飯田 水引 歴史 家紋


水引きについての解説


其の一  結び紐に込めた思い 
 水引というと多くの人が熨斗袋についている「」(淡路結びといいます)でご存知かと思うのですが、其の歴史は古く、飛鳥朝時代に、かの聖徳太子が当時大陸に大国として君臨していた「隋王朝」に小野妹子を派遣したのですが、その帰国の際に隋から日本への贈り物を綴じるため用いられた紅白の麻紐が、記録に残る水引の起源であるといわれています。これは岐路の無事を祈ってのことであったようですが、この日本国最古の外交における隋帝国の心使いに、日本人は人と人の心を結び付けてくれる願いが込められていると解釈したようで、以後宮中への献上品に紅白の結びで締めることがしきたりとなり、それに習って「縁儀」ごとに関わるものには紅白の結びを締める日本固有の風習が成り立ったようです。今日の熨斗袋と同じく「人の心と心を結びつける縁結びの願い」を結び目に込めるという、いつの時代にも変わらぬ日本人の心を感じるエピソードであると思われます。


   其の二 飯田と元結文七と水引

 その後水引は麻紐を染めたものから和紙の紙縒り(こより)を染めたものに変化しましたが、江戸時代に飯田に現れた桜井文七、通称「元結文七」の登場により決定的な変化を遂げました。楮、三椏の栽培に適し、さらに紙漉きに必要な水に恵まれ和紙の生産が盛んであった飯田で、文七は当時髷を結うために用いられていた元結の製造技術を改良し、従来のものより水に強く引っ張る力に強い元結の製造に成功し、その元結は「文七元結」の名で売られて日本全国で好評を博しました。彼の名が落語、歌舞伎の演目と成っていることからも彼の業績の偉大さが伺われます。その文七の技術は、元結といわば兄弟である水引にも導入されて、水にも強くしなやかで、様々な細工物を作ることのできる水引が生まれたのでした。

手作業による水引製造風景昭和十年代の写真とのこと


  其の三 時代の変化と現在の水引

 時は移り変わり、明治時代には断髪令が出されるなど、髷の習慣が廃れ、元結の需要は大撲の力士くらい(現在の力士の髷を結っているのも文七元結だと言うことです)となり衰退してゆきます、一方水引は結納の際の装飾等に用いられ「細工物」としての進歩をとげ、日本国の経済発展によって庶民生活が向上したことに伴う婚礼儀式の隆盛化もあり、結納、婚礼儀式のための飾りとして発展し、元結と入れ替わる形で飯田の大きな産業となりました。さらに戦後期を経て、他の地にはない独自の地域文化である側面から「オリジナリティ」的価値を認められ、観光資源といえる存在になってきました。近年の婚礼儀式に対する価値観の変化は結納飾りとしての水引に少なからず影響を与え、現在水引は、観光土産として観光施設で買う物となりつつありますが、常に変わらないのは人と人との心の結びつきを大切にする「日本人の心に根ざした工芸品」であることだと思っております。

 


    其の特徴
 今も家内制手工業つまり内職生産によって生産されている水引と日本

水引工芸品は、飯田の庶民の内職として発展し、洗練されてきました。水引は庶民のなかで生まれ育った芸術であり工業なので、真の「民芸品」です。しかしながら、現代にいたるまで産業革命以前の工業形態が残っていることはまさに驚きであり、住んでいる私にも不思議なほどです。それではなぜそうなったか、いろいろと調べたのですが、その経緯には「日本の歴史」と「日本人のオリジナリティ」が関わっておりました。歴史や文化、産業のこのような側面は、恐らく多くの人に知られていないことだろうと思われたので、紹介したいと考え、敢えて長々と書くことにしました。整理された資料も少なく、また調査も内職的な調査になりがちであったので、かなり「推論」交じりです。もしも間違い等ありましたらご指摘のほどよろしくお願いします。


 さて、日本国はかなりな近年まで世にも珍しい「米」本位制経済といえる仕組みによって国の流通を成り立たせてきておりました。「米」は半ば神格化され、大名の格式の「石」は米の取れ高であり、江戸時代の身分制度で、武士階級から先の「農」工、商の順位は農民イコール米生産者で偉い、という理由で定められていたと言うほどでした。武士階級にとっての「米生産者」は格式を保つ上でも、現金収入を得る上でも(何しろ給料は米で支給)、どうしてもなくてはならない存在でした。そこで農民の身分を縛り、農民が減らないよう頑張っていたようで、幕府の行ったいわゆる「改革」では農業を離れていた身分上の農民を帰農させたり、米作りを離れていた農民たちに米作りへの復帰を強要したりということが行われていた程でした。
 


