水引 家紋 飯田 歴史



加賀の水引人形師 本岡三郎氏著 北国出版社 第三部より抜粋

 水引の由来
諸橋徹次「大漢和辞典」によると 水引とは『紙縒りに糊水を引いて乾かし固めたもの。多くは数条を合わせ、一半を紅・金・銀・墨・藍等に染め、主に進物を結ぶに用い、吉事には紅・金・銀・凶事には黒・藍のものを用いる。



 上質の日本紙を細長く切って作ったこよりに、海草と白土をねりまぜたもの、またはのり水をひいて干し固め、綿布でこすって光沢を出したものが水引である。こよりの本数は五、七、九、十一というように奇数本を束ねて用いるのが本式だが、五本が一般に用いられる。色は城だけのものもあるが、真ん中から半分ずつ濃淡に染め分けて使うのが普通である。色分けには、黒白・黄白・金銀・金白・赤金・赤銀などがある。紅白・金銀の類は婚礼や祝儀などの吉事用。白一色と黒白・黄白は弔事や法事などの凶事用である。水引は紐と同じく其の使用目的は結ぶことである。その結び方には数種の方があって、吉凶によっても、内容品によっても結び方を違える作法がある。たとえば慶事および普通のときの結び方は両輪で、凶事のときは短く結び切りにする。また、慶事でも婚礼の場合は夫婦水引といって二本合わせたものを用い。結び切にしてその端を切らずに長いままにしておくなど。(大槻文彦「大語海による。)



 水引と言う言葉の使われ方

(一)麻などを水に浸して皮を剥ぐこと。水引の古い語源はこうしたことにも由来すると思われる。

(ニ)仏前神輿舞台前などに引渡す金襴などの幕。現今でも、劇場で舞台の上方、また、相撲で四本柱の横に張る細長い幕を水引幕と呼んでいる。

(三)鎧の化粧板の下に白赤二色の綾で打つもの。今日ではごく特殊な言葉となってしまった場合の一つである

 (以上広辞苑より)


 水引と元結の違い

「日本随筆大成」の三巻の「歴世女装考」 菅原裕之著弘化四年三月 『元結、文七元結の名義、はねもとゆい』の項に『元結は髪結うに必要のものなれば上古にもありつらんが浅学には見当たらず万葉集に元結を詠み入れたる歌あまたあれど糸なるも紙縒りなるもあるべ』と。また。『「小大君集」(三条院に使えた女蔵人左近)宮の御元結、縒まいり玉うことは太夫徒、のなんつかまつり玉ひしこと云々とあるにて八百年前も実用の元結は髪を縒りたる水を含ませつつよく縒りをかけて日にほして使い浸ることとしらる之を水引とて髪をゆひあるひは物をくくりしなり』と水引は髪元結に使ったり、物をくくるのに使ったりするものであることをいったので、元結は使用面からの名称であり、水引は製作法からの名称で同じ物をいうのであると解している。



『和漢三才図会』によると、元結の漢字は、「髪の下が会の旧字」で読みがかつ、と言う字。または、「髪の下が吉」でよみがかつと言う字。和名は「毛度由比」とあり、「日本紀云天武天皇詔曰自今以後男女悉結髪」とある。庶民も髪をいふようになった定めである。「『雅亮装束抄』下巻 をとこになるあひだ(元服までの間の意)のことと言う條にもとゆい、くし、二まいがうちときぐし一まい、かうがい云々、かみひねりふたすじとあるもとゆいは糸の物かみひねりは水引なりこれを紅白にしたる後のことなりしより水引と元結と二つのものになりたり」 とある。
 元結は甚だ古く古代から髪を結うのに用いたもので、万葉集に元結を読み入れた歌は沢山ある。これは糸の物と紙縒りの物との二通りが用いられていた。そうして、後代紙縒りの元結から水引が分かれて発達したものであることがうかがわれる。また、「『歴世女装考』に『三光院内府記』(西三条実澄公の御記写本)水引結物之事と云條に♂紙短冊等は紅白の水引一筋を以て結之女房鬘の水引同然候≠ニありされば紅白の水引は三百年前よりありへしものぞ」とあることによれば、菅原祐之が三百年前というのは西三条実澄公の記のなったころを指すのである。即ち室町時代末期頃のことである。実澄は三枝と云い歌人で、公條の子、権大納言にいたり、内大臣に任じられ、大永二年六十九歳で歿した人である。



