遠山奇談後編 巻之三

第十三章 衣がさき塔のかげ諏訪七ふしぎの事

 
 遠山のうち、神嶺山濁り澤などは、おく山にて、しかも高し。甲裴信濃を
見やるに、手の下

のごとく也。しかるに須波(すは)(21)の海の北山のあたりより、
神嶺山ならんなど、あらそ

ひ戯むるゝにつきて、其所の宮人らしきが来合せ、こゝより遠山の神領などあらそひ給ひしか、

いかにも神領也。

しかしあのごとく雲霞に隔てられて、山の像わからず。こゝにふしぎなる所あり。

此所を衣が崎といふて霊地なり。むかふに雲霞にへだてられて、中々目もとゞかず。

皆白雲に見へし所は富士山なり。かの富士こゝよりは雲霞へだつるといへども、此衣崎の水す

みて清々たる時は、かの富士の峯、霞にかくれ、人の目には、見へねども、峯は湖中にうつる也。

今はその時にあらず。四月比山のかひより、湖中にうつるといふ。

不審(いぶかし)く思ひ、押てそのよしを問ふに、いにしへ神代の末に、釋迦如来と加葉仏(かせ

んぶつ)
との法衣(ほうゑ)を請うけて、富士の地にうづみ世の富を守り、福田
の寶とするとて、

謹で其地に埋めらる、又その衣服をば、今此北濱に、埋給ふ。此縁によりて、こゝを衣が崎と

いふ。

終に富士山繁茂してより、此峯こゝにうつることふしぎ也。衣がさきといふ地名は、いにしへ

よりあれど、人の心濁りて目にかゝらぬ人もあるべけれど、かのうつる時をえて、こゝにいた

り、其霊なることを知るべしといふ。さてさて奇なる哉妙(めう)なる哉と、みなみな感じけり。

今此須波のうみには、いろいろのふしぎなることあり。諏訪の七ふしぎとていひならはせり。

取わけ、ふしぎなるは、上の宮本地堂(22)の透空(すきあな)へ、紙をあてゝ見れば、塔の影う

つることあり。

然るに、塔そのあたりになし。何が塔にうつるやら、其わけ今にしれず。

衣がさきへ富士のうつるは、東に富士あるゆへ、其形ちうつること、めに見へしこと也。

此奇は、形なくして、紙にうつるこ
と、いかにもふしぎなり。

 これに付て思ひ出せしことあり。十四五年も以前のことなりしが、ふしぎなることを、はじめて見付し事あり。
洛南東寺の南門羅城門通を、世俗四塚
といふ。此あたりの人家のことなりしが、其家の表、門口の大戸といふも
を、闔(さし)て、くろゝの穴より覗けば、東寺の塔のかげ、ちいさく寄麗に見ゆることありしが、今も見へ
けるとぞ。此様子を、人々考へるといへども、何の
わけとて、うつることやら、分明ならず。しかし是も東寺の
塔まさしくある
ものゆへ、ふしんといへど其體はあること也。須波上(すはかみ)の宮本地堂の透明(すきま)
のうつるは、さらに體のなきもののあらはるゝは奇といふべし。

 しかるに、此諏訪の湖水、いにしへは周(めぐり)六十七里二十一歩とあり。

洲羽(すは)の七不思議といふことは、一ねに御渡。二つに御作田。三つに耳裂鹿。

四つに社頭の雨。五つに根入杉。六つに塔のかげ。七つに蛙狩(かはづがり)など也。

一つに神渡りといふは、湖水一面に風ひびらいてより、氷鏡のごとく張也。

毎年立冬の節になれば、かの氷かならず一夜にはる。これを御渡といふ。

かくて後は、荷を擔ふものはいふに及ばず、荷馬までも躍ゆくに、少しも危ふきことなく、神

ふしぎの湖水なり。此竪凍(こほり)を狐はじめて渡ることを見て、人皆あやふからずといふ

て、人渡りはじむるといふは、世俗のいひつたへなれど、さにはあらず。

狐聴冰といふから思ひ違ふたるもの也。必狐と思ふべからず。又此氷をうがちて、漁(あさり)

するものあれば、腰に長き棹を挟、もしあやまちて落入ときは、竿にて死を遁るゝといへり。

さて又一面に氷あれども、根本温泉の地ゆへ、しかも氷薄し。氷簿きゆへ、氷をうがちて漁

すなどり)
する也。其薄氷の上人馬不危往来す
ることを、ふしんして、奇とすべし。

もし氷のあるうち、此湖水へ沈没(ちんもつ)する人あれば、畚(ふご)に鶏を入て、氷のうへを

ひくに、其鶏のなく所の下、はたして尸(しかばね)をうるといふ。是亦妙也。

 然るに遠山のうち、秋葉の奥の院かつ坂を下りて、北の方の渓間(たにま)に、凡二丈四方な

る盤石(ばんじゃく)あり。畳を舗たるごとくにて、苔むしたりしが、奇
妙なる岩なり。

大人小児にかぎらず、いづくともなく迷ひてしれざるを、
尋ぬるあたりなければ、此所に来り、

供物を捧げ、一時精進して、
身清浄にして、めぐり合せ下さるべしと、信をこめてねがひ、鶏

一羽携
来て、其盤石のうへに置ば、迷ふ人の方角へ、鶏あゆみて鳴。

又鳴ざる
所は其方角にて死したりとしる。道の遠近も、鶏のあゆむにて知るべきよし。

しかはあれど、願人すこしにても嘲る心底あれば、鶏も歩ことを
せずと也。

これは諏訪とは、事は違へども、様子の霊なることは、同じ
こと也。

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