第四章 四十八瀬川光明山の事 附り 光明山つりがねの由来 


 卯月九日は山東村(やまひがしむら)にかゝり、五十町の間に四十八瀬川あり。

往来四五丁ゆきては谷川四十八度わたるゆゑ四十八瀬川といふなり。

 それより光明山(3)といふて上下(のぼりくだり)百丁、ことばにもいひがたき瞼岨難所に

て、木々覆ひかゝりて日影を知らず、いと物すごくしてつねは往来も
まれなり。

 頂上には光明山大權現の社を崇たり。


立ならぶ殿造(とのづくり)魏々としてめざましきこといはんかたなく、虚空蔵(こくぞ

うぼさつ
)を本地堂とし、門外にはかけづくりして茶店(ちゃてん)などの家ありしが、都の清

(きよみず)にいとよくにたり。眺望ならぶ方なき所にて、なにし
おふ古戦場三方が原(4)

を目前
(まのあたり)に見やり、西は東海道荒井の湖水、濱名のはしのふるあと、三河片濱い

らこ崎、はるかむかふに鳥羽湊大船かず
かず帆あげたるけしき。弓手(ゆんで)は伊豆の下田

の湊、音に聞つる遠江の灘、瓢々としてはてしな
き滄海(あおうみ)迄残りなくながめやる絶

景也。

 此光明山に大撞鐘
(おおつりがね)に穴の明たる物あり。

是を尋るに、元亀年中の比なりしが甲
斐の信玄濱松へ押よすること有し時、濱松勢は光明山

に陣をはる、甲斐勢は秋葉山(5)に楯籠る。

互にたゝかひ度々有しかども互角の事に数日を送る。


 ある時甲斐勢不意に光明山へ押よする事ありしが、濱松勢いさみたゞかふ中に、茂りし木

間よりかずかずの士卒いでゝ、松明をふりたてさまざま兵具の
音高く、取わきつりがねしき

りに音さはがしく、たゞちに甲斐勢敗軍となり
てさりぬ。

 いかなれは此利運やあるとかふがへるに、全く光明守護の天狗助
勢したるならんとさとり

て安堵したりしとなん。
此時つりがねに穴一つやぶれ明たる也。

 今に本堂のかたはらに置て人皆これを見て感ぜぬはなし。


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