 元結が販売品として市場にでた始について次のように引證している。「『春台独語』(太宰春台は飯田出身の学者で延享四年、六十八歳歿、この書は享保十四年、五十歳の時の著)♀ー永の比までは婦女細き麻繩にて髪を束ね其の上を黒き絹にて巻しにそののち麻繩をやめて紙縒りにてゆふ越前の国より粉紙にて元結紙という物を造り出して海内(せけんとのふりがな)の婦女みなこれを用ゆ それよりきぬにてまく事やみぬ 吾が父まさしく是をみしとてかたりき*煤w春雨草』(自序に尚徳二年辛卯古希叟順可とあり写本)二の巻 在京中の事をいひし條に″。日は久庵老人案内にて出るー中略ー大和大路の繩手を通し時名物とて元結をもとむ 老人申すに、寛文の末までは此堤の下の畠に元結のしごき場ありて堤上にて女が売りしに今は元結の名物とて諸国にしられたりと申さる一把六銭づつにてもとむ≠ニあり是等を證とすれば今のようなる元結は二百年来の物也」といっている。
 菅原が『歴世女装考』を著した弘化四年から二百年前というのは、江戸時代初期寛永頃のこととなる。つまり『春台独語』によれば、元結の市販の始は寛永頃越前の国からの売り出しだという。『春雨草』によれば、京都の大和大路の繩手で元結を買った話しに正徳年間の頃全国に知られる名物になったと語っている。是を見ると元結は古代から紙を結ぶのに用いられてきたが、これは自分でこよりをよって使用したもので、商品として販売されるようになったのが江戸時代初期である事を證している。
 『筵響録』(高橋宗直著明和四年‐1767‐十一月)に「水引と申すものはむかしより被用候事ニ候哉(もちいられそうろうことにさぶらうか)」の質問に「三光院内府の記に、水引のこと出たり。元来色々の薄用をひねりつぎたるかたちなり。水引というは、常野紙にて別にこれこしらえ、水にて引きしごき染めたるゆへ、水引というにや。夫れゆへ水引という物、御料の清き事には用いるべからざるの由、寛永の此故実を書きたる物にみゆ。」と答えている。ここに「夫ゆえ水引という物、御料の清き事に用いるべからず云々」とあることその理由があまり明瞭でないが、『広文庫』の「水引」の項に次のように引証してあるので明らかになる。「故実叢書『安斉随筆』水引は紙縒りに糊水を引く故水引の紙縒りと云うべきを、略して水引と云ふ、後水尾院(徳川将軍家光公の頃か)年中行事に、何にても参るものを紙に包て紙縒り、或いは紙などおほいて上を結ぶ様の時、水引を用ひず、総じて水引を清き道具の内には入れず云々。貞丈曰く、白き紙縒りを用ふ、糊水引かず、色どりをせざるなり、水引を清からずとするは、糊水をも引き、また色どりの具に膠などを交ふる故なるべし」と、 水引の歴史は上記の用に甚だ古い。今は紙よりのみが用いられているが、古代には麻や絹と紙よりの二通りがあった。昔は男女の髷を結うのに用いることが主目的で作られたが、明治の断髪零以後は、男にはようのないものになったが、それでも女髷には、今も用いられている。


 水引の礼式

赤水引は、女が口に元結をくわえた時に口紅が、あざやかにうつされたことから始まったと伝えられている。真白の元結を口にくわえて鏡に向かって紙を結う女の姿を連想することは、浮世絵的であまりにもなやましくあでやかすぎるが、事の始は、ちょっとしたヒントからである事を思えば、こうしたこともありうるわけである。女の口紅の歴史は古い〜中略〜しかし赤水引が始ったのは、奈良、平安時代の遠くまで遡りうるとは思えない。水引という言葉が、文献史上にでてくることすらそんな遠くではないし、紅白水引が用いられるようになったのは、先に述べた書文献によれば室町時代のようである。「水引がいつごろからはじまったかは明らかではない。ただ、推古天皇のころ(七世紀初頭)遣隋使の小野妹子が帰国したとき、一緒にきた隋の答礼使の献上品に、紅白に染め分けた麻ひもが結んであったのが起源ではないかとみられる。当時のわが国の宮廷では、なんでも大陸のしきたりを範としていたから、それ以後献上品に紅白の麻ひもを結ぶのが例になったと想像できる。」(昭和四十五年一月十八日『朝日新聞』神戸商船大學杉浦昭典助教授に聞く「水引の由来と結び方」)とあるように隋よりの献上品に紅白の麻ひもがかけてあったことが起源とするも文献上重要であるが、これが紅白の水引に発展する歴史は甚だ長い年月を要した。「帯紐から発達してきたもので、身辺の紙を細くたち、こよりにして紙包を結んだものである。だから色は白一色であった。それがしだいに紅と白、赤と金というように陰陽の道が入っていった。」(小笠原流)以上いろいろの文献二よって知りうる事は、水引の紅白が、礼式として儀式の場合或いは日常贈答に用いられるようになったのは、室町時代の貴族からであろう。あるいはそれが一般化したのは、わが国文化史上の黄金時代を築いた桃山時代とも想像される。大和調が最高に発揮されたこの時代あたりがこうした儀式的絢爛豪華を好んだ時代であった事を想起すると、紅白金銀などの美術感覚が、絵画彫刻などに思う存分表現された風潮に同調して、この時代に、のし三方の飾りや、島台の蓬莱飾とともに花の咲くように地代流行として、貴族武家の社会に礼式の発達となって、定着しだしたもののように考えられる。


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