散歩の道草

 散歩をするのが大好きなので、散歩を考え付きました。散歩をする時は、目標物を決めないので「ラウンドアバウト」な散歩となります。散歩にでても散歩をしているのか、道草を食っているだけなのか判らないので、散歩は道草なのです。
 草というと、なぜか、徒然草であります。かつては、幾つもの段を暗記するほど読んだのですが、かれこれ十年ほどご無沙汰していた間に随分忘れてしまいました。また、枕草子も、「草」の字によって題されている書き物でありますが、「草」とはつまり「草紙」であり「草子」であるようで、気軽な紙に書きつけたなぐさみものな文章といった感じの物のようであります。枕草子も、かつては沢山暗記したのに、今となっては空で読める段が一つもなくなってしまい、先頃一体どうしたものかと考え込んでしまいました。


道草その十一

 散歩の道草の更新がずいぶんとまっておりました。理由はお店に出るようになったことがひとつと、何より散歩のコースがだいぶ変わってしまったことであります。かつての自分は人よりも野生動物と遭遇する確率のほうが高い場所を散歩しておりましたが、この二三年の間はもっぱら旧飯田城下町を出発点に、人の暮らしを実感できる裏路地が散歩コースになってきており、自分の中でのそのことについての適応が漸く始まってきたという状態なのであります。子供が出来たこともあるのかもしれないし、何より、表現や、製作に人間性が不可欠なものであることに気づき始めたということがあると考えております。自分は基本的に普遍的で不変なものを至上と考えて生きてきた期間が長く、人間は儚くあざといもので、「自然こそ普遍」と言う観念で固まっていたのだと思うのです。一時の感情や感傷、とりとめも無い言葉だけの往復、人と人との間柄をそういう風にしか考えていなかったのだと思うのです。
 最近歩いていて感じることは、その一瞬であることの大切さや、儚さの持っている普遍的な美しさだったりします。何気なく見てきた景色が、実は儚く、時代時代の境目境目で、あっけなく幻と記憶の世界だけの存在になってしまうということに、寂しさと、愛しさを感じるようになってきているのです。 まだ自分の中でのこういった変化に対応し切れているわけではないのですが、変化を明らかに認識しております。作っていくものについても、きっと色々な内容の変化が起こると感じています。もっともっといいものを作りたい、その気持ちはずっと変わっていないのですが、もしかしたらその気持ちに良い意味での幅が出来るかもしれないです。

 まだ、夏の暑さの名残が残っていた今日九月一日、夜、散歩に出ました。夏が苦手な水心は、夏の散歩は夜の散歩が多いのです。飯田水引の歴史と一緒に流れてきた毛賀沢川沿いを歩く、ごく手軽なちょっとした散歩でしたが、九月に入った今日という日に、なぜか一人寂しく光る源氏蛍と出会いました。見慣れた源氏蛍の光と違って、コウロギの歌声の中で寂しく光るものでした。
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道草その十

  寒さも峠を越え、漸く柔らかな日差しのさす頃となりました。つい散歩の足も伸びてしまうもので、歩いて四十分ほどの所にある松尾城址まで散歩をしてきたのであります。戦国初期に信濃の国の守護の地位をめぐって「作法」を司る家としても名高い小笠原氏が跡目争いの戦いをしたと言われる場所であります(詳しくは知りたい方にはお勧めリンク先の「長野県の歴史様」の地方の歴史内下伊那地方の歴史を一読することをお勧めします)。その一帯は、飯田の本格的な紙漉きの始まったあたりとも重なり、また水引産業の本格的発展の始まった地域とも重なる場所です。




 写真は南向きの丘が階段状に連なる松尾の段丘地帯です。今も水引製造工場や水引問屋様があります。
背景になる山並の向こう側は木曾地方になり、この丘の正面には赤石山脈が見えます。


 段丘の反対側は一方がなだらかな段丘の連なりで、もう一方は、念通寺断層断層と言われる断層の活動で出来た切り立った崖になり、その崖をはさんで敵対していた側の勢力の前線である「鈴丘城」があります。隠れ谷の行き止まりは、切り立った崖と急流であるため、この隠れ谷に限らず、多くの隠れ谷の行き止まり地帯には砦跡、出城跡があります。久米ヶ城、伊豆木陣屋等がそれにあたり、史跡とはなっていなくても聞き伝えに合戦あとであると言われている場所が多いです



 写真は松尾城側の崖道から鈴丘城側を撮ったものです。
崖の岩は固そうに見えますが、風化が進んだ花崗岩で崩れやすく、かつては幾つもの抜け穴が掘られていました。子供の頃はその抜け穴をくぐって遊びましたが、今は埋もれてしまったようです。戦のために掘られた穴だと言われていましたが、確かなことは判りません。崖道から水面に降りて行くのは困難ですが、数箇所かつて馬の水場であったらしい、人の手で作られたと見える道と開けた川原があります。

 河の姿がまるで最上流のようですが、上流は古くから開けており、竪穴式住居や水田跡が発掘されており、今日では住宅街となっております。川の水は両側の崖の浄化作用が効いているためか、アマゴの姿が見られます。釣りをする方にはこういう風景になじみがあるかと思われます。下流域も古くから開けており、大和朝廷と繋がりがあったと思われる地方豪族の古墳と思われる前方後円墳が多々見受けられ、今日では広い田畑と、新興住宅地となっております。


 このあたりの道は人とであったためしがなく、人よりは鳥や虫や獣と出会うことが多い道で、半ば獣道となっている部分もあるほどです。この日は丸々太った狸が三匹のんびりと寝そべっているのに出会いました。しばらく見ていた所特に逃げる様子も無かったので写真をとろうとカメラを出して構えたらいきなり飛び上がって逃げていってしまいました。つい追っかけてみたのですが、少し離れた崖に巣穴があり、ひょいひょいと飛び込んでしまいました。
 「付けたばかりの足跡付き現在狸三匹在住の巣穴」の写真なら、狸の写真よりもずっと貴重なので、サイトにアップしようと思い立ってとった写真が左の写真です。
 巣穴の写真って意外と見られないですよね?自分も自分が巣穴を見つけたときカメラを持っていたことがほとんど無くて、熊の巣穴やイタチの巣穴、カワセミの巣穴どれも自分が見ただけ・・・はじめて写真で記録に残せたのが今回のものです。

