第三章  遠山へはじめて山入の事 に天龍川椎河脇大明神田村丸石碑   
     

 大木あり(る)所委しくしれしうれしさいふ斗なく、いざ山いりせんとて、(やまかせぎ)

をいとなむ平七なりしもの、又杣平五郎齢松寺住僧檀越(だんか)の源三郎岩吉
に善七藤七を召

つれ、ともに七人誘ひ、卯月八日の暁に深山路に向かふ。

 此山入といふに付て、昔よりいひならはせし事どもあれば、世間の法にしたがひ是を互に

制し必あやまつべからずと申合てぞ行ける。

扨濱松を立出しより五里行に鹿嶋村なり。世に聞えし天龍川は日本にて大河七つの其一つ

也。水上は諏訪の湖水より湧出るとなん。

 遠江掛塚湊(2)まで七十五里の流にて、信濃三河遠江の山々より伐出せし立木ことごとく

此川へ流し出す。


 古しへより材木十分一の貢を奉る御番所を立置る。此ほとりに椎河脇(しいかわき)大明神と

崇し社ありしが、此所は巌峨々として流るゝ水すさまじく、いにしへよ
り淵となりていと物

すごくぞ有けるが、古しへ大蛇すみてゆきゝをなやます
に物うく、此あたりの人愁あるを憐

みて、田村将軍つゐに大蛇を退治し給ひ
たるよしを、此社に石にほり付此ことをしるし置給

ひしとなん。

 石牌は田
村丸の眞筆といふ、しかし年ふりて今は文字もかけたる所ありて惜哉字體わかち

がたし。それより鳥羽山を越て、二俣宿(ふたまたじゅく)ふじやといふに宿して
夜を明しぬ。

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