたのは、むしろ当然過ぎるくらいの行為であったといえるかも知れない。そして、名水のあるところには紙漉きが行われ、紙漉きの行われているところには名水があるのたとえ通り、飯田もまた豊かな美しいみずに恵まれた土地であった。天下の名峡「天竜峡」を近くにひかえた飯田は、この天竜川の清流に負う点も大きいとはいえ、加えて市の背後にそびえる標高一五三五メートルの風越山から湧き出す清冽な水は、いたるところに泉を作り、滝を作って里に流れ落ちている。別名泉嶽とも称されるこの山には。中でも名泉の誉れ高い「さる蔵の泉」や「今庫の玉水」などがあり、紙漉き業や、水引工芸のみならず、書道や茶道にも用いられるほどの良水を産していた。ここで漉きあげた晒紙は、土地の三椏をこれらの川や泉の水にひたして漂白したもので、地肌は白く、水引の赤い染材の染め付きもよく、また長くその色があせない特質をもっていたのである。
 このように歴代藩侯の産業奨励のもと、手近に得られる原料および良質の水、さらに温暖な気候風土、環境条件が加わって、飯田は一大水引工芸の中心地へと今日のような盛況が約束されることとなった。


 さてここで飯田の発展を語るには、「元結」と桜井文七の名を忘れるわけにはいかないだろう。元禄のころから盛んになった元結と水引ではあったが、当時、飯田で漉かれる晒紙は品質にすぐれ、髷に使われる紙紐の元結用に、全国から注文を受けるまでになっていた。歌舞伎「文七元結」で有名な桜井文七は、その頃、美濃から飯田に招かれた紙漉き工の一人であったように思われる。そして彼は、当地産の紙を原料にした元結が好評なのに注目して、原紙に一層改良を加えた飯田元結を作り、全国に売り出すことに成功を収めたのであった。その後、紙に変わる綿糸元結などが生まれたり、また髪型の大きな変化にもよって、飯田元結は衰退を余儀なくされてしまった。しかし、文七が切り開いた道を築いた礎そのものは、この地に強い影響を与え、今日の飯田を支えてきた大きな要因でもあったのである。飯田水引工芸は、この元結生産に伴って行われた技術開拓や、販路拡張が基礎となって、さらにそのうえに、現在の成長を重ねることができたというべきであろう。


 水引を知らぬ人はないだろう。しかし水引を知り、それを用いる人々の中でも、伝統的な水引製作法や、手作り作業と機械作業の違いなどを知る人は、案外少ないのではないだろうか。私も、実はいまだかつて水引工芸の実際に触れたことがなく、今回が最初の訪問であり、見聞でもあった。そして、予想以上に手間のかかる手作業や、見事な仕事の手順、分担に驚いたばかりではない。特に紙漉き作業とはまた違った不思議な暖かさが、紙と人間との一体化した水引製造作業に感じられ深い興味をおぼえたのである。工人たちは紙と紙紐の強度・温度・湿度・柔らかさと硬さ等を、彼ら自身の体で計測し、体で記憶しながら材料を手なずけていく。工人の意に逆らい反発する素材の力は、これによって押さえられ要所々々がまとめられるのである。


 水引は単なる普通の紙紐ではない。水引の紙紐は適度の硬さとしなやかさを必要とし、さらにつやのある地肌とその上に塗られる染料の発色をよくする必要がある。そして、その効果を得るため、海草(つのまた)から取れる糊と白土とねり混ぜた物を用い、糸状に寄られた長い紙縒りにこれを塗布して、しごき、紙の撚りを一層細く、硬く固め、つやと地の白さを出すように工夫されている。私は飯田市松尾を訪れ、手作りの伝統的水引製作には最も重要なこのしごき作業「こき」を、新井甲一氏の仕事場で見せてもらい、ついで仲村政男氏に原料の紙をテープ状に切断する作業を、木下いまゑさん宅では紙紐の撚りを、最後に野々村喜之助氏の仕事場で、機械水引の製造を細かく見ることができた。
 水引の素材となる原紙は、現在ほとんどが愛媛県伊予三島市から搬入する藩葉紙を用いている。ニ五〇キロもある大きな巻紙になったこの機械漉き和紙は、水引用がパルプ、元結用がパルプと三椏の混合で漉かれており、水引製造の最初の工程で大巻きの原紙から小巻きに巻き替える「小巻取り」が行われる。そして、幅八九センチ、長さ役一〇〇〇メートルの小巻は、切断機によって小幅のテープ状に切断、次の「撚り」に回し、手または撚り機で仕上げたうえ、はざ場やこきの仕事場を持つ家々に送られる。


 飯田の水引作りが盛んなところを歩くと、ほとんどの家が南向きに細長く建てられているのに気付く。庭もこの長い幅の家と平行して南面に広く取ってあり、一見して、そこで行われる仕事の特色が理解されるように思われる。紙紐を百本単位に、約二十メートルの長さに掛け渡し、さらに適度の撚りをかけて張る「かけはざ」の工程は、このような細長い仕事場でないと、とても無理な作業であろう。そのうえ、このはざ場を湿り気の多い地下に設け、紙紐をできる限り乾燥させないようにも気が配られている。それは、次の「こき」の工程で、百本の紙紐を一時に強く引き絞り、日光で乾燥させながら細くて丈夫な水引に仕上げるための前準備であり、紙の性質を知りぬいた巧みな工夫とも言える。


 はざ場と同じ長さを持つ、日当たりのよい庭で糊と白土を塗布するこき作業は、紐と紐の間に幅四センチくらいの長い木綿布を、連続したS字型に通し、それをこき棒ではさみつける「木綿取り」と呼ぶ工程から始まる。実際の作業は、このこき棒を両手でしっかりと握り、体を後ろに傾斜させながら、一方的に強く紙紐をしごいていくが、そのときに両股の間にはさんだ糊桶から、糊と白土を混ぜたものを適時取り出し、紙紐の上に置きながら、何度も端から端へと行ったりきたりのしごきを繰り返すのである。
 こき作業は次の「天日乾燥」、「染色」、そして再び乾燥の工程が繰り返されるため、一日好天の続く日を選んで行われる。しかし気候のおだやかな飯田が、水引作業とこの乾燥に最適なのは前述した通りである。こきの後、乾燥した紙紐は真白な水引となり、同時に色とりどりの染料も刷毛で着色されて、用途に応じた種類の水引が仕上がっていく。最後に寸法の結び目をつける「けんうち」を経て、その目安に随いはさみで「切断」の仕上げが行われ、全工程が終わるのである。


 こうして完成した水引は、一般に「染分け水引」と呼ばれる製品で、赤白、黄白、紅白等の組合せが普通となっているが、その他にも、「色水引」、「箔巻水引」、「地巻水引」、「糸巻水引」、「鉢金用水引」、「水引紐」、「平金水引」などの種類があり、これらはこの後、それぞれ違った目的の水引細工や、製品化が続いて行われる。紅白の染分け水引や元結の水引紐から始まった水引は、黒、青の案出から、金銀、その他色水引を加えて内容を変化させていくが、次いで金封、水引細工、飾り水引、結納品、のし、目録などが産出され、製品の種類を一層豊かにするようになった。このようにさまざまな水引工芸品が、もとはといえば、一本の細い水引紐から作り出されているそして、その製品は飯田市内にある数ある工房で、また品質やデザインに多くの相違があり、全体ではほとんど数え切れないほどの工芸品を制作していることになるだろう。しかし大別して、金封(のし袋)と水引の類、結納品と祝儀用飾りものの二種類が、今日の飯田ではもっとも重要な製品の位置を占めているように思われる。水引紐からこの最終的な加工を経て製品作りをする作業が、いわゆる「細工結び」の工程である。各工房に集荷された色とりどりの水引紐、各種の補助材料を用いて、たくさんの工人が加工と細工にあたっているが、それぞれ異なった特色を持つ細工結びの工程を、私は国風水引工芸店、木下水引店、大栄の三社で見ることができた。


 衣装図案やデザインの分野から眺めても、水引細工の製造工程は非常興味ある内容をもっている。一本の細長い紐が何本も組み合わされ、さらに複雑な組合せを可能にするため、それぞれの形態の異なる単一のユニットが作り出される。そうして意まれた数多い基本形が互いに絡み合いながら、人々になじみ深いかたちに仕上げられていく姿は、まさに壮観といってよい。特に結納用品の飾り物は、そのかたちも外のものに比べて大きく、華やかさもひときわ群を抜いているが、鶴亀・松竹梅・鳳凰・宝船・鯉等、われわれ日本人には極めて親密なかたちが、その複雑な形態にもかかわらず、工人の手によって見事に造形されていくのである。線上の水引紐を三次元的なかたちへと作り変えるためには、さまざまな造形的手法が当然必要とされる。そして、ここに用いられている「撚る」、「継ぐ」、「くくる」、「束ねる」、「差し込む」、「綴る」、「巻きつける」、「ねじる」、「切る」、「結ぶ」、「編む」などの基本動作は、水引細工のみならず広く他のデザイン、工芸に共通した、造形のための重要な基本要素でもあろう。それゆえにこそ、これまで工夫され、磨き上げられてきた金封や飾りもののかたちに加えて、さらに新しい時代の要求に答える工芸品が、水引細工に期待されなければならない。確かに和紙を美しく折りたたんだのしに添えられる金封や、決まった組合せとかたちを持つ飾りものの数々は、工芸品としての洗練度を発揮してはいる。しかし、実験的に試作が繰り返されている新しい水引工芸品の数々は、それに比べれば幾分見劣りがしないでもない。というのも、紙紐の特性を機能的に生かした過去のものに対して試作品には細工がやや惰性的に繰り返され、独創性や新鮮味に乏しく思われることが原因しているからであろう。


 和紙業界の工芸紙の状況と同じく、ここでも使う側の反応がほとんどなく、作る側のみの一方的な思考や趣味が表されているといってよいだろう。素材としての水引紐に十分な発展の可能性が感じられるだけに、現在の状況は少々淋しくも思われる。そして工芸紙にしても、水引細工にしても、今後とも将来の展開を考えるに際して、そこに用いられる素材を新しく活かしきる、創造性にとんだ工芸家やデザイナーの参加がぜひとも必要であり、業界のみならず、同時にまた使用者、消費者側の参加が、工芸全体の発展そのものに強く望まれるのである。



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