 冒頭の写真は、半獣道地帯を抜け、旧城郭地帯の外郭部あたりです。天竜川を見下ろし、旧街道筋や旧国境が一望できる丘の上です。江戸時代には飯田藩の殖産興業成功の起点として紙漉き・水引製造の舞台となった丘です。大正、昭和の水引繁栄の舞台でもありましたが、ある意味相変わらず静かで和やかに広がっています。
 ごく近場であるため馴染みある散歩コースの一つでありますが、創作に行き詰まったり、悩んだりした時に来る場所でもあります。飯田の歴史を感じさせてくれ、しかも飯田水引の原点でもある風景なので、敢えて写真を多めに貼り付けてしまいました。重くなってしまってすみません。相変わらず文章としてはどうにもまとまらないものとなってしまいすみません。
   
    
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道草その九
 
 干柿の赤が景色のなかから消えてしまうと、雪が少なく晴天が多い飯田の景色は枯れた色彩におおわれた侘しいものになります。朝の霜は、枯野を白く輝かせますが、その寒々とした眺めは渋好みの人にしか楽しめないものですし、霧や、みぞれの時の寂しさは、見た目も中身も水墨画そのものであります。赤石の白く輝く峰々は、厳かにそびえて、吐く息の白さはため息の深さのように景色の中に消えていきます。

 十二月は、世間ではクリスマスで、町は賑わいを見せるのですが、山里はそれはそれはひっそりと静まり返ります。竹や松といった針葉樹は緑色ですが、なんと言うかもの凄く頑張っている感じで、むしろ心が和みません。そんな景色の中で美しい輝きで景色を彩る意外な植物とであったのは、もう十年近く前の散歩の時でした。

 その時谷に行こうと思い立ったのは、冷たい風や、きしむ枯野が眺めたかったからでした。フラクチャーばかり聞いているような、荒んだ心で、理由のわからない苛つきのせいで座っていることに我慢が出来ないという気分でした。それで助けを求めるように散歩にでたのです。

 谷を川に沿って降りて行き、谷の行き止まりに近いところから丘に登り、道とは言い難い道を選んで、夕暮れ時までの時間をうろうろと丘を登る方向にさまよいました。そして、夕焼けを見ようと木々がまばらな、急な斜面に面した場所を探しました。それから、岩が露出して木が生えていない斜面の突き出しを見つけて、赤石のほうを見て腰掛けました。冷たい風は土と雪の匂いがし、ある意味見所の無いありふれた冬の夕暮れのなかで、雲はぼんやりと赤みを帯び、雪をかぶった赤石もぼんやりと赤くそびえていました。

 それからすぐ、太陽が西の空で山の陰に入ったのでしょう、青く冷たい時間がやってきました。雲はうつろに青みを帯び、空は群青色に深くなずみ、星達のきらめきもぽつぽつと目に付いてき始めてしまいました。帰らないと真っ暗になるな、そう思って歩き始めようとすると、岩のへりにそれまで目に入らなかった、つやつやと「赤い実」が目に入りました。その赤色は、冷たい風と寂しい空に負けない力強い赤でした。まるで宝石のように輝いて見えたその草の実は「りんどう」の実でした。りんどうはその花には馴染みがある植物で、宮沢賢治がしばしば書くとおりの「サファイヤ」のような青の美しい花です。けれどもその実が赤いとは知らなかったし、何よりその力強さと美しさは胸に、目に突き刺さるような不思議なもので、どうと言うのでなく、何と言うのでなく、強く強く打たれ響いたのでした。

 あれからりんどうの実に出会ったことはないし、同じ場所がどこかもわからないのですが、それよりなによりあの時の記憶と衝撃が大切すぎて、同じような散歩を試みたことがありません。だから、あの時確かにりんどうだと思った草の実がリンドウの実であるのかを確かめたことも無いのですが、あの時確かにリンドウがそこにあり、そしてそのリンドウには赤い実がついていて、それがとても綺麗だったのです。

 クリスマスに、赤が似合うのは、きっと真っ赤な実をつけるリンドウのような、力強く美しい植物があるからだと思います。冬の祭典なのにむしろそこに生きる喜びがあるのは、自然の中にそれを証明しているものが存在しているからだと思います。都市には色とりどりのイルミネーションがあふれ、電気の灯火が織り成す風物詩が景色を彩りますが、山里にも、人知れずというか、人のあれこれなどとはまるでかけ離れてあるがままに輝く、美しい灯火があると、私は確信しています。自然の中にあるがままに存在する美しさからどれだけその力を受け取れたかが、人の手によって形作られるものの美しさ・価値を決めているのだろう、そんなふうにも感じています。


 色彩のほとんど全てが枯れてくすんだ冬の散歩道では、単純な物悲しさだけでなく咽もとが苦くなるような、ある種具体的な悲しみや後悔が心に浮かぶことがあります。サイモン&ガーファンクルの冬の散歩道が、あるいはバングルズの冬の散歩道が記憶にあるからなのかもしれませんが、意識していなかった自分の後悔に気がついてしまう瞬間と言うものは、大抵は冬にあるのだと思います。
 その瞬間は辛く、苦々しく、気がついてからしばらくの間、ひどく重苦しい時を過ごすのですが、なぜでしょうか、ふとそのことに気がついて善かったと思える瞬間がやってきて、そうして気持ちが前に向く頃ふと気がつくと風は春の香りがしているのです・・・・・