 けれども現実には工業製品の需要は大いにあり、また、農地の全部が稲作向きではなかったわけで、さらに江戸時代は経済の「貨幣経済」化が進行した時代であったこともあり、飯田のように稲作向きではない地域では、商品価値のある商品作物の栽培と、需要のある、または需要が見込まれる工業製品の生産に力を入れる傾向が強く、当時国単位(当時の)での特産品創生が盛んに行われました。(現在の日本の地域特産品といえるものの殆んどが江戸時代に確立したといわれているのですが、事実そうである場合が多いようです。)


  山がちな地域で特産品と言うとまずは木材、それから紙、蕎麦、というのが大まかな傾向であったのですが、紙の生産地は割合に多かったので、他の生産地との競合を避けるべく、飯田は紙に、文字通りひねりを加えて元結、水引を特産品にすべく尽力をしたようです、しかもそこで前出の文七が現れ、技術革新がなされたため、見事に「特産品」を確立したのでした。そうなってしまうと日本人的発想と、江戸時代の支配構造の結晶である「一子相伝」思想なる観念(日本人的著作権といいましょうか、日本式特許といいましょうか・・・)の力が働き、技術の流出を起こさせなかったので、飯田は事実上日本の元結と、水引を背負って立つ産地となってしまいました。
江戸時代の水引師の絵図です。元禄三年刊の人倫訓蒙図いの翻刻版より


 水引生産といってもそれに専業で関われる人の数は限られており、また、最初は元結に付随するものでメインでは無かったこともあって、おもに其の担い手となったのは、表向き稲作専業のはずの農民たちでした。ほかにやれる人がいなかったせいで、稲作を主体に、紙の原料の楮、三椏の栽培をしていた農民たちに内職で作ってもらうしかなかったわけです。(当然武家の中にも内職でやっていた人もあったと思うのですが、数は、飯田地方の武家の絶対数自体が少なかったため多くなかったと思われます)。つまり「本職と言う形で携わる人の無い工業」としてしか成り立たない条件で第一位産地になってしまったのです。しかしながら、いったんそれが板につくと強みになってしまったようです。 


 時代が変わっても水引の需要は根強く、他に作るところが無い以上は頑張って作るしかなかったので、江戸時代が終わりを告げた後の明治時代からは、半ば国策で行われた生糸の生産において、大いに成果を上げながらも、日本中の需要のかなりを支え、大正から昭和初期は、地理的な不便さもあって、ある程度成長に取り残されたおかげで廃れずにすみ、戦中の混乱期を経ての高度経済成長中は、素材水引そのものの生産は機械化が進み、諏訪の近くであったことから精密機械の工場が多く建造されて、農業主体の地域から工場労働者の多い地域へと変貌したにも関わらず、内職としての水引は手工芸の部分では相変わらず盛んで、日本中の熨斗袋、金封、結納飾りのかなりを生産し続けたのでした。その後、水引が観光資源へと変化しても、土産品の部品材料の殆んどを内職生産で支えて今日に至っているのです。 
 かつて素材水引が盛んに生産されていた段丘の眺めです。今日でも細々とは残っているようです。


 このように今のなお行き続ける家内制手工業「水引」は、日本国の米本位制経済や「一子相伝思想」によって家内製手工業として確立し、そして歴史の移り変わりの中でも地理的要因もあって急速な変化から守られ、そしてなにより日本人の、常に変わらない「心と心を結びつける」という考え方の形として求められ続けられたことで、主に家庭にいる時間の長い女性を担い手に、時代の流れの中で、時代を越えて続いてきてしまったのです。



              
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 資料編 
以上の文章のほとんどは、内々での「口伝」に近いもので、資料を集めて調べたものは「水引について其の特徴」くらいなものです。またその資料も飯田市内のものばかりで、ある意味心もとないものです。しかしながら資料が少ない(時間が少ない、または努力が足りない)のも本当です。それで飯田の外からの視点でかかれた資料を探しているのですが、これもまた少なく、また古いものが多く、あまりにそれが古いため資料価値のある資料になっているほどだったりと難航しています。以下に現時点までに入手できた資料を掲載しておくのですが、著作権等のことでクレーム等ありましたらすぐに外しますのでご一報下さい。間違っても権利を侵害したいなどと謂う気持ちはありません。

北国出版社様発行 本岡三郎氏著 加賀の水引人形師(昭和五十二年刷)
伝統文化を大切にする金沢ならではの、非常に勉強になる本です。江戸時代の文章や、それ以前の時代の文章がそのまま引用されており、普通に読むには厳しいのですが、それだけに厳密で正確な資料であると思います。繰り返し繰り返し読ませていただいております。


淡交社様発行 カラー日本の工芸 『紙』(昭和五十三年刷
日本の伝統的な工芸技術をシリーズで取り上げた中の「和紙」編の中で、飯田の水引について触れ、かなりのページ数をかけて紹介してくれています。全編を通して溢れる日本の紙への情熱と、真摯な姿勢に心を打たれます。また、飯田の水引について様々なご指摘は今持って耳にいたくまたありがたいものだと思っております。