第十七章 岩吉にあひ もろくずへつれかへり 天狗につかまれし事を考へる事



 白雨(ゆふだち)にかき曇る空やうやうに晴、岩吉見へざるに力なく、手をつくせし上はい

かゞせん村里へ帰らしと、こゝかしこと、力なくも出行んとせしに、平五郎いふには、向ふの

岩の上に何やらん人かげ見へけるとなん。

 皆々望み見るにたしかに岩吉ならん、聲をかけ皆皆走付ほどにいよいよ岩吉也。いずれも安

堵の思ひにて岩吉の側へ寄添に、岩吉気色異にかはり、にらみ廻し皆々をうちひしがんとする

勢に寄付ものもなかりき。

姿をみれば髪も亂、衣装も綻び破れ、眼血ばしり、狂気のごとく更に常人ならず。いづれもお

それしかども無詮方。齢松寺つくづく思ふに、是は中々柔和のあしらいにては心つくまじ心得

たりとて、岩吉が勢に乗じ、いかり聲にて岩吉に向ひ、大切の用さきなるにいづくへ行しや。

去年山入せしに物馴て物とも思はず、軽々敷あなどる心もちゆへ、深山
(みやま)路に踏まよ

ひ、其身もたよりなく、同行も捨置がたきゆへ、けふの心づくしいはんかたなし。

いでなんじは佛敵ともいふべし、言語同
(道)断の不屈者。

なんじゆゑに、けふは大木のことを論ぜず、空しくせし也。

返答あらばいふべし。と心魂(しんこん)つくしていかりければ、岩音やうやう肝にこたへし

や、人々を見知り打おどろき、うづくまり涙をぞふくみける。

 心はたしかなりやと人々打より介抱すれば、誤たりとことばなく打しほれたるけしきなるゆ

ゑ、人々よろこびしが、日もはや入相のけしきなれば、こゝにて何ごともいふまじとて、岩吉

を介抱して、諸久須村へ着にけり。

 終日の心遣につかれはて、互に何ごとも得いはず、岩吉をとりまきこぞりあふてぞ夜をあか

しぬ。さて岩吉にめぐり合嬉しさ限なし。

けふは足を休て酒などもとむべしとて、百丁余り行て小畑村にて酒を買とゝのへ、同行盃をか

たむけ互に興となす。時に岩吉に對し、きのふのさまをやうやう聞に、岩吉いはんとするに涙

にむせび、きのふ平五郎どのわれを起せし時、病やあると尋られし時までは心もたしかなりし

が、何となく睡眠に犯され、身も倦て其まゝありしが、不圖
(ふと)目を覺し見るにわれを捨

行れしぞ、あら心なや、と恨いかりて行程に、十方
(とほう)にくれ、瞼岨かけあるくこと禽

獣をあざむきしごとくなるが、それより後は覺へず。

又何のわけかは覺へねど、電動雷電して風雨にひたさる。

其時身のおき所なきゆへ、心中いはん方なくかなしく胸にせまりしかども、いかんともせんか

たなく、せつなさの余はからず念佛しけり。此念佛に心つき、日此の聴聞はこゝ成へし、此世

は纔
(わずか)後生こそと心付より、とても叶はぬ此さまと心をうちつけ、他事なく念佛しけるが、

取わけ烈風に忍びず、身も吹とばさるゝやうに思ひ、歩むともなく倒るともなく覺へねども、

各々に見付られし岩の上に下
(おり居たりしが、更に同行とも思はず、我を取かこむならん

と思ふ斗にて、人心地なかりしが、齢松寺のもの仰られし時、よの明たるこゝちするより、や

うやう心たしかに成しと物がたりければ、聞人互に酒のえひもさませし也。同行此物語を聞て

評じて云、これは全く天狗の所意ならんといふ。其故は、すべて天狗の人を犯すは、多く慢心

の輩を誘引する。天狗は凡魔魅
(まみ)の類也。

慢心の人我意に道理をたて終に死したるもの、魔界にし天狗となるよし。

 此鬼天魔(きてんま)となりて、我慢心を犯所のものを悪(にくみ)て怨(あだ)をなすときく。

岩吉も去年より此山に馴て、物ともせぬ心をにくみて、天狗あだをせし也。

すてにきのふ天狗のわざ也といふ矢根を取扱ふさまなど、全く物とも思はぬ慢心、しかれば世

にいふ天狗につかまれしもの也といふ。

しかしながら天狗の事はあげてかぞへがたし。

又慢心を誘ひて天狗の首領にあがむることも有よし。

 或人の咄しに、むかし都北山等持院(17)とやらんに、冬夏(とうげ)の修行のうち、其中

の智識長老日々講釈問答ありしに、数百の僧歴々あれども、われに答をして對するものなし

と、或日問答講釋あるとて、高廊下にて人寄の換鐘
(くわんしゃう)打ならせば、諸僧ことご

とく堂中へ参集るてい場
(には)にみつるを、かの長老換鐘のもとにて場を見やり、此僧中に

歴々もあるに、我にまさる僧もなきぞと、不圖慢心せられしかば、夢現ともなく、威義正しく

大衣を着したる僧、追々かの智識を請ぜらる。正面に曲
有しが、それへすゝむに、瑠璃の鉢

に何やらんたゝへ出して、是をすゝむゆゑ、いぶかしく思ひ考るに、我魔境へたりとはじめ

て心つき、如意を携へ、月雖入二水中
姿在天と一句の偈(げ)をのべて、如意を以鉢をうつ

に忽ち去る。

未換鐘打きらざる間也。

如意をもつて鉢をうつと思ひしは、高廊下の欄干にて、如意は打われたり。

此時すでに高座にて此物語ありしと也。

此長老は、すでに魔界に誘れて天魔の首領にならんとせり。

岩吉の慢心は天狗嘲にくみてたぶらかせし也と評じて、此日も入相と
なれり
   
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