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   道草その八

 りんご狩りの季節である秋は、いわゆる観光客の方々が飯田に多くやってくる季節で、観光関連の水引細工にとっても忙しさのピークであります。当然散歩をしている時間がなくなってしまうのですが、空気が澄み切って視界が開ける秋から冬なら、窓の外を眺めるだけでも散歩の代わりになるのが飯田のいいところであります(とは言うものの本当は歩きたいんですが・・・)
 赤石の山並みは、雄大で時に険しくときにのどかに、天気、太陽の位置や時間によって様々な表情があり、座り作業の合間に「「伸び」をしながら窓越しに赤石を見ると心が和みます。飯田地方は、三千メートル級の高峰が並ぶ赤石山脈と、標高四百メートル台の天竜川の川岸までが一つの視界に入りますから、また、いろいろな植物にとって南限であり、且つ北限である土地ですので、季節ごとの風景にも多種多様な色彩と奥行きがあります。かつて、多くの文人墨客をひきつけ、文人画の盛んな土地であったのも、水引細工のような一種の文化産業が草の根レベルでの裾野を持ち、山間の小都市でありながら全国のシェアを支えるのも、ひとえにこの自然環境ゆえであろうといえます。
 窓のからの景色といえば、ここしばらくの窓の向こうは「干し柿」作りで大忙しでありました。私は家の中で水引と格闘し、窓の向こうではお百姓様が柿と格闘、そういう日々が続いているのであります。
 「干し柿」は新年に食べられる目出度いお菓子として愛されています。飯田地方の在る伊那谷の干し柿は江戸時代頃から江戸方面、名古屋方面に出荷されてきた長い歴史を持ち、今日の日本国内での干し柿生産においても大きなシェアを占めているのですが、窓越しに見ているだけでもその作業の大変さがわかるものです。
 まず柿を収穫しているのですが、よい干し柿が出来上がるためにちょうどのころあいの物を順番に収穫しているのです。標高差や微妙な日当たりで柿の熟し方が違うからとのことでした。次にそれらの柿の皮をむき、皮をむいた柿はつぶれやすく、またその状態で積み上げておくと乾燥にむらが出るので手早くその下手の所を紐で縛ってつるしてあげるという作業を行っているのですが、これがざっと見で一日通しの作業。この間はその作業が夜遅くまで三日ほど続いているように見えました。
 さらに軒下につるしてからも、まんべんなく日に当たるようにつるす場所を変えたり、カビが生えてしまったものを除けたりと、一日に何度も目を通し、手をかけしているのです。いいものはやはり楽してできるものではないのだなと、毎年の事ながら感心するのであります。
 伊那谷では、農家の多くに柿を干すための軒の広い二階建ての離れのような建物があります。一軒あたりで干す柿の量がとても多いからだと思うのですが、十月半ばから十二月までのあいだ軒下に干柿がつるされる様はまさに秋の風物詩であります。近年道路が増えたためか、其の建物の屋内でのみ吊るすようにして軒下に吊るさなくなった農家が多く、この風物詩も少しずつ思い出の中の景色になりつつありますが、隠れ谷までいけば割合に観ることが出来ます。干柿向きの地形というか立地なのでしょうか、飯田地方についての表紙の写真は、十年程前にある谷でとったものですが、建物の軒下の赤は、全部干柿の色なのです。
 秋ももう終わりが近づき、南信濃も冬が見えてきました(赤石の高峰の頂は新雪で白く輝いています)。「花ももみじもなかりけり」な今日この頃、後は散歩さえ出来ればなのですが誰もが忙しく、また真面目に働いている今日この頃なのですから贅沢は言えません。窓の外では、駐車してある車の上に霜が白く光っています。窓越しでも見えるほど星が光っています。長い秋の夜ももうおわりがちかづいてきたようです。次は散歩してきてから書きたいです。
 


 道草其の七
 
 飯田は只今(九月二十二日)薄の花が赤らみ、朝霧のなかで菊が露を帯びる初秋?であります。
 十月末には四歳になる娘と散歩していた時のこと、娘が川に沿って歩きたがったので、落ちても平気な大きさの小さな農業用水路に沿って歩くことにしました。水草や川底の砂、淀みの泥などに興味を持っているようで、「あれ何」、「どうして川にあるの」と質問攻めにされました。間違えないよう気を使いながら可能な限り返事をするのですが、正直難しすぎる質問が多くてとても疲れる散歩になってしまいました。そうして、そろそろ苛つきそうになった時、川底に一匹の沢蟹が歩いているのが目に入りました。
 沢蟹は川底に沈んでいた色付いた柿の実にくっつくようにしていたのですが、私と娘に見つかったのを察してか、そそくさと例の横歩きで川底を横切って、石垣になっている用水の壁まで移動すると、石の隙間に姿を消してしまいました。私は宮沢賢治のクラムボンという詩に出てくる沢蟹を思い出しつつぼんやりと川底を眺め、娘は蟹が出てくるのを期待してか、石垣の石の隙間をじっと見詰めて少しの間静かな時を過ごしたのですが、私がその間にふと思ったのが「まだ柿なんてそんなに赤くなってないはずなのにどうして今其処に沈んでいる柿は赤いんだろうか?」ということでした。
 娘はアン・シャーリー宜しくあれこれと蟹について空想して、一人物語りのようなものをぶつぶつ話していたので「いこっか」と声をかけて、半ば空想の世界に居る娘の手を引いて、川をさかのぼることにしました。どうして今ごろ柿が熟しているのか、この川をさかのぼればここに熟した柿を落とした木が見つかるかもしれない。と推測したからでした。
 四五分もしないうちに、熟した柿のなった木が見つかりました。幹の太さが直径で十センチほどの若い木で、奇妙なことに、十二月頃の柿の木のように葉がまるで無く、枝の先と言う先に熟した柿のみがついているのです。さらに近づいて見ると、柿の実は普通熟すには小さいサイズで、さらに、枝と枝の間に、蜘蛛の巣に似た網があります。そうです。毛虫に葉を食い尽くされた木だったのです。 今年日本の夏は記録的な冷夏でしたが、西ヨーロッパは記録的な猛暑で、パリでは、街路樹が、枯死を逃れるために八月のうちにすべての葉を散らしたそうですが、この柿の木は、葉を食い尽くされるのと競争する形で実を完成させたのでしょう。
 それにしても奇妙な景色で、周りの柿の木はまだ夏の名残の強い日差しの中で葉も実も緑なのに、一本だけ枯れ木のように一枚の葉も無く、しかも熟した柿を枝につけているのです。娘は空想に一区切りがついて、おやつが欲しくなったのか早くお家に帰ろうと言い出したので、其処からは最短コースで家に向かったのでしたが、其の間も注意して植物を観察してみました。すると、注意してみたからなのか、今年の気候が変だったのか、他にも奇妙な景色が見つかりました。大きな実をつけているりんごの木の中に一本だけ、今ごろ花を咲かせている木・・・・春先に芽を出すはずの「うど」が芽を出しており、其処に赤とんぼが止まっている・・・・
 今年の夏の涼しさと、今年の雨の多さは想像以上に「変なもの」だったのでしょう。それなりに毎年注意して虫や植物のことを見ていますが、今日の散歩で見たようなものは在っても年に一つでしたが、一日で三つもあったのです。それでも、今年は「なし」は豊作で、しかもおいしいです。りんごは不作ではと思っていましたが、どうやら無事なようです。空気はそれまで雨が多かったためか、とてもすんでいますし、ここに来て晴れが多いため、空の高さが際立つ気持ちのいい秋であります。
 秋は飯田が一番美しい季節です。


  其の六 後編

 あまりのショックに気が付いたら本当に秋の気配が漂う頃となっておりました。蝉の声もまばらな毛賀沢川のへりであります。さて、何はともあれ、なぜのそのようなショックを受けたのかを書くことが義務であるかと思われますので「飯田水引産業史」から、私に衝撃を与えたくだりを引用します。
 
 『明日を信じて耐え抜こう』

[ 飯田水引協同組合内では、二十一世紀の展望に関わる大胆且つ多様な論議がなされているが、その意見をまとめると次のようになる

 私たち組合員は、十年前と比べ祝儀用品の市場がかなり狭まってきたことを、今日冷静かつ厳粛に自覚しなければならない。そのうえで、下記のいずれかを選択するか、あるいは独自に的確な目標を定めて展開する意外に、明日に生きる方途はないだろうと。

 1 海外生産を積極的に進め、流通市場のニーズにこたえる。
 2 特定生産分野での第一人者になる。
 3 企業間が合併・もしくは業務提携して経営の合理化を図り体力をつけ   る。
 4 機を見てタイミングよく転業する。

いずれにしても当面、水引産業の就業人口を半数以下にするくらいの英断を持ち、再出発する心構えを持ちたいものである。その後に、実績があがったら、それなりに対応していけばよいのだ。 ]

 私のように、末席にも居ない、また全体としては主流から外れた面のある観光土産品の製造の底辺に居るものには、「飯田水引産業史」を読むまで実感として、現実として突きつけられたことの無いキツイ言葉でありました。
 
 今すんでいる場所は、飯田水引産業の生まれたといわれる名護熊地区をながれる毛賀沢川の少し上流であります。かつての水引生産の場であった細長い段丘は何度と無く歩き回った散歩道であります。自分のような楽天的な人間は、古代遺跡のように荒れ放題の崖や、近年果樹園となった緩やかな斜面が連なる今現在の毛賀沢側沿いの段丘を眺めては、実際には見た事の無いかつての風物詩であったと言う、水引がハザ掛けされ、また色付けされて風にゆれていたと言う景色を思い浮かべ、いつかはそんな景色が戻ってくるのだろうと勝手に夢想していたのでありますが、どうやら時代は今、水引をその逆向きに押し流しているようであります。

 この文章の前編を書いてから今日までの間にも、求められるレベルの非常に高い仕事が特別注文としていくつか入り、サイトの更新がまばらになる程でありまして、本当に励まされました。なんのかんの言っても、作り手は未来を信じて作り続けるしかないのだ、と落ち着きを取り戻したところであります。

 「飯田水引産業史」を読んでみて痛感したことの一つは、水引は、全日本的な需要を持ち、日本文化の一枝として確かに存在し、歴史を刻み続けてきたのですが、「その存在を支えてきた飯田は都市としてあまりに小規模で、別格である京都様であるとか、他の地方中核都市のように産業としての面に於いて、そして何よりも文化としての面に於ける支援が無かった(できなかった)」ということであります。寂しいことでありますが、飯田に於いてこそ水引の文化的地位は低く……割の悪い内職と言う捉らえられ方が一般的である程なのです。
 美術であるとか、芸術であるといった範囲・次元にあるものと、マテリアル的(工芸もその範疇に入る)工業生産物との違いは、文化的な面以上に、その存在が、世の中に対して訴えかけ、積極的に問い掛けるものであることであるのですが、水引は、飯田に於いてはその文化的な立場が無く、日本文化史上に於いては、芸術としての実績が無いです。自分たちに出来る出来ないはともかく、水引をもって世に問いかけ、積極的な主張をして見たいと思います。 


 其の六前編 秋風吹く、初夏の名古熊の丘のヘリ
 
 もう何年も前から心待ちにしていた、水引の歴史について飯田水引協同組合から出ると伝え聞いていた本が、ついに先頃出版されました。私はとにかく直ぐに読みたいと思っていたので、出版を知ったその足で版元の南信州新聞社に向かい、早速購入して、大急ぎで一読したのでしたが、再度開く気力が萎えてしまう、寂しい現実と直面する事となったのでありました。
 自分自身が水引について知る事は、つまり古くから土地にある家々に残る伝え聞きの聞きかじりと、残された資料から足で歩き回っての、痕跡巡りからの知識でありましたから、当然推量交じりで、具体的数字の欠けた知識であります。ですから、自分が書き記しているような文章は云わば「外史」であると自認しておりました。そして、「正史」に当たる「飯田水引産業史」の出版は、自分にとっても、日本の文化にとっても、これからの時代に向けての新たな展望を開けてくれるものであるはずでした。
 読み進むなかでは、飯田の歴史について自分のまるで知り及んでいなかった部分例えば、水野忠邦の天保の改革における財政面での支柱であり、また悪名高い鳥居耀蔵との関連で、改革失敗後財政面での不正を問われ、斬首された「後藤三衛門」が、事も有ろうに飯田の元結問屋の三男で、養子で後藤家に入った人物であったことは、驚きでありました。飯田藩主ほり親しげ(宝の下に岳)の天保の改革への参閣等後藤三衛門や飯田潘、天保の改革に関しての個別での知識は在ったのですが、具体的な繋がりについての知識を、こんな形で、それも自分自身の出身地にまつわる歴史として知ることになるとは、予想だにして居りませんでした。一応評価としてよく言われない人物として固まっておりますから、地元でこそ触れられることの少ない事なのかもしれません。
 また、元結製造について下級武士が携わっていた事の確たる資料が上げられ、さらに水引製造が農家の副業として開始されたとの記述もあり、伝聞での情報が割合に正確であった事と、飯田においても武士が内職に励んでいた事実については正確な伝聞がなかった面とを感じました。また、飯田の水引製造の古くからの場所であり、本場であったと私が伝え聞いていた「名古熊」が、やはり飯田で最も早くに水引製造を開始し、水引問屋も古くからあったと確認できました。
 流石に「正史」は違うなと、大いに感心したのでありましたが、衝撃的な史実も記載されておりました。昭和三十六年の長野県南部の大水害通称「三六水害」に関わる記述であります。
 聞き及んでいた感じでは『水害で水引の仕上げ工程である「かけはざ」を行う「はざ場」が埋まったり崩れたりしてしまい、そのために手作りの水引がこの水害を期に衰退した』と言う感じであったのですが、どうやらそれ以上に災害復興作業の「日雇い労働の日当が、熟練水引職人の稼ぐ賃金よりも割がよかったから・・・」であったから。ということが決定的であったようです。

 窓の外は美しい朝焼けであります。こうもりたちが軒下へと帰っていくのが見えます。長くなりすぎても仕方が無いので、今日はここまでとして、続きはまたとさせていただきます。
 
 
 





  其の五 久米川温泉への散歩道

 今日先頃、久米川温泉へ温泉につかりに行く為、長歩きをしてまいりました。久しぶりの散歩でしたが、これ以上無い程「運」に恵まれた散歩道でありました。
 出発したのは夕方六時頃であります。インターチェンジから直ぐの輸送路に沿って歩き始め、飯田の物流の大動脈とも言うべき物流業者街の横を避けて、谷を見下ろす細長い丘の縁を歩いて行きました。
 崖には桜が多く生えていますので、それでわざわざ丘の縁を歩いたのでありましたが、桜は風になびきながら其の花を散らせ、枝垂桜は時折波うつようにざわめきながら空に枝の姿の残像を描いていました。往来の激しい道を抜け谷間に入り始める頃、谷底から見上げた狭い空をからすと思われる大きな鳥の影が三つ四つと横切ってゆくのが見えました。わざわざ車に遠慮しなければいけない道を歩いて無味乾燥な最短コースを行くのは嫌いなので、久米川の谷のとなりの谷を下って、久米川との合流地点から久米川の谷を上るコースを取ることにして、いよいよ散歩らしい散歩の始まりです。
 農家の庭先には、枝垂れ桃の花がそれは鮮やかに紅に白に咲き誇り、土手には水仙が黄色く咲き並んでいました。夕暮れ特有の紫外線の多い光の中で小さきは「なずな」や「かたばみ」、大きはこぶしの花まで、様々な春の花が、それぞれに浮かび上がるように其の美しさを放っていました。田んぼでは田起こしをしておられ、内何枚かには、すでに水が張られておりました。そんな眺めを歩いていると今年初めてのヒキガエルの声が聞こえてきましたので、ああ、あの田んぼで明日あたり蛙合戦かなあなどと思ったのでありました。
 人の営みと、蛙やカブトエビ、豊年エビ,燕や、赤とんぼといった生き物の営みは、田んぼを通じて密接に関連しているのですが、生態系と人の営みとの間柄についての議論等はまだ始まったばかりですね、でも取り合えず今日はそういう風には考えず、掘り返された田んぼの土の匂いを胸いっぱいにすって、若葉と桃の花の香りを心にいっぱい詰め込む事ばかりして歩みを続けました。やがて久米川に突き当たったので川に沿って上り始めました。二つの谷を隔てる丘は、斜面はなだらかなのですが、割と高く聳える為二つの谷の眺めは大分違うものとなっています。久米川は狭く小さな滝をいくつか刻みながら崖を抜けており、狭い半天然の切通しを抜けると久米川温泉が目の前に見えてきました。心の洗濯の次は温泉で体の洗濯であります。
 八百円と言う料金設定で、内湯がそれほど大きくなく、其の上露天風呂の小さな温泉ですから、温泉関連の情報サイトでは「たいしたことは無い」と言う評価も見受けられますが、それはそれ、そもそもここに温泉が掘られる前からこの地を知っている自分には違う観点からの素晴らしさも判っているので、やはりいい温泉であるとお勧めします。そもそも「肌がすべすべになる水が湧く、と知られていた鉱泉があり、それで其の周りを掘ってみた所、八百メートルほどで温泉が出た」という温泉でありまして、あたりに他に温泉宿など無いので源泉からのお湯を贅沢に使っています。技術の進んだ昨今ですから深く掘れば、日本ならどこでも出るらしいので八百メートルで出た源泉は素晴らしいのではないでしょうか。それに何しろあたりの眺めと地形が超散歩向きなのです。二・三十分で日本のふるさとを堪能でき、丁度いい運動とセットで澄み切ったツルツルの温泉を堪能できるのですからこれ以上の幸せはありません。
 さてお風呂ですが、幸運な事にすいておりました。入った時には他に年配の方が一人いらっしゃったのでしたが、直ぐに出ていかれたのでほぼ貸切でありました。露天風呂では石の上に石そっくりに化けたアマガエルと、これまた今年お初の対面をしました。お湯がある為周り一帯が温かいせいでしょう。まだ他の場所では出会っていません。
 お湯から上がって、フロントに出てから、車で迎えに来てもらう約束をしておいた妻に電話をしました。それからフロントの方に、ホームページでのリンクの正式な許可や、パンフレットの転載当の許可をお願いして、快諾を得たので、駐車場に出ました。あたりはもうほとんど真っ暗になっており、春のかすみのむこうに紺碧の赤石が屏風の様に聳えていました。駐車場の灯火には、冬の間川の底ですごしていたカワゲラたちが透き通った繊細な体で漂うように群れ集まっていました。ふと川辺を見るとまさに羽化の途中のカワゲラも見受けられました。彼らは信濃、特に上伊那では「ざざ虫」といわれて幼虫である冬季に狩られ、盛ん食用にされるむし達であります
 手持ち無沙汰になったのでかばんの中に少し入れておいた水引を出して、川辺に座って少し編んで時間をつぶし、ヒキガエルたちのヒソヒソ話を聞きながら暫く過ごしていましたら、十分ほどで迎えがきました。車に乗り込もうと立ち上がると丁度お月様が赤石の山陰から其の真ん丸い姿をあらわすところでありました。田んぼに混じって菜の花も植えられており、金色に光る月明かりと春霞と菜の花、まるで絵に描いたような、否絵にも描けないような?素敵な眺めでありました。月の光と赤石の山並に見送られながら、行きの十分の一の時間で家にたどり着いたのでありましたが、数年に一度の大当たりと言って良い、充実した美しく爽やかな散歩道でありました。


 湯元久米川温泉様への散歩記を書きましたが、その際久米川温泉様のホームページとのリンクを快諾していただきました。
 



 其の四

 窓の外はいちおうの雨上がりで、上空は強い風が吹いているのか、雲が流され山々の峰に当たって千々に乱れている様子が見えます。
 桜はまだ四分咲きということもあってか、冷たい雨に打たれているのですが、寒さに縮み上がったように堅く窄まっていて散ってはいないです。もう二・三日してから本格的に咲き始めそうです。この頃は桜の事ばかり気になって、日に何度も空のあちらこちらを眺めてしまいます。「世の中に たえて桜の なかりせば はるの心は のどけからまし」とは在原業平様の有名な一首であります。伊勢物語というものがあっての上で読まれるため一種曰くありげな歌として訳される事もあるようですが、正直にこの季節のこころもちを詠んだものとして読んでも大変趣きある歌と思います。閑話休題
 
 飯田は桜所であるという話でした、まずは珍しくオフィシャルものからのデータで、

愛宕神社の清秀桜 長野 飯田市愛宕町   750年   
駒つなぎの桜 長野 下伊那郡阿智村智里   300年 参照
安富桜(長姫の江戸彼岸) 長野 飯田市追手町 長姫神社 県 350年
座光寺のしだれ桜 長野 飯田市座光寺  300年  
正永寺のしだれ桜 長野 飯田市  420年  
阿弥陀寺のしだれ桜 長野 飯田市   400年
高松薬師堂のしだれ桜 長野 飯田   400年
黄梅院のしだれ桜 長野 飯田市   400年  
専照寺のしだれ桜 長野 飯田市  400年  
桜丸御殿址の桜 長野 飯田市合同庁舎

と言うものがあります。一般に樹木の年齢に関しては自治体が、見栄でやたら大きな数字をつけることがあり、当てにならないそうでありますが、清秀桜などは、植えられた記録が残っている稀なる木だそうで、実物からも確かに其の年月を感じられる古い古い桜であります。
市のオフィシャルの紹介文に
飯田市とその周辺にも愛宕神社の清秀桜(樹齢750年)をはじめ
樹齢300年以上の桜が10本以上あり、小説 『桜守』の著者水上勉氏も「ひとつの町にこれほど多くの桜の古木があることは、非常に珍しいことだ」と語っています。この他にも、上飯田で発見された正永寺桜をはじめ多くの珍しい桜が各所に点在し、私たちの目を楽しませてくれています。「参照HP

とありますが、個人的に知る限りでは、市内及び地域内の巨木・古木の半数近くが桜であったと記憶していますから確かに凄い事だと思うのです。
 かつて私は、飯田は土地として桜に向いているのではないかと考えていました。桜は、他の木と違って切られる理由があまり無く、寧ろ切られない理由が多いから、長生きするというのも本当かと思われるのですが、何しろ普通人里を離れると姿をけす桜が、山奥にも普通に生えているのを多々目にいたしましたし、また目にする桜の種類が多かったので、そう考えたのでありました。
 成長が早く、花も美しい染井吉野が一般的な桜であるのに(ちなみに私の第二の故郷は、染井吉野のふるさとあたりの「巣鴨」であります)、飯田の桜は枝垂桜が多く、また其の枝ぶり、木の姿が色々あり、また樹皮が大分普通の桜と違ったものもあったりで、またそれらが標高に従った法則性ある分布をしていたりするのです。
 飯田地方の有名な桜についてのことはオフィシャルの方に任せてしまうとして、やはり散歩の道中で見かけた枝垂桜他よく判らない桜が主題であります。春先の散歩は桜の分布の都合で丘の上伝いの散歩が多いのです。散歩コースの標高を上げていけば、年によると五月の連休まで桜を見られたりもしたのですが、散歩道で見かけては首をかしげた桜についての悩みに答えを見つけたのは、かれこれ二十数年前、飯田に縁を持ち、偉大な民俗学の先駆けであらせられる「柳田國男」先生の著書を読んでいたときのことでした。因みに柳田先生のと飯田の縁についての参照は「ここ」に有る通りでありまして、先生の民俗学の実践の場であった東京の私邸は今飯田美術博物館の横に移築されております。
 柳田先生は南信濃の祭りについて特に研究なされたことが知られておりますが、枝垂桜について、京都で名高い枝垂桜であるが、これが京都で見られた古い記憶を当たると、枝垂れた桜を「信濃桜」と記述した文章ほど古く、また、飯田下伊那周辺では枝垂れた桜が自生しているようで、自然に生え自然に成長し、また古く大きな木が多いと記述し、恐らくは枝垂桜は南信濃がオリジナルであろうと仰っているのです。
 実際に山野を歩き巡り、また資料についての研究も怠らない先生ならではの推理であると思うのですが、竹・ハナノキ・ベニマンサク等様々な植物の北限または南限地帯であり、温暖ではあるが降雪もある南信濃の気候の為か、南信濃には様々な枝垂れた木があります。枝垂れ梅、枝垂れ桃、少し北に行くと枝垂れ栗さえあるという具合ですから、先生の推理はかなり信憑性が高いと考えたのでありました。桜に向いていて、桜が定着し、そして独自に変化もして、という順序で、様々な種類の桜が産まれたのでしょう。枝垂れるのは雪のせいか、風のせいでしょう?

 どの本であったかも記憶が薄れて題名が出てこないという悲しい自分自身でありますが、何の気なしに読んでいた文章から、自分の目にした景色を、柳田先生もまた、其の大きく深い視点と好奇心を持って眺め入ったのだと知った時の感動は今もって変わらず思い出せます。

 飯田は市街地さえ桜所であります。大宮神社への参道に植えられた桜並木は、やはり種類が多くまた、道路の真ん中の並木ながら、並木のスペースが大きく取られ、遊歩道があると言う恵まれた桜並木であります。特に夜桜見物がよいかと思います。また、飯田美術博物館の正面に聳える「安富桜」は木の勢いがよく、姿も、花の色も素晴らしく、しかも今年の春は、美術館で菱田春草先生の「菊慈童」が飯田にやってきた記念の素晴らしい特設展示が行われており、特に飯田市内の方々はなんとしても行かねばならないかと思います。

 しかしながら、桜の本当の美しさに出会うには、飯田の春の丘々を散歩する事が一番かもしれないです。何気ないさまよい歩きで出会う桜の美しさは、静けさと共に心に残り、また其の眺めに、悠久の時の流れと、文化と言う人の感性の歴史を感じたときのなんともいえない気持ちは、どうにも説明のつかない不思議な内面的な記憶で経験であります。いかにも桜が植えてある場所を避けて、歩いてみるのも一興でしょう。また、桜でなくても、こぶし、れんぎょう、すおう、はなみずき他草でも木でも、美しい花はたくさんあります。澄み切った風の中で、赤石を背負って立つ花々は皆それぞれに心をうつ力がある気がします。知っているつもりの花でも、山野で出会うと、其の本当の色艶と力が見られるものです。
 眠気の中でのとりとめも無い文章が、こうも長くなるとさぞかし読み辛かろうと思われますので、これまでとすることに致します。
それではまた。


 其の三
 只今飯田地方の散歩道は春爛漫への散歩道であります。満開の梅の花が其処彼処から其の薫りを漂わせているので、車の出の少ない早朝・夜中など、梅の香りのする風が吹くほどなのです。特に天竜川東岸の豊岡村、喬木村、上久方、下久方辺りは、竜峡小梅の名で知られる爽やかで深い薫りと、カリカリとした食感が魅力的な「小梅」の栽培が盛んな事もあり、朝の霧の時間帯などに出歩くと、霧と薫りとで酔ってしまいそうな程な場所もあります。
 飯田地方は霧の多いことで有名ですが、霧を発生させる主たる要因は川の水しぶきだそうです。空気中の水分は、例え気温が下がって飽和水蒸気量を上回ってもそれだけでは水滴になれず、コアになる物が空気中に漂っていなければ駄目だそうです。所謂雲は、宇宙からの塵「宇宙塵」をコアにすることが多いそうですが、飯田地方の霧は天竜川を中心とする急流の水しぶきをコアに形成されている訳です。
 早朝に「神之峰」と言う史跡(戦国期の山城跡)としても、地質学上特殊な地形「モナドノック(残丘)」の例としても重要な山に早朝散歩に出かけた際に、『眼科の天竜川の水面が曇ったと思うと黙々と白い流れが川から溢れるように湧き上がって来て、それが流れ込む支流を伝って大小の谷を埋め尽くしていく』という景色を見たことがありましたが、ああ、あの霧の中をいつも歩いているのだなと、感心したものです。(春の散歩は、谷よりも丘が多いです。)
 さて、春のこの頃は霧が出て、また雨も多かったりで、桜のつぼみが膨らみ、色付くの様子を見ては桜の咲くころの天気を憂いたりするものですが飯田は実は「桜所」だったりします。それも古く立派な木、固有の種もあり、とても素晴らしい桜所だと言えます。また資料をまとめて次に書きたいと思っております。それではまた。


其の二
 
 全く徒然などと入っておられぬ、納期に追われる日々の中でありますが、「飯田市美術博物館」について思うところを徒然なるままにキーを叩こうと思います。飯田藩の飯田城二の丸辺りであった地に立つ飯田市美術博物館は全くもって地域の宝であります。
 現在の建物が立つ前の城郭跡発掘調査の前段階からあのあたりを歩き回った自分としては、建造に至る経緯ほか複雑な心境になったことも、なることもあるのですが、なんだかんだとしょっちゅう通わさせて頂いております。付属施設として、あるにはあるのですが放置気味である柳田國男記念館でありますとか、もう何しろ何より地元での関心が薄く。また地元からの理解が無く、自分のような無知浅学の身にさえ寂しさを感じる訳であります。
 学問や文化の意義を捉え考える機会が少ないのでしょうか、地域に連綿と積み上げられてきた歴史は、正直幽霊の様に朧に漂っている風であり、熱心な美術博物館の取り組み方、姿勢を思うと更に地方地域の文化・歴史の捉え方について悩んでしまいます。
 今現在草稿の段階である、飯田地方についての「段丘の四季」の項目などでは、飯田城を始めとする「谷に挟まれた丘」ごとにあるといってよい、中世南北朝時代から戦国終わりまでの城郭についての散歩の記憶や、自然についての記憶を書き進めているのですが、其の多くが、正直見ている目の前で跡形もなくなりそうな目に遭ったりしている訳です。
 文化や、歴史という物が、本当のところ首都・行政府主導な物で有るばかりでは無いのに、どうもそういう風にしか捉えられず、自分たちの日々の全てに直接に関わり、作用している自分たちの住む「土地所」が、「座標的な意味以上の物ではない」という状況があるように思えてならないのです。
 文化・歴史の担い手としての「個人」という認識は、恐らくこれから先の時代の人間の主題でありましょう。今現在までに通って来た道のりも間違いとは考えていません。行政とか、経済とかは、単純な理論化によって発展してきたわけですが、発展の手段であり実効と実行の前提であった理論による単純化は其の限界を見せ始めております。しなければならないこと、考えていかなければならないことは無数でありますが、思いつきで言ってしまうと第一に「単純」より「素直」ではないでしょうか。
 理論による単純化だけではなく、素直による「納得」も大事で、納得が生み出す「わきまえ」・「謙虚」、つまるところ「覚悟」かなと、思われてくるのです。手作業では、基本動作と、決められた例えば編み方なり、はそれ自体が完成された図形的な物で単純や理論による改善・改良の余地はゼロに近いです。ではどうやって其れをつづけられるか、其れをする事の質をどうやって高めていくかは、結局「納得」「謙虚」そして「覚悟」なのであります。それでそんな風に思った次第であります。
 質の変化、質の高まりほど、目に見える変化に至るまでに多くの時間と精神力を費やす物は無いので(手を抜くのが一番楽ですから、楽を選ぶ事は不可能)、それだけの得る物があると信じて生きてゆくばかりであります。
 吾ながら眠気の中で長々と書いて居ると認識されてきましたので続きはまたとさせていただき。更に機会があれば推敲など(単に全削除になるかも)したい物であります。


其の一

 冬も終わりになってしまいます。玄関先には大いぬのふぐりが咲き、雪の姿を求めれば、高く聳える赤石は白く輝いてはいるものの、つい昨日まではそこかしこの日陰にあった残雪も消えてなくなってしまっております。
 散歩と、冬という言葉から、バングルズという連想をするのは、恐らくはごく少数の方であろうと思われるのでありますが、サイモンとガーファンクルの名曲「冬の散歩道」を、バングルズが、映画のサントラとしてカバーしたものがあり、私にとってバングルズの冬の散歩道が色々な意味で記憶に残る名曲なので、冬、散歩をしようかという気持ちになると、胸のどこかからバングルズの歌声が響いてくるのであります。
 カバー曲、其れもオリジナルを創ったのがサイモンとガーファンクルのような実力者である場合、恥をかかなければそれだけで凄いわけで、まして評価され、受け入れられるという例はかなり稀であります。
 ビートルズにカバーされた為に名曲として歴史に残ったツイストアンドシャウト等の曲たちはともかく、オリジナルをこえたカバーは、記憶にほとんどありません。ただ、このバングルズの冬の散歩道は、ビリーアイドルのモニーモニー(オリジナルトミージェイムスアンドションデルズ)同様、個的にはオリジナルに並んでいると思われる出来の高さがあると思うわけです。
 映画のサントラとして作成されたため、版権等の都合があるためか、バングルズのベストアルバムや、ミュージックビデオ集等に収録される事が無いまま現在にいたっているのですが、映画の収益よりもサントラのシングル版の収益の方が大きかったと噂されるほど、映画はこけ、曲は売れていた記憶があります。
 先頃突如再結成して曲を書いたバングルズですが、私にとっては今のバングルズは以前のバングルズとは区別される存在で、バングルズは、アルバム「エブリシング」を最後のアルバムに、シングル「冬の散歩道」を最後に突如解散してしまった、女性四人で構成されたコーラスが魅力的なバンドであります。
 女性四人バンドではありますが、視覚的にはかわいいとか、きれいとか云うメンバーをかき集めたといった観はなく、ただ、その歌声と、コーラスし演奏するさまは魅力溢れるものでした。どうも発音に訛りがあり、それがかって、聞き込んでゆくほど親近感や親しみが湧くヴォーカルとなっており、演奏は技術的に難しそうな事をするわけではないのですが、息の合った演奏をし、音楽としてのパワーと完成度を誇る、実力派でありました。
 冬の散歩道という曲は、過ぎてゆく時の中で、自身をどうともする事ができず、気がつけば人生が、枯れて、寒々とした冬の景色の様になってしまった、どうしてそんなことになったのか・・・そんな歌に聞こえるのですが、解散寸前であった、彼女達の心にはそういった思いが溢れていたのでしょう、オリジナルの持つ少し説教くさい雰囲気とことなった、何処か呆然とし、しかも身を切るような切実な響きが有るように思われます。
 アルバム「エブリシング」は名作です。同封されている「どのようにして曲のアイデアを得たか」を電話インタビューからの言葉で綴った解説も興味深く、特に女性にお勧めです。
 このアルバムの販売後来日し、例によってベストヒットUSAでインタビューを受けた際、名曲エターナルフレイムが、ブラックユーモアから産まれた曲である等と話していたのですが、カツヤコバヤシ氏が後に語った所で、マネージャーから質問の際には絶対にメンバーの誰かと誰かを比較するようなコメントはしないよう等の注文がつけられていたという話があるのですが、そのインタビューからまもなくの、売れているさなかの突然の解散劇を見たわけで、本当の話であろうと思われます。
 当時、無邪気に凄い曲だなあ、素晴らしい表現力だ、としか思わずに聞いていたのですが、曲のパワーにプラスアルファーを与えるのは、リアルであり、真実のなせるものであるようです。この曲をカバーするにあたって、その曲のパワーにプラスアルファーを与えた真実は、バンドを崩壊に導く流れから産まれた物であったのでしょうが、そのリアルを音楽に打ち込んで仕事を全うしてから解散をしたバングルズは、音楽家として、素晴らしいプロフェッショナルであると思います。
 冬、わざわざ散歩に出るような気分になるのは確かに、「すさまじ」い気持ちのときが多いです。はたと気がつけば、あたりは冬枯れて残雪がぽつぽつと地面に残り、灰色の空に冷たい風、一体こんな事になるまでいったいなにをしていたのかと・・・初めて冬の散歩道を聞いてから三年ほど経った頃にそういうリアルを体験したものでした。
 


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憧れの「さくだいおう」様、 「風雲児たち長屋」の「渡辺活火山」様 から 相互リンクOKのメール届く!!また、メガサイト「シバケンの天国」の「シバケン」様から、沢山のために成るたっぷりのご忠告と、励ましの言葉の入ったご返事のメールが、届きました。
yossy's roomのお二方、「長野県の歴史」の四方赤良様、「EFAゲル魂」のSatoshi様、から、リンクについてのご承認のメールが届きました。いずれの方々もサイトでの印象通りな方であると感じました。これらを励みによりいっそうの努力を続けて行こうという勇気が湧いてきました。大変に光栄であり、また感謝の念を押さえきれないであります。


 市の宝飯田市美術博物館に菱田春草先生の「菊慈童」来る。市民有志の募金も募られての待望の記念展示であります。春草先生の生誕・成長の地の為とはいえ、これほどの物を手放された前所有者の方への感謝とともに、ついに飯田の地に帰られた春草先生の作品を歓迎し、また多くの人に飯田の地で春草日本画の世界と触れて欲しいという願いを込めて紹介させていただきます。
平成十五年四月五日〜五月五日 開館時間午前九時三十分〜午後五時(入館は午後四時三十分まで)休刊日 四月七日・十四日・二十一日・二十八日。とのことです。


 「ザ・むし」の○太郎様から、リンクについての快諾が得られました。大変な光栄であります。

 Satoshi様の「ゲルマン魂」開設一周年。ワールドカップも懐かしくなりましたね。

 尊敬するさくだいおう様のサイト「謎の巨大生物UMA」様で「勇者の称号」を授かりました。
 更に更に、サイト内に特集記事っぽいものが記載されました。

 「風雲児たち長屋」様がお引越し。引越し先へのリンクをしました